行き先不明人の時刻表2

何も考えずに、でも何かを求めて、鉄道の旅を続けています。今夜もmoonligh-expressが発車の時間を迎えます。

只見川の電源開発に火をつけた二つの発電所

2022年09月30日 | 土木構造物・土木遺産
尾瀬の湿原と豪雪地帯であるから豊富な水があり、深い渓谷の中で適度な勾配があることから、只見川は水力発電の適地として早くから開発計画があったが、適地だけあって水利権や開発各社の思惑が絡まり合い、本格的な開発に着手したのは戦後のことである。
今回は、その数ある只見川のダムと発電所中から、私自身がぜひ取り上げたい2か所の発電施設を紹介する。(大鳥、大津岐、黒谷の各ダム発電所については、あまりの秘境にあるもので、残念ながらこの後も紹介する機会はないものと思う。黒谷ダムは世界一のゴムダム(ゴム風船を膨らませたような堰)なので、機会があればぜひ見にいきたいとは思っている。)



その一つは「伊南川(いながわ)発電所」。上流部(伊南川)に取水口を設けて、導水管(トンネル)により下流部(只見川)の発電所への落差を利用した水路式の発電システムである。これ自体は日橋川の発電方式に見られるように、決して珍しいものではない。
ただ、只見川の特定地域総合開発計画においては「宮下ダム・発電所」の昭和21年(1946年)が皮切りとなっているが、伊南川発電所はそれ以前の昭和13年に運転を開始しており、只見川発電を語る上では先陣を切った施設である。
運転開始時は「新潟電力」の所有。配電統制令(1939年)により「日本発送電」が所有する時期があるが、戦後の電気事業再編政令により現在の「東北電力」が所有・運営している発電所である。(写真上:只見川沿いにある発電所建屋と、伊南川にある取水堰。)



昭和初期の建設ということだが、その導水管の建設は有効落差109メートルを実に正確に1000分の1の勾配を保ち、9.6キロ下の伊南川発電所に導く土木技術はここだけに言えることではないが、特筆すべきことではないだろうか?
水路方式ではその施設をなかなか目の当たりにすることは難しいのだが、ここでは取水用のダム、沈砂池、調整池(廃止)、途中で谷を渡るため顔を出す導水管、そして発電所建屋や排水口と一連の施設を見ることができる(確かにJR東日本の信濃川発電所群との規模からすると小さいのだが…)。
東北電力管内では、明治から大正期に設置された水力発電所はまだまだ活躍しているが、当時19,400kWの最大出力を持ったものは群を抜いているものであり、これがのちの阿賀野川・只見川の水力発電開発に火をつけたことは間違いない。(写真上:途中、山入川を渡るため顔を出す導水管、その奥には旧大岐調整池の堰堤も見える。その発電施設の位置関係を示す案内看板。)



もう一つの発電所は「沼沢発電所、第二沼沢発電所」。これは面白いですよ!カルデラ湖である沼沢湖は、奥会津の観光の一端を担っている景勝地。夏には湖畔でキャンプや湖水浴が楽しめるリゾート地?穴場かもしれない。
そのカルデラ湖を上池に、只見川の宮下ダム湖を下池にして、落差215メートル、1,000メートルの水路を使って発電する揚水式の施設である。なんと最大出力は46万kW(第二沼沢発電所)。
この出力は東北電力管内の水力発電所としては一番大きく(まあ、全国ランキングを見ると100万kW超えがたくさんあるんですがー。)、阿賀野川水系でも「電源開発(J-POWER)」の下郷(揚水式)、奥只見(貯水式)に次ぐ規模でもある。(写真上:発電所入口、発電設備は地中にある。そして上池でもある沼沢湖。)



静かな景勝地・リゾート地である沼沢湖のもう一つの顔として、水力発電にその湖水を利用する大規模な発電システムが存在しているということはとにかく面白い。湖底の30メートル下から取水しているとは誰が想像できるだろうか?
ただ、沼沢湖は流れ込む水(流域面積)が小さいことから、水を循環させる揚水式でなければならなかったし、観光地のため取水を調整しているともいう。自然や他産業との共生を図っている発電所であるとも言える。
当初の沼沢発電所43,600kW(現在廃止、第二発電所とは別)は宮下ダム完成以前から計画があったが、下池となるダム湖が完成した後の昭和27年(1952年)に運用開始。結構、本流側のダムより早い時期。そして昭和56年(1981年)に第二沼沢発電所が完成しパワーアップしたものである。(写真上:キャンプなどで賑わう沼沢湖畔と、沼沢湖をはじめとした金山町の案内看板。右端に第二沼沢発電所の位置が示されている。)
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只見川の上流・下流の水利権を分ける白洲ライン

2022年09月27日 | 土木構造物・土木遺産


只見川を遡る。水量豊富で落差もあるこの川は、水力発電にとっては宝の山(川?)ともいわれた。奥会津地方・只見川にはいくつものダム・発電所が存在するが、あることに気が付く。阿賀野川合流地点から下流域は東北電力、滝ダム(金山町)から上流部は電源開発(J-POWER、紛らわしいのでこの会社を「J-POWER」と表記する。)が設置管理するダム・発電所であること。
下流部から、片門(かたかど)、柳津、宮下、第二沼沢(取水は沼沢湖)、上田(うわだ)、本名、伊南川(いながわ、取水は只見町の伊南川)が東北電力。滝、田子倉、大鳥、奥只見、大津岐(おおつまた)、伊南川の支流の黒谷川にある黒谷など、上流はJ-POWERとハッキリと分かれている。
まあJ-POWERは、最上流部の開発を得意としているところもあって、この線の引き方はほかの河川にも言えることだと思うのだが、調べてみると只見川の電源開発の歴史には明治・大正期から昭和の戦前戦後にかけた水利権の獲得に複雑な動きがあったことが分かる。

