眠れない夜の言葉遊び

折句、短歌、言葉遊び、アクロスティック、夢小説

ドクター・ミュー

2009-04-06 15:59:05 | 狂った記述他
 「あの、初めてなんですけど」
 女が恐る恐る入ってきた。
 「ようこそ。さあ、どうぞ」
 通訳犬のタロが出迎えた。
 「あの、ここではどんな相談に乗ってもらえるのでしょうか?」
 「はい。ほとんどの相談に応じております。
 中にはどうしても無理な相談というのもありますが、まずはお話を聞きましょう」
 タロは、診療室に女を通した。

 「ドクター・ミュー。初めての方です」
 ドクターは、大柄な猫であった。
 「どうしましたか?」
 「先生、私はどうしようもないのです」
 女と猫の会話を、タロは正しく訳してそれぞれに伝えた。タロはベテランの通訳犬であった。
 「どうしたというのですか?」
 「先生、本当に私は……」
 女は言葉に詰まったようだった。タロの通訳がストップする。ドクター・ミューは犬に向かい続けるように促した。タロは患者を落ち着かせようと、落ち着くようにと優しく言った。
 「私はね、着ると暑いし脱ぐと寒いのですよ」
 「ふむふむ」
 ドクター・ミューは、しきりに自分の首の下を舐めながら相槌を打った。

 「それは誰でもそうではないでしょうか」
 「私の場合はそれがひどいのです」
 タロは垂れ下がった大きな耳を更に傾け続けた。
 「着たり脱いだり着たり脱いだり着たり脱いだりもう大変!」
 女はだんだんとヒステリックになっていく。タロは同じ言葉を何度も訳さなければならないのであった。
 「もう服ズレができてしまって大変なのですよ。
 昨日なんて着たり脱いだりしているだけで一日が終わってしまったのですよ」
 一気にしゃべり続けて一息つくと、ようやく女は少し落ち着きを取り戻したようだった。
 「移ろい行く季節の中であなたは悩んでいらっしゃる。
 悩むということは、生きている証しです。
 だからこそ私のような猫もいるのです」
 タロは猫の言葉をそつなく人間に伝えていった。その口ぶりは洗練された職人芸であった。

 「この翻訳犬はとても役立つ犬です。
 けれども四六時中一緒にいるとね、どうしようもなくうっとうしくなることがあるのです」
 犬は、ドクター・ミューの言葉を患者の様子を窺いながら伝え終えた。
 それから猫に向かってウォーウォーと吠え掛かった。猫は、犬に向かって襲いかかった。ドクターと通訳犬は、激しく叩き合いつつき合い蹴り合いながら診療室を出て行った。

 静かになった診療室の中で、女はセーターを一枚脱いでドクター・ミューの座っていた椅子に置いた。しばらくの間、戻ってくるのを待ち続けていたがしばらく待っても、誰も戻って来ないのであった。診療室の時計を見たが、時計はおかしな時間で止まっていた。腕時計も何もつけていない手首を、もう一方の手でさすった。
 遠くの方で、蛇が唸るような声が聞こえた。女は、再びセーターを手に持った。

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