眠れない夜の言葉遊び

折句、短歌、言葉遊び、アクロスティック、夢小説

蜻蛉

2012-02-15 20:13:51 | 夢追い
「もう帰るよ」お腹が少しは空いたと思った。さっき食べたような気もしたし随分前だったような気もしたし、みんな一緒だったような気もしたし僕だけいなかったような気もした。送らないでいいと姉に言った。一人でしんみりと帰りたいから。鞄を開けると、来た時とそう変わってないような状態だった。来る時に考えていたこと、想像して準備してきたことは、ほとんど何もできなかったのだ。読んでもいない新聞や、開いてもいない本が眠っている。僕はまだ空いているスペースに何か余計なものを、例えば新しい新聞を、入れて持っていこうかどうかを迷った。さよならはもう言ったのだったか……。もう一度、誰かに(みんなに)別れを告げに戻るべきかどうか、迷った。

 タクシーを拾った。止まったのは普通の車だった。駅までお願いします。男は何も言わずアクセルを踏んだ。新しい言葉を覚えそればかりを叫び続ける子供のように、男はアクセルを踏み、スピードを上げた。「どうしたの?」何かつらいことがあったのに違いなかった。「昨日、警官に怒られた」話を聞くと、前髪が長すぎると警官に注意されて落ち込んでいるという。僕は男の横顔を見た。後部座席には、都会の夜に立ち並ぶ高層ビルのようにコミックが密集して光を放っていた。「わかるよ。僕も似たようなものだった」風に遊ばれて持ち上がる髪の隙間から男の細い眼が見えた。男はまだアクセルを緩めない。早く類似点を見つけて理解者にならなければなかった。「両さんってかっこいいよね」交通ルールに従って男はようやくブレーキを踏んだ。「よくはないだろ」けれども、信号が変わるとまたグリーンのように駆け出していった。

「ここでいいよ」
 駅前広場の手前で、車を止めてもらった。
 突然の雨降りのせいで、傘を持たない人々があふれていた。高価な人形やお菓子が売られていて、おみくじを引けば1200円も払わなければならない。「ぼったくりだ」降りてきた運転手がつぶやくが、もう関係のない人だった。駅に入ってみると普段以上に人があふれていて、代わる代わる駅員に詰め寄っては質問を投げかけていた。電車は雨の影響で長く徐行運転を続けており、今度はいつ到着するかわからないという話だ。人ごみを避けてもう一度、僕は駅を離れ外に出た。雨は、そうたいした雨ではなく、駅員でも乗客でもない第三者的石段にもたれかかってしばらく様子をみることに決めた。大きな蜻蛉がいる。駅構内を自由に飛びまわっている、あの形状は蜻蛉に違いなかった。白い壁に貼り付いた蜻蛉はその横をよじ登ってくる男よりも僅かだが大きい。どうしてあれほど大きな蜻蛉が生息しているのだろう。それを捕らえることのできる網も、虫篭も想像できなかった。男は慎重に壁をよじ登り、林檎の木に手を伸ばすように蜻蛉の頭に手を伸ばした。目測を誤ったのか、一瞬早く蜻蛉が微かに身を曲げたせいか、男の手は届かずに、バランスを崩した体が横向きになった。苦しいはずの体勢で男はストローのようなものをくわえて、蜻蛉に向かってシャボン玉を投げかけた。突然、そこは洞窟の中になり、木刀を持った冒険家は逃げる蜻蛉を追って奥へ奥へと駆けて行く。その尾に手を伸ばして触れようとするが、蜻蛉の作り出す恐ろしい風によって何度も何度も押し戻され、滴り落ちる汗は落ちた瞬間ピンポン玉となってそこいら中を跳ね回った。そして、男が衣服を脱ぐと砂が舞い上がりその先に青い海が広がっていた。あれは、スクリーン。背景が変わってゆくことで、僕はそれが現実の向こう側にある世界であることを悟った。
「最初のままだったらわからなかったな」運転手が何か言った。僕は雨を避けるため、海へ向かって歩き始めた。



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