只見川は、尾瀬の湿原地帯を水源としている。明治時代にこの川に水力発電所をという計画は立てられたが、各電力会社がしのぎを削ってその水利権に群がり、電力会社は吸収・合併などを経て、特に福島県や国を巻き込んでの争奪戦となる。
最初に計画したのは岩代水力電気だったが、最初に認可を得たのは野沢電気。福島県内のローカルな争いだったようだが、結局は東北電力(現在の東北電力とは全く関係ない会社。)。それが尾瀬の水源を関東水電という後の東京電燈と争うことになる。
大正期から昭和初期まで、有力政治家や時の内閣などの中央政界をも絡んで、東北と東京、福島と群馬の争いは続く。国策として日本発送電が発足後、落ち着いたかのように見えたが、戦後はGHQ(連合国軍最高司令官総司令部)が電気事業を再編成。戦後は新潟県をも巻き込んで、東京電力と東北電力、そして後発のJ-POWERとの駆け引きはまだ続くのである。

結局、尾瀬の分水案は棚上げ、只見川の本流開発・新潟分水計画をJ-POWERが担当することになったが、新潟への分水は計画は地盤が軟弱で地滑り地帯でもあることから後に計画を変更。信濃川水系魚野川の支流である破間川上流部にダム・発電所をJ-POWERが担当し、新潟平野のかんがいにも寄与することになる。
ただ、本名・上田の両発電所は東京電力水利権を主張し申請するが(前身の東京電燈が水利権を持っていたため)、福島県は本流案を東北電力が推していたこと、開発を早めることなどから東北電力に水利権の使用を認可したことから、このラインが水利権の境となったようだ。正に白洲ラインと呼ぶか?
只見川には、東北電力初代会長・白洲次郎氏の大きな政治的な力と、東北の繁栄を願う思いが込められている。新潟への分流・分水案を推した新潟県民とすれば、新潟県が東北電力管内であるということが不思議な感じもするが、阿賀野川上流の話ですからねー。(ただし、先に紹介した阿賀川支流の日橋川の発電は、只見川よりもはるか先に開発が進んでいたので、現在も東京電力(当時・東京電燈が開発)が運営している。)

(写真上:阿賀野川(阿賀川)の合流地点から最下流にある片門ダム・発電所(会津坂下町)と、只見川の東北電力のダムとしては一番古く(1946年完成)、堤高も高い宮下ダム。写真下:すぐ上流にある田子倉ダムの逆調整池の役目も担う只見ダム(只見町)と、貯水式発電では国内第2位の発電能力と第3位の貯水量を誇るJ-POWERの田子倉ダム・発電所(只見町)。)

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沿線住民の悲願・災害復旧に11年!おかえり只見線

2022年09月26日 | 鉄道


さて、話は只見川に戻る。というか、ついに自分が注目する只見川とJR只見線の最深部でもある福島県金山町、只見町と足を踏み入れることになった。8月から3日間の日帰りを繰り返しての総力取材(?)でもある。
まずはその中で、JR只見線の橋梁群の紹介。以前にも書き込んだとおり、豪雪地を走るこの路線は沿線住民の貴重な足としてだけでなく、只見川のダム建設にも大きな役割を果たしたており、橋やトンネルは只見線鉄道施設群として土木遺産として選定されている。
その鉄道施設が、2011年に発生した「新潟・福島豪雨」により甚大な被害を受け、上流部の橋梁が何か所かで落橋・流出してしまい、会津川口と只見間が不通(バス代替輸送)が続いているが、福島県や沿線自治体からの支援により復旧工事が進められている。



写真は下流部の第三只見川橋梁から第八橋梁まで(上から順に)一気に紹介している。風光明媚な只見川に絡まりながら、日本の原風景ともいえる景色を楽しみながら走る路線は、乗り鉄・撮り鉄など鉄道ファンには人気の高い路線でもある。
特に第六・第七は主桁である上路トラス橋が落橋。線路下のトラス部分に濁流や流木などが押し寄せ、負荷がかかったものと思われる。第五・第八は下路トラス橋であったためトラス部分は再利用できたが、主桁前後のガーダー橋部分が落橋するといった被害により、この橋梁群の復旧費用だけで85億円とも言われている。(落橋した第六、第七は、令和3年度選定の鉄道遺産群から除外されているのは悲しい限りだ。)
いつぞやと同様に、写真には列車は写り込んでいない。超ローカル線で列車ダイヤがなかなか合わないということもあるが、第六より上流部には、そもそも現段階で運行する列車はない状況である。といっても鉄道ファンとしては情けない気もするのも確か。言い訳である。



さて、不通区間の会津川口と只見間だが、いよいよこの10月1日に運転再開となる。奥会津の地域では「おかえり只見線」というキャンペーンを実施中。これも以前に紹介したテレサ・テンの「ふるさとはどこですか」のアンサーキャッチフレーズのようにも感じる。只見線の各駅や並行して走る国道252号沿いの主要か所には「おかえり只見線」ののぼり旗や横断幕が各所に掲げられていた。
私が第四只見川橋梁を撮影しクルマに戻ろうとしたとき、同じ駐車スペースにクルマを停めた女性が走ってくる。カメラを持っていた私に、「試運転だよ!」と声をかけ「まだ間に合う!」と撮影スポットの国道橋に戻るように促す。その瞬間、橋を渡る列車の音が山間に響いた。
残念ながらGⅤ-E400系気動車を捉えることはできなかった。話を聞くと、三島町の観光協会の方だそうで、試運転車を撮影するためここまで追いかけてきたそうな。この地域の人たちがどれだけ復旧を待ち焦がれていたかを知ることができる場面でもあった。(写真下:只見駅に掲げられた「おかえり只見線」のぼり旗と、金山町役場に掲げられた横断幕にはの「祝・全線運転再開」の文字も見える。)


