遊心逍遙記

読書三昧は楽しいひととき。遊心と知的好奇心で本とネットを逍遥した読後印象記です。一書がさらに関心の波紋を広げていきます。

『日本人はなぜ無宗教なのか』  阿満利麿  ちくま新書

2020-04-16 11:05:52 | レビュー
 だいぶ前にタイトルに惹かれて衝動買いし書架に眠っていた。それを取り出して読んでみた。深く考えること無しに「無宗教」と言いがちになることを、改めて問い直してみるのに役立つ書である。奥書を見ると、1996年10月に第1刷が発行され、2014年8月の第30刷となっている。たぶんその後も刷を重ねるロング・セラーになっている一冊だと思う。

 第1章の冒頭が次の文で始まる。
 ”日本人のなかには「無宗教」を標榜する人が少なくない。
  しかし本当に宗教を否定したり、考え抜いた上での無神論者はきわめて少ない。”
著者は、ズバリと日本人の宗教に対する一つの特徴を言い当てているように思う。このことを、著者は「宗教心」についての調査結果を引き合いに出し、裏付ける。著者は、どの調査を見ても、調査回答者全体の7割が「無宗教だ」と回答する一方で、その7割の75%が「個人的には無宗教」と回答しつつ、「宗教心は大切だ」と答えていると言う。
 なぜ、この回答が生まれるのか? 「無宗教」という言葉に込める意味合いが、世界の多くの国々の常識と違うのだと著者は捉えていく。世界の常識では、無宗教と答えれば即無神論者と解され、胡散臭い人間と判断される。だから、海外では簡単に「無宗教」などと答えるなということにつながる。

 著者は、日本人の言う「無宗教」は「特定の宗派の信者ではない」という意味に翻訳し、「むしろ宗教心は豊かなのである」(p8)と断言する。「無宗教」と「宗教心」が両立するのはなぜか? それを著者流に解き明かしたのが本書である。
 この問題提起から、5章構成として、190ページほどで著者は持論を展開していく。一度立ち止まり、無宗教と宗教心という言葉をじっくり考えてみるのに役立つ。
   第1章 「無宗教」の中身
   第2章 「無宗教」の歴史
   第3章 痩せた宗教観
   第4章 日常主義と宗教
   第5章 墓のない村      という章立てになっている。

 著者は日本人の宗教心を分析する上で有効なツールとして、巧妙な概念区分で定義する。「創唱宗教」と「自然宗教」である。
 創唱宗教:特定の人物が特定の教義を唱えてそれを信じる人たちがいる宗教
      教祖と教典、教団の三者により成立する宗教
      キリスト教、イスラム教、仏教、新興宗教などが該当する。
 自然宗教:自然に発生し、無意識に先祖たちによって受け継がれ、今につづく宗教

 著者は宗教をこのように区分しないから、混乱や誤解が生ずるのだと論じていく。
 日本人においては、「創唱宗教」よりも「自然宗教」の方が優越していて、「自然宗教」の立場での宗教心を誰もが持っているのだという仮説を主唱していく。ご先祖や村の鎮守への敬虔な心を持っているという側面を指摘する。日本人にとっての自然宗教は、風俗や習慣になってしまった宗教なのだと言う。だから、初詣から始まり、春秋の彼岸、お盆、クリスマスまでの年中行事を繰り返し、違和感なく受け入れているのだと言う。「神道」は「自然宗教」を基盤として生まれた宗教であるが、著者の言う「自然宗教」そのものではないと識別している。
 「創唱宗教」と「自然宗教」の区分は、「無宗教」と言いつつ「宗教心」を持っている日本人の有り様を、うまく説明していると思う。この説明、巧妙かつおもしろい。
 本書は、著者のこの仮説について、読者の納得度を高めさせるための具体的な分析と論理構成の展開プロセスである。

 第2章では、まず日本における「無宗教」感を助長した歴史的経緯を論じている。多くの場合、無意識であったとしても熱心な「自然宗教」の信奉者であり、「創唱宗教」に対しては無関心という意味での「無宗教」という意味合いと解釈するのが妥当と論じる。そういう日本人が形成されてきた背景はいずこにあるのか。
 著者は中世人は神仏とともに生き、六道輪廻の苦しみから逃れることを求めた時代だが、その後儒教が導入されて、政策的に広がったことから、特定の宗派に対し無関心となり、「無宗教」の始まりとなったと言う。中世の「憂き世」ではなく、近世の「浮き世」意識に転換する。生産性の向上、経済的裏付けが、井原西鶴の描く享楽的人生観を肯定したとする。また、江戸時代の寺請檀家制度がイエの仏教を形成し、葬式仏教を生み出したと言う。本来の仏教にはない葬式仏教がすんなり受け入れられたのは「自然宗教」が根強く生きているからだと説く。自然に生まれた先祖崇拝観と葬式仏教が親和したからだということなのだろう。このあたりの経緯説明はわかりやすい。ナルホド感がありおもしろい。

