『蜩の記』から始まった羽根藩シリーズの第5弾になる。戸田秋谷が切腹して果てた時点から16年を経た後でのストーリーがここに展開されていく。
中心となるのは江戸にある羽根藩中屋敷の長屋に住む13歳の赤座颯太である。颯太は2年前から世子鍋千代の小姓として仕えている。江戸で生まれ、8歳の頃から無外流の剣術を学び、勉学に勤しむも、さして才はない。泣き虫颯太などと呼ばれている。鍋千代とはうまが合う。父と母を流行り病で亡くし、四十九日を終えたところという描写から始まる。その颯太が叔父にあたり国許の藩校教授である水上岳堂に預けられることになり、国許に戻ることになる。颯太は、鍋千代から帰国の餞別として吉光の短刀を拝領する。長屋に戻り、その短刀を抜いて軽く振ってみたとき、「無心になり、主君のために刀を振るうだけのことである」と感じる。その思いがその後の颯太の生き様の基調かつテーマとなっていく。
羽根藩の国許における過去の諸事情と現在の状況について、颯太は何も知らないところから出発する。叔父の水上岳堂は、颯太を赤座一族に会わせることは当面見合わすという立場を取る。かつて起こったお家騒動問題の波紋の外に颯太を置く方が良いと判断するからだ。
戸田秋谷の子息・郁太郎は、今では中老となり父の名を継いで戸田順右衛門と名乗っている。彼は周囲の人々から鵙(もず)殿とあだ名されている。30前の年齢だが、過失を犯した者には苛烈に責め追い詰める。あたかも鳥の鵙が獲物を狙うときの苛烈さに似ているからという。順右衛門は、父・秋谷の生き様から己が学びとったことを実行しようとしているのである。頑なまでに素志を曲げない姿勢を貫き、家中で孤立していたが若い者の中にはその姿勢をよしとする者も出始めてきたところなのだ。
颯太は、叔父の岳堂から国許の事情を聞き、自分の目で見つめることで、藩の状況や己の位置を理解していく。颯太が国許の状況を把握するプロセスが、このストーリーの導入部となる。読者はそのプロセスに沿って、現在の羽根藩における人間関係構図と藩政の状況、政治的な確執の有り様を颯太と岳堂の視点から把握できることになる。それは、愛読者にとっては『蜩の記』時点の羽根藩との対比ともなり、16年前の羽根藩の状況を重ねて想起していくことにもなる。勿論、『蜩の記』を読んでいなくてもこのストーリー自体を楽しむのにそれほど支障はない。知っていれば、奥行きが広がることは間違いがない。
岳堂は颯太の大叔父赤座九郎兵衛が訪ねてきた時、颯太には会わせないという決断をする。そして、相原村にある藩の薬草園の番人をしている友人の壇野庄三郎の許に颯太を預けるという選択をする。庄三郎はかつて秋谷の見張り役として、対立側から秋谷が蟄居する傍に常駐するよう命じられていた武士である。その庄三郎は戸田順右衛門の姉にあたる薫を妻にして、今では桃と称する娘が居た。薬草園の番人になったことには背景がある。
順右衛門と庄三郎は、妻を娶るということに対する考え方と経緯において、ある意味で対照的な立場にたつ。その生き様の違いが、このストーリーに大きく反映しているところが、一つの読みどころとなっていく。
1年ほどが過ぎた春、藩の目論見よりも前に、藩主吉房が急逝してしまう。そのため世子鍋千代が急遽元服し、家督を継ぎ新藩主となり、名を吉通と改めることになる。
吉通が新藩主として国入りすると、吉通はすぐに颯太を小姓として召し出す。
この時点から、再び羽根藩では魑魅魍魎が跋扈し始めることになる。このストーリーが俄然動き出すという次第。
瓦岳の麓、月の輪村に屋敷を持つ藩主一門の三浦左近は、家中では月の輪様と呼ばれている。左近は、自らが藩主になりたいという欲望を持ち続けている人物である。前藩主の吉房が重篤な病になると、吉通を廃嫡して己が藩主となれるよう幕閣に働きかけていたという噂があった。この動きに、勘定奉行の原市之進や赤座一族が同調していたという。吉通が新藩主になった今、月の輪様は若年の藩主の後見役という名目を幕閣から認められて藩政に関与しようとし始める。その許可を得る目的で江戸まで出向くという行動を取る。
