遊心逍遙記

読書三昧は楽しいひととき。遊心と知的好奇心で本とネットを逍遥した読後印象記です。一書がさらに関心の波紋を広げていきます。

『決戦! 川中島』 冲方・佐藤・吉川・矢野・乾・木下・宮本 講談社

2016-08-09 21:26:47 | レビュー
 武田信玄と上杉謙信の宿命の対決、川中島合戦は「塩崎の対陣(1564年8月)」を含めると合計5回である。しかし、信玄と謙信が雌雄を決するが如き決戦を行ったのは永禄4年9月10日(1561年10月18日)の第4次合戦。本書はこの永禄4年の決戦に焦点を当てて、諸作家が異なる視点から川中島の決戦のある局面をある立場で切り取り作品を描きあげている。諸作家の競作という興味深さとともに、川中島での決戦を様々な視点で眺められる楽しさがある。一つの合戦という事象が大きな膨らみと奥行きを見せる。虚実の狭間に様々な仮説が成り立つという面白さと興味深さも実感できる。
 現存史料は様々な立場から記録が残されている。そこに相互に矛盾する記述が厳然とあるというのも事実のようである。ある観点から記述された資料の内容が必ずしも100%の事実とは限らない。
 フィクションとして短編小説に描き出された「決戦! 川中島」の局面は、史料を踏まえて各作家が想像力を創造力に高め紡ぎ出した虚実の狭間である。
 諸作家がどういう視点を設定して、「決戦! 川中島」というテーマに切り込んだのか。読後印象を少しまとめてみたい。本書目次の順に、印象その他をご紹介する。

< 五宝の矛 > 冲方 丁

 越後の守護代、長尾為景の子として生まれた虎千代は兄・晴景と21の開きがある。”戦鬼”とまで称された父の話の矛盾点をずけずけと指摘することから、母の虎御前(青岩院)が為景と話をし、虎千代を仏門に入れる。この幼少期から川中島での四度の戦いをする上杉謙信の姿までを描く。父の跡を継いだ兄の命で還俗し、元服後虎千代から平三景虎と名乗る。虎千代が師事した林泉寺の天室和尚は彼を「生まれながら虎のごとき子です」と評した。
 怜悧さ・賢明さ・粘り強さを持つが病気がちの兄を、少年時代から、守るべき者と捉えてきた景虎は、兄晴景とは以心伝心・阿吽の呼吸で互いに為すべき事を理解し合える。そして越後をまず統一していく。仏門に居た時の虎千代の為した鍛錬のための行動、兄から預かった栃尾城で初陣となる合戦を勝利に導いた将としての働きから始め、景虎の天性の能力とその生き様が描き込まれていく。景虎が兄を助ける立場から、越後の統一者になっていくプロセスが第一段階である。
 景虎の信念は「強者になって弱者に施す」にあったと著者はみる。それが越後統一をなした景虎を、関東管領上杉憲政(憲当)の要請に応じた関東への侵出と合戦、足利将軍の求めに応じた上洛、信濃を侵略する武田を滅ぼすという行動へと導いていく。
 仏教では仏・法・僧を三宝という。「それらは一体かつ不可分である。一つの宝を三つの側面から見たとき違う形に見えるようなもので、どれが欠けても成り立たない」(p30)強き者の四宝は富、兵、大義名分、信仰だという。景虎にとって重要なのは、四つの宝を磨くことである。この小説のタイトルは、謙信にとり、第5の宝が矛であることを意味する。矛とはここでは謙信の持つ戦略眼と謙信が磨き上げた配下の武装戦闘力・戦闘方法を意味するようだ。 
 上杉謙信の人生、生き様の大凡を理解しやすい作品に仕上がっている。
 また、競作集故に、他作家の短編を読み進んだ後に気づいた点が2つある。一つは「やがて勝機が訪れた。敵味方の諜者から、信玄の策が報されたのである」(p51)とさらりと書いていること。もう一つは、政虎が「妻女山ならびに尾根続きの西条山へと布陣させた」として記していることである。


< 啄木鳥(きつつき)> 佐藤巖太郎

 三河の国生まれの山本勘助の立場から川中島の決戦を眺める作品である。山本勘助は武田晴信(信玄)に見込まれて、今で言う軍師として仕えた。勘助は戦のたびに調略と戦術の策を献じる。諏訪の地を武田の直轄地にしたいという晴信の意図に対して、策を献じたのも勘助である。その策の一環として晴信が諏訪頼重の娘を側室とする。つまり、この娘が諏訪の御寮人さまと呼ばれるようになり、四郎勝頼が誕生する。
 信玄は、四郎勝頼の初陣に対し、勘助をその守役とする。勘助は四郎勝頼と話す機会が増え、あるとき「勘助。啄木鳥は、なぜ木をつつくのか知っておるか」と質問される。勘助の返事に対して、四郎勝頼は炭焼きの古老から聞いた話として、その理由を語る。
 妻女山を奇襲しそこを本陣とした上杉正虎(謙信)との川中島での決戦に対し、勘助が信玄に合戦の策を献じる。その策を勘助は啄木鳥の戦法と称した。勘助は四郎勝頼から聞いた啄木鳥の習性をヒントに策を立てたのである。信玄は本隊を八幡原に布陣する。
 勘助の策は敗れる。勘助自身もこの決戦で前線に出て首に矢を受け死亡する。なぜ勘助が敗れたのか。それはある一文が中に記された書状が上杉正虎(謙信)に密かに届けられていたことに発するのだった。
 このストーリー構成はなかなか想像力に富み、「裏を書く」というおもしろみに溢れている。単なるフィクションだとしても興味深い視点である。