 第3章では、日本において宗教観が痩せた理由を指摘する。
 1) 明治以降に、翻訳語として「宗教」という用語が生まれ、それは「創唱宗教」を意味し、宗教を「個人の私事」と位置づけた。「自然宗教」は排除され、分断されてしまった。「自然宗教」は宗教とはみなされないことになったと言う。
 2) 明治政府は政策的に「神話」を国家原理に採用した。天皇崇拝の国教づくりである。「国家神道」は神道非宗教論として政策的に実行されていく。この「神道非宗教論」の成立に、浄土真宗が大きな役割を果たしたと著者は見ている。
 この日本の近代国家のあり方が、「創唱宗教」と「自然宗教」の双方に極度の歪みや変質をもたらしたと言う。
 3) 豊かな宗教観の試みは行われたが、「大逆事件」の発生により潰えてしまった。

 著者はこの章で明治以降の国家と宗教の経緯並びに当時の論点を説明することにより、「『無宗教』は、近代日本の状況にあっては、明らかに身の安全を保障する言葉でもあったのだ」(p110)と結論づけている。
 この辺りの歴史的状況について、私には初めて知る知識が多く、新鮮な感覚で読めた。
 第4章で、著者は「無宗教」と「平凡」志向、日常主義との密接な関係を具体的な事例を取り上げて論じている。
 1つは、信州の天竜川筋でかつて行われていた「サガ流し」行事、2つめは民俗学者柳田国男著『山の人生』の一節、、3つめは田山花袋の小説『重右衛門の最後』で描かれた人間の創り出す悪業、4つめは、きだみのるのムラについての記録作品に記されたムラの有り様、5つめは再び柳田国男著『日本の祭』に記された祭の祭礼化、6つめに曹洞宗の僧侶・鈴木正三著『万民徳用』の教え、これらの読み解きである。これら事例を通じて、日常主義の優位は、「17世紀以来の日本社会に共通した現象であった」(p163)と読み解いている。

 最後の第5章は「『無宗教』が日本人の精神生活のなかでどのような位置にあるかをはっきりさせるためにも、墓を無用とする宗教心がどのようなものであるかを見ておこう」(p167)という意図からまとめられている。
 著者は、沖縄の宮古島に付属する大神島のウヤガムの信仰を取り上げ、この島の「自然宗教」を紹介している。この島には「本土では希薄になったタマシイの信仰がまだ十分に生きている」(p173)と言う。そして、「この大神島の人々が『無宗教』を標榜する」(p177)と付け加えている。
 著者は、「無宗教」という言葉にだまされてはならないということをあらためて強調している。
 また、視点を変えて鳥取県青谷町の山根という和紙の里を紹介する。この里の篤信者足利源左を劇的に「回心」した人として、その生き方を紹介する。ここでは伝統の中で宗教心を形成した事例もあることに触れている。「無宗教」を強調しすぎないためということでもあろうと理解した。

 「無宗教」という一語の意味は深い。そのことを考えるために役立つ本である。
 四半世紀前の本だが、宗教の歴史の長さから受けとめれば、つい先日に出版された本とも言える。普段、深くは考えることのない言葉の意味を見つめ直してみようではないか。
 ご一読ありがとうございます。

『地蔵菩薩 地獄を救う路傍のほとけ』  下泉全暁  春秋社

2020-04-14 12:20:04 | レビュー
 子供の頃、京都市に住んでいたので、夏の地蔵盆を通じて、石仏の地蔵・お地蔵さまには親しみがあった。毎年、地蔵盆にはお地蔵さまを水洗いし乾かし、石仏に化粧をして、祭壇に飾るというプロセスがあたりまえだった。長じて、「六地蔵」や「六地蔵巡り」を知り、一方で、京都の寺々に地蔵菩薩の石仏が数多く集められて祀られていることを見聞してきた。現住地でも、毎年地蔵盆は行われている。そんなことから、地蔵菩薩に関心を抱いている。
 幾冊か地蔵菩薩関連の書籍を読み継いできた。2015年11月に出版されている本書を知り読んでみた。

 仏像の一つとしての地蔵菩薩について概略を知るということなら、各種出版されている仏像事典形式の本が便利である。地蔵菩薩の位置づけや図像学的視点での説明がわかりやすく概説されている。その枠を越えて、地蔵菩薩について関心を持つと、様々な側面に広がり、奥が深くなる。
 本書は、地蔵菩薩について様々な側面を取り上げて、比較的わかりやすくまとめた教養書レベルに位置づけられるという印象を抱いた。
 「はじめに」の末尾に、著者自身が「本書では、各地の信仰形態や経典の記述を紹介しながら、地蔵菩薩信仰の特徴を探ってみたいと思う」と記している。専門書までの深さはないが、入門書の域よりかなり踏み込んだ解説書となっている。専門書と違い、読みやすさがある。