吉通は己の思いを颯太に語り、颯太を使いながら、羽根藩の実態を把握しようとし始める。農民たちの実態を己の耳目で知ろうとする。また、戸田秋谷が書き残した『蜩の記』が壇野庄三郎の手許に秘蔵されていることを知ると、彼に会って話を聞き書を読もうとする行動を取り始める。吉通の独自の行動には、家老などの執政者たちからそれ抑止しようとする動きがつきまとってくる。だが、吉通は隙をとらえて颯太をはじめ身近な小姓を使い己の行動を取ろうと試みる。それは吉通が新藩主としての学習過程でもあり、新藩主としての立ち位置と見識を確立するプロセスでもある。そこからストーリーはおもしろみを加えていく。
一方、後見役を認められたという触れ込みで月の輪様が帰国してきて、画策を始めて行く。それは、吉通と月の輪様との対立を導き出していく。事態はどう進展するのか、お家騒動にならずに事態を納める事が可能なのか。順右衛門や庄三郎、岳堂たちがどういう行動を取っていくのか・・・・、そして小姓である颯太はどうするのか、そこが読ませどころとなって行く。
このストーリーを一気に読ませるところは、ストーリーの構想と展開の巧みさに加え、主な登場人物の鮮明なキャラクターと人間関係の構図の面白さにもある。
*泣き虫颯太と呼ばれ、特に秀でた才はなくても、主君に仕えるということを真摯に考え続ける颯太が、羽根藩の実態を受け止めて、吉通のために尽くそうとする姿。
*己の耳目で確かめ、行動することで新藩主としてのあり方を見定めていこうとする吉通の積極的な行動力と学ぶ姿勢。本音を颯太に語るという両者の関係のおもしろさ。
*戸田秋谷の切腹に至るまでの生き様を見て、秋谷からその精神を学び取ろうとする息子順右衛門と義兄となる壇野庄三郎の二人の生き様の違い。一方で、信頼の絆で結ばれているという二人の関係。
*己の欲望を達成するためには手段を選ばない三浦左近の欲望と策謀に徹した生き様。
*藩校教授・学者として、学問の道一筋の為には、独身を通すと決めた岳堂の生き様とその一方で内奥に潜む思い。
*順右衛門、庄三郎、岳堂たちの周辺に存在する女性たちそれぞれの思いと生き様。
順右衛門の傍に居る娘美雪の決断と思い、順右衛門に思いを寄せるお春。庄三郎の妻であり秋谷の娘である薫の思い。岳堂の隣家の娘であり岳堂に思いを寄せる佳代。それぞれが己の生き様を示す行動を選択していく姿。
*勘定奉行原市之進が土壇場で生き方の転換を決断するところもまた興味深い。
このストーリー、「友とは何か」というテーマがベースになっていると思う。タイトルは「草笛物語」である。颯太が岳堂に連れられて、相原村の庄三郎の家に向かうときに、ぴぃーっという甲高い音を初めて颯太は幾度か聴く。聞き慣れない音がすると岳堂に告げると、岳堂は颯太に草笛の音色だと教え、自ら草を口もとにあてて吹いてみせる。
そして言う。「村の子供たちが遊んで吹くのだ。いや、遊びながらおたがいがはぐれないように吹いているのだ。だとすると、草笛は友を呼ぶ笛かもしれぬな」(p34)と。
別の機会に庄三郎が颯太と三人の少年に次のように言い聞かせる場面が描かれる。
「草笛は、野に出て友を呼ぶ笛だと言うぞ。草笛の音が聞こえたら、友が呼んでいるゆえ駆けつけるのだ」(p58)と。
さらに、ストーリーの展開途中で、草笛について颯太の語るエピソードがほほえましさを読者に感じさせるものとして書き加えられる。だが読了するとそれが伏線にもなっていたことに気づく。そして、ストーリーのクライマックスのシーンで、草笛を吹く音色の響きが大きな役割を担っていく。巧みな使い方だなぁと感じた次第である。
最後に、印象深い詞章をご紹介しておきたい。
*この世は苛烈なのだ。少々厳しくしたぐらいでは乗り越えられぬ。肝要なのは、あるがまま、おのれのままに生き抜いていく力なのだ。百姓はなまじに手を加えずに芽を育てていくぞ。 p36
*武士は先でやろうと思うほどのことは口にしてはならぬ。口にすべきはいますぐやれることだけだ。 p40
*男子の本懐とはよき伴侶を得ることなのかもしれぬ。 p44
*剣の要諦は何も考えず、無になることだ。・・・・ただ風を感じて、吹き寄せる風に向かって剣を振るうのだ。 p53
*そなたが為さねばならぬことを為せるよう、日々務めよ。 p64
*一度や二度の間違いが何だ。ひとは何度でもやり直すことができる。 p67
*ひとが変わろうと思えば、やはり時がかかります。ご自分のことでできる辛抱は、ひとのことでもいたさねばならぬのではないでしょうか。 p105
