行き先不明人の時刻表2

何も考えずに、でも何かを求めて、鉄道の旅を続けています。今夜もmoonligh-expressが発車の時間を迎えます。

ここでも太平洋と日本海が結ばれている?(神流川発電所訪問記③)

2024年08月17日 | 土木構造物・土木遺産


純揚水式水力発電所でも、世界最大規模になるはずの東京電力神流川発電所。確かに揚水式発電は、電力需給がひっ迫した際には蓄電池としての役割を果たすが、経済的効率から設備利用率が低い上、日本では世界的に見ても貯水量が少ないと多くの課題を抱えている部分もある。大金投じて巨大な設備を導入したけど、縁の下の力持ちの出番は少ないといったとこだろうか?
貯水率?そう、神流川発電所を支えるダム(調整池)を紹介しておかなければならない。前々回触れたとおり、上部ダムは「南相木ダム(写真上)」、下部ダムは「上野ダム(写真下、下にあるのに「うえの」ダム)ということになる。有効貯水量はともに1,267万立方メートル(総貯水量では少しだけ南相木ダムが大きい。)。
南相木ダム、行ってきました!道路は整備されていたし、周辺も公園整備がされているのであるが、とにかく寂しい山の中。堤体下部の「ウズマクヒロバ」という広場にはグッドデザイン賞のモニュメントなどがあるものの誰もいない上に「クマ出没注意」看板が。同広場へのアクセスで利用するトンネルも真っ暗で、入っていいものかどうか怖かったくらい。



この南相木ダム、中央遮水型ロックフィルダム。白い堤体(表面に石灰岩を配置)が目の前に現れた時の感動は忘れられない。これまで見た中でも最も美しいダムと言っていいだろう。堤高136メートル、堤頂長444メートルの巨大ダムであり、日本では一番高所(標高1,532メートル)にあるダムとしても知られている(写真下)。
水利権や漁業権、環境や生態系への影響に配慮して、南相木川の水はそのままダム湖(奥三川湖)を経由することなく、下流に放流される仕組みになっている(増水時にはダム湖に流れこむ仕組み。)。同じ東京電力の玉原(たんばら)発電所(群馬県)と同じ方式が採用された。
山深い上野村で巨大秘密基地の神流川発電所を見学させてもらい、時間を費やして大きく上信越道を迂回してこれまた山奥の南相木村でも美しいダムを見学させてもらい、二枚のダムカードを手にしたときは何とも充実した訪問になったと余韻を楽しんでいた。(写真下:位置図)



待てよ⁉神流川を遡ってきたはずなのに、南相木川というと千曲川水系?つまりは、信濃川水系ということになるし、神流川は烏川から利根川に合流している。つまりは神流川発電所が持つダム湖は、分水嶺どころか日本の峰をまたにかけて設置されていることになる。
つまり、群馬県上野村の神流川と長野県南相木村の南相木川は、神流川発電所の揚水発電用の管路によってつながっていて、それは利根川と信濃川が結ばれたことになり、猪苗代湖を介して阿武隈川と阿賀野川がそうだったように、太平洋と日本海がここでもつながっているということである。
二県にまたがってというのは、新豊根発電所(愛知県だが下部貯水池の佐久間ダム・佐久間湖は、静岡・愛知の県境・J-POWER)がある。分水嶺をまたいでというのは、奥多々良発電所(兵庫県・関西電力)の黒川ダム(市川・瀬戸内海)と多々良木ダム(円山川・日本海)があるくらいかなー?(こちらの揚水式発電も巨大な発電量を誇っている。)