 本書の構成とその内容の取り上げ方から教養書と解釈した読後印象をご理解いただけると思う。
 本書は6章構成になっていて、末尾に「全国地蔵霊場一覧」が付録となっている。ここには、関東百八地蔵霊場、東海近畿地蔵霊場(三重県和歌山県の地蔵菩薩霊場・ぼけよけ二十四地蔵尊霊場・大和地蔵十福霊場会)、中国地蔵尊霊場、九州二十四地蔵尊霊場(北九州六地蔵尊・筑後六地蔵尊・西海六地蔵尊・筑前六地蔵尊)の一覧が載っている。
 章毎に読後印象等をご紹介していこう。

第1章 地蔵菩薩とはどういうほとけなのか
 地蔵の名称の由来と大地に対する信仰が淵源にあること、経典に説かれる地蔵菩薩の功徳、また代受苦のほとけであることが説明される。そして、事例をあげて日本における道祖神との習合という側面にも触れている。
 「コラム①木之本地蔵院」や掲載の道祖神像(京都・道祖神社)は訪れているので、親しみが持てた。

第2章 地蔵菩薩を説く経典
 仏像事典レベルでは、地蔵菩薩を説く経典名称プラスαの紹介くらいにとどまる。一方、本書では『地蔵菩薩本願経』『十輪経』『延命地蔵経』『十王経』が説く内容について、具体的に経典に沿いその要点を説明していて、経典のダイジェスト版となっている。地蔵菩薩について、経典を背景に踏まえてきっちりと理解する手助けになる。

第3章 地獄の様相と閻魔法王
 入門書では、地蔵菩薩は死んで地獄に墜ちた人々を救済するほとけであり、地獄には八大地獄があるということと閻魔大王に触れる程度に留める説明が一般的だと思う。本書では、源信著『往生要集』に記述された八大地獄の概説を丁寧にしてくれている。さらに、源信が地獄を記述する基にしたとされる『正法念処経』に説く地獄についてさらに補足として重ねて概説してくれている。関連絵図も掲載し、地獄そのものを説明している。地蔵菩薩の役割理解という点では、少し深入りしすぎの感もある。一方、サブタイトルは「地獄を救う路傍のほとけ」となっている。「地獄」の説明にかなり比重がかかっているのは、「地獄を救う」ほとけという意味で、地獄を明瞭化するという意図が著者には強かったのかもしれない。
 『往生要集』の地獄記述と『正法念処経』を読む代わりと思えば読者にとっては効率的と言える。
 閻魔法王の起源、小野篁伝説に触れてあるのは、押さえ所だからであろう。小野篁からみで、京都六地蔵参りに触れて、締めくくってある。

第4章 地蔵菩薩の図像的特色と造形
 第1章とこの第4章を合わせたものが、仏像事典という分野の本で取り上げられる内容と言える。例えば、『仏尊の事典』(関根俊一著・学研)や『比べてもっとよくわかる仏像』(熊田由美子著・朝日新聞出版)の地蔵菩薩の項を読むと、主要点はほぼ重なってくる。事典レベルでは、図像学的特色を総論的に述べているが、本書では、インド・チベット、中国、朝鮮半島、日本という地域単位で説明し、日本に至る過程での図像学的変容もわかる形で説明しているという特徴がある。わずか18ページの章に13枚の図像が掲載されていて図像の地域差がわかり興味深い。

第5章 地蔵菩薩信仰の風景
 「風景」という言葉を章題に冠していることからわかるが、地蔵信仰の局面を比較的さらりと解説している。まず、地蔵菩薩の縁日(毎月24日)にふれ、見伴上人作とされる「西の河原地蔵和讃」の全文を載せている。和讃は様々なバージョンがあるが、ここでは一和讃を紹介しているだけで、比較分析等まではしていない。
 足利尊氏の地蔵信仰、京都と奈良の地蔵盆を簡略に説明している。また各地に祀られている地蔵菩薩が様々なタイプ・通称をもって信仰されている風景をサンプリング的に列挙紹介している。
 いわば、浅く広く、読者の関心を引くようにというところか。地蔵菩薩に関心を持てばさらに奥が深まりますよという提示だろう。

第6章 地蔵信仰の寺々
 ここでは全国にある地蔵菩薩像を祀る寺々のサンプリング紹介である。江戸六地蔵、奈良県所在の白毫寺・聖林寺・帯解寺・長岳寺、矢田寺(京都市)、生木地蔵(香川県)、恐山菩提寺(青森県)が簡略に写真入りで紹介されている。

