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行き先不明人の時刻表2

何も考えずに、でも何かを求めて、鉄道の旅を続けています。今夜もmoonligh-expressが発車の時間を迎えます。

新幹線開業を機に、敦賀駅の機能や役割を探ってみた

2025年04月30日 | 鉄道


昨年3月、延伸開業した北陸新幹線。終点であり起点にもなった敦賀駅の構内を探索してみた。駅に降り立つことは初めてなので、その変わりようは図り取ることはできないのだが、市街地側の西口(まちなみ口、写真上)に加え、新幹線のある東口が整備されたことは容易に予想できる。
敦賀駅は、JR西日本(金沢支社)の管轄。新幹線開業により敦賀以北の北陸線は並行在来線「ハピラインふくい線」となり、7面あるホームはJR在来線(北陸線・小浜線)と共用する形になっている。新幹線は、駅東側の旧側線があった場所に2階コンコース、3階4面ホームと新設された。
新幹線に近い東口には駅長室・JR事務室や「みどりの窓口」が西口から移転(ハピラインふくいの事務所は西口)。敦賀市は駅の橋上化を計画し、西口には観光案内所などが入る「敦賀駅交流施設オルパーク」を設置したが、新幹線との接続駅によくある光景として、新設の新幹線口に機能が移転し、在来線の出入口のとアプローチが長い通路で結ばれることになった(写真上:西口から東口へ向かう連絡橋へのエスカレーターで。写真下は新幹線コンコースとホーム。)。



まあ、JR西日本の駅でもあることから、関西との結びつきが強いのは敦賀に限らず金沢や富山も一緒。新幹線でつながったのは関東・東京ではあるが、東京直通の最速型新幹線「かがやき」は日に上下9本といったところ。一方、大阪と敦賀を結ぶ在来特急「サンダーバード」は上下25本ずつとなっている。
また、敦賀と東京の北陸新幹線直通の時間と、米原・名古屋で東海道新幹線の乗り換えで時間を比べてみると実に微妙な立ち位置にあることも確か。「しらさぎ」を使って名古屋で乗り換えると時間的には北陸新幹線が早いのだが、米原乗り換えだと東海道経由が早い場合もあるようだ。
そんな北陸各都市と関西・中京とを結ぶ旅客の需要に応えて、敦賀駅の新幹線ホームの下には、特急電車(サンダーバード・しらさぎ)専用の乗り換えホーム(31番~34番線、写真下:名古屋行・大阪行の特急が発車を待つ33番・34番ホームと。新幹線高架下を到着入線する列車)が新設された。もちろん新幹線においても、敦賀・富山間都市間との都市間列車の設定も多い。敦賀とすれば、東京に1本で行ける!というのは、まあ選択肢が一つ増えたといった感じなのかもしれない。



在来線へも足を入れてみた。7番線にはハピラインふくいの521系の芦原温泉行の電車が北陸線からの接続列車の到着を待っていた。6番線には間もなく223系の快速電車が入ってきて、あわただしく乗り換えする乗降客の姿があった(写真下、到着列車に遅延あったのかも?)。
その到着列車は、折り返し関西方面へ向かう快速(新快速)になるのだが、なんと行先は「播州赤穂」?福井県の敦賀から滋賀、京都、大阪、そして兵庫の西のはずれ赤穂線の播州赤穂まで、5県をまたぎ走行距離275.5キロ、所要時間4時間強。調べてみたところ、最長区間を走る在来普通列車とされている3323M(米原からは3523Mの新快速)列車がこれだ!
ともあれ、北陸新幹線の終点でもあり起点でもある敦賀。北陸地方と関西・中京を結ぶ路線の乗換駅としての重責や、小浜線やハピラインふくい線など地域交通のターミナルの役割も担い、国内最長区間を走る列車の始発駅でもある。再び鉄道の町としての重要性が再認識されていることは確かだ。