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流しそうめん器、楽しいけど組み立てと片付けが大変

2022年09月23日 | 日記・エッセイ・コラム


通販で「流しそうめん器」を買った。そうめんの季節は終盤になっていて、超お買い得のプライスだったのだが、台風が過ぎ去ると朝晩めっきり冷え込むといった表現が正しいような秋の深まり。まあ、孫たちが喜ぶだろうと思ってのこと。
「パール金属」製?見た目、どこに金属が使われているのか?もちろん、電動でクルクル回る部分や水を吸い上げて循環させるのだから、モーターなどは使われている。まあ、それほど商品選択に影響する問題ではない。
パール金属といえば「CAPTAIN STAG」。アウトドア用品で名を挙げたが、様々な商品を取り扱う。確かに流しそうめん器もアウトドアの部類であるかもしれないが、聞き慣れた地元の企業であり、信頼しての購入となる。



上から下に何段かに分かれてそうめんを流す構造。一番下のそうめんプール(?)はぐるぐる回り、底にたまった水を上部に汲み上げまた流れるという構造。プラレールのようにつなぎ、おもちゃのスライダー(ペンギンなどが上り下りするやつ)のようにそうめんが流れ落ちる。
うどん、ラーメンなどそうめんを含める麺系は子どもも大好きだし、流れ落ちるそうめんを見ているだけでも喜んでくれる。まあ食事時にイベント性を求めることは大人も望むところで、キャンプ時の食事にも似ている。だからなのか?
難点は部品が多いこと。荷物が届いた時からそれを予感して、組み立ては娘婿、片付けは奥様が担当。箱に入るように仕舞っておくのも大変そう。さてこの苦難を乗り越え、ことはあと何回登場するのか、楽しみなような怖いような。

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瓦テラス、うなぎのぼり神社にあやかれるか!

2022年09月21日 | 旅行記・まち歩き


先日紹介した「わくわくHills」同様、以前からチェックしていた場所がある。阿賀野市安田地区に行った際には立ち寄ってみたかった場所「瓦テラス」だ。わくわくHillsの近く、製麺工場を挟んだ至近にあり、お昼ご飯でもと思って行ってみた。
安田地区は「安田瓦」という一大生産地。還元焼成粘土瓦という焼き瓦で江戸時代からの歴史あるもので、雪国の厳しい気候に耐えうる断熱性、耐寒性に優れている瓦だといわれる。確かに、瓦テラスの付近には瓦工場が並び、ここは「やすだ瓦ロード」と呼ばれている場所だ。
そんな一角に瓦テラスはドーンと存在感のある平屋の長い切妻屋根に、12,000枚の安田瓦が並ぶ造り。それがとてもおしゃれでスマートな外観である。2018年の夏、地域の魅力発信と活性化を図ろうとオープンした施設である。(写真上:瓦テラスの駐車場入り口付近からの全景と、施設の裏手から見ることができる見事な瓦葺の屋根。)



中央には通路、その左側がレストランになっていて、右側がショップとカフェスペース。前面にテラス席があって、建物裏にもウッドデッキ。後ろから見ると圧巻の瓦が使われていることがよく分かる。
施設のロゴマークには、地域の特産品などがデザインされているようだが、新潟酪農発祥の地という場所にあって乳牛が描かれているものの、それ以上にうなぎ(鰻)の存在が大きく見える。何でもウナギをこの地で養殖しているという。
確かに、レストランのメニューは「うなぎ」を使用したものが多い。というか、うなぎか牛肉(「あがの姫牛」というブランド)に限られる。建物の裏手には、「うなぎのぼり神社」という縁起の良さそうな神社があって、クラウドファンディングを活用して建てられたものもある。まさしく瓦とうなぎのPR館なのだ。(写真上:前面のテラス席とショップ・カフェの内観。)



この地でうなぎの養殖がされているとは知らなかったが、瓦テラスを知ったのはうなぎ料理を提供していることがきっかけ。なお調べていくと、特産品開発を目指して私財を投じうなぎの養殖に情熱を注いだ人がいたとの情報に接することになる。
それが隣に工場を構える県内では名の知れた製麺会社「めんつう」の創業者で元会長・羽田一司氏。養殖を開始したばかりの2016年に志半ば亡くなったのだが、めんつうの現社長や地域の方々がより遺志が引き継がれて、土用の丑の日には1万匹以上を出荷するまでになった。
さあ、地域もこの施設を中心にうなぎのぼりとなるのかどうか?故人となった羽田氏は瓦の上の空からどのように見ているか?今後の瓦とうなぎの動向も確かめていきたいと思う。(写真上:うなぎの存在感がる瓦型のロゴマークと、施設裏手にあるうなぎのぼり神社。QRコードによるスマートおみくじも引ける。写真下:この日いただいたうな重は星3つかな?と、うなぎのぼり神社のおみくじで引き当てた小吉で、うなぎに見立てたチョコバナナがのったパフェを無料でいただいた。)