 第5章・第6章に関連し、私の読み進めてきた範囲に限定すれば、この二章の部分について一歩踏み込んだ各論書への導入書的役割を果たしている。地蔵盆でいえば、『京都地蔵盆の歴史』(村上紀夫著・法蔵館)に繋がる。地蔵信仰と地蔵菩薩像でいえば、『新版 京のお地蔵さん』(竹村俊則著・京都新聞出版センター)や『大阪のお地蔵さん』(田野登著・北辰堂)などに繋がっていく。
 地蔵信仰という点でみれば、本書は『地蔵信仰』(速水侑著・はなわ新書)、『お地蔵さま』(伊藤古鑑著・春秋社)に繋がるように思う。

 地蔵菩薩について少し触れる入門書レベルからのワンステップ・アップとして手頃である。地蔵菩薩について全般的知識を扱う教養書と考えると、図像も多く掲載されていて読みやすい本になっている。

 ご一読ありがとうございます。

『能楽ものがたり 稚児桜』  澤田瞳子  淡交社

2020-04-12 22:53:36 | レビュー
 月刊『なごみ』の2017年7月号から2019年6月号までの期間に、3ヵ月連載を1作として連載された短編をまとめて出版された単行本である。「能楽ものがたり」とタイトルにある通り、能の曲目を下敷きにしている。和歌で言えば本歌取りという作歌法、四字熟語「換骨奪胎」の本来の意味での手法により構想された短編集である。能の曲目内容を背景に踏まえたうえで、視点を変えて新しい着想を取り入れて、一歩抜け出した世界を描いていると言える。
 『四字熟語ひとくち話』(岩波書店辞典編集部編、岩波新書)の「換骨奪胎」の項の説明を援用すると、本歌取りは「先人の作を活用して新たな詩想・詩境をきりひらいたり、詩趣を深めたりすること」を意味する。換骨奪胎は「詩文を作るとき古人の作品を活用して表現することを言う」であり、「古人の詩文の趣旨を変えないで語句だけ取り換えるやり方、あるいは古人の作品の趣意に新しいものを加えて表現するなど」を意味する。
 著者は能の曲目の趣意に独自の着想を導入し、新たな構想で大胆に練り直して短編小説という異なる領域に発展させた。そこが新鮮であり、かなりチャレンジングな試みだと感じる。新しいものという部分のウェイトが大きいが、一方で元の能の曲目とうまくリンクしていると思う。

 収録された短編小説のタイトルは独自の名称が付けられ、下敷きとなった能の曲目名が提示されている。この単行本のタイトル「稚児桜」は、収録された8作の短編のうち3番目の作品名である。そして、この稚児桜は能の「花月」をベースにしている。
 とはいえ、各短編はそれぞれ独立した作品として完結しているので、これだけを読んで楽しむこと、人生を考える材料にすることは十分できる。本書を読んでから、本歌に相当する能の曲目、つまり謡曲の内容を読んで見て、対比するとさらに作品のおもしろみを知ることができると思う。
 私は、本書に読みながら、併せて『能百番を歩く』(京都新聞社編:杉田博明・三浦隆夫、京都新聞社刊)という曲目の概説を兼ねた紀行文集を参考に読んだ。下敷きとなった曲目で、「善知鳥(うとう)」と「雲雀山」は能百番に入っていない。手許にある岩波書店・日本古典文学大系の『謡曲集』上・下を確認してみると、「善知鳥」は収録されているが、「雲雀山」は収録されていない曲目だった。

 短編作品の印象をまとめてみたい。前の名称が作品名で、後の<>で表示したのが下敷きとされた能の曲名である。

    やま巡り <山姥>
 曲舞に秀でて売れっ妓である京の遊女百万が、見習いで12歳、小柄で口数の少ない児嶋を連れて、信濃の善光寺にお参りすると告げて、都を出立する。北陸路を使い近江から越中・越後を通り、信濃入りするという長路を旅する。越中の上路(あげろ)の山辺りで難儀をしていると老婆が現れる。人里までは一、二里あまり離れているから、一夜の宿を貸そうという。百万はこれを受ける。児嶋は老婆の風体に恐れをなす。
 実は、百万のねらいはこの老婆に会い、山姥の曲舞をみせることだった。そこからストーリーが急転回する。一方、能の「山姥」では、山の女が遊女に山姥の曲舞を舞うように求めるという展開である。逆発想の視点がおもしろい。

    小狐の剣 <小鍛治>
 能の「小鍛治」は粟田口の刀工三条小鍛治宗近が、蔵人頭橘道成により一条帝の勅命として御剣を作れと申しわたされる。伏見の稲荷明神が童子となり、宗近の合槌を勤めて、「小狐丸」と命名する名刀を打ち上げるという霊験譚である。
 この短編では、宗近の葛女が登場する。葛女は妊娠していた。腹の子の父親は、父の最優秀な弟子・豊穂だが、三月前に工房から姿をくらませていた。葛女は豊穂に未練があり、妊娠をひた隠しにしている。そんなところに橘道成が勅命を伝えに来る。葛女は父の指示で五条の鋼屋三津屋に行く。その折り、声を掛けられた老爺を介して、豊穂と再会することになる。その豊穂を父の合槌になれるか未知数のまま葛女は己の思惑も秘めて連れ戻ることに。そこからストーリーは思わぬ展開に進展していく。
 リアルで様々な思惑絡みの人間関係の世界に引き戻し、名刀小狐丸の誕生を描いていくところがおもしろい。そして意外な結末を描く。