上野村から南相木村へは、当然ながら峠越えが必要である。ぶどう峠、十石峠など過酷な道を進まなくてはならない(私は、帰り道がてら上信越道・中部横断道を利用したが…)。しかし、地図上、長大で真っ直ぐな一本のトンネルが二つむらを結んでいるのに気づく。「御巣鷹山トンネル(全長2キロ)」で、ダム・発電所の管理用道路だ(写真上:御巣鷹山トンネル南相木村坑口)。我々が見学用にマイクロバスで利用したトンネルとは明らかに別ルートである。
このトンネルこそ超レアな場所であるが、ここを活用したイベントが9月29日(日)に開催される。「上信国境ダムtoハイランドラン大会」という山岳ロードレースの売り物のコースに組み込まれているのだ。さすがに20キロ超えのマラソン大会には自分は出場できそうもないが、健脚自慢のランナーの方、まだエントリーは間に合いますよ!(写真下二枚とも:大会事務局のホームページから引用)
世界最大規模の神流川発電所は、二つのダムを結び、二つの村を結び、そして上信国境・群馬県と長野県を結び、太平洋と日本海を結んでいる。ハイランドランのコースにある秘密基地内の御巣鷹山トンネルは、過疎化に悩む自治体を結ぶ架け橋ではなく、「掛け穴」になるんでしょうね!(神流川発電所訪問記:終わり)




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地下500メートルの巨大秘密基地に潜入(神流川発電所訪問記②)

2024年08月12日 | 土木構造物・土木遺産


東京電力「神流川(かんながわ)発電所」は、群馬県上野村の山深い場所にある。御巣鷹山の山中、地下500メートル、そこには巨大空間が存在する。上野村が東京電力と協力して開催している見学ツアーに申し込み潜入に成功した。
神流川発電所の1号機は、2005年(平成17年)に運転開始。翌年2号機が稼働し、47万キロワット×2基、最大94万キロワットを発電する日本でも屈指の純揚水式水力発電所である。上部ダムは南相木ダム、下部ダムは上野ダムである。
分水嶺をまたいで、全長6,000メートル強を地中の導水路・水圧管路・放水路で結び、この間落差653メートルを利用して発電電動機6基を設置し、最大282万キロワットの発電を行う計画である。これが完成すれば、世界最大級の揚水式発電となるが、現在そのうち2基が稼働中ということである。(見学ツアー時は、1機がメンテナンスのため運転停止中だった。)



見学通路入り口から、排気用の機材が設置されているスペースを抜けると、突如広がる巨大空間に発電設備がある。天井には、無数のアンカーボルト(高張力鋼)で補強されているが(写真下)、一般者が立ち入る場所でないことから、トンネルを含めてコンクリートは打ちっ放し。確かに秘密基地の様相を極めている。
ここには日本初の技術がいくつかある。勾配48度の水圧管路の掘削にはトンネルボーリングマシーン(TBM)を採用し、斜坑を下から一気に掘削。また、水車のスプリッタランナ(立軸形フランシス水車の翼に長短を設けて出力増を可能にしたもの)を東芝と東京電力が共同開発したものが採用されている。
見学時、作業用クレーンが1号機と2号機の間にあり、多少視界を妨げているところはあったが、メンテナンス中ということもあって取り出された貴重な水車ランナの部分を僅かであるが見ることができた(写真下)。これに関心を示した見学者は私以外にはいなかったようだがー。



注目は世界最大級の揚水式発電。実に大掛かりなものであり、早くから世界最大級を謳っていた東京電力だが、その点を同行説明にあたってくれた係員に尋ねてみたが、3号機以降の設置予定は具体化していないようだ。蓄電装置の進化によりここまで大掛かりなものがコスト的にいかがなものか!ということなのであろうか?
大規模蓄電装置がどのように改良を遂げていて、メリット・デメリットがあるかないかは自分には分からないが、揚水式水力発電は自然を利用した再生可能エネルギーであり、しかも3号機・4号機用の水圧管路もすでに完成しているというのに、電力需要が切迫している中で何を躊躇しているのであろう?
東京電力では、神流川発電所の付帯施設として設置したPR施設を福島第一原発の事故後廃止した。同じく、東京電力の揚水式発電を行う葛野川発電所(こちらは最大出力120万キロワット)のPR館も然り。いまこそ揚水式発電をアピールする時だと思うのだが。(続く)