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敦賀市内には、鉄道にかかわる歴史と未来が存在する

2025年04月23日 | 鉄道
鉄道の町・敦賀の市街地で、鉄道の町を象徴する場所を訪ねてみることにする。



まずは、敦賀駅。駅自体については後日また紹介しようと思っているのだが、駅前(西口)の脇にひっそりと設置されている歴史を伝える記念碑を訪れてみた。「交流電化発祥之地碑(写真上)」とある。確かに北陸本線は直流・交流、しかも50Hz(ヘルツ)・60Hzと複雑な電化方式を持つ路線である。(北陸新幹線開業により、並行在来線が三セク運営となり、現在残っている北陸線の区間(米原~敦賀間)は2006年に直流に改変。)
北陸線のうち米原(旧田村)と敦賀間が1957年(昭和32年)に交流電化発祥の地であるというものなのだが、これには条件が付く。「世界最初の60Hz交流電化」ということ。交流電化だけをいえば、実用試験が行われていた仙山線(50Hz)がわずかに同年に完成していた。
今では新幹線に採用されている交流方式だが、急勾配区間を克服するために導入された北陸線や仙山線の成功により、新幹線をはじめとした日本の鉄道の発展があったと考えると、鉄道の町としては貴重なモニュメントでもある。以前、敦賀運転センターにあったこの碑は、新幹線開業により現在の地に移設されたという。



これまたひっそりだが、市街地に保存車両もあった。敦賀駅にも近い市街地のど真ん中の「本町第3公園」には、C58蒸気機関車が静態保存されている(写真上2枚)。昭和15年製造で、1971年(昭和46年)まで風光明媚な路線・小浜線で活躍していたという。C形だから旅客用だったんだろうね。
また、敦賀港近くの赤レンガ倉庫脇には、キハ28形気動車が展示されていた(写真上)。急行型として全国で活躍気動車だが、全面運転席のガラスがサイドまで回り込んでいること(パノラミックウィンドウ)や下部にスカート(排障器)があるタイプで完全な状態で保存されているのはここだけとの説明書きがあった。
保存車両のほかにも、前回紹介したように旧敦賀港駅舎(写真下)やランプ小屋(写真下:内部の展示ランプ)など、超貴重な建物や鉄道遺産が残されているのも敦賀ならでは。旧北陸線の米原方向の「柳ケ瀬トンネル」、福井方向の「葉原トンネル」の扁額(横額プレート、複製、写真下)なども展示されている(敦賀鉄道記念館脇に柳ケ瀬トンネルのもの、赤レンガ倉庫脇に葉原トンネルのものを展示)。



三方山に囲まれた敦賀。古くは欧亜国際列車の発着地で、急勾配の中に敦賀があり補助動力車の連結や交直流のデッドセクションを境に動力車の付け替えや電車の乗り換えなども存在したはず。鉄道の町として発展しない理由はないのである。
そん市内で、いたるところにモニュメント(ブロンズ像)がある。よく見ると「宇宙戦艦ヤマト」や「銀河鉄道999」のキャラクターなどの像だ。もしかすると敦賀は松本零士氏の出身地ではないか?と思わせるほどなのだが、そうではないようだ。何の因果があるのか?
敦賀市は敦賀港開港100周年(1999年)を記念し、市のイメージを「科学都市(原子力発電)」、「港(敦賀港)」、「駅(敦賀駅、敦賀港駅、北陸線などの鉄道路線)」とし、将来像と重ね合わせたところ宇宙戦艦ヤマトや銀河鉄道999に行きついたとのこと。敦賀駅から氣比(けひ)神宮までのシンボルロードに28体のモニュメントがある。(写真下:敦賀駅前の「星野鉄郎とメーテル(銀河鉄道999)」の像とモニュメントの説明、見出し写真は「佐渡酒造(宇宙戦艦ヤマト)」像)




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敦賀の町は「海を越えた鉄道」の玄関口であった

2025年04月18日 | 旅行記・まち歩き


さて、かねてから訪ねてみたいと思っていた町、それは福井県の「敦賀市」である。新潟からクルマで出かけるには少し遠いものの、春の到来とともに今年のまち巡りの最初に思い切って出かけることにした。
敦賀は三方を山で囲まれていて、北側には敦賀湾。若狭湾の東端にあたり、ここは北前船の時代からの良港でもあった。古くは若狭街道・北国街道、鉄道では北陸本線の要所として栄えてきたことは容易に想像できる。(写真上:舞鶴若狭道から見た敦賀市遠景と敦賀港「みなとオアシス敦賀」脇のモニュメント)
そう、昨年3月、北陸新幹線の金沢・敦賀が延伸開業し、福井県も新幹線の走る都道府県に仲間入りするとともに、北陸新幹線の始発(終着)駅となった敦賀の町は、再び交通の要所として注目を集めている。



