「さあ、触れてごらん」
無防備な仕草を見せて犬はやってきた。犬の背中を通して、多くのことを思い出した。そうだ。この感覚だ。この仕草だ。あたたかい。遠い昔にこれと似た触れ方をしたことがあった。それを知っているという目を、犬はしていた。触れている内に徐々に無防備になり、犬の背を越えて梅の香りがする場所まで歩いた。もう一度、触れたい。(余計にあとが切なくなるのに)反逆者の声を無視して進む、歩みはもう自分では止められない。
花に触れる。
一瞬すべては回復し、一瞬あとにはよほど寂しくなった。けれども、それは必要な瞬間だった。
「記憶は力に、感覚は希望になるのよ」
木は根の底からささやいた。母と同じ匂いがする。
外は雨が降っていた。
「最近出かけなくなったね」
雨が降ったくらいのことで、一昔前に比べると出かけることが少なくなったね、と姉が言った。
雨なんかで……。昔はどうってことはなかったのに。出かけなければ何もしていないみたいになってしまう。
「1時間くらいは出かけないとね」
勢いよく自転車に乗って出かけた。すぐに見つかるはずのものが見つからずに、後戻りした。土煙が立つ、ただの空き地。マクドナルド跡地には、誰もいなかった。もうすぐなくなるんだぞ。以前におじさんが汚れたタオルでハーモニカを磨きながら言っていたことを思い出した。聞いていた通りになったのだ。
ケンタッキー。
すぐに頭を切り替えて、次の計画を立てる。
「しかし遠いな」
友達が言う。一駅越えなければならない。雨の中の一駅は、いつもよりも遠くなるのだ。
「待てよ!」
モス!
答えは近い場所にあった。完全個室の居酒屋の中にB2への階段が隠されている。空いている、ネズミの休憩所ほどの狭い座敷の中に進入して、机を動かすと小さな穴が見つかり、梯子に足をかけて降りていく。ちょうど頭だけになった。その時。
「ビール飲む?」
モスへ行くんだよ! 気まぐれなのか、突然誘惑が湧いてきたのか、本当は元からそういうつもりだったのか。こんなことになるのなら、一人で僕はくるべきだったな。
「えっ?」
躊躇っている間に、テーブルの上にはお造りの盛り合わせが並べられていた。
「飲むだろう?」
脅迫と懇願の間から声が響いた。
「ああ」
弱々しい返事は、同意したに等しい。
音を立てて、完全個室の壁が壊れていく。人々が談笑する模様が露わになった。意志弱く折れていく2人には、容赦なく冷たい12月の雨のような視線が突き刺さった。
マスクをしていたので証言は後日に取られることになった。僕の証言が決定打となって男は逮捕されることになるのだが、前もって断っておくべきか迷っている内に隅に座っているのはお婆さんに変わっていて、慣れない経路をたどったことで、散々連絡口で迷うことになってしまう。
カレー屋のショーケースの上が連絡口だ。
「通れますか?」
「通れませんか?」
長い帽子の男は、厨房の奥から逆に返してきた。
「そこじゃなくて、もう少し上」
頭からケースの中に突っ込んでどうにか通った。片足でエスカレーターに着地する。狭い。と、思った瞬間に動き出す。転ばないようにバランスを取りながら上に行くと生い茂る植物たちの荒々しいハイタッチの歓迎に圧倒される。どうも正規のルートではなさそうだ。
(危険! その先落とし穴 注意!)
おい。そういうことは、もっと前に言うべきことじゃないか。引き返そうにも空間がなさすぎる。飛び越えられない暗闇が口を開けるのが見えた瞬間、どこからか釣り竿のようなものが伸びているのがわかった。天の助けと信じて、手を伸ばす。それはしっかりと体重に耐えて、僕の体を上の階にすくい上げた。
トレイを持ったままテイクアウトしていることに気がついたが、直前までのことを考えればそれは些細な問題として捉えることができた。そして、実際歩いている内にすぐ別のチェーン店を見つけることができたのだった。店の中は空席を見つけるのも一苦労しそうなほど混んでいたけれど、そのすぐ隣の少し懐かしい趣を持つカフェはひっそりとしていた。何より落ち着ける場所と一時の休息を、最も強く求めたのは右足だった。
「間もなく三国、三国……」
減速していくと看板におぼろげな文字が、車掌の言う通りに見え始めるような気がした。だとしたら、僕は方向を間違えたのだ。
(違う!)僕は長い間、地面を受け止めていたはずじゃないか。
(ここは既に部屋の中なんだ)
ホームに着いたところで、何も変わりはしない。振動が収まると列車は寸分の狂いもなく決められた通りの場所に停止する。
「扉が開きます」
開いたとしても、誰も降りも乗りもしない。僕はひとり、みんな夢だったのだから。
「間もなく発車します」
再び、列車は動き始めた。幻の旅がまだ体を欺いていたけれど、部屋を揺らしていたのは冬の嵐だということは既にわかっていた。
テレワークが浸透したためか、夜のホームは山口駅のように人が少なかった。その昔、人気のないホームの上にあのうどん屋はあった。ホームに立つ人も疎らなのに夜も遅くまで開いていた。電車を30分、1時間と待つのは当たり前のことだった。
がらがらと扉を開ける。(いや扉などなかったか)
肉うどんを注文するとおばあさんが(おばあさんではないかもしれない)手際よくうどんを作ってくれる。
「はい、どうぞ」(無言だったかもしれない)
昇る湯気、出汁の香り。七味唐辛子を振り入れてうどんを啜る。抵抗なく喉を通る麺。器を抱えて出汁を飲む。熱い。そして旨い。(旨いと目の前の人に伝えたい)僕は黙って息を吐く。それからもう一口。次の電車がくるまで15分余り。うどんならゆっくり食べても十分に間に合う。この出汁はどこから出ているのか。肉からか? それもあろう。鰹と昆布からか。それとも作っている人が持つ特別な何かが……。どんな堺筋のうどんよりも、どんな千日前のうどんよりも、どんな南のうどんよりも、どんなバカでかい器のうどんよりも、確かにそれは旨かったのだ。電車がくることが惜しいくらいだ。一口飲む毎に感動が押し寄せる。もちろん出汁は最後の一滴まで。ごちそうさま。(少年は無言で丼を置いて店を出る)
あれは本当だったろうか。ホームだから、電車を気にしていたから、夜だったから、風が吹いたから、まだ舌が幼かったから、記憶が旨く盛られているのかもしれない。(もう確かめることはできない)
ある時、うどん屋は突然なくなってしまった。
僕がそうなる事情を何も知らなかったからだ。