遊心逍遙記

読書三昧は楽しいひととき。遊心と知的好奇心で本とネットを逍遥した読後印象記です。一書がさらに関心の波紋を広げていきます。

『時の渚』  笹本稜平  文春文庫

2020-04-06 23:52:12 | レビュー
 著者は2001年にこの作品で第18回サントリーミステリー大賞と読者賞をダブル受賞した。2001年5月に単行本として出版され、2004年4月に文庫本となっている。だいぶ前に購入していたのを先日読んだ。20年前に書かれた小説とは感じさせない。ダブル受賞したのがうなづける。読み応えがあり意外性に富んだミステリーだった。
 
 警視庁捜査一課の刑事だったが、妻と幼い子供が轢き逃げされ命を亡くす事件が発生し、その捜査に関われないことで職を辞して私立探偵を稼業にする。そんな男が主人公である。名前は茜沢圭。
 茜沢は松浦武三から息子捜しの調査依頼を受ける。捜査一課時代の茜沢の先輩である真田警部から私立探偵として紹介されたと松浦は言う。彼は清瀬市の西部にある民間ホスピスに入院していて、余命はいくばくもない状態、もって半年の命なのだ。松浦は20年近く極道を張り、幾度も刑務所を出入りしてきたが、10年前に極道から足を洗い堅気となった。稼いだ金を元手に始めたタイ料理のレストランが当り、チェーン店にして成功した。だが、去年の夏に食道がんであると宣告されたのだ。
 昭和40年9月5日の夜中に、身ごもっていた松浦の女房が予定日より5日くらい早く突然の陣痛に見舞われたため、彼はタクシーで病院に妻を担ぎ込んだ。彼の妻は男の赤ん坊を無事出産したが、突然の大量出血で亡くなってしまった。担当医が松浦に状況説明をする際、酒気を帯びていることに気づくと、松浦はかっとなり医師を半殺しにしかけて、赤ん坊を抱いてそのまま病院を飛び出したという。その後、西池袋の小さな公園で、30を少し過ぎたくらいの女に出逢い、子宝が授からないというその女に赤ん坊を委ねてしまったのだ。その方がよいと思い、互いに名乗ることもせず別れたのだと。少し話し合っていたときに、亭主が売れない絵描きで、自分は女手一つで要町で小さな居酒屋「金龍」をやっているとだけ語っていたのが唯一の手がかりなのだと松浦は茜沢に語った。
 松浦は着手金200万円を用意していた。着手金としては破格。茜沢は一旦その金を預かり、この仕事を引き受ける。
 
 一方、松浦の仕事を引き受けた翌日、茜沢は真田から連絡を受ける。西葛西会社経営者夫妻刺殺事件の件で会って話があるという。真田はこの事件の捜査半ばで捜査一課から外され、継続捜査専門の二係に配転となっていた。2ヵ月前にこの西葛西事件の捜査本部が解散となり、二係の扱いになった。一昨日、六本木のラブホテルで女子高生の絞殺事件があり、体液のDNA鑑定の結果、西葛西事件の犯人のものと一致したというのだ。
 茜沢の妻子を轢き逃げした犯人は西葛西事件の犯人と同一犯だった。西葛西事件に一捜査員として関わっていた茜沢は西葛西事件から外されることになった。それが原因で茜沢は警視庁を辞めたのだった。
 西葛西事件では、駒井昭正とその妻早希子が殺害された。被害者の掌の中に髪の毛が握られていた。一人息子の昭伸が容疑者として上がっていた。だが、犯人のものと思われる握られていた髪の毛をDNA鑑定した結果は、殺害された夫婦のいずれのDNAパターンも含んではいなかった。その結果、昭伸はシロとみなされた。だが、当時の昭伸に関わる状況証拠はそのDNA鑑定結果を除けば全て昭伸犯人説に向かうという。すると、昭伸が実子ではないのではという疑いが残る。だが、その確かめようがない。当時選挙運動中の昭伸に付いた弁護士がDNA鑑定を強く拒絶したためである。
 真田はこの事件を継続捜査として取り上げ、一方、昭伸の行動を探り別件で引っ張れるネタがあれば、それを足がかりに継続捜査事案に絡めていきたいと言う。だが、今は警察が動いていることを知られたくない。やかましい弁護士が横槍を入れてきて妨害されるを危惧するという。そこで、真田は茜沢に昭伸の周辺を調べて、別件で引っ張れるネタがないか、動いてみてほしいという。茜沢はこのネタ捜しを引き受ける。