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「かがやき福祉会」のかがやく子どもための屋内遊技場

2022年09月19日 | 旅行記・まち歩き


近くで孫が遊べるところを探す。新潟は冬が大変との一般的見方があるが、夏も暑いのでじいさんばあさんのことを考えると、互いに安全で快適な屋内の遊び場を探すことに。ネットがあるから簡単に探せる時代だ。
以前から気になっていた場所は、近隣の阿賀野市にあった。「わくわくHills(ヒルズ)」。地元の社会福祉法人「かがやき福祉会」が運営する屋内型の運動遊戯施設。子どもの成長には「遊び」が大事という観点から、2015年(平成27年)に設置された。
特別養護老人ホームにこども園、障碍者の就業支援施設などが一体となっているが、ここは以前は県立安田高校(2007年閉校)があった場所で、その跡地を利用している。学校の体育館やグランドは、全ての施設の運動施設として活用され、小体育館を子どもの遊び場にしている。



この施設は、ボーネルンドという玩具メーカーと提携。子どもの遊び道具として積み木や木琴など同メーカーが開発した本物志向のものを使用している。施設のプロデュースもボーネルンドが手掛けており、「KID-O-KID(キドキド)」や「ボーネルンドあそびのせかい」などの同社が展開する取り組みの一つ。
各地から注目を集める取り組みだが、その提携先は創業以来、全国で3万か所を超えている。公共施設やショッピングモール、病院などに併設、公園などの屋外施設など運営・設置形態は様々だが、ここでは社会福祉法人が子どもや高齢者までという一貫した地域連携の福祉的観点から設置されている。
幼児用のベビーガーデンから「ごっこ遊び」ができるスペース、ボールプール、クライミングウォール、エアトラックという空気の反発を利用したトランポリン型の遊具はインパクトがある。お邪魔した日は休日で、赤ちゃん(6か月以上)から小学生(12歳まで)、そしてその親(必ず同伴)が大勢楽しんでいた。



コロナ禍ということもあり、入場制限などを設ける場合もあるとのことだが、一般入場料500円で90分の利用が可能。子ども二人に両親と祖父母と6人家族で入場しようとすると、「これ以上混雑すると大人は2人(子ども1人に付き添いの大人1名)までの制限がある」と告げられる。
何せ大人は入場無料。そりゃ仕方ないことだと思いながら、そそくさとじいさんは施設を出て周辺を散策する。すると隣接地には体育館などもあって、入場料を支払えばこちらも自由に走り回ったりすることが可能。お弁当の持ち込みをして飲食会場としても利用可能だそうである。
まあ、いくら有料施設とはいえ一人500円。1,000円だと利用者には厳しいし、運営する側とすれば、やはり平日の利用が課題のようだ。保育園や学校などの団体の受け入れもやっているようだが、遠足の雨天時の代替施設としては有効!こどもの「かがやき」のため頑張ってほしい。


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アルカラス&シナーの時代到来を予感させたUSオープンテニスの一戦

2022年09月17日 | スポーツ・スポーツ観戦


ちょっと出歩く機会が多く、紹介するネタが詰まり気味なのだが、腐らないうちに先週幕を閉じた全米オープンテニスの毛に触れておきたい。またまた、WOWOWから写真を拝借して、今回は男子シングスの話題だ。
昨年の記事を確認してみると、2021年の全米オープンテニスでは女子シングルスの決勝・ラドゥカヌとフェルナンデスの10代頂上対決を楽しみにしているとの記事(結果、ラドゥカヌがグランドスラムを手にする。)若い女子選手に注目していた。
今回は男子のしかも準々決勝の試合。19歳で優勝と世界ランク1位を手にして頂点に立つことになったカルロス・アルカラス(スペイン)対ヤニク・シナー(イタリア)のベスト4をかけた死闘ともいうべき一戦が特に特筆すべき試合だったのではないだろうか?(今年の全豪オープンでは、シナーとダニエル太郎の3回戦の試合をこのブログにアップしている。)



第一セットをアルカラスが取るものの、2セット・3セットをシナーが対ブレイクで取り返す。特に3セット目の対ブレイクは7-0でシナー。シナーの勢いとアルカラスのメンタルの弱さが出た4セット目、アルカラスはマッチポイントを握られながら見事逆転するという試合。
特にこの試合は5時間14分という全米オープン史上最長のもの。日付が変わり、これまで最も試合終了が遅かったのは、錦織圭が全米準優勝を果たした2014年の4回戦・ラオニッチ戦の午前2時26分だったが、今回の試合は午前2時51分だった。正に、テクニックやメンタル、体力をお互い出し切った死闘であったのだ。
特に、グランドスラムを達成したアルカラスは、4回戦でもチリッチと取っては取り返されるという展開のフルセット。準決勝では地元アメリカのティアフォーともフルセットで戦っているので、驚異的な体力でルード(ノルウェー)を下したといえる。



アルカラスは19歳4か月。全米オープンテニスでは、1990年のサンプラス(19歳1か月)に次ぐもの。(4大大会では、マイケル・チャンが17歳3か月と驚異的な記録。)また史上初めて、10代の世界1位となった(これまではヒューイット。2001年、20歳8か月。)
といっても、シナーも21歳。この二人が見せてくれた試合は、テニス界の過渡期を現しているようでならない。ラドゥカヌやフェルナンデス、カウフの登場もそのとおり。この大会終了後、フェデラーの引退も表明されている。
アルカラスはスペインで、ナダル二世との呼び声も高い(ナダルはまだまだ頑張りますよ!)。そうするとシナーはフェデラーか?二人の戦いはこれからのテニス界にとっても楽しみな対戦になるに違いない。(写真はいつものことながらWOWOWの放送から借用。)




