硝子の向こうに近づく影を感じて足を止めた。出て行く者と入って来る者では、どちらが優先されるべきだろうか。もしも電車だったら……。あとから入って来た者が出ようとする者の道を阻むようなことになってはまずい。上手く入れ替わるためには出る者が出てスペースを空けるべきだろう。
1VS1ならさほど差はない。そしてここは電車の中ではない。団子になった自転車が先の通路を狭くしている。スペースならばこちらの方が広い。俺が中で待ち、先を譲るべきではないだろうか。
俺は男がエントランスに入って来るのを待った。しかし、彼も同じようなことを思っているのか、ちょうど同じようなタイミングで足を止めた。どこにでも同じような奴はいるものだ。誰だって自分を特別のように思いたい。だけど、鏡に映るみたいにそこら中に似たような幻想と躊躇いが満ちているのではないか。そうだ。お前は俺なのだ。
(だから遠慮はいらないのに)
自分から動き出さない限り、硝子の向こうのあいつも一寸だって動かないのだ。俺は人間。それくらいの理屈は学んできた。
仕事は少ない。急ぐ必要はないじゃないか。仕事がない仕事もきついものだ。抱え込んだ仕事よりも奪われた時間の方に焦点が当たってしまう。手が動かない分だけ思いを巡らせることができる。
(何やってんだろう? 俺はこんなところで……)
この時間、誰の時間? 何のため? お金のため? 食べるため?
食べるって何? 生きるって……
本当ならば今頃俺は……
タイム・トリップ、パラレルワールド……
俺はずっと硝子の内に留まっていた。
躊躇いは躊躇いを応援する。
俺には進まない自由もある。ここから引き返すという選択もあるはずだ。エレベーターを上って、終わりのない大河ドラマの中に埋もれてみてもいい。ちっぽけな勇者に名前をつけて、新しい冒険を始めてみるのもいい。無理して先を急ぐ必要がどこにあるのか。俺はずっと本心から歩いてなどいなかったのだ……。
その時、向こうの俺が自ら進んで歩いて来るのが見えた。
(そんなはずはないのに……)
俺は引きつけられて前進する。
オリジナルは俺じゃなかったのか。
ドアが開く。
「こんにちは」
ワークキャップを被った俺が小さな声で言った。