「布武」という言葉は即「天下布武」を連想させ、その先に「織田信長」を想起する。本書は、正に信長が天下を掌中にせんとした経緯を描く。「小説すばる」(2020年3月号~2021年1月号、3月号)に連載された後、加筆・修正を経て、2022年5月に単行本が出版された。
この小説はその構想がおもしろい。織田信長が天下布武のために合戦の場そのものに身を投じるという姿を描かない。天下布武のために信長がどのように考え、どのような戦略で合戦を積み重ねたかについて描かれる。だが、そのプロセスは、いわば兵站の視点、ロジスティクスという視点から描かれることになる。天下布武を描くのにこういう視座があったか、と読者に思わせることは間違いない。
主人公であるはずの織田信長が凖主人公となり、堺の3商人が主人公となって前面に現れる。逆にそれは戦国時代において信長の突出した戦略眼と先見性が堺に楔を打ち込む様を示すことになる。信長が戦国時代を制する重要な要因となったのは鉄砲であり、鉄砲がその能力を発揮するには、硝石を潤沢に確保できることが大前提になる。硝石は国内では産出せず、明(中国)や南蛮との交易でしか入手出来なかった。鉄砲の出現により、戦い方が急転換した。鉄砲と硝石が戦いにおける勝因のボトルネックとなっていく。ここにこのストーリーの根っ子がある。
堺の3商人とは誰か。今井彦八郎、魚屋與四郎、天王寺屋助五郎である。今井彦八郎がそのリーダーである。彼等は堺という自治交易都市を運営する納屋衆10人の中枢的存在になっている。この3人の名前だけで、ある連想が即座に働けば、あなたは戦国期の茶湯の世界に親しみと関心を抱いていることだろう。今井彦八郎=今井宗久、魚屋與四郎=千宗易、天王寺屋助五郎=津田宗及である。
このストーリーは、今井彦八郎宅の茶室で彦八郎が魚屋與四郎と茶を飲みながら語り合う場面から始まる。堺の港への唐船の入港話から始まり、興福寺の塔頭一乗院の門跡から還俗した足利義昭が、織田上総介(=信長)に奉じられて京に上洛した経緯話が展開していく。大商人たちにとり茶会は便利な場であった。茶室という周囲から孤絶した環境で密談・情報交換を行うには最適の空間だった。多分、その効用が茶の文化を進展させる一因にもなったのだろう。
信長が上洛を果たし、天下布武を鮮明にする時期からストーリーが始まる。だが、それは、今井彦八郎と魚屋與四郎の2人が茶室でそれぞれが情報を持ち寄り、天下の情勢を分析し、予測するという形で描かれる。彼等の会話を介して読者には戦の進展がわかるという構造になっている。
この小説では、信長の天下布武への過程で行われた史上有名な合戦が生々しい戦闘描写を交えて描かれることは全くない。合戦の状況は入手された情報の経緯分析として描き出される。今井彦八郎と魚屋與四郎は、常に、堺並びに自分たちがどのように動けば、堺の存在を守り、己の身も安全であり、商売の儲けにつながるかという視点から語る。ストーリーの途中から天王寺屋助五郎も茶室での密談に加わるようになる。
というのは、堺の納屋衆のトップクラスで、名の知られた茶人である彼等3人は、信長の命で茶堂衆に組み込まれたのだ。情報交換を密にする必要に迫られる。彼等が判断と行動を誤れば、その命は信長の意次第なのだから。
堺は信長に屈して、2万貫の矢銭上納と堺に信長の代官を受け入れることになる。代官の常駐は堺が実質的に信長の領地とみなされるとともに、堺で生産される鉄砲、輸入される鉄砲と硝石が信長の管理・統制下に入ることを意味する。信長の最大の強みは、信長が堺商人に対し、商品としての鉄砲、硝石等に対価を支払ったことである。召し上げるという手段を取らなかったことである。商人達は商売として対応できた。因みに、当時鉄砲一丁はおよそ30貫が相場だったという。