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米坂線、大雨被害・運休から1か月が経過して

2022年09月16日 | 鉄道


去る8月4日の大雨により、甚大な被害を受けた新潟北部・山形置賜地方。米坂線研究会(会員は私1名のみ)を主宰する立場としては、災害復旧の邪魔をしたり物見遊山で現地に入ることは不謹慎と考えていたが、1か月を経てどうしても被災状況を確認せずにはいられなかった。
米坂線は山形県の米沢と新潟県の坂町を結ぶ超ローカル路線。先日も、JR各社が輸送密度が低い路線として地元との協議を行うべきとした路線に組み込まれていることからも、今回の豪雨で甚大な被害を受けたことで果たして復旧できるのかとの不安の声も上がっている。
風光明媚な路線は乗り鉄・撮り鉄だけでなく多くの人を引き寄せ、地元にとっては大事な公共交通。自分としても地元の近くを走るということから親しんできた米坂線だから、何とか一日も早い復旧を祈り今回のレポートとなる。(写真上:列車が走らなくなり、線路には雑草が生い茂って線路が見えないところも…小国駅付近と伊佐領・羽前松岡間)



米坂線と並行して走る国道113号。この道路の被害も大きく、私の場合坂町から今泉の区間をこの国道で往復することになるのだが、片側交互通行等災害復旧のための工事区間が実に多い。
国道7号から113号に入るとすぐに片側交互通行。米坂線は見る影もなく、トンネル(アースシェッド、スノーシェッド?)や線路は崩れた土砂や流れ出した土砂で埋まり、ところにより線路がめちゃくちゃな状態で道路側に突き出しているところもある。
米坂線の終点・坂町と越後大島間は、山が迫った狭さく区間。荒川、国道113号、米坂線が狭い谷部分に並んで走る。ここに上流部のの関川村で記録した24時間500ミリ以上の雨が集中し、土砂を押し流したのであろう。(写真上:越後大島・坂町間の復旧作業現場)



また、最上川水系白川の支流・小白川では、白川に合流する地点で大きく蛇行している。ここにも土砂が押し寄せて、県道の大巻橋とともに「小白川橋梁」も崩落(写真上)。大巻橋ではクルマが流され男性一名が亡くなっている。
落橋した鉄橋も全く手つかず状態で、プレートガーダー桁が橋台から落ちているのが何とも痛々しい。河川の復旧や道路橋の仮設工事など、どうしてもこちらの方が優先されるのは仕方ないが、早く何とかしてほしいという気持ちになる。
当然ながら米坂線は今泉と坂町間で運休中。この区間ではバスでの代行輸送を行っているという状況。バスも国道沿いに「のりば」を設置していることから、駅前まで行くところは少なく、どの駅も閑散としている状況だ。



そんな中で、国道を走っていると、キハ110系の気動車二連が羽前沼沢駅に停車しているのが見えた。沼沢駅に行ってみると車両のドアには「立入禁止」の表示とロープが張られてある。「快速」の表示があったので「快速べにばな」であろう。(写真上)
山形の置賜地方では8月3日から大雨の被害が報じられていたため、上りか下りかは分からないが、結局、坂町と越後大島間も土砂流入などによって不通となったため、沼沢駅にで運転打ち切り、そのまま停留されているものであろう。
乗客は不安だったろう。国道も不通という中で、どうやって救援活動が行われたかの報道はない。沿線住民や当時の乗客が心配やショックを抱える中にあって、復旧活動を早期に開始し、多くの方々の不安を払しょくを望みたいところだ。(写真下:閑散とした小国駅では代行バスの時刻表示がされ、バス待つ人が数人いるだけ。)

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秋田・藤倉水源地は大きな歴史を抱えながら、ひっそりたたずむ

2022年09月14日 | 土木構造物・土木遺産


「苫小牧から船乗って秋田に着いた~」(誰も知らないフレーズになっているのに…五木ひろし)。新日本海フェリーの苫小牧航路は、秋田に寄港後、黙って乗船していれば新潟まで行くのに、あえて秋田で下船することにする。
運賃が三分の二(航送料金は数千円やすくなるだけだが)、加えて時間を考えると、早朝の秋田港到着後新潟に向かえば、昼には自宅に着くことができる。そのまま乗船して新潟に行くと、夕方5時くらいになるということから、秋田下船という選択になる。
でも秋田からそのまま新潟に向かうというのも芸がないので、土木遺産を訪ねることにする。秋田港からクルマで30分程度のところに、以前から気になっていた「藤倉水源地」がある。目的地はここ!
(写真上:藤倉水源地の本堤「藤倉ダム」と、ダムにより堰き止められてひっそりたたずむため池。)



これまで土木遺産として紹介してきた水源地・水道施設といえば、長野市の往生寺浄水場、そして先日紹介した小樽・奥沢水源地に次ぎ3番目となるが、1911年に給水を開始した今回紹介する藤倉水源地は一番古いものになる。
それほど山深いところではないものの、こちらもひっそり感は半端ない場所。上流には秋田市の太平山リゾート公園や植物園などの施設があるのだが、ナビをセットしていなかったらうっかり通り過ぎるようなところにある。
県道15号で太平山方面を行くと道路は坂を上り、左車線走行中だと右手の旭川は少し低い場所を流れることになる。目的地に近づいたことをナビが知らせるので、堰堤から流れ落ちる水を確認できた。砂防ダムのような規模である。
(写真上:堤体上部とその先に見えるトラス橋。堤体脇の広場には国の重要文化財に指定されたことを知らせる表示があった。)