    稚児桜 <花月>
 能の「花月」では、7歳の少年が筑紫の霊峰英彦山で天狗にさらわれ行方不明となる。行方不明を歎いた父は出家して、漂泊の旅に出て息子探しをする。京の清水寺に参り、門前の男から、花月という喝食(禅寺の侍童)の曲舞のことを聞く。花月の曲舞を見ていた僧は、その少年こそ行方不明のわが息子だと気づく。親子再会がテーマとなっている。
 この短編に登場するのは14歳になり稚児である花月である。「昼は僧の身の回りの雑用を弁じ、夜ともなれば閨の相手を行う」(p68)のが稚児である。花月は清水寺の稚児である。父から身売りされて、清水寺にて稚児となった花月は今やしたたかに生きている。花月に加えて、寺男の藤内と、寺に来て1年足らずであり花月がいびる対象にした稚児の百合若、さらに己が売った息子を探し筑紫国英彦山麓から来た旅の僧が登場する。僧の話を聞き、その息子とは花月と判断した藤内は、花月を父に引き合わそうとする。花月がどういう行動を選択するか、その経緯が読ませどころとなる。
 能の内容と構想の違いがおもしろい。中世の寺の僧たちの乱れは、延暦寺の話が有名だが、どこの寺も例外ではなかったのだろうと思った次第。人身売買を組み込んでいるのもリアルである。

    鮎  <国栖>
 能の「国栖(くず)」は、壬申の乱を背景とし、大海人皇子が吉野に落ちのびる。国栖の地の一家にて侍臣が食事の用意を依頼する。その家の尉は吉野川で釣った鮎を焼いて皇子に供する。皇子が食べ終わり残りを尉に戻すと、尉は焼き鮎が生きているようだと吉野の急流に戻す。すると、焼き鮎が生き返り浅瀬を泳ぎ回る。大友の皇子の追手が迫るが、尉が気魄で追い返すという内容である。
 この死んだ鮎を川に放つというテーマは同じであるが、この短編では大海人皇子が讚良(ささらら)女王等一族を引き連れ、吉野宮から東国に脱出するという設定になっている。その一行に女嬬(女官)の一人として19歳の蘇我莵野が加わっている。莵野は伯父の蘇我果安により讚良女王のもとに送り込まれた大友皇子側のスパイだった。大海人皇子一行の東国への出立をどのようにして伯父に報せるべきか。莵野は思案する。道中で讚良女王から指示を受ける度に、その内心を深読みし、また己の置かれた状況と立場を捉え直していくという進展となる。莵田吾城野にて一行は出迎えた大伴馬来田から一行は食事と干鮎を供される。讚良女王は女嬬の莵野にその干鮎を川に放つように指示する。それが莵野の生き方を決める契機になっていく。
 死んでいる鮎を放つ行為を取り入れながら、ストーリーは大きく異なる展開を構想しているところがユニークでおもしろい。

   漁師とその妻  <善知鳥>
 この短編もまた、能の「善知鳥」の内容の柱は一緒である。1)僧が陸奥外ヶ浜に行く。2)立山山中で僧が男から自分が亡くなったと伝えて欲しいと依頼される。3)伝言の証拠として形見となるものを預かる。4)外ヶ浜で男の妻と子は渡世として殺生を生業とし、善知鳥の獲捕もその中に入る。などである。謡曲は「諸国一見の僧」で通用するが、この作品では有慶と称する。師僧の手紙を届けるべく越後に行き、務めを終えて回り道し立山見物することから、2)と3)の関わりができ、意図して居なかった場所である1)に行かざるを得なくなるという次第に変化していく。そして、外ヶ浜で立山で出逢ったもと漁師の妻に伝言を伝える約束を果たすのだが、僧としては想定外の状況にはまり込んでいく。この展開への構想が人間描写としておもしろい。能でのエンディングとは全く異次元な結末に進展する。さもありなんと思わせるところが読ませどころと言える。