鉄道は、1884年(明治17年)に長浜・敦賀間が開業。当時は東海道線の一部として、その後北陸線として福井・金沢・富山と延伸されていく。敦賀開業当初は、終点は「敦賀港(つるがみなと)駅(正確には「金ケ崎駅」が最初)」であった。
この敦賀・敦賀港の間は、福井延伸によって盲腸路線となるのだが、この路線こそ「港の町・敦賀」と「鉄道の町・敦賀」を結びつけ、名実ともに「港と鉄道の町・敦賀」を作りあげることになったのだ。
というのも敦賀港では、明治期からウラジオストク航路が開設され、その後も朝鮮半島や旧満州への玄関口となった。敦賀と敦賀港の間の支線(通称:敦賀港線)は、東京からも船との連絡を図るための「欧亜国際連絡列車」が直接乗り入れる路線だった。(写真上:敦賀駅から港に伸びる旧敦賀港線)



第二次世界大戦の影響などにより、旅客列車は廃止されるが、その後も不定期の旅客列車や貨物線(国鉄分割民営化により「JR貨物」が運用)として利用されていたが、2009年(平成21年)ここを走る列車の姿は消えた。
といっても、比較的最近まで使用されていたということもあり、廃線跡はしっかり残っている。敦賀港駅(旧金ケ崎駅)付近は金崎宮・金ケ崎城跡など金ケ崎公園として市民の憩いの場となっている。(写真上:金ケ崎公園内の金崎宮への参道と貨物駅構内にあった汽車用のランプ小屋)
また、欧亜国際連絡列車の発着駅であった旧敦賀港駅舎(1913年建設)は、敦賀港の金ケ崎緑地(敦賀市港町)に復元され「敦賀鉄道資料館(写真下)」として公開されている。これが「海を越えた鉄道」と言われている文化庁もお墨付きの鉄道遺産回廊の中心都市・敦賀なのである。

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通船川は、「水の都・新潟」を作り上げた歴史そのものだ

2025年04月11日 | 土木構造物・土木遺産


亀田郷(改良区)、鳥屋野潟、そして栗ノ木川と新潟市内の低地帯と輪中の話をしてきたが、最後にその輪中の北側に位置する「通船(つうせん)川」について触れておきたい。現在、土地改良事業とは関係は深くないものの、市街地の浸水対策のほか、新潟の水上インフラや産業に大きくかかわりのある川なのである。
まず、この川は前回触れたとおり旧阿賀野川であった。現在の阿賀野川河口は、松ヶ崎(上の絵図の丸印の部分)の開削により直接日本海へ注ぐことになったが、それまでは大きく蛇行し新潟港(現在の新潟西港)で信濃川と合流していた。その名残が通船川である。(写真上:昔の空撮写真を見ても、赤マーカーの通船川には川筋は大河である旧阿賀野川の流れが見えてくる。その下の図は「土木学会関東支部新潟会」の資料から。)
この通船川は、栗ノ木川同様、阿賀野川・信濃川の水位より2メートル以上低くなっていて、鳥屋野川同様に市街地の浸水を防ぐ役割を担っている。つまり、下流にはなっている信濃川には自然の力では排水されないため、「山の下閘門排水機場」が栗ノ木川の排水を含めて新旧2か所で4台のポンプにより排水を行っている。(写真下:新排水機場にある管理棟と県発行のパンフレットの施設写真)



山の下排水機場(旧)は1967年運転開始、3台のポンプで21㎥/秒を。新排水機場は1988年供用開始で、1台のポンプでありながら30㎥/秒を排水することができる。つまり、新旧で51㎥/秒となって非常時には親松排水機場に匹敵する威力を発揮することができる。(新旧ともに新潟県管理。)
そして、この排水機場には名前のとおり「閘門」がある。というのも、通船川の川筋には木材加工工場や製紙・パルプ工場が多い。かつて新潟西港は船で輸送される外材の保管場所であり、その木材を筏(いかだ)曳航して各工場に運んでいた。そのため水位の違う通船川には大型閘室を持つ閘門が必要だったのである。(国内最後と言われた筏曳航の光景は、2021年をもって見られなくなった。)
この山の下閘門は全長が102.3メートル(幅14メートルから22メートル)、これは「淀川ゲートウェイ(淀川大堰閘門・大阪市)」や「尼ロック(尼崎閘門・尼崎市)」をも上回る国内最大規模と言っていいのでは?(完全に調べ切れていませんが!)しかも、回転式・観音開きのセクターゲート方式の閘門扉は国内でも珍しいという。見どころ満載の貴重な施設だ。(写真下:山の下閘門の閘室とセクターゲート)



