遊心逍遙記

読書三昧は楽しいひととき。遊心と知的好奇心で本とネットを逍遥した読後印象記です。一書がさらに関心の波紋を広げていきます。

『影ぞ恋しき』 葉室 麟  文藝春秋

2019-01-21 14:43:52 | レビュー
 この小説は、雨宮蔵人を主人公とするシリーズ『いのちなりけり』、『花や散るらん』に続く第三作である。一応、三部作として完結編に相当する。2016年6月から2017年7月にかけて全国4地域の新聞に掲載され、時差を持ち、他地域の2紙にも連載された。2017年12月に逝去した著者最晩年の作品の一つとなった。

 このシリーズの前作に引きつづき、この第三作においても、要所に挿入される和歌がストーリーの基軸となり、そのテーマ性を表象する役割を担っていると言える。このストーリーでは九州肥前に雨宮蔵人と咲弥を帰国させ、肥前小城藩の名門・天源寺家の継承をさせたいと思う山本常朝-『葉隠』を著した武士-が脇役として登場する。
 その常朝が比叡山麓の蔵人の家で、吉良左兵衛の家人・冬木清四郎に対し和歌を詠じる。
   恋ひ死なむ後の煙にそれと知れ終にもらさぬ中の思ひは
常朝は、この恋の歌を忠義に援用した。「わたしは忠義もこれと同じだと思っている。ひそかに、誰にも知られぬ心の中で尽くし抜くことを忠というのではあるまいか」(p73)と。
 この歌を傍で聴いていた咲弥は、西行の山家集にある歌を思い出したと言い、
   葉隠れに散りとどまれる花のみぞ忍びし人に逢ふ心地する
という和歌を詠じる。この二歌を聴いた清四郎は、その場では何も言わず、隣室に引き下がり、そこで香也と言葉を交じわす。「清四郎様は、どうしても仇討ちをなさりたいのですか」「どうしても討たねばならないのです。さもなくば、殿様が成仏なされないのではないか、とわたしには思えるのです。」(p74)と。
 清四郎はひそかに蔵人の家を去る際に、亡くなった主・吉良左兵衛が己の気持に似つかわしい歌だと清四郎に聴かせた和歌を、今の清四郎自身の思いに重なる和歌であると書き、大願成就の暁には、今一度香也のもとに戻ると末尾に結んだ文を残す。その歌は古今和歌集にある   
   色も香も昔の濃さに匂へども植ゑけむ人の影ぞ恋しき
という故人を慕う歌だった。
 本書のタイトル『影ぞ恋しき』はこの紀貫之の歌に由来する。清四郎は仇討ちという視点に換骨脱退して、この和歌を受け止めている。

 この小説は、冬木清四郎が主・吉良左兵衛を慕う純粋な忠義心による仇討ちという行動を中核に据える。しかし、その行動には、徳川幕府の世継ぎ問題、政権交代という大きな時代背景が重ねられていく。清四郎はそれらの人々に取り込まれることになる。結果的に清四郎は仇討ちを成就するが、今度は清四郎を闇に葬ろうとする動きが出てくる。その渦中に雨宮蔵人と家族が巻き込まれていくことになる。そのプロセスでの蔵人の行動が読ませどころとなっていく。

 なぜ、蔵人らが巻き込まれていくのか? 
ストーリーは、上記の和歌の詠じられる場面より時が遡って始まる。蔵人のもとに、蔵人の従兄弟であり、元鍋島藩士で今は円光寺の僧侶である清厳が、山本常朝の手紙を持参する。そこには蔵人に対し小城藩主が内々で蔵人の帰参を許すという事が記されていた。それは、蔵人の今後の生き様を迫る問題の始まりとなる。
 一方、同時点で冬木清四郎が蔵人のもとに現れる。その目的は、吉良左兵衛が香也に会いたいと望んでいるという願いを蔵人に伝言するためだった。蔵人と咲弥が慈しみ育てている娘・香也は実子ではなく養女である。香也は吉良上野介が京の医師、半井道安の娘と深い仲となり、みつという娘を持つ。そのみつが吉良家の家臣貫井伝八郎と夫婦になり、もうけた子が香也だった。その貫井が何者かに殺められる折に、香也を助けるという巡り合わせで、蔵人と咲弥は香也をわが子として育てていたのだ。

 赤穂浪士の吉良邸討ち入り後、吉良上野介の養子となり吉良家の家督を継いでいた吉良左兵衛義周は、徳川綱吉の咎めを受けて、信濃諏訪藩にお預けの身となっていた。その左兵衛が重病であり、死ぬ前に香也に会いたいという要望なのである。
 その願いを受けて、蔵人は咲弥・香也とともに、諏訪の地を密かに訪れ、左兵衛と香也を会わせることになる。だが、その際左兵衛は、冬木清四郎と香也が許嫁となり吉良家を継いでほしいという願望を述べるに至る。結果的に、左兵衛の生前中に蔵人は香也と清四郎の許嫁関係を承諾する立場になる。
 つまり、蔵人は清四郎の仇討ち行動に対し、それが成し遂げられた後に、清四郎と香也が夫婦になることを親としてサポートするという立場になっていく。
 蔵人は清四郎が誰を仇討ちのターゲットとしているか薄々は感じ推測していても、それ以上には武士として関与しない。だが仇討ちが達成できたとして、今度は清四郎が危うい立場に陥る可能性は明らかに高い。それを承知で、香也を悲しませないために、何があろうと清四郎を護るという約束を蔵人は香也と咲弥にする。仇討ちする対象とその方法を一切秘めたまま、比叡山麓の蔵人の家から立ち去った清四郎。彼の行動結果から得た情報と推定により、蔵人は己の状況対応型行動をその都度選びとっていく。妻と香也に約束した結果を出すために柔軟な対応行動を重ねていく。このプロセスがこのストーリーの読ませどころとなる。