   大臣の娘 <雲雀山>
 能の「雲雀山」は右大臣豊成が讒言を信じて中将媛を雲雀山で殺すように家臣に命じる。家臣はそれができず、中将媛と乳母侍従を庵にかくまう。侍従が花売りで姫を養うことになる。雲雀山に鷹狩りに来た豊成に偶然侍従が出合うことから、状況が展開し、豊成は前非を悔いて、父子再会となり、侍従ともども奈良の都に戻り、ハッピーエンドとなる。
 この短編では、元右大臣藤原豊成の末娘で14歳の姫が突然屋敷を出奔する。乳母侍従の綿売が姫の本心を確認し、伝手を頼り宇陀・雲雀山の青蓮寺で一緒に山里暮らしを始めるという設定。心配した豊成が探してすぐに迎えにくるだろうと綿売は思っていたのだが、そうはならない。綿売は山で摘んだ野の花を街道で売り食い扶持の足しにする。ある日、街道で綿売は偶然実の娘・鴇女(ときめ)に再会する。十数年前に6つのわが子を別れた夫の元に置き、屋敷奉公に転じた。綿売は鴇女に姫と己の実情を話す。鴇女は間に入り、姫のために一計を案じて、元に戻れるように協力すると言う。だが、それが意外な展開をしていくことになる。この展開が実に巧妙で、おもしろい。
 それぞれの登場人物のこころの機微をとらえて描写している。人の心はげに恐ろしい。

   秋の女 <班女>
 能の「班女」は、中国前漢の成帝に寵愛され、やがてその寵愛を失った班婕妤(はんしょうよ)の詩「怨歌行」をテーマとした狂女物である。美濃国・野上の宿の遊女花子が、京都から任国に赴く吉田少将と一夜の契りを結ぶ。そして扇を交換した。その後、花子は客を取らずにいるため、宿のおかみに追い出される。それで、花子は京に出る。ここまでの設定は、能と大筋は同じである。
 能では、京に戻る吉田少将が野上の里で、花子を訪ねるが、追い出された事を知り、下鴨神社の糺の森で再会して最終的にはハッピーエンドとなる。三島由紀夫は、『近代能楽集』で「班女」を書き、花子は男を拒絶するという結末にしたという。
 この短編は、京の吉田少将の屋敷を探して訪ねるつもりの花子が、京の状況を知るとともに途方に暮れる。その矢先、3歳年上の先輩遊女であり老郡司に身請けされ野上を去った真貴女と偶然再会する。その真貴女に相談することにより、真貴女の考えに乗り一芝居うつ行動へ展開していく。それがもたらす結果は・・・・。人間の強欲、世知辛さが絡んでいき、能とも三島ともひと味異なる第三のストーリーとなる。
 信頼心から奈落の底へ・・・・・手玉にとられた花子が哀れである。

   照日の鏡  <葵上>
 能の「葵上」は勿論、『源氏物語』葵の巻を踏まえた演目。舞台に登場するのは六条御息所の生霊(前半)、怨霊(後半)であり、葵の上は登場しない。照日の巫女は登場する。照日の巫女の口寄せで六条御息所の亡霊が現れる。
 この短編では、「わたくし」が語るというスタイルで体験が描写されていく。「わたくし」とは、語りの中では10歳の秋に、その容貌の醜さ故に、照日の前と称する験顕らかなる巫女に買われていった娘である。照日の前が使う梓の法の手伝いをする立場になる。そして、左大臣の娘、葵の上が病みつき、悪霊に苦しめられる場に照日の前に伴われて臨むという展開になる。ここでは、六条御息所の名は一度も出て来ない。「源氏の君に懸想している女子が生霊となって」「生霊」という表現くらいである。能とは真逆の場面設定がおもしろい。そして、「わたくし」が照日の前の巫女としてのスタンスを観察して感じ取るという場面に展開する。この終わり方に著者の生霊に対する独自の見方が発露していて、興味深い。それは、「照日の鏡」という題名にも反映していると思う。

 ご一読いただきありがとうございます。

本書に取り上げられた能の曲目に関連して、ネット情報を検索してみた。一覧にしておきたい。上掲した参照本の代わりにもなると思う。
演目事典 演目の選択・検索 :「the能.com」
  山姥・小鍛治・花月・国栖・善知鳥・班女・葵上が載っている。
能楽事典  :「銕千会」
  山姥・小鍛治・花月・国栖・善知鳥・班女・葵上が載っている。
金春流・演目早わかり Quick Guide :「能楽金春ニュース」
  山姥・小鍛治・花月・国栖・善知鳥・雲雀山・班女・葵上が載っている。
宝生流謡曲名寄せのページ  :「謡曲研究資料(謡180番関係)
  山姥・小鍛治・花月・国栖・善知鳥・雲雀山・班女・葵上が載っている。

インターネットに有益な情報を掲載してくださった皆様に感謝します。

(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれません。
その節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。
その点、ご寛恕ください。)

徒然に読んできた著者の作品の中で印象記を以下のものについて書いています。
こちらもお読みいただけると、うれしいかぎりです。
『名残の花』  新潮社
『落花』   中央公論新社
『龍華記』  KADOKAWA
『火定』  PHP
『泣くな道真 -太宰府の詩-』  集英社文庫
『腐れ梅』  集英社
『若冲』  文藝春秋
『弧鷹の天』  徳間書店
『満つる月の如し 仏師・定朝』  徳間書店