このストーリー、いわば大きな合戦がどのような状況・勢力関係の中で展開されているか、また勝敗を決した因はどこにあったかなどが、今井彦八郎、魚屋與四郎、天王寺屋助五郎の間での茶室会話という形で描き出される。今井彦八郎は直接に信長の面前に伺候して彼の要求を聞き、情報を聞き、対応を迫られる。読者はいわば、裏話と情報分析とこれからの戦の予想を聴く立場に置かれる。勿論、交換される情報は、3人がそれぞれの伝手を使って収集した情報だけでなく、3人が信長に認められた茶道衆、茶匠という立場で、諸大名と茶会の場を通じて自ら収集した情報が含まれる。彼等はそれをもとに談義する。そこでの判断は、彼等の堺商人としての生死に直結していく。
もちろん、3商人と主要な武将との茶会での交わりは、信長には独自の経路・手段でその事実が伝えられる。それ故、信長の茶堂衆として、彼等は茶会での話を速やかに信長に伝えざるをえない。いわば、3人は反面で信長にとってのスパイの役割を担わされていることになる。時には、信長の思いの代弁者、メッセンジャーにもなる。この辺の絶妙な関係が興味深い。
次の下りが書き込まれている。(p319)
当初茶の湯に傾倒していた織田信長だったが、そこに新たな使い道を見いだしてから、あまり今井彦八郎たち茶堂衆を招かないようになっていた。
「茶室を密談の場としてつかうくらいは、別段ええねんけどなあ。茶室は別の世界や。世間での名声や力とは関わりなく、大名と商人が一つところで静かなときを過ごす。狭い茶室だからこそ、他人を受け入れ、受け入れられるという喜びが味わえる。本来、お茶というのに決まりはない。そのとき一緒だった人と、静かで豊かな思いを共にすればええ、ただそれだけのもんやのに・・・・茶会を開くにも織田はんの許しが要るなんぞ」
「それに最近は、手柄を立てた部将への褒美として、知行地ではなく、茶器をお与えになられているとも聞きますし。そんなことをされては、茶道具の値が狂います」
「国一つの茶碗とか、首一つの花挿しとか、勘弁して欲しいですわ」
信長の「御茶湯御政道」についての一端の会話になっているが、一方で、信長自身の立場からなぜこの政策が採り入れられたかの必要性を裏話風に言及していておもしろかった。
鉄砲と硝石をコントロールできるということが、どういう重要性を意味するか。そのことがよく分かる。今まで信長ものの小説を読み継いできた範囲では、正面切ってこの点に着目されることはあまりなかったように記憶する。戦闘描写で鉄砲の扱いが描かれてはいても・・・。
天正2年(1574)正月、越前で騒動が起こり、一向一揆勢が越前を支配するようになる。この頃から、堺に本多弥八郎が鉄砲を求めて、しばしば訪れるようになる。この本多に今井彦八郎たちは対応を迫られる。彼は徳川家康の許を辞し、一向一揆の側に入ったと云う。勿論、今井彦八郎たちは相手にしない。だが、その本多弥八郎が家康の許に戻ったという噂の後に、再び堺に来たり、今井彦八郎たちにある事を告げる。
著者は、独自の仮説をこのストーリーに織り込んでいく。そこにフィクションのおもしろさが生まれて行く。本多弥八郎は、このストーリーの後半で重要な役割を担う立場になっていく。後半での本多弥八郎の出現が、一種の隠し球となっていて興味深い。その内容は、本書を開いてお読みいただく必要がある。
本書のタイトルは、「布武の果て」。「果て」という語句が示す通り、このストーリーは、本能寺で信長が水色桔梗の旗印を背にした一軍に襲われ最後を遂げたという記述で終わる。それは、信長の命令を事前に受けていた今井彦八郎たちが、安土城の後に京を経由し堺に遊山として訪れた徳川家康を接待している頃であった。
家康が堺を訪れていた事実について、著者独自の解釈を加えているところでこのストーリーは信長の死をもって終焉する。それは、史実の空隙部分について読者の想像力に託すエンディングとなっている。
堺商人の立場から信長の天下布武を描くという発想とストーリーの展開が新鮮であり、読ませどころである。併せて後半で著者が一つの仮説を持ち込んだところが、このフィクションの醍醐味となっている。