*まことの勇気とは相手を斬ることではない。おのれが大切と思うひとのために命を投げ出して動じない心だ。 p129
*家臣たる者の道は主君に仕えることでございます。すなわち、主君が領内を平安に治め、領民に安寧をもたらすために、お助けいたし、その命のもと死ぬのでございます。そして主君は自ら領国を治め、家臣領民を守るために死ぬのです。されば、主君たる者がひとの指図を仰いでおりましては、家臣領民のために死ぬ者ではなくなります。 p150
*「源吉兄さんが生きていたらどうしたでしょうか」「わからぬ。だが、源吉ならばひとが死なぬように、生きるようにする道を選ぶであろうな。」 p206
*父が自らの死によってひとびとの過ちや罪業を背負ったのは、ひとを生かす道だったからではないかと思います。・・・・・罪を背負う生き方もあったのではないでしょうか。p208
*ひとには避けることができない定めもあるのではないでしょうか。定めがあるのなら、わたくしは逃げたいとは思いません。それに、どのような定めの中でも、自分を貫く道はあろうかと思います。 p212
*ただ、戸田秋谷という御仁は生きていたときだけでなく、死んでからも何事かひとに語りかけてくるひとのような気がする。 p232
*声は聞こえずとも、おぬしの胸の中で秋谷殿の魂は鳴響いていよう。ならばこそ、おぬしは信じた道を真っ直ぐに歩むのだ。 p233
*やさしさこそが強さなのだ。 p248
*赤座颯太は、いま武士として戦っている。誰にも止めることはできないのだ。p268
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徒然に読んできた作品の印象記に以下のものがあります。
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『墨龍賦』 PHP
『大獄 西郷青嵐賦』 文藝春秋
『嵯峨野花譜』 文藝春秋
『潮騒はるか』 幻冬舎
『風のかたみ』 朝日新聞出版
===== 葉室 麟 作品 読後印象記一覧 ===== 更新5版(46+4冊)2017.7.26
中心となるのは江戸にある羽根藩中屋敷の長屋に住む13歳の赤座颯太である。颯太は2年前から世子鍋千代の小姓として仕えている。江戸で生まれ、8歳の頃から無外流の剣術を学び、勉学に勤しむも、さして才はない。泣き虫颯太などと呼ばれている。鍋千代とはうまが合う。父と母を流行り病で亡くし、四十九日を終えたところという描写から始まる。その颯太が叔父にあたり国許の藩校教授である水上岳堂に預けられることになり、国許に戻ることになる。颯太は、鍋千代から帰国の餞別として吉光の短刀を拝領する。長屋に戻り、その短刀を抜いて軽く振ってみたとき、「無心になり、主君のために刀を振るうだけのことである」と感じる。その思いがその後の颯太の生き様の基調かつテーマとなっていく。
羽根藩の国許における過去の諸事情と現在の状況について、颯太は何も知らないところから出発する。叔父の水上岳堂は、颯太を赤座一族に会わせることは当面見合わすという立場を取る。かつて起こったお家騒動問題の波紋の外に颯太を置く方が良いと判断するからだ。
戸田秋谷の子息・郁太郎は、今では中老となり父の名を継いで戸田順右衛門と名乗っている。彼は周囲の人々から鵙(もず)殿とあだ名されている。30前の年齢だが、過失を犯した者には苛烈に責め追い詰める。あたかも鳥の鵙が獲物を狙うときの苛烈さに似ているからという。順右衛門は、父・秋谷の生き様から己が学びとったことを実行しようとしているのである。頑なまでに素志を曲げない姿勢を貫き、家中で孤立していたが若い者の中にはその姿勢をよしとする者も出始めてきたところなのだ。
颯太は、叔父の岳堂から国許の事情を聞き、自分の目で見つめることで、藩の状況や己の位置を理解していく。颯太が国許の状況を把握するプロセスが、このストーリーの導入部となる。読者はそのプロセスに沿って、現在の羽根藩における人間関係構図と藩政の状況、政治的な確執の有り様を颯太と岳堂の視点から把握できることになる。それは、愛読者にとっては『蜩の記』時点の羽根藩との対比ともなり、16年前の羽根藩の状況を重ねて想起していくことにもなる。勿論、『蜩の記』を読んでいなくてもこのストーリー自体を楽しむのにそれほど支障はない。知っていれば、奥行きが広がることは間違いがない。
