遊心逍遙記

読書三昧は楽しいひととき。遊心と知的好奇心で本とネットを逍遥した読後印象記です。一書がさらに関心の波紋を広げていきます。

『潮騒はるか』 葉室 麟  幻冬舎

2017-10-16 16:59:51 | レビュー
 2015年9月に、『風かおる』という小説に、佐久良亮・菜摘という医者夫妻が江戸時代幕末期を背景に爽やかに登場した。この時、佐久良亮は長崎に赴きオランダ医学を修得中であり、菜摘は黒田藩の城下、博多で鍼灸医として開業していた。ストーリーの中心舞台は筑前博多であり、菜摘の養父の過去に関係するストーリーだった。
 2017年5月に出版されたこの第2作では、佐久良亮・菜摘夫妻を中軸に長崎を舞台として新たなストーリーが展開されていく。
 この小説では、菜摘が長崎で蘭学を学ぶ夫の亮のもとにやってくる。その際に、弟の渡辺誠之助、博多の眼科医稲葉照庵の娘、千沙がともに長崎に来る。そして、それまで長崎の浜町の町家に下宿していた亮は、外町とも呼ばれる袋町に一軒の町家を借りて、皆がその借家に住むことになる。

 長崎に来た菜摘は、鍼灸医として職を得て長崎奉行所に通うようになる。長崎奉行岡部駿河守長常が妻や娘を伴い新任の長崎奉行として着任していたのだが、その妻が病を患っていたことと、奉行所に留置されている女囚の病気への対処のために、女医者のニーズがあったのだ。運良く菜摘はこの職に就くことができた。そのことが、菜摘をある事件に関わらせる契機にもなっていく。

 この小説では江戸幕末期の長崎という地理環境と時代背景が大きく影響を及ぼしていく。時代状況をまず大きく捕らえておこう。併せて、登場人物群にも触れておく。
 *安政5年(1858)の7月に結ばれた日蘭通商修好条約の交渉は岡部長常が担当した。
  その5年前の嘉永6年(1853)にはペリーが来航し、1854年に日米和親条約が結ばれ、それ以降各国との条約締結が進む時代だった。この小説は1858年の秋から始まる。
  岡部長常が長崎奉行として、どういう立場にいて、何を行ったかと言う点も書き込まれていて、時代を知るという点で興味が湧いた。
 *文政11年(1828)のシーボルト事件によりシーボルトが国外退去処分となり、はや30年が過ぎていた。そして、ポンペというオランダ海軍の軍医が長崎で医学校を開設していた。佐久良亮はこの医学校で蘭学、オランダ医学をポンペから学んでいる。オランダ医学の伝習風景とポンペの人物像が点描されていて興味深い。
 *長崎奉行所は寛永10年(1633)に立山役所と西役所に分けられていた。立山役所がメインであり、ここに牢屋がある。岡部長常は立山役所内に起居し政務を執っている。
 *ポンペによる西洋医学伝習は西役所内で行われている。松本良順を筆頭に12人の聴講生が居て、亮はもぐりの聴講生という位置づけである。松本良順が塾生頭のような代表者の位置づけとなっている。松本良順の行動がストーリー展開で点描され、重要なサポート役として活きている。
 *幕府の海軍伝習所が開設されていて、勝海舟が長崎に居住し伝習所に関与していた。その勝海舟も重要なポイントでストーリーに登場するところがおもしろい。
 *シーボルトの娘、いねがシーボルト国外退去の後、長崎においてどのような存在となっていたかがサブストーリーとして描き込まれ、かつ産科医となっているいねがこのストーリーでは重要な脇役として活躍する。いねを介して当時の長崎の人々の視線や思いも語られていて興味深い。

 こんな時代状況の中で、菜摘が巻き込まれていくのは、長崎に共にきた千沙の姉に関わる事件である。『風かおる』に横目付田代助兵衛が登場し、菜摘の依頼で動いていた助兵衛は殺される結果となった。その弟、甚五郎が兄の後を継いで横目付となり、長崎に佐久良亮に用意があると言って現れる。田代は福岡において事件を起こし、長崎に逃亡したと思われる女の探索に出向いてきたという。その女とは千沙の姉・佐奈のことだった。
 千沙の姉佐奈は書院番百石の加倉啓に嫁いでいた。彼は和歌に堪能で、藩主の覚えもめでたく、招来は重臣となると目されていた。その加倉啓が自宅の居室で吐血して死んでいた。毒を盛られたのではないかと医師は診立てた。一方、佐奈は「申し訳ないことをいたしました。死んでお詫びをいたします」という遺書を残し、姿を消していた。佐奈は夫の加倉啓と和歌仲間であった男と不義密通をして、夫に毒を盛った後、男の後を追って長崎に向かったのではないかと推測されたのである。甚五郎の出現は、長崎にて佐奈とその男を捕らえる目的だった。なんと、甚五郎は亮たちが住む借家の一室に居候をして探索をするという展開となる。

 佐奈が不義密通をしたとみなされている男は、数年前には長崎聞役を務めていて、8月に脱藩した平野次郎、名を国臣という。父は福岡藩の足軽で、その次男として生まれ、長崎勤めの頃に水戸学の影響を受けて尚古主義を深めて行き、黒田藩主に犬追物復興を直訴し、1ヵ月の蟄居処分を受けたという人物である。後に、京都の六角獄舎で惨殺される勤王志士・平野国臣をここに不義の相手として登場させてくるのだから、俄然話が興味深くなっていく。
 ちょうどその頃、長崎の牢屋の女囚の一人に、早苗と名乗る女が居た。女牢で菜摘はその女と会っていたのだ。菜摘の質問に役人はその女の入牢理由を語った。路銀に困り春をひさごうとしたが、途中で嫌になり懐剣で相手の商人に切りつけ、巾着を奪って逃げたのだという。武家の妻女らしい身なりの清楚な女だったので、その理由を聞き菜摘は驚いたのである。もしや、その早苗が佐奈なのか・・・・・。こんな出だしから、ストーリーが展開し始める。福岡藩の事件、千沙の姉に関わる事件が、長崎を舞台にした謎解きとしてストーリーが進んで行く。