もう一つ、天下統一ということに関連して、「権に囚われる」「権に魅了される」という心理的側面にも触れられている。還俗して足利将軍になった足利義昭が権に囚われる愚かさが無益な戦を次々に引き起こす点に触れる。ストーリーの最終段階では、信長自身が権に囚われ始めたものとして描き込まれる。
信長の天下布武について、その読み解き方として実におもしろい。ユニークな視座からストーリーづくりがなされている。本書はロジスティクスの観点から眺めた天下布武の進展状況が主体になる。戦と兵站の関係性がクローズアップされている。堺の大商人達がマクロの情勢分析を鉄砲・硝石・武具・米などの物量面から眺め、戦略論レベルで語り合う。そこには、机上の空論はなく常に金儲けに直結した実務的な裏打ちがあり実におもしろい。
ご一読ありがとうございます。
本書に関連してちょっとネット検索した事項を一覧にまとめておきたい。
第50話 織田信長(1534~1582年) :「関西・大阪21世紀協会」
堺 :ウィキペディア
会合衆 :ウィキペディア
4.会合衆の会所・書院跡 :「堺市」
今井宗久 :「コトバンク」
今井宗久 :ウィキペディア
津田宗及 :「コトバンク」
第51話 津田宗及(生年不詳~1591年) :「関西・大阪21世紀協会」
第57話 千利休(1522~1591年) :「関西・大阪21世紀協会」
茶道とは。何モノか。その4 世界の港湾都市大坂堺 :「Kyoto Love.Kyoto」
御茶湯御政道 :ウィキペディア
御茶湯御政道 by 岡崎匡史 June 13th, 2020 :「PRIDE and HISTORY」
南宗寺 :「堺観光ガイド」
堺歴史散歩「三好一族と堺幕府ゆかりの地」1名から催行 :「堺観光ガイド」
三好長慶 :ウィキペディア
三好三人衆 :ウィキペディア
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その節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。
その点、ご寛恕ください。)
この小説はその構想がおもしろい。織田信長が天下布武のために合戦の場そのものに身を投じるという姿を描かない。天下布武のために信長がどのように考え、どのような戦略で合戦を積み重ねたかについて描かれる。だが、そのプロセスは、いわば兵站の視点、ロジスティクスという視点から描かれることになる。天下布武を描くのにこういう視座があったか、と読者に思わせることは間違いない。
主人公であるはずの織田信長が凖主人公となり、堺の3商人が主人公となって前面に現れる。逆にそれは戦国時代において信長の突出した戦略眼と先見性が堺に楔を打ち込む様を示すことになる。信長が戦国時代を制する重要な要因となったのは鉄砲であり、鉄砲がその能力を発揮するには、硝石を潤沢に確保できることが大前提になる。硝石は国内では産出せず、明(中国)や南蛮との交易でしか入手出来なかった。鉄砲の出現により、戦い方が急転換した。鉄砲と硝石が戦いにおける勝因のボトルネックとなっていく。ここにこのストーリーの根っ子がある。
堺の3商人とは誰か。今井彦八郎、魚屋與四郎、天王寺屋助五郎である。今井彦八郎がそのリーダーである。彼等は堺という自治交易都市を運営する納屋衆10人の中枢的存在になっている。この3人の名前だけで、ある連想が即座に働けば、あなたは戦国期の茶湯の世界に親しみと関心を抱いていることだろう。今井彦八郎=今井宗久、魚屋與四郎=千宗易、天王寺屋助五郎=津田宗及である。
このストーリーは、今井彦八郎宅の茶室で彦八郎が魚屋與四郎と茶を飲みながら語り合う場面から始まる。堺の港への唐船の入港話から始まり、興福寺の塔頭一乗院の門跡から還俗した足利義昭が、織田上総介(=信長)に奉じられて京に上洛した経緯話が展開していく。大商人たちにとり茶会は便利な場であった。茶室という周囲から孤絶した環境で密談・情報交換を行うには最適の空間だった。多分、その効用が茶の文化を進展させる一因にもなったのだろう。