(※神流川発電所は、御巣鷹山の地下にあるが、日航機事故の現場とされる「御巣鷹の尾根」は発電所より南1.7キロほどの谷を隔てた場所であり、事故現場の地下に発電所があるわけではない。実際の事故現場は、正式には「高天原山(たかまがはらやま)」の中の一つの尾根であり、当時、墜落現場となった場所を特定するために当時の上野村村長が命名したとされる。この書き込みが、図らずも39年前の事故当日になったことは偶然であるが、事故犠牲者の冥福を祈るとともに、今回上野村にお世話になり、事故当時救助活動で尽力された村民の方々に敬意を表したい。)
(※葛野川発電所(山梨県)については、規制区域があるので紹介できるかどうかわからないが、J-POWERや東京電力その他の揚水式を含む水力発電施設(ダムや概要など)についても、順次紹介していきたい。)

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世界最大級の入口である群馬県上野村を目指せ!(神流川発電所訪問記①)

2024年08月09日 | 土木構造物・土木遺産


さて、いよいよ群馬に向かうことにする。ベースキャンプにしたのは群馬県南西部の富岡市。いわずと知れた世界遺産の町である。
新潟の自宅からだと高速で300キロ、4時間といったところだが、途中寄り道などをして初日の走行距離は700キロ近く。これは予想していたことでもあり、最初から車中泊は諦めてホテル宿泊することにしてトレーラーハウス型の宿を予約した。(禁煙だったこと以外は、かなり快適に過ごせた!)
ただ、目的地はさらに山道を小1時間ほど走った先にある群馬県多野郡上野村。ここへのアクセスは実に難関だ。藤岡方向から神流川(かんながわ)沿いに国道462号で向かうつもりでいたが、下仁田・南牧経由がいいだろうと観光案内所のアドバイスから、富岡で前泊した後出発。南牧から上野村へもかなりの山道(県道)だが、湯の沢トンネル(2004年開通)により飛躍的に便利になったようだ。



この上野村、人口が1,028人(上野村ホームページ、8月1日現在)。群馬県では最も人口が少ない自治体であり、関東でも島しょ部を除くと最も少ない。人口密度も県内で最下位、居住可能面積も最も低い。過疎地で、山の中のへき地といえる場所であるが、かの平成の大合併でも「合併しない宣言」をした村である。
産業は林業と観光。「上野スカイブリッジ(写真上)」という巨大なつり橋と不二洞なる関東随一の鍾乳洞が観光のメイン。お気づきの方もいらっしゃるかもしれないが、航空史上最大の事故といわれている日航ジャンボ機が墜落した「御巣鷹の尾根」のある村というと、あーっという方もいるかもしれない。
今年も8月12日が近づいて、多くの遺族・関係者が慰霊登山の時期を迎えている。とにかく山深い地で、事故当時は村へのアクセスや林道の整備もされていなかったため、墜落現場の特定が難しく、救助作業も地元消防団が頼りだったことも容易に想像できる。(村に到着して、まず「慰霊の園(写真上)」で手を合わせさせてもらった。)



この山の中にあり各ランキングで最下位ばかりの村、実は財政的には群馬県内の市町村で3番目と高い位置にある(財政力指数0.85、隣の南牧村や神流町は0.1ポイント台)。というのも、上野村には、東京電力リニューアブルパワー「神流川発電所」がある。この発電所が世界最大級の揚水発電所だというのだ。(発電所1号機が運転開始したのが2005年、それまで財政力指数は0.2、完成後2008年には1.73に急上昇、当然不交付団体となる。)
村では、東京電力と協力し、この発電所の見学会を実施しているという。数日前の問い合わせ・応募であったが、直近開催日に空きがあるということでその場で申し込みをして、そして上野村に足を踏み入れ集合場所の「川の駅・上野」にある「上野村森の体験館(上野村産業情報センター、写真上)」に向かったのである。
村の用意したマイクロバスに乗り換えたのは10人ほどの団体客に、一匹狼の自分だけ。バスは、急登とカーブ続きの道をゆっくりと御巣鷹の尾根方向に進む。ただ道幅は確保されているし、長大トンネルも通過。発電所建設のため整備された道なのか?そして、山中のゲート前に東京電力の社員がバスを出迎えると、いよいよ地下500メートルへの世界最大級の発電所に潜入することになる。(続く)