*加倉啓が吐血して死んだのは服毒による自殺か、毒を盛られた他殺なのか。他殺ならその方法は? 殺されたとするなら、その理由は? 
*佐奈の遺書のメッセージが意味することは何か? 佐奈は不義を働いたのか?
*平野国臣が不義の相手とみなされているが、本当にそうなのか? そこには何か隠された意図が含まれているのか? 平野国臣はスケープゴートなのか?
*女囚早苗は佐奈なのか? それを人知れずどのように確かめられるか?
*居候を決め込んだ甚五郎に知られずに、どのように対応していくことができるか?
*加倉啓の死の経緯をどのように立証できるのか?

 幕末期に実在した人物とその事績に、佐久良亮・菜摘、渡辺誠之助、千沙・佐奈、田所甚五郎その他福岡藩の藩士たちという架空の人物群の言動を関わらせていき、謎解きストーリーのフィクションを織上げている。単純な不義密通の外観を呈した事件の裏に、福岡藩内の内政、お家問題が絡んでいくという展開がおもしろい。
 『風かおる』では、田所助兵衛がおもしろい役回りで登場したが、今回もまた兄の職を継承した横目付・田所甚五郎が一筋縄では捕らえがたいおもしろい役回りを果たしていく。なかなか巧みな設定となっている。千沙の姉が疑われているという設定が、まず読者を引きつけるだろう。菜摘にとっては、いまや身内同然の千沙に繋がる問題なのだから。
 今回は、亮と菜摘が二人三脚のように行動し、その相互連携が描き込まれる。第1作とは異なった謎解きのアクション、対処法が描かれていて、楽しく読める。
 
 メインストーリーの謎解きに併せて、著者は複数のサブテーマを置いている思われる。それに関するストーリー上の描写も興味深い。いくつかのサブストーリーが併行して織り込まれていくから、関心の範囲が自ずと広がっていく楽しみが加わる。
 1. 幕末期の長崎の状況と雰囲気が背景として描かれる。併せて、幕末期の重要人物が点描的にメインストーリーの中に登場する。その人物を髣髴とさせる形で役割を持たせ織り込んでいく描写の面白さがある。勝海舟、松本良順、ポンペなど。
 2. 平野次郎国臣という勤王志士の生き様、人物像を浮かび上がらせるストーリー。
   私は月照を京から九州に逃がすプロセスで平野国臣が関与し、サポートしていたということをこの小説で初めて知った。
 3. 長崎奉行岡部駿河守長常の略伝というタッチでの描き込みとメインストーリーへの関わり方のおもしろさがある。
 4. シーボルトの娘いねについても略伝風のタッチで描き込まれていく。幕末期の女性としては、特異な生き様である。
  謎解きストーリーのフィクションの最終段階で、いねが重要な発言をする。これが興味深い。現代なら、さらに科学的分析検証手段が追加されているのだが。それが幸いか不幸かが別として・・・・。
 
 この小説の最大の山場は「二十四」の章にあると私は思う。著者が「思い」の次元を描き込む巧者であるという局面が遺憾なく発揮されている。不義密通殺人事件という見立てから始まる謎解きストーリーの次元は、この「思い」の次元を読ませるための準備とすら言えるかもしれない。感極まるシーンとしてこの章が事件自体の解明の後に重ねられていく。
 この章の末尾の数行が伝承事実としてあり、そこに発想を得て著者がこのフィクションを紡ぎ出したのか? あるいは、それ自体がフィクションの一部なのか? 確かめる術があるとおもしろいと思うのだが・・・・・・。
 
 このストーリー、「二十五」の章は、長崎奉行の勧めもあり、菜摘が町医者として「時雨堂」という看板を上げるという経緯が書き込まれる。長崎に定住する町医者「時雨堂」が第3作として描かれて行くことを期待したい。
 本書の題名に相当する語句はこの小説には出て来なかったと思う。だが末尾の一文が、この小説のタイトルのネーミングに照応していると思った。
 
 ご一読ありがとうございます。
 

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本書に関連して、関心の波紋を広げ、ネット検索してみた。一覧にしておきたい。
平野国臣  :ウィキペディア
平野国臣  :「コトバンク」
西郷隆盛と平野国臣
平野国臣殉難の地  :「京都観光Navi」
平野国臣以下三十七士の墓(竹林寺)
平野国臣  :「邪馬台国大研究」
幕臣 岡部長常  :「なるほど!幕末」
大久保一翁の長崎奉行辞退と岡部長常ーポンペ:長崎養成所 :「ヒポクラテスの木」
ポンペと養成所  近代西欧医学教育の父ポンペ :「長崎大学図書館」
ヨハネス・ポンペ・ファン・メールデルフォールト :ウィキペディア
松本良順と長与専斎 :「長崎大学図書館」
日本の誇り(四)~松本良順~  :「日々想うこと」
郷土の医傑たち ~シーボルトの娘・楠本イネ~  :「木村専太郎クリニック」
日本初の女医・楠本イネ父はあのオランダ人医師・シーボルト
    :「BUSHOO!JAPAN (武将ジャパン)

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徒然に読んできた作品の印象記に以下のものがあります。
こちらもお読みいただけると、うれしいかぎりです。

『風のかたみ』  朝日新聞出版

===== 葉室 麟 作品 読後印象記一覧 ===== 更新5版(46+4冊)2017.7.26



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