信長が上洛を果たし、天下布武を鮮明にする時期からストーリーが始まる。だが、それは、今井彦八郎と魚屋與四郎の2人が茶室でそれぞれが情報を持ち寄り、天下の情勢を分析し、予測するという形で描かれる。彼等の会話を介して読者には戦の進展がわかるという構造になっている。
この小説では、信長の天下布武への過程で行われた史上有名な合戦が生々しい戦闘描写を交えて描かれることは全くない。合戦の状況は入手された情報の経緯分析として描き出される。今井彦八郎と魚屋與四郎は、常に、堺並びに自分たちがどのように動けば、堺の存在を守り、己の身も安全であり、商売の儲けにつながるかという視点から語る。ストーリーの途中から天王寺屋助五郎も茶室での密談に加わるようになる。
というのは、堺の納屋衆のトップクラスで、名の知られた茶人である彼等3人は、信長の命で茶堂衆に組み込まれたのだ。情報交換を密にする必要に迫られる。彼等が判断と行動を誤れば、その命は信長の意次第なのだから。
堺は信長に屈して、2万貫の矢銭上納と堺に信長の代官を受け入れることになる。代官の常駐は堺が実質的に信長の領地とみなされるとともに、堺で生産される鉄砲、輸入される鉄砲と硝石が信長の管理・統制下に入ることを意味する。信長の最大の強みは、信長が堺商人に対し、商品としての鉄砲、硝石等に対価を支払ったことである。召し上げるという手段を取らなかったことである。商人達は商売として対応できた。因みに、当時鉄砲一丁はおよそ30貫が相場だったという。
このストーリー、いわば大きな合戦がどのような状況・勢力関係の中で展開されているか、また勝敗を決した因はどこにあったかなどが、今井彦八郎、魚屋與四郎、天王寺屋助五郎の間での茶室会話という形で描き出される。今井彦八郎は直接に信長の面前に伺候して彼の要求を聞き、情報を聞き、対応を迫られる。読者はいわば、裏話と情報分析とこれからの戦の予想を聴く立場に置かれる。勿論、交換される情報は、3人がそれぞれの伝手を使って収集した情報だけでなく、3人が信長に認められた茶道衆、茶匠という立場で、諸大名と茶会の場を通じて自ら収集した情報が含まれる。彼等はそれをもとに談義する。そこでの判断は、彼等の堺商人としての生死に直結していく。
もちろん、3商人と主要な武将との茶会での交わりは、信長には独自の経路・手段でその事実が伝えられる。それ故、信長の茶堂衆として、彼等は茶会での話を速やかに信長に伝えざるをえない。いわば、3人は反面で信長にとってのスパイの役割を担わされていることになる。時には、信長の思いの代弁者、メッセンジャーにもなる。この辺の絶妙な関係が興味深い。
次の下りが書き込まれている。(p319)
当初茶の湯に傾倒していた織田信長だったが、そこに新たな使い道を見いだしてから、あまり今井彦八郎たち茶堂衆を招かないようになっていた。
「茶室を密談の場としてつかうくらいは、別段ええねんけどなあ。茶室は別の世界や。世間での名声や力とは関わりなく、大名と商人が一つところで静かなときを過ごす。狭い茶室だからこそ、他人を受け入れ、受け入れられるという喜びが味わえる。本来、お茶というのに決まりはない。そのとき一緒だった人と、静かで豊かな思いを共にすればええ、ただそれだけのもんやのに・・・・茶会を開くにも織田はんの許しが要るなんぞ」
「それに最近は、手柄を立てた部将への褒美として、知行地ではなく、茶器をお与えになられているとも聞きますし。そんなことをされては、茶道具の値が狂います」
「国一つの茶碗とか、首一つの花挿しとか、勘弁して欲しいですわ」
信長の「御茶湯御政道」についての一端の会話になっているが、一方で、信長自身の立場からなぜこの政策が採り入れられたかの必要性を裏話風に言及していておもしろかった。