 このストーリーは、茜沢が2つの調査を手がけて行くプロセスを克明に描いていく。

 このミステリーの面白さはいくつかある。
1. 茜沢の聞き込み調査のプロセスがどのように展開していくかという興味である。
 茜沢は要町界隈での地取り、カン取りという基本の聞き込みから始めて行く。まず、区役所で町内会や自治会のことを調べるところから。茜沢のもつ情報は、35年前に要町で「金龍」という居酒屋をやっていた女性、客からはユキちゃんと呼ばれていたこと位なのだ。これだけの情報が人捜しのためにどういう糸口になるか。茜沢が聞き込みで接した人から別の人にリンクが始まる。それが思わぬ記憶や情報を引き出し、さらにリンクの輪が広がるという面白さがある。茜沢をどこに導いて行くかという興味である。
 茜沢は聞き込み調査の累積から、まずは長野県の鬼無里(きなさ)という土地に導かれて行くことになっていく。

2. 刑事として聞き込み捜査経験のある茜沢が私立探偵として行う聞き込み調査。そこには、警察手帳の提示を含め、警察という公的権力を駆使していときたやすく乗り越えられた情報収集の壁が、私立探偵には大きな壁になる局面がある。茜沢が刑事時代の経験を活かしつつ、知恵をしぼって情報収集の障壁をどう乗り越えるか。茜沢は調査において、アプローチの仕方を様々に変えて行く。茜沢のとるあの手この手を読み進める面白さが加わる。

3. 刑事としての捜査では、捜査費用が問題になってくる展開はそれほど出て来ない。しかし、私立探偵にとっては、調査にかける時間とともに、調査料金をかけるだけの価値があるか、費用の無駄にならないか、というコスト・パフォーマンスを気にかけねばならない。そんな場面が各所で出てくるところも、警察小説とは違う局面としておもしろい。一種のリアリティが生まれてくる。

4. ストーリーの中に、時折、茜沢が父親と電話で会話する場面が織り込まれていく。轢き逃げ事件で妻子を亡くし、刑事を辞めて私立探偵稼業を行い、未だ独り身である息子に対する父親の思いや気遣いが描き込まれる。そこには家族の絆、肉親の絆がある。父親との会話は茜沢にとって、まっとうな世間に自分を繋ぎ留めてくれるアンカーなのかもしれないと感じる。だが、その父親の思いにはさらに深い意味があったという意外な方向に進展する。ここが興味深くかつ巧妙な構想になっている。

5. 真田警部の手先として、茜沢は駒井昭伸の身辺調査を引き受けた。駒井の住居の下調べから着手する。フェラーリで出かける駒井に偶然出逢う。その車を追跡し、駒井があるマンションに住む外国人に会うのを目撃する。茜沢は二人の関係に薬物が絡む匂いを嗅ぐ。
 茜沢が駒井の身辺調査を進めるに際し、真田警部と情報交換を密にして行く。駒井昭伸自身の情報が明らかになるにつれて、茜沢は轢き逃げ事件と関連する兆候を見出していくことになる。
 一方、真田は再び二係から警務部人事一課の監察担当に異動となる。西葛西事件の継続捜査への横槍がどこからか入ったのだ。茜沢は真田に継続して調査すると己の意志を示す。

6. ストーリーの展開で面白いのは、真田が警察内で直接の動きがとれなくなった代わりに、茜沢は電氣屋と呼ばれるイラストレーターの西尾雄二に協力を依頼する。茜沢は一度西尾を覚醒剤絡みで助けたことがあるのだ。駒井の素行調査において、電子機器に関する特殊技能を持つ西尾を強力な助っ人にする。西尾もまた乗り気になり、おもしろい役回りを担っていく。これはこのストーリーにIT技術利用の現代感覚を持ち込み、調査活動のリアル感を増幅することにも繋がっている。

 このストーリー、構想が非常に巧妙である。底流に流れる思いは、親子の絆である。登場人物たちに関わるそれぞれの親子の絆が、人捜しと西葛西事件の犯人捜しを二極としながら、重層化しつつ絡み合っていくことになる。親子の絆が意外な形で相互にリンクしていたということになる。
 このストーリーの主人公茜沢圭に感情移入していくと、最終ステージで読者の涙腺が働き出すことだろう。
 「時の渚」はストーリーの最後に近いところ、p342に出てくる一文を要約した言葉である。印象深い詩的な要約になっている。一方、文庫本の表紙には英文でのタイトル表記がある。 THICKER THAN BLOOD これもまたストレートにストーリーの核心を表現していると思う。
 その意味するところは、本書を開いてお楽しみいただくとよい。
 
 ご一読ありがとうございます。

この印象記を書き始めた以降に、この作家の作品で読んだものは次の小説です。
こちらもお読みいただけると、うれしいかぎりです。
『白日夢 素行調査官』  光文社文庫
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『越境捜査』 上・下  双葉文庫
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『失踪都市 所轄魂』  徳間文庫
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『突破口 組織犯罪対策部マネロン室』  幻冬舎
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