岳堂は颯太の大叔父赤座九郎兵衛が訪ねてきた時、颯太には会わせないという決断をする。そして、相原村にある藩の薬草園の番人をしている友人の壇野庄三郎の許に颯太を預けるという選択をする。庄三郎はかつて秋谷の見張り役として、対立側から秋谷が蟄居する傍に常駐するよう命じられていた武士である。その庄三郎は戸田順右衛門の姉にあたる薫を妻にして、今では桃と称する娘が居た。薬草園の番人になったことには背景がある。
順右衛門と庄三郎は、妻を娶るということに対する考え方と経緯において、ある意味で対照的な立場にたつ。その生き様の違いが、このストーリーに大きく反映しているところが、一つの読みどころとなっていく。
1年ほどが過ぎた春、藩の目論見よりも前に、藩主吉房が急逝してしまう。そのため世子鍋千代が急遽元服し、家督を継ぎ新藩主となり、名を吉通と改めることになる。
吉通が新藩主として国入りすると、吉通はすぐに颯太を小姓として召し出す。
この時点から、再び羽根藩では魑魅魍魎が跋扈し始めることになる。このストーリーが俄然動き出すという次第。
瓦岳の麓、月の輪村に屋敷を持つ藩主一門の三浦左近は、家中では月の輪様と呼ばれている。左近は、自らが藩主になりたいという欲望を持ち続けている人物である。前藩主の吉房が重篤な病になると、吉通を廃嫡して己が藩主となれるよう幕閣に働きかけていたという噂があった。この動きに、勘定奉行の原市之進や赤座一族が同調していたという。吉通が新藩主になった今、月の輪様は若年の藩主の後見役という名目を幕閣から認められて藩政に関与しようとし始める。その許可を得る目的で江戸まで出向くという行動を取る。
吉通は己の思いを颯太に語り、颯太を使いながら、羽根藩の実態を把握しようとし始める。農民たちの実態を己の耳目で知ろうとする。また、戸田秋谷が書き残した『蜩の記』が壇野庄三郎の手許に秘蔵されていることを知ると、彼に会って話を聞き書を読もうとする行動を取り始める。吉通の独自の行動には、家老などの執政者たちからそれ抑止しようとする動きがつきまとってくる。だが、吉通は隙をとらえて颯太をはじめ身近な小姓を使い己の行動を取ろうと試みる。それは吉通が新藩主としての学習過程でもあり、新藩主としての立ち位置と見識を確立するプロセスでもある。そこからストーリーはおもしろみを加えていく。
一方、後見役を認められたという触れ込みで月の輪様が帰国してきて、画策を始めて行く。それは、吉通と月の輪様との対立を導き出していく。事態はどう進展するのか、お家騒動にならずに事態を納める事が可能なのか。順右衛門や庄三郎、岳堂たちがどういう行動を取っていくのか・・・・、そして小姓である颯太はどうするのか、そこが読ませどころとなって行く。
このストーリーを一気に読ませるところは、ストーリーの構想と展開の巧みさに加え、主な登場人物の鮮明なキャラクターと人間関係の構図の面白さにもある。
*泣き虫颯太と呼ばれ、特に秀でた才はなくても、主君に仕えるということを真摯に考え続ける颯太が、羽根藩の実態を受け止めて、吉通のために尽くそうとする姿。
*己の耳目で確かめ、行動することで新藩主としてのあり方を見定めていこうとする吉通の積極的な行動力と学ぶ姿勢。本音を颯太に語るという両者の関係のおもしろさ。
*戸田秋谷の切腹に至るまでの生き様を見て、秋谷からその精神を学び取ろうとする息子順右衛門と義兄となる壇野庄三郎の二人の生き様の違い。一方で、信頼の絆で結ばれているという二人の関係。
*己の欲望を達成するためには手段を選ばない三浦左近の欲望と策謀に徹した生き様。
*藩校教授・学者として、学問の道一筋の為には、独身を通すと決めた岳堂の生き様とその一方で内奥に潜む思い。
*順右衛門、庄三郎、岳堂たちの周辺に存在する女性たちそれぞれの思いと生き様。
順右衛門の傍に居る娘美雪の決断と思い、順右衛門に思いを寄せるお春。庄三郎の妻であり秋谷の娘である薫の思い。岳堂の隣家の娘であり岳堂に思いを寄せる佳代。それぞれが己の生き様を示す行動を選択していく姿。
*勘定奉行原市之進が土壇場で生き方の転換を決断するところもまた興味深い。