藤倉ダムという重力式コンクリートの本堰堤は高さ16メートル、長さ65メートルと小ぶりではあるものの、越流式の堰堤からの流れを和らげるための副堰堤、堤上の曲弦トラス橋、岩盤を掘削した放水路などの施設がきれいに残っていることが分かる。
また、300メートル下流には沈殿池があって、現在は埋め戻されて公園となっているが、これらの施設群をひっくるめて1993年「藤倉水源地水道施設」として国の重要文化財に指定されている。もちろん、近代水道百選であり土木学会選奨土木遺産でもある。
1973年に秋田市の水道は雄物川に完全に水源を委ねることになったので、藤倉水源地水道施設は市内にある浄水場とともに廃止されたのだが、廃止後にそれらの名誉ある選定により、地元でもびっくり!保存の機運が高まったというから面白い。
(写真上:下流部の集落から水源地・藤倉ダムに向かう遊歩道に設置された看板。ここにもありました!「熊出没注意」の看板。)



実はここにも先人の労苦があったことを秋田市の上下水道局のホームページが「ウラ話」として伝えている。市内で薬種賞を営んでいた佐伯親子が私財を投げ打って秋田の水道の歴史を切り開いたという話しである。
藤倉水源地から少し下流の添川というところで湧き出る清水を利用し、秋田に水道を布設すべく悪戦苦闘。排水管の破損など様々な障害が発生し、しまいに財政難に落ち込み計画を断念せざるを得なくなったという。
その後、秋田市が直営事業として水道事業に取り掛かった際、佐伯親子は設計や調査資料を無償で市に提供し、秋田の水道創設に大きく貢献したということである。佐伯親子も大したものだが、そのことを忘れずに紹介する秋田市上下水道局も天晴だ!
(写真上:県道15号から見た藤倉ダムの全景と、その下流部に設置されていた沈殿池の跡地。現在は公園になっている。)
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山線の存在を今に伝える「山線鉄橋」と「王子軽便鉄道ミュージアム」

2022年09月12日 | 鉄道


前回、千歳川の王子製紙水力発電施設群の話をしたが、その中で出てきた王子軽便鉄道の件。触れてとおりこの発電所群が土木遺産・近代化遺産であることは間違いないのであるが、軽便鉄道に関連したもう一つの土木遺産がここにはある。
軽便鉄道の山線は、千歳川発電所群を建設するため資材を運ぶ路線だったが、後に旅客運送も開始。地元の人は、支笏湖に向かう路線を「山線」と呼び、苫小牧から海に沿って敷設された路線(後の日高線)を「海線」と呼んで利用し親しんだという。
山線は、苫小牧から第一発電所までを運転開始(1908年)。途中、21.8キロ付近で分岐し、支笏湖畔へ視線を延ばしていた。支笏湖対岸の鉱山から金鉱石を運ぶ役目や発電施設で使う材木の輸送のほか、支笏湖への修学旅行生も運んだという。(写真上:国道旧山線に沿って走る国道276号、道道16号にはサイクリングロード(山線跡)と高圧送電線が絡みついて伸びている。)



その支笏湖畔の駅のすぐ手前で支笏湖から流れ出す千歳川を渡るのであるが、その鉄橋が廃線後も歩道橋として残されている。これが「山線鉄橋」で、北海道で現存する現役最古の鉄橋であり、土木学会選奨土木遺産である(2018年認定、写真上、下)。
この鉄橋は以前函館本線の空知川にかかっていた橋を、王子製紙が払い下げを受けてこの地に移設・架橋したもの。ダブルワーレントラス橋は、以前紹介した最上川橋梁と同じ構造であるが、山線鉄橋の方が少しだけ若いものの、200フィートのピン構造、実に凛々しい姿を見せてくれており、いまでも湖畔を散策する観光客に人気のスポットになっている。
鉄道廃止後に王子製紙から千歳市に寄贈され、解体修復工事によりきれいな姿になって1997年から歩道橋として利用されているとともに、「王子軽便鉄道ミュージアム」の展示物とともに山線があった証として保存されている。



もちろん山線ミュージアムも見学させてもらった。旧湖畔駅は以前は苫小牧寄りの山線鉄橋の手前にあって、その後山線鉄橋を渡った僅かな平坦地にデルタ線を設置(転車台がなかったため)。ここに湖畔駅が設置された。
ミュージアムは、そこから少し小高い場所にあり、支笏湖ビジターセンターに併設する形。こじんまりとして、あまり訪れる人はいないようだが、こちらも軽便鉄道が活躍していた頃のことを知ることのできる貴重な場所でもある。
軽便鉄道の歴史や当時から存在感を示していた山線鉄橋の古い写真。ジオラマも興味深い。山線鉄橋付近のものと、苫小牧、支笏湖、千歳を結んでいる路線を紹介するジオラマは、山線沿線を忠実に再現し、路線を一望できるという感じである。北海道にい行った際にはぜひ立ち寄ってほしい。(写真下:支笏湖畔にある王子軽便鉄道ミュージアムの外観と山線鉄橋の写真)




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千歳川で「熊出没注意」に脅され、支笏湖で「支笏湖ブルー」に癒され

2022年09月09日 | 旅行記・まち歩き


北海道の復路は、苫小牧港からのフェリーとなるため、少し早めに小樽を出て千歳川(写真上)を遡ることにする。ここには近代化産業遺産で、土木学会選奨土木遺産でもある「王子製紙水力発電施設群」がある。ここまで来て、これを見ないわけにはいかない!
製紙業には広大な工場用地は必要であり、それが現・王子製紙苫小牧工場。用地のほかにもきれいで大量の水、そして電力、パルプの原料となる木材、そして輸送のための良港が必要。それが北海道のこの地であったのだ。
電力に絞った話になるが、古いものでは1910年(明治43年)の」発電送電開始(千歳川第一発電所)。堰堤、水路、放水路、発電所と、日本の近代化に欠かせない電気供給を支笏湖から千歳川に流れ込む豊富で落差のある水流を生かしてもとめたのである。



