私事でありますが私の父、角倉敏夫が12月29日に人生を終えました。84歳でした。父は吉井町で農家の次男として生まれ大学卒業後、教員となり地元の吉井町なので教鞭をとらせていただき最後は吉井町立入野中学の校長で教員生活を終えました。
父は多くの教職員、教え子、父母、地域の皆さんに支えていただき幸せな教員生活を送れました。本当にありがとうございました。地元吉井町を私が挨拶回りをしていると多くの方々から角倉先生は元気かいと声をかけていただきます。私とは正反対の性格で温厚、かさばらない振る舞いで息子である私が言うのは何ですが人望があったようです。
私に対しても子供の頃から、ああせいこうせいは一切言うことはありませんでした。私が相当な暴れ馬的な性格でしたから内心は心配していたとは思いますが黙ってみていてくれました。
父との思い出は、やはり野球でした。中学野球の教え子が高校野球部で頑張っており教え子の応援に試合観戦に連れて行ってくれました。1番印象に残った試合は私が8歳の時に連れて行ってもらった1968年夏の甲子園群馬大会決勝戦の前橋工業と桐生高校でした。当時の前橋工業の4番キャプテンが父が入野中学野球部監督時代の教え子で前橋工業野球部が初の夏の甲子園出場を決めた試合でした。
キャッチボールしてくれたのも父でした。その後の野球好きの私は父親の影響が大でした。そんな父でしたがさすがに私が群馬県に戻り選挙にでると言った時は一言だけ大丈夫かと言われました。しかし父は黙って応援をしてくれました。
12月になり父の容態が厳しい状況になり私の子供2人も父のお見舞いに来て父が肩で息をする姿を見て人間が生きること、人間の命が終わることを初めて考えることになったと思います。娘は泣き、息子が呆然とする姿を見ながら孫達に最後の贈り物をしてくれたと父に感謝しています。
父親が亡くなって2日間、小学生1年生以来ですが隣で寝ています。父の布団の中での足の温かさを思い出しています。後悔先に立たずですが私はまったく親孝行をしてきませんでした。自分のやりたいことだけをやってきていて親を顧みることはありませんでした。今、隣にいる父に対して情けない自分に泣けてきます。
温厚で本当に欲のない父親でした。肩で息をする父親を思い出しながら、この歳になり親に感謝、感謝とかみしめています。今年の終わりの大晦日です。
父は多くの教職員、教え子、父母、地域の皆さんに支えていただき幸せな教員生活を送れました。本当にありがとうございました。地元吉井町を私が挨拶回りをしていると多くの方々から角倉先生は元気かいと声をかけていただきます。私とは正反対の性格で温厚、かさばらない振る舞いで息子である私が言うのは何ですが人望があったようです。
私に対しても子供の頃から、ああせいこうせいは一切言うことはありませんでした。私が相当な暴れ馬的な性格でしたから内心は心配していたとは思いますが黙ってみていてくれました。
父との思い出は、やはり野球でした。中学野球の教え子が高校野球部で頑張っており教え子の応援に試合観戦に連れて行ってくれました。1番印象に残った試合は私が8歳の時に連れて行ってもらった1968年夏の甲子園群馬大会決勝戦の前橋工業と桐生高校でした。当時の前橋工業の4番キャプテンが父が入野中学野球部監督時代の教え子で前橋工業野球部が初の夏の甲子園出場を決めた試合でした。
キャッチボールしてくれたのも父でした。その後の野球好きの私は父親の影響が大でした。そんな父でしたがさすがに私が群馬県に戻り選挙にでると言った時は一言だけ大丈夫かと言われました。しかし父は黙って応援をしてくれました。
12月になり父の容態が厳しい状況になり私の子供2人も父のお見舞いに来て父が肩で息をする姿を見て人間が生きること、人間の命が終わることを初めて考えることになったと思います。娘は泣き、息子が呆然とする姿を見ながら孫達に最後の贈り物をしてくれたと父に感謝しています。
父親が亡くなって2日間、小学生1年生以来ですが隣で寝ています。父の布団の中での足の温かさを思い出しています。後悔先に立たずですが私はまったく親孝行をしてきませんでした。自分のやりたいことだけをやってきていて親を顧みることはありませんでした。今、隣にいる父に対して情けない自分に泣けてきます。
温厚で本当に欲のない父親でした。肩で息をする父親を思い出しながら、この歳になり親に感謝、感謝とかみしめています。今年の終わりの大晦日です。