鉄砲と硝石をコントロールできるということが、どういう重要性を意味するか。そのことがよく分かる。今まで信長ものの小説を読み継いできた範囲では、正面切ってこの点に着目されることはあまりなかったように記憶する。戦闘描写で鉄砲の扱いが描かれてはいても・・・。
天正2年(1574)正月、越前で騒動が起こり、一向一揆勢が越前を支配するようになる。この頃から、堺に本多弥八郎が鉄砲を求めて、しばしば訪れるようになる。この本多に今井彦八郎たちは対応を迫られる。彼は徳川家康の許を辞し、一向一揆の側に入ったと云う。勿論、今井彦八郎たちは相手にしない。だが、その本多弥八郎が家康の許に戻ったという噂の後に、再び堺に来たり、今井彦八郎たちにある事を告げる。
著者は、独自の仮説をこのストーリーに織り込んでいく。そこにフィクションのおもしろさが生まれて行く。本多弥八郎は、このストーリーの後半で重要な役割を担う立場になっていく。後半での本多弥八郎の出現が、一種の隠し球となっていて興味深い。その内容は、本書を開いてお読みいただく必要がある。
本書のタイトルは、「布武の果て」。「果て」という語句が示す通り、このストーリーは、本能寺で信長が水色桔梗の旗印を背にした一軍に襲われ最後を遂げたという記述で終わる。それは、信長の命令を事前に受けていた今井彦八郎たちが、安土城の後に京を経由し堺に遊山として訪れた徳川家康を接待している頃であった。
家康が堺を訪れていた事実について、著者独自の解釈を加えているところでこのストーリーは信長の死をもって終焉する。それは、史実の空隙部分について読者の想像力に託すエンディングとなっている。
堺商人の立場から信長の天下布武を描くという発想とストーリーの展開が新鮮であり、読ませどころである。併せて後半で著者が一つの仮説を持ち込んだところが、このフィクションの醍醐味となっている。
もう一つ、天下統一ということに関連して、「権に囚われる」「権に魅了される」という心理的側面にも触れられている。還俗して足利将軍になった足利義昭が権に囚われる愚かさが無益な戦を次々に引き起こす点に触れる。ストーリーの最終段階では、信長自身が権に囚われ始めたものとして描き込まれる。
信長の天下布武について、その読み解き方として実におもしろい。ユニークな視座からストーリーづくりがなされている。本書はロジスティクスの観点から眺めた天下布武の進展状況が主体になる。戦と兵站の関係性がクローズアップされている。堺の大商人達がマクロの情勢分析を鉄砲・硝石・武具・米などの物量面から眺め、戦略論レベルで語り合う。そこには、机上の空論はなく常に金儲けに直結した実務的な裏打ちがあり実におもしろい。
ご一読ありがとうございます。
本書に関連してちょっとネット検索した事項を一覧にまとめておきたい。
第50話 織田信長(1534~1582年) :「関西・大阪21世紀協会」
堺 :ウィキペディア
会合衆 :ウィキペディア
4.会合衆の会所・書院跡 :「堺市」
今井宗久 :「コトバンク」
今井宗久 :ウィキペディア
津田宗及 :「コトバンク」
第51話 津田宗及(生年不詳~1591年) :「関西・大阪21世紀協会」
第57話 千利休(1522~1591年) :「関西・大阪21世紀協会」
茶道とは。何モノか。その4 世界の港湾都市大坂堺 :「Kyoto Love.Kyoto」
御茶湯御政道 :ウィキペディア
御茶湯御政道 by 岡崎匡史 June 13th, 2020 :「PRIDE and HISTORY」
南宗寺 :「堺観光ガイド」
堺歴史散歩「三好一族と堺幕府ゆかりの地」1名から催行 :「堺観光ガイド」
三好長慶 :ウィキペディア
三好三人衆 :ウィキペディア
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