発電施設を建設するために敷設された「王子軽便鉄道(通称「山線」)の廃線跡(現・遊歩道、サイクリングロード)とぴったりと沿って千歳川を上流の支笏湖方面に標高を上げていく。道央自動車道千歳インターから30分程、千歳川第一発電所入口へ到着。
なんと!事前調査で見学できるという話しだったのに、開放時間が15:00まで。僅かに5分、本当にタッチの差で間に合わなかった。悔しくて周辺をウロウロするが、北海道土産によく登場する「熊出没注意」の看板が目に留まる。商売柄、クマ鈴は持ち歩いているのだが、ヒグマはちょっと引いてしまう(写真上)。
仕方ない。これが、よく言う「忘れ物」ということになるのだが、北海道にきての忘れ物は痛い!簡単に取りに行けませんからねー。気を取り直して、更に支笏湖を目指すことにする。



千歳川は、この支笏湖から流れ出る唯一の川。正確には湖対岸の谷間から流れ込む川も千歳川だから、川の途中に湖があるということになる。
容易に想像できるが支笏湖は4万年前の大噴火により形成されたカルデラ湖。後から恵庭岳や風不死岳(ふっぷしだけ)が噴出したことにより、円形ではなく少しいびつな形になっている。水深363メートルは田沢湖に次いで国内第二位の推進を誇る。
とにかく透明度が高く、環境省の湖沼水質調査で日本一ともされている(調査年により順位は変動)。とにかく透き通った青さは「支笏湖ブルー」とも呼ばれ、湖畔や千歳川ではボート、カヌー、サップなどの多くの人がアクティビティを楽しむ光景が見られた。なんとも贅沢なロケーションだ(写真上)。
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小樽・奥沢水源地の「水すだれ」は一見の価値あり!

2022年09月08日 | 土木構造物・土木遺産
「奥沢水源地」は小樽市街地を走るの臨港線から車だと10分ほどのところにある100歳越えの土木遺産だ。「近代水道の父」といわれる中島鋭治氏が力を注ぎ、1914年に造られたもの。
当時、小樽市の人口増や港を利用する船への給水などの水需要を受けて、近代水道の創設期に、北海道で3番目(函館・岩見沢に次ぐ)の本格的施設で、取水のため造られた「奥沢ダム」は北海道では最初の水道専用のアースダムでもある。
1985年(昭和60年)に「近代水道百選」に選定されたほか、2008年(平成20年)には土木学会選奨土木遺産に選定。それまで1世紀に渡り小樽市民の水がめとして使用されていた施設である。



この名誉ある選定を受けていたものの、2011年(平成23年)にダムに陥没箇所が発見され、堤体の破損・決壊につながる恐れがあるとされ、同年の夏にダムは廃止、水道施設もその役目を終えることになってしまった。
ダムは堤体を開削され排水路となっていることから、残念なことに当時をしのばせることはできないのであるが、取水塔や送水管などは保存されているという。ただ、遠目に取水塔はそれに続く橋があることは確認できるのだが、こちらも立入禁止で見学を断念。
ただ、ダムの洪水吐である階段式の溢流路は、21メートルの落差に10段からなる「水すだれ」とも呼ばれる美しい姿を見せてくれる。夏季のみの日中の時間帯に市民に公開されており、これを見るだけでも2日間この場所に通った。
(写真上:水管橋に向かう遊歩道遠くに見えるのが旧ダムの堤体の一部、そして「水すだれ」と呼ばれる溢流路。写真下:すぐ下流側にある旧浄水場と散策路に設置された看板。まだダムなどが機能していたころの内容だった。)



水すだれは、ダムに水を取り入れていた勝納川(ダムの貯水には、二股沢川からも取水)に造られており、緩やかにカーブを描きながら階段状に水流を和らげる働きをしている。
案内看板には、積み上げた石のデコボコによって水流が筋状になっているという。景観を意識して作られていることに感心するし、場所柄、四季折々の変化にとんだ美しさを見せてくれるという。これを見れただけでも価値があると思っている。
ジョギングや散策で訪れる市民も多く、前回紹介した旧手宮線の廃線跡と同様、市民にとっても憩いの場所のようである。なかなか観光客は訪れることはないのだろうが、小樽市としては後世に伝えるため可能な限り保存したいと考えているようだ。

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小樽の市街地に旧手宮線がきれいに保存されている件

2022年09月04日 | 鉄道


話しは北海道に飛ぶ。先月訪れたのは小樽の町。まあ、仕事といえば仕事、遊びといえば遊びなのだが、今年北海道は二回目。春先、小樽の北防波堤ケーソンヤードを紹介したことがあったが、その続きの訪問。春に荷物を取りに行き、今回はその荷物をまたまた北海道に届けるというもの。
今回は、小樽市がメイン。小樽市の市街地を散策していると、街の真ん中に線路跡を発見した。JR小樽駅から正面の中央通りを400メートルほど小樽港へ向かった地点だ。中央通りにも踏切のない軌道が設置され、その地点に立つと南北両側に伸びる線路はきれいに整備されているのが見て取れる。
これは旧国鉄「手宮線」の廃線跡。傍らに遊歩道も整備されていて、市民ボランティアだろうか、除草作業や花の植栽に多くの方たちが出ているとともに、観光客が記念写真を撮ったり、線路を歩いて散策を楽しんでいる姿が目に留まる。
(写真上:正面に小樽駅が見える中央通りと、その中央通りと交差する旧手宮線)