また、通船川には上流部(阿賀野川との分水点)にも閘門がある。「津島屋閘門排水機場(県管理、写真下)」だ。非常時に山の下排水機場を補完し、通船川から阿賀野川への排水(4.9㎥/秒)を行う。(流入調整は「通船川水門(国土交通省設置・県業務受託、写真下)」より行う。竹尾揚水機場と同様、常には水質を保つために僅かに水を取り入れていて、阿賀野川増水時には閉門する。)
その名のとおり通船川は、上流(阿賀野川)と下流(信濃川)に2つの閘門を持つ船の通り道として新潟平野を作った二つの大河を結ぶとともに、鳥屋野潟や栗ノ木川とともに海抜ゼロメートル以下の新潟市街地を浸水被害から守るという、地味ではあるが、重要な役目も担っている。
新潟市とその周辺の平野は低地であることから水害や地盤沈下など悩まされる部分も多い。しかし、二つの大河により砂丘地と川湊が形成された歴史の中で、放水路開削や河川整備という治水にかかわる土木技術の向上、農業振興や土地改良事業の進化、港湾整備による産業振興や交通インフラ整備など、川や水と戦いながら知恵を絞ってきた先人がいたからこそ「水の都・新潟」の今があるのだ。





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佐野氏が見てきただろう、新潟・「栗ノ木川」物語

2025年04月07日 | 土木構造物・土木遺産



さて、新潟市の低湿地であった亀田郷(新潟市江南区)を紹介しているが、この中で一番低い場所は鳥屋野潟となったわけだが、この湖沼を含む輪中内の排水を担っていたのが「栗ノ木川」という排水路である。(写真上:新潟市東区紫竹山付近と栗の木川と東区沼垂東の新栗ノ木川、航空写真は現代のものと1945年頃の川の様子、赤が旧栗ノ木川、青が新栗ノ木川。)
この川は砂丘地をくり抜いて開削した川であることから「くりのきがわ」と言われたという説があるが、実際いつ掘られたのかは不明。輪中の南北を流れ、地域内の排水(一部用水としても利用)を一手に集め、新潟西港万代島埠頭を経て河口近くで信濃川と合流する。(現在は、農地整備により、亀田郷土地改良区の各排水機場や鳥屋野潟に直接流れ込むものもある。)
先に触れたとおり、この排水を容易にし、合わせて市街地や農地の浸水を防ぐために1948年に建設されたのが「旧栗ノ木川排水機場(写真下)」である。鳥屋野川の東端、現在は新々バイパスの紫竹山インター付近にあって、排水機場から下流の旧栗ノ木川は、市街地と均衡を結ぶ重要路線である国道7号(その他8号、49号などとの重複区間)の「栗ノ木バイパス」となっている。



この栗ノ木川排水機場は、近代農業土木の原点となった施設であるということから、その遺構は少し荒れているものの保存されている。単に湿原から美田を作ったというだけでなく、新潟市や亀田郷の水位の変化、地盤の変化、そしてこれまで触れてきた歴史などを伝えるものとしての価値は大きい。
この排水機場は地下水や天然ガスのくみ上げにより地盤沈下を引き起こし、1964年(昭和39年)の新潟地震により機能が著しいく低下し、親松排水機場にその役目を譲ることになった。この旧排水機場の保存に際しては、一部陥没していたものを掘り起こしたそうである。
旧排水機場の水門には、鳥屋野潟や信濃川など各地点の水位を示すパネルが設置されていて、この地がいかに低地にあるかを示してくれる。また右岸側には朽ち果てているものの閘門(写真下、=水位の違う河川で船を通す場所→「扇橋閘門」記事参照)の跡がしっかりと残っていて、水運にも利用されていた川であることが分かる。