 この小説の興味深いところがいくつかある。
1. 松の廊下での刃傷沙汰という事件が発生した背景で蠢いていた政治的な裏話を描き出す部分があること。
2.赤穂浪士の討ち入りの結果、幕府側が即座に執った措置に絡まる背景に重点をおいてその顛末が描かれていくこと。討ち入りの結果、どういう状況・結果が起こったかという事後の経過に重点を置いていること。
3.赤穂浪士討ち入り事件は、将軍綱吉の治政下で、側用人柳沢吉保の裁量を中心に即断即決で措置されて行った。そこには綱吉の意を忖度した上での判断と当時の政治情勢があった。そこに何があったかが織り込まれていく。綱吉の政治の歪みが明らかになる一方、綱吉に世継ぎのいないことで、政権交代が俎上にのぼっていく。
 その江戸幕府の状況に、京の朝廷の思惑も絡んでいく。
 つまり、幕府政治の裏面がこのストーリーの展開を彩っていくことになる。
4.将軍綱吉と柳沢吉保に対抗するのは、綱豊である。綱吉没後に、綱豊が第6代将軍家宣として政権を継承するが、それまでは政治的確執が続く。家宣が登用したのが新井白石であり、正徳の治と称される改革が行われる。真っ先に行われたのは生類憐れみの令の廃止である。新井白石の描かれ方に興味深い面が含まれる。
 光をもたらそうと意気込む将軍家宣。光には影がつきまとう。その影の役割を家宣の弟である越智右近が引き受ける。兄家宣の治世の邪魔を誰にもさせないとの思いに徹した行動をとる。蔵人がこの右近に対峙せざるを得ない局面が生まれていく。
5.『葉隠』を著した山本常朝を脇役として登場させ、山本常朝を描き加えていること。著者は常朝という人物をどこかで描きたいと思っていたのではないか。その適切な役回りがこの第三作で実現したのだと思う。

 さて、この第三作で重要な締め括りの部分がある。それに触れておきたい。
 天源寺家に婿入りした蔵人は、妻となった咲弥からおのれの心を表す和歌を示せという難題を課された。天源寺刑部をめぐる騒動が原因で出奔することになった蔵人が咲弥に再会するのは17年後である。そのとき
   春ごとに花のさかりはありなめどあひ見むことはいのちなりけり
という和歌をおのれの心を示すものとして咲弥に伝えた。
 香也のために清四郎を取り戻すという目的で越智右近と尋常の立ち合いをすることになる。だが、戦いの途中で公儀隠密藤左衛門の馬上筒で撃たれるに至る。そして瀕死の重傷を負う。
 一足先に肥前に戻っていた咲弥と香也は、その報せを受けて、安芸国の大石家にて療養する蔵人のもとに行く。そして、蔵人に返歌を差し上げるという。「お前様の心を受け止めました。今度は、わたしの心をお前様に受け止めていただきとうございます」と。
   君にいかで月にあらそふほどばかりめぐり逢ひつつ影を並べん
咲弥は西行法師の歌の一つを返歌とした。それが蔵人に生きぬく気力を甦らせる契機となる。

 ストーリーは宝永3年(1706)1月から宝永7年(1710)1月にかけて物語られる。そしてその後にエピローグ風に2つの内容が続く。2年後の1712年10月に第6代将軍徳川家宣が逝去した。その治世と状況が簡潔に語られる。2つめは佐賀で6年を過ごした蔵人と咲弥のその後が語られる。第7代将軍徳川家継が在位4年、享年8歳で逝去ということを知った時点での決断である。どういう決断かは、本書でお楽しみいただきたい。末尾のシーンが実によい。

 ご一読ありがとうございます。

この作品を読み、関心事項をネット検索してみた。一覧にしておきたい。
徳川歴代将軍の死と葬儀 :「お葬式プラザ」
徳川綱吉  :ウィキペディア
徳川綱吉  :「コトバンク」
大奥・開かずの間~徳川綱吉、刺殺の噂  :「今日は何の日? 徒然日記」
柳沢吉保  :ウィキペディア
柳沢吉保  :「コトバンク」
柳沢吉保 賢い選択が見える家系図とその子孫  :「歴史上の人物.com」
徳川家宣  :ウィキペディア
徳川家宣  :「コトバンク」
松平清武  :ウィキペディア
第49回 短命に終わった徳川家宣、家継時代  :「日本史」(裏辺研究所)
新井白石  :ウィキペディア
新井白石  :「コトバンク」
新井白石 正徳の治  :「歴史 年代ゴロ会わせ暗記」

インターネットに有益な情報を掲載してくださった皆様に感謝します。

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徒然に読んできた作品の印象記に以下のものがあります。
こちらもお読みいただけると、うれしいかぎりです。

『蝶のゆくへ』  集英社
『青嵐の坂』  角川書店
『随筆集 柚子は九年で』  文春文庫
『天翔ける』  角川書店
『雨と詩人と落花と』 徳間書店
『古都再見』   新潮社
『河のほとりで』  文春文庫
『玄鳥さりて』  新潮社
『津軽双花』  講談社
『草雲雀』  実業之日本社
『日本人の肖像』  聞き手・矢部明洋   講談社
『草笛物語』  祥伝社
『墨龍賦』 PHP
『大獄 西郷青嵐賦』   文藝春秋
『嵯峨野花譜』  文藝春秋
『潮騒はるか』  幻冬舎
『風のかたみ』  朝日新聞出版

===== 葉室 麟 作品 読後印象記一覧 ===== 更新5版(46+4冊)2017.7.26