手宮線は、北海道開発のために1880年(明治13年)に北海道初の鉄道路線として開業。現・南小樽駅(当時は小樽駅)から、港(桟橋)のあった小樽市手宮を結ぶ2.8キロが現在保存区間だが、当時、官営幌内鉄道の一部として札幌や遠くの三笠市幌内とも結ばれており、石炭や海産物を小樽港に運ぶ役割を担っていた。
北海道初の路線といったが、日本でも新橋~横浜、大阪~神戸の間に次いで3番目の歴史のある路線。総延長からすると幌内までだと80キロ以上あるので、冬の過酷気象状況にあるな北海道の地で日本の鉄道史に残る過酷な線路敷設作業が繰り広げられたという。
幌内鉄道は、アメリカ人の鉄道技師であったジョセフ・クロフォードの計画・指導により建設された。そのためアメリカから輸入された蒸気機関車は、西部劇に登場するような形式。最初の機関車は「義経・弁慶」と名付けられて、北海道の開拓に寄与した。
(写真上:花々に囲まれた旧手宮線の線路跡には、観光客が集まり記念撮影をしたり散策したりして楽しんでいる。)



とにかくきれいに保存されている。保存施設は国の重要文化財(近代化遺産)、線路は日本遺産(炭鉄港)の一部でもあり、そのことが契機となって市民がボランティアに参加したり、行政が手を入れたりするようになったと思いきや、それ以前からこの路線を守る運動はあったとのこと。
観光地であり、観光客に人気の寿司屋通り付近から北に保存整備されているので、運河沿いの散策の後、お寿司を食べて手宮線を散策しながら復路も楽しむというコースも人気。この町を楽しむために訪れた人を、町の人がきれいにしながらおもてなしをするという感が伝わってくる。
手宮線の終点(正確には起点)には、小樽市の総合博物館(本館)がある。手宮線を利用して北海道で活躍した鉄道車両が静態保存されている。こちらも鉄道ファンならずとも小樽観光の際は訪れてほしい場所である。
(写真上:手宮線の終点(起点)の小樽市手宮では線路が分岐し、小樽市総合博物館(旧手宮駅)へと続いている。博物館にある保存車両はこの路線を利用して搬入された。写真下:小樽市総合博物館で保存・展示されているアメリカ製の蒸気機関車「しずか号」。しずか号は幌内鉄道6両目の機関車。義経号は京都鉄道博物館、弁慶号はさいたま市の鉄道博物館で保存・展示。)






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「道の駅・あがの」は、まだプレオープンの状態

2022年09月02日 | 旅行記・まち歩き
以前、県内の道の駅を紹介する記事をアップした。すべての道の駅を走破したわけではないのだが、独断で「たがみ」「庭園の郷ほない」「長岡花火館」を県内ベスト3としたものだ。これらは比較的新しく設置された道の駅だ。
またまた近場で新しい道の駅がオープンしたという情報を得て、早速我が社の女性陣に連れられて見に行くことになる。阿賀野市が整備計画を打ち出し、パブリックコメントなどを募集しながら、この8月5日にオープンした「道の駅・あがの」。
設置場所は国道49号沿いで、建設が進む「水原バイパス」との新潟よりの合流地点。新横雲橋の東詰で、橋で阿賀野川を渡れば新潟市江南区という場所にある。立地条件としては目立ついい場所である。



訪れたのは平日の午後という時間帯。国道の交差点からの取り付け道路に入るのだが、クルマがびっしり止まっているのが見える。駐車場に進むが、なになに駐車場はまだ整備中ということで、予定の半分程度の完成度のようで、少し窮屈に感じるが駐車場所は確保できた。
施設がこじんまりとしているからなのか、やはり満員状態。オープン後2週間ほど経っているのだが、ザワザワ、バタバタ感は「道の駅・ふくしま」を見たときのようで落ち着かない。オープン当初三日間で1万5000人が来場したというから、その時はかなり息苦しい感じにもなったのではと想像する。
施設内は物販コーナーにはお土産や農産品が並ぶ。まあ、これはどこの道の駅にもあること。ただ「パルシステム」という生協がテナントとして入っていて、会員向けの商品受け渡し拠点として一角を抑えているが、これがよく分からない。



そんな中で、「あがの酪農カフェ」のソフトクリームと、「あがのおいしい調理室」のメンチカツは気になる存在。特にソフトクリームは、酪農発祥の地として売り出している阿賀野市ならではの味になっている。これは美味しいので、ぜひ食べていただきたい!
メンチも米粉を使っていて衣がサクサク。揚げたて熱々をいただければ美味しいのかもしれないが、晩飯のおかずにとお持ち帰りしたため、ホッと感が失われたか?これは私のミス。
そのほか、外に遊具が置いてあったり、冬場や雨天でも楽しめるように室内にもキッズスペースなどがあるのもいい。これだけを目当てに来る人も中にいるようで、単に行きかう人だけのサービス提供に限らず、交流拠点としての下地は整備されているように感じる。



ただ、肝心な駐車場が半分程度の完成率で、利用客のサービスの上では欠かせないフードコートは遅れて10月にオープン?夏休み期間のオープン時にこだわった割には交流広場(バーベキューなども楽しめるようになるのだというが…)も未完成というので、何が売りになるのか今の時点では想像がつかない。
調べてみると、昨年から「来夏オープン」を打ち出していたこともあって、何とかお盆前の帰省シーズンに間に合わせようとしたのだろうが、なんか見切り発車にも思えてくる。フードコートのメニューなどであっと驚く仕掛けでもあるのだろうか?
前述のカフェや調理室は指定管理者である運営会社の直営とのこと。フードコートは直営かどうかは分からないが、この部分がオープンできていないということは間違いなく準備不足かトラブルがあったのかもしれない。今後の運営に期待したいところだが、さてどうなるだろう。

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