国道の栗ノ木バイパスの路線上(紫竹山インターから万代島埠頭間)には、上流から紫雲橋、笹越橋、栗ノ木橋、万国橋などの地名(交差点)があるが、これはかつての栗ノ木川に架かる橋の名前を取ったものである。さらに栗ノ木バイパスは一部で高架化工事が行われていて、舟運時代から変わらず交通の要所となっている。
栗ノ木川は、笹越橋から「新栗ノ木川」が開削され、「山の下閘門排水機場」付近で、旧阿賀野川でもある「通船川」と合流する。この新栗ノ木川も低地にあり流れがほとんどないことから、旧栗ノ木川排水機場付近には「竹尾揚水機場」があって、水質の浄化・汚染緩和といった新旧の違う役割を担っている。
前述のカリスマ・佐野藤三郎氏は、この旧栗の木川排水機場の役割を目の当たりにして、各種土地改良事業や都市整備を発案したであろうが、その傍らには中国・三江高原の開発の際、佐野の右腕として活躍した奥村俊二氏が二代目社長を務めた「信越測量設計」の社屋があるのも何かの因縁のように思える(写真下:案内看板から旧栗ノ木川排水機場を挟んで対岸に信越測量社屋が見える)。

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佐野氏の「夢」に向かって、亀田郷土地改良区の取り組み

2025年04月03日 | 土木構造物・土木遺産


亀田郷土地改良区の施設や取り組みを紹介しておきたいと思う。確かに区域内の農地の水利や環境保全を図るの土地改良区の役目であるが、亀田郷の排水機場などの施設は、県都・新潟市の都市機能を守るという役目も担っていることも確かである。
前回も紹介したとおり、亀田郷(新潟市江南区、中央区・東区の一部)は阿賀野川・信濃川に挟まれ、なおかつ南に小阿賀野川、北に通船川に囲まれた海抜0メートル以下の土地で、いわゆる輪中といわれる川の堤防に囲まれた低地なのである。この地域は「地図にない湖」とも言われていた。(写真上:鳥屋野潟を中心とした流域図、信濃川下流河川事務所資料から)
その地域内で排出される水は、新潟市内でも一番低い土地である「鳥屋野潟(写真上)」に集められる。その水を潟の西側を流れる信濃川に排出するのが「親松排水機場」である。旧栗ノ木川排水機場が1948年に完成したが、それを受け継いだこの親松排水機場の完成によって、輪中内の農地は都市近郊の優良農地を確たるものとしたのである。



親松排水機場は1968年(昭和43年)に完成したが、建設から30年経過し老朽化も顕著になったことから2008年(平成20年)に設備を更新、現在二代目。4台のポンプで初代同様排水量60㎥/秒を誇る。25メートルのプールの水を6秒で排出する能力を持っている。
また、隣に都市排水を目的として2003(平成15年)年に完成した国土交通省の「鳥屋野潟排水機場」と合わせると、その能力は最大100㎥/秒となっている。信濃川下流河川事務所によると、将来的には180㎥/秒を見据えて設備などのを計画しているという。
親松排水機場は農林水産省所有の施設ではあるが、新潟県が管理者となり亀田郷土地改良区が業務を受託、24時間体制で水面高低差3メートルの信濃川への排水業務を担っているのである。(鳥屋野潟排水機場は、国交省・信濃川下流河川事務所管理。写真下:親松・鳥屋野潟排水樋門と信濃川、亀田郷土地改良区前に展示されている初代・親松排水機場のポンプ羽根車軸)



親松排水機場のほかに亀田郷土地改良区では17機の揚排水機場を管理(受託を含む)している。国交省の鳥屋野潟排水機場が設置されるきっかけとなったのは1998年の「平成10年8月新潟豪雨」であるが、その後繰り返し発生する豪雨などでもこれら土地改良区の排水機場は輪中の浸水防止に活躍している。
特に、二本木、本所、蔵岡の各排水機場(写真下は本所・蔵岡排水機場)は、新潟市内で観測史上最大となった2022年の豪雨でもフル稼働。農地だけでなく、市民の命や財産を守った。単に農地保全・用排水路管理だけでなく水質浄化、水路周辺の環境整備、都市計画や地域づくりとの調和すること、これこそが佐野藤三郎氏の「夢」だったのであろう。
加えて、亀田土地改良区は太陽光発電にも取り組んでる。小水力じゃなく太陽光。まあ、低地であることから水力エネルギーを得られる適地がないことも確かだが、それでも環境を意識して再生可能エネルギーを自らの施設運営に活用している。注目していますよ、亀田郷土地改良区の今後の取り組みも!(写真下:土地改良区が設置・管理する「松山太陽光発電所」と、土地改良区事務所の発電状況をリアルタイムで伝えるパネル)



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