『時の渚』  笹本稜平  文春文庫

2020-04-06 23:52:12 | レビュー
 著者は2001年にこの作品で第18回サントリーミステリー大賞と読者賞をダブル受賞した。2001年5月に単行本として出版され、2004年4月に文庫本となっている。だいぶ前に購入していたのを先日読んだ。20年前に書かれた小説とは感じさせない。ダブル受賞したのがうなづける。読み応えがあり意外性に富んだミステリーだった。
 
 警視庁捜査一課の刑事だったが、妻と幼い子供が轢き逃げされ命を亡くす事件が発生し、その捜査に関われないことで職を辞して私立探偵を稼業にする。そんな男が主人公である。名前は茜沢圭。
 茜沢は松浦武三から息子捜しの調査依頼を受ける。捜査一課時代の茜沢の先輩である真田警部から私立探偵として紹介されたと松浦は言う。彼は清瀬市の西部にある民間ホスピスに入院していて、余命はいくばくもない状態、もって半年の命なのだ。松浦は20年近く極道を張り、幾度も刑務所を出入りしてきたが、10年前に極道から足を洗い堅気となった。稼いだ金を元手に始めたタイ料理のレストランが当り、チェーン店にして成功した。だが、去年の夏に食道がんであると宣告されたのだ。
 昭和40年9月5日の夜中に、身ごもっていた松浦の女房が予定日より5日くらい早く突然の陣痛に見舞われたため、彼はタクシーで病院に妻を担ぎ込んだ。彼の妻は男の赤ん坊を無事出産したが、突然の大量出血で亡くなってしまった。担当医が松浦に状況説明をする際、酒気を帯びていることに気づくと、松浦はかっとなり医師を半殺しにしかけて、赤ん坊を抱いてそのまま病院を飛び出したという。その後、西池袋の小さな公園で、30を少し過ぎたくらいの女に出逢い、子宝が授からないというその女に赤ん坊を委ねてしまったのだ。その方がよいと思い、互いに名乗ることもせず別れたのだと。少し話し合っていたときに、亭主が売れない絵描きで、自分は女手一つで要町で小さな居酒屋「金龍」をやっているとだけ語っていたのが唯一の手がかりなのだと松浦は茜沢に語った。
 松浦は着手金200万円を用意していた。着手金としては破格。茜沢は一旦その金を預かり、この仕事を引き受ける。
 
 一方、松浦の仕事を引き受けた翌日、茜沢は真田から連絡を受ける。西葛西会社経営者夫妻刺殺事件の件で会って話があるという。真田はこの事件の捜査半ばで捜査一課から外され、継続捜査専門の二係に配転となっていた。2ヵ月前にこの西葛西事件の捜査本部が解散となり、二係の扱いになった。一昨日、六本木のラブホテルで女子高生の絞殺事件があり、体液のDNA鑑定の結果、西葛西事件の犯人のものと一致したというのだ。
 茜沢の妻子を轢き逃げした犯人は西葛西事件の犯人と同一犯だった。西葛西事件に一捜査員として関わっていた茜沢は西葛西事件から外されることになった。それが原因で茜沢は警視庁を辞めたのだった。
 西葛西事件では、駒井昭正とその妻早希子が殺害された。被害者の掌の中に髪の毛が握られていた。一人息子の昭伸が容疑者として上がっていた。だが、犯人のものと思われる握られていた髪の毛をDNA鑑定した結果は、殺害された夫婦のいずれのDNAパターンも含んではいなかった。その結果、昭伸はシロとみなされた。だが、当時の昭伸に関わる状況証拠はそのDNA鑑定結果を除けば全て昭伸犯人説に向かうという。すると、昭伸が実子ではないのではという疑いが残る。だが、その確かめようがない。当時選挙運動中の昭伸に付いた弁護士がDNA鑑定を強く拒絶したためである。
 真田はこの事件を継続捜査として取り上げ、一方、昭伸の行動を探り別件で引っ張れるネタがあれば、それを足がかりに継続捜査事案に絡めていきたいと言う。だが、今は警察が動いていることを知られたくない。やかましい弁護士が横槍を入れてきて妨害されるを危惧するという。そこで、真田は茜沢に昭伸の周辺を調べて、別件で引っ張れるネタがないか、動いてみてほしいという。茜沢はこのネタ捜しを引き受ける。