このストーリー、「友とは何か」というテーマがベースになっていると思う。タイトルは「草笛物語」である。颯太が岳堂に連れられて、相原村の庄三郎の家に向かうときに、ぴぃーっという甲高い音を初めて颯太は幾度か聴く。聞き慣れない音がすると岳堂に告げると、岳堂は颯太に草笛の音色だと教え、自ら草を口もとにあてて吹いてみせる。
そして言う。「村の子供たちが遊んで吹くのだ。いや、遊びながらおたがいがはぐれないように吹いているのだ。だとすると、草笛は友を呼ぶ笛かもしれぬな」(p34)と。
別の機会に庄三郎が颯太と三人の少年に次のように言い聞かせる場面が描かれる。
「草笛は、野に出て友を呼ぶ笛だと言うぞ。草笛の音が聞こえたら、友が呼んでいるゆえ駆けつけるのだ」(p58)と。
さらに、ストーリーの展開途中で、草笛について颯太の語るエピソードがほほえましさを読者に感じさせるものとして書き加えられる。だが読了するとそれが伏線にもなっていたことに気づく。そして、ストーリーのクライマックスのシーンで、草笛を吹く音色の響きが大きな役割を担っていく。巧みな使い方だなぁと感じた次第である。
最後に、印象深い詞章をご紹介しておきたい。
*この世は苛烈なのだ。少々厳しくしたぐらいでは乗り越えられぬ。肝要なのは、あるがまま、おのれのままに生き抜いていく力なのだ。百姓はなまじに手を加えずに芽を育てていくぞ。 p36
*武士は先でやろうと思うほどのことは口にしてはならぬ。口にすべきはいますぐやれることだけだ。 p40
*男子の本懐とはよき伴侶を得ることなのかもしれぬ。 p44
*剣の要諦は何も考えず、無になることだ。・・・・ただ風を感じて、吹き寄せる風に向かって剣を振るうのだ。 p53
*そなたが為さねばならぬことを為せるよう、日々務めよ。 p64
*一度や二度の間違いが何だ。ひとは何度でもやり直すことができる。 p67
*ひとが変わろうと思えば、やはり時がかかります。ご自分のことでできる辛抱は、ひとのことでもいたさねばならぬのではないでしょうか。 p105
*まことの勇気とは相手を斬ることではない。おのれが大切と思うひとのために命を投げ出して動じない心だ。 p129
*家臣たる者の道は主君に仕えることでございます。すなわち、主君が領内を平安に治め、領民に安寧をもたらすために、お助けいたし、その命のもと死ぬのでございます。そして主君は自ら領国を治め、家臣領民を守るために死ぬのです。されば、主君たる者がひとの指図を仰いでおりましては、家臣領民のために死ぬ者ではなくなります。 p150
*「源吉兄さんが生きていたらどうしたでしょうか」「わからぬ。だが、源吉ならばひとが死なぬように、生きるようにする道を選ぶであろうな。」 p206
*父が自らの死によってひとびとの過ちや罪業を背負ったのは、ひとを生かす道だったからではないかと思います。・・・・・罪を背負う生き方もあったのではないでしょうか。p208
*ひとには避けることができない定めもあるのではないでしょうか。定めがあるのなら、わたくしは逃げたいとは思いません。それに、どのような定めの中でも、自分を貫く道はあろうかと思います。 p212
*ただ、戸田秋谷という御仁は生きていたときだけでなく、死んでからも何事かひとに語りかけてくるひとのような気がする。 p232
*声は聞こえずとも、おぬしの胸の中で秋谷殿の魂は鳴響いていよう。ならばこそ、おぬしは信じた道を真っ直ぐに歩むのだ。 p233
*やさしさこそが強さなのだ。 p248
*赤座颯太は、いま武士として戦っている。誰にも止めることはできないのだ。p268
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徒然に読んできた作品の印象記に以下のものがあります。
こちらもお読みいただけると、うれしいかぎりです。
『墨龍賦』 PHP
『大獄 西郷青嵐賦』 文藝春秋
『嵯峨野花譜』 文藝春秋
『潮騒はるか』 幻冬舎
『風のかたみ』 朝日新聞出版
===== 葉室 麟 作品 読後印象記一覧 ===== 更新5版(46+4冊)2017.7.26
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