< 捨て身の思慕 > 吉川永青

 上杉政虎の軍師として仕えてきた宇佐美定満の立場から捉えた川中島の決戦を描く。
 宇佐美定満は守護・上杉定実に仕え、主君の下命に従い、政虎の父・長尾為景を攻めるが敗北する。為景に従うようになったときに、軍師の立場を与えられた。だが、軍師としての功は、政虎に叛旗を翻した長尾政景を下した時が唯一くらいのもの。なぜなら、政虎自身が軍略に長けているので、軍師を必要としないのだから。といって、政虎は軍師として仕える宇佐美定満を疎んじたり軽んじている訳ではない。
 海津城を攻めず、妻女山に陣を構える策を献じる。諸将が定満の策を愚策と論じるのに対し、政虎は定満の策をとる。
 このストーリーは、定満の政虎に対する敬慕の思いを語る。一方、定満の真意を政虎は理解していたという訳である。妻女山に本陣を置いたことが吉なのか凶なのか。定満の心の思いを描く。「霧が出れば」という一点に掛かった戦術の展開経緯を描いていく。謙信と信玄の有名な対決場面をクライマックスにするところがうまい。
 だがこの小説、定満の死を描く章末のエピソードに狙いがあったのではと思わせる。その点が興味深い。


< 凡夫の瞳 > 矢野 隆

 武田典厩信繁の立場から、川中島八幡原での決戦を描く。
 妻女山山頂の上杉謙信の本陣に仕向けた別働隊が、上杉軍を追い立てることで、混乱した上杉軍が山を下りてくるのを迎え撃つために、武田軍は横に大きく布陣していた。だが、上杉軍は追い立てられる以前に、下山を済ませ、霧が晴れた時には正に目前に迫っていたのである。勘助の策は大きく齟齬を来す。
 「武田家臣団の強固な絆は、兄を中心とした重臣たちの心のつながりである。日頃からたがいを強固に想いあっている仲であるからこそ、こういう決死の場で常道を超えることができるのだ。兄が本陣を退いた・・・。家臣たちはどう動けばよいのか」本陣の信玄の後退が何を意味するか、何を考え、どう動くか。その心を知って重臣は判断し、動く。
 信繁は、兄信玄の家臣であることに徹するということを信条とした。信玄と比して己の力量を凡夫と見切り、兄信玄を支える役割に徹する。信繁は己の家臣を信じ、己の意図を悟れぬ者はいないと自負している。
 このストーリーは、信玄を救うために、敵上杉軍を己に引きつけ、別働隊の到着までの時を稼ぐ役割で猛然と突き進む信繁とその家臣を描く。意義ある自己犠牲が描かれて行く。戦いの渦中、まさに内側の目線からその戦いの描写がなされていておもしろい。
 名だたる武将の臨機応変の自己犠牲により、軍全体の活路が生まれるというストーリーだ。
 


< 影武者対影武者 > 乾 緑郎

 この作品だけが、「妻女山」と書かずに「西条山(さいじょうざん)」に上杉方の本陣が布かれたとする。調べてみると、『甲陽軍艦』には西条山として記され、江戸期の地図は概ね「西條山」「西条山」と記されているそうである。江戸中期に松代藩(真田家)は「妻女山を西條山と書すは誤也。山も異也」と指摘しているという。実際に西条山(西條山)の名がつく山が南に10kmほど離れたところにあるという。そこには当時の海津城将が甲斐に狼煙で急報する烽火台を設置していたそうである。また、斎場山という山もあるようだ。(ウィキペディアの「妻女山」より)
 つまり、『甲陽軍艦』や江戸期の地図の記載を採ったのだろう。だが、この作品は真田喜兵衛(後の昌幸)を中心人物にして川中島の決戦を描いて行く。松代藩が西条山を誤りと指摘することと合わせるとおもしろい。この作品、永禄4年9月10日の八幡原の武田方の本陣での信玄と謙信の対決は、どちらも実は影武者と影武者が刃を交えたのだというストーリーを展開していくのだから、発想としては実に愉快である。
 この当時、三男坊の真田喜兵衛は、武田の外様として真田家から甲府に出され、信玄の近習衆として仕えていた。15歳の喜兵衛にとりこの川中島の合戦が初陣だったとする。
 山本勘助が提案した「啄木鳥戦法」を喜兵衛の父真田一徳斎は下策と断じる。その策の気に入らぬところを、一徳斎は喜兵衛に答えさせるところから、ストーリーが始まる。一徳斎の提案は、甲府が戦に晒される可能性を考慮して否定され、勘助の策が取られる。
 実は、啄木鳥戦法には二の構えの策があったとする。ここで、八幡原の本陣には、信玄より10歳以上も離れているが信玄と瓜二つの武田信廉が影武者として出向き、指揮をとるという筋書である。極秘作戦が始まる。喜兵衛は信玄自身の傍らに付くことを命じられる。
父一徳斎は別働隊の指揮を任されることとなる。一方、喜兵衛は信玄に付いて動く。そして、上杉軍に攻められている本陣に対し海津城からの出陣の伝令役を命じられることになる。喜兵衛の目を通した川中島合戦が描かれていく。
 この小説。荒唐無稽のフィクションを描いたのだろうか・・・・。小説の末尾に、著者はちゃんとこのストーリーの構想のネタ本に触れている。まさに虚々実々で傑作だ。