 このストーリーは、茜沢が2つの調査を手がけて行くプロセスを克明に描いていく。

 このミステリーの面白さはいくつかある。
1. 茜沢の聞き込み調査のプロセスがどのように展開していくかという興味である。
 茜沢は要町界隈での地取り、カン取りという基本の聞き込みから始めて行く。まず、区役所で町内会や自治会のことを調べるところから。茜沢のもつ情報は、35年前に要町で「金龍」という居酒屋をやっていた女性、客からはユキちゃんと呼ばれていたこと位なのだ。これだけの情報が人捜しのためにどういう糸口になるか。茜沢が聞き込みで接した人から別の人にリンクが始まる。それが思わぬ記憶や情報を引き出し、さらにリンクの輪が広がるという面白さがある。茜沢をどこに導いて行くかという興味である。
 茜沢は聞き込み調査の累積から、まずは長野県の鬼無里(きなさ)という土地に導かれて行くことになっていく。

2. 刑事として聞き込み捜査経験のある茜沢が私立探偵として行う聞き込み調査。そこには、警察手帳の提示を含め、警察という公的権力を駆使していときたやすく乗り越えられた情報収集の壁が、私立探偵には大きな壁になる局面がある。茜沢が刑事時代の経験を活かしつつ、知恵をしぼって情報収集の障壁をどう乗り越えるか。茜沢は調査において、アプローチの仕方を様々に変えて行く。茜沢のとるあの手この手を読み進める面白さが加わる。

3. 刑事としての捜査では、捜査費用が問題になってくる展開はそれほど出て来ない。しかし、私立探偵にとっては、調査にかける時間とともに、調査料金をかけるだけの価値があるか、費用の無駄にならないか、というコスト・パフォーマンスを気にかけねばならない。そんな場面が各所で出てくるところも、警察小説とは違う局面としておもしろい。一種のリアリティが生まれてくる。

4. ストーリーの中に、時折、茜沢が父親と電話で会話する場面が織り込まれていく。轢き逃げ事件で妻子を亡くし、刑事を辞めて私立探偵稼業を行い、未だ独り身である息子に対する父親の思いや気遣いが描き込まれる。そこには家族の絆、肉親の絆がある。父親との会話は茜沢にとって、まっとうな世間に自分を繋ぎ留めてくれるアンカーなのかもしれないと感じる。だが、その父親の思いにはさらに深い意味があったという意外な方向に進展する。ここが興味深くかつ巧妙な構想になっている。

5. 真田警部の手先として、茜沢は駒井昭伸の身辺調査を引き受けた。駒井の住居の下調べから着手する。フェラーリで出かける駒井に偶然出逢う。その車を追跡し、駒井があるマンションに住む外国人に会うのを目撃する。茜沢は二人の関係に薬物が絡む匂いを嗅ぐ。
 茜沢が駒井の身辺調査を進めるに際し、真田警部と情報交換を密にして行く。駒井昭伸自身の情報が明らかになるにつれて、茜沢は轢き逃げ事件と関連する兆候を見出していくことになる。
 一方、真田は再び二係から警務部人事一課の監察担当に異動となる。西葛西事件の継続捜査への横槍がどこからか入ったのだ。茜沢は真田に継続して調査すると己の意志を示す。

6. ストーリーの展開で面白いのは、真田が警察内で直接の動きがとれなくなった代わりに、茜沢は電氣屋と呼ばれるイラストレーターの西尾雄二に協力を依頼する。茜沢は一度西尾を覚醒剤絡みで助けたことがあるのだ。駒井の素行調査において、電子機器に関する特殊技能を持つ西尾を強力な助っ人にする。西尾もまた乗り気になり、おもしろい役回りを担っていく。これはこのストーリーにIT技術利用の現代感覚を持ち込み、調査活動のリアル感を増幅することにも繋がっている。

 このストーリー、構想が非常に巧妙である。底流に流れる思いは、親子の絆である。登場人物たちに関わるそれぞれの親子の絆が、人捜しと西葛西事件の犯人捜しを二極としながら、重層化しつつ絡み合っていくことになる。親子の絆が意外な形で相互にリンクしていたということになる。
 このストーリーの主人公茜沢圭に感情移入していくと、最終ステージで読者の涙腺が働き出すことだろう。
 「時の渚」はストーリーの最後に近いところ、p342に出てくる一文を要約した言葉である。印象深い詩的な要約になっている。一方、文庫本の表紙には英文でのタイトル表記がある。 THICKER THAN BLOOD これもまたストレートにストーリーの核心を表現していると思う。
 その意味するところは、本書を開いてお楽しみいただくとよい。
 
 ご一読ありがとうございます。

この印象記を書き始めた以降に、この作家の作品で読んだものは次の小説です。
こちらもお読みいただけると、うれしいかぎりです。
『白日夢 素行調査官』  光文社文庫
『素行調査官』  光文社文庫
『越境捜査』 上・下  双葉文庫
『サンズイ』  光文社
『失踪都市 所轄魂』  徳間文庫
『所轄魂』  徳間文庫
『突破口 組織犯罪対策部マネロン室』  幻冬舎
『遺産 The Legacy 』  小学館