< 甘粕の退き口 >  木下昌輝
 
 この作品は、長尾景虎(上杉謙信)の重臣の一人、甘粕近江守景持の立場と行動から川中島の決戦を描いて行く。
 ストーリーは越後長尾家の強兵たちを調練場で訓練している最中に、老従僕が主君の景虎が出奔(高野山での蟄居)したことを伝えに来るシーンから始まる。私心なき清らかな君主であるが、景虎の戦略には一貫性がないことである。側近の目から見た主君の姿と行動にどのように対処していくか。それがストーリーのテーマとなる。
 妻女山に本陣を置いた川中島の合戦では、側近である甘粕の苦悩を描きつつ、一方で政虎(謙信)の持つカリスマ性が描き込まれていく。
 妻女山での政虎と側近達との戦術上の駆け引きが描かれて行く。そして、甘粕は殿の役目を選択することになる。側近達の一段上を行く政虎の行動及び甘粕が殿を担った以降の決戦の動きが描き込まれていく。「毘」の旗とともに、「龍」と墨書された旗、「懸かり乱れ龍」と呼ばれる旗が振られたのである。甘粕が殿の役割をどう果たすかが読ませどころである。
 政虎は甘粕に言う。「甘粕、いい面構えになったな」「やっと一人前の乱世の男となったな。なにものも恐れぬ、不敵な面構えだぞ」と。
 一方、甘粕は思う。「きっと、わが主は乱世の勝者にはなれない。だが、それでもいいのではないか」と。


< うつけの影 > 宮本昌孝

 長尾景虎を描く短編から始まったこの競作集は、景虎の対極に居る武田信玄自身の立場からみた川中島の合戦をテーマにすることで、収まりが付く。
 武田信玄が悪夢にうなされている場面からストーリーが始まる。信玄は富士山浅間神社の御師を間諜として用い、織田信長や松平次郎三郎元康(後の家康)の情報を集め、戦国の世を把握していた実態が描かれる。つまり、桶狭間の戦いの情報を信玄はつぶさに掌握していたのだ。勿論、同時並行して、長尾景虎の動きに対する情報収集も怠りなくやっている。
 間諜を使っての情報収集をベースに武田を取り巻く周囲の情勢を描きながら、それが川中島の合戦に臨む信玄にどのように影響を与えているかという視点から、信玄を描き上げていく。桶狭間の戦いにより敗れた今川の実態が、信玄の心に海を見るという欲望をかき立てる。織田信長の行動結果と信長の信玄評が信玄の心に影をさすことになる。
 これもまた、川中島の決戦の持つ意味の理解という点で興味深い視点である。
 もう一つ、些末な事かもしれないが、作家により人名における表記の違いが競作集故に併存することに気づいた。宮本氏はこの短編で山本勘介という表記を使っている。一方、佐藤・矢野・乾・木下各氏は山本勘助と表記している。当時は多分漢字へのこだわりが少ないから、史料には幾通りかの表記が出ているのだろう。どの表記をとるかは作家の好みあるいはこだわりなのだろうか。

 川中島の決戦をいろいろな角度、視点から眺め、想像力を広げられ、一方で新たな疑問や関心が生まれるという意味で、競作集という試みはおもしろい。

 ご一読ありがとうございます。


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本書に関連する事項をネット検索してみた。一覧にしておきたい。

川中島の戦い 長野市「信州・風林火山」特設サイト
妻女山  :ウィキペディア
武田信玄 :「コトバンク」
上杉謙信-米沢藩の祖 戦国の名将- :「武士の時代」
山本勘助系図と長岡 :「船岡山慈眼寺」
宇佐美氏  :「戦国大名探究」
武田典厩信繁の墓  :「川中島の戦い」
甘粕景持 :ウィキペディア
甘粕景持 :「戦国武将の名言から学ぶビジネスマンの生き方」
真田昌幸 :ウィキペディア
信濃 松代城 :「お城の旅日記」

  インターネットに有益な情報を掲載してくださった皆様に感謝します。

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このシリーズでは、次のものを既に読んでいます。こちらもお読みいただけるとうれしいです。
『決戦! 関ヶ原』 伊東・吉川・天野・上田・矢野・冲方・葉室  講談社
『決戦! 大坂城』 葉室・木下・富樫・乾・天野・冲方・伊東  講談社