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下郷発電所で、揚水発電所は「自然の蓄電池」との解説を聞いて

2024年08月06日 | 土木構造物・土木遺産
久々、会津に足を踏み入れることになった。会津は、ダムや発電所、橋梁、歴史的な建造物や物語、豊かな自然、そして美味しいものの宝庫として取り上げてきた。さらに興味をそそるものとして、前回も紹介したとおり、猪苗代湖を中間点として、太平洋と日本海を川で結ぶ海運の拠点ともいえる場所で、どうしても外せない場所になっている。
これまで阿賀野川・阿賀川、日橋川などのお雇い外国人が力を注いできた現場を何回か紹介してきているし、阿賀野川の最大支流・只見川にはJR只見線の風景や電源開発の歴史に取りつかれてもいる。とにかく自分にとっては、会津探訪はライフワークとなっている。
今回紹介する大川ダムも2021年6月に訪問、すでに紹介したものであるが、再度訪問することに。というのも、前回訪問時はコロナ感染防止の影響により、下郷発電所の展示館や国交省の資料室が閉館中。ダムカードもゲットできないでいたのでリベンジ的な訪問。ちょっと安直な動機によるものである。



大川ダムは、国交省(福島県にあるが阿賀野川水系であることから北陸地方整備局が事業主体・管轄)の多目的ダムである。コンバインダムという珍しい型式であること。治水・利水の目的から阿賀野川総合開発事業(1973年計画策定)の主要な構造物として、1978年完成したダムである。
大川ダムの建設とともに計画されたのが下郷発電所。電源開発(J-POWER)が管理するもので、先に紹介したとおり大川ダムの建設によりできた若郷湖(わかさとこ)を下部ダム、大内ダムを上部ダムとする揚水発電所である。4基の発電機で最大100万キロワットを発電する。
有効落差387メートル、導水路を通って揚水発電特有の地下に発電所を設けるという方式で、夜間に余剰の電力でまた大内ダムの調整池に水を汲み上げて電力需要に備えている。発電所の事務所に併設される展示館で、「自然の蓄電池といえる」とのガイダンスを聞く。なるほど!(写真上:下郷発電所と大川ダム、発電所事務所と併設の展示館、写真下:展示館内部と展示資料の一部)



同じくJ-POWERの奥清津発電所を訪れた時、展示館の「電力ミュージアム・OKKY(オッキー)」は、展示館の窓から発電所の内部を見ることができたし、庭の奥に設けられたトンネルに入って導水管も拝むことができた。(奥清津発電所は、清津川の沿いに地上に建てられていて、奥清津第二発電所が展示館を併設している。)
奥清津と同様、大規模揚水発電所である下郷発電所であるが、その施設としてはダム湖畔の送電所や送電線が見て取れるだけ。その代わりとして、展示館には何とも丁寧に、そしてわかりやすく揚水発電を解説してくれる模型があった(写真下)。これは録画しないとと思い、何回も音声ガイダンス付きのスタートボタンを押した。(容量の関係で、動画がアップできない、申し訳ない!)
揚水発電かー!今後の電力需要に応えられる再生可能エネルギーとして注目していきたいと思うが、沼沢発電所も行ったことがあるが、果たしてほかにもあるのか?調べるとあるある!栃木に群馬に長野、山梨にも、憧れの佐久間ダムにも、岐阜や兵庫、全国各地に40か所以上ある。中でも「世界最大規模?」と銘打つ東京電力の発電所が目にとまる。よし、次は群馬だ!




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県営20ダム(土木部管理)を完全踏破!最後は地元のダム群へ

2024年08月01日 | 土木構造物・土木遺産
この度、新潟県土木部が管理する20ダムすべて訪問、踏破することができた。このブログでも何回か紹介してきた県営ダム、2年前の上越地方の4つのダム、そしてその後訪問した魚沼の「広神ダム」から2年間のブランクがあったが、地元の3つのダムを訪問しコンプリートとなった。
広神ダム、このブログで紹介していなかったが、信濃川水系破間川の支川・和田川にある重力式コンクリートダム。堤高80.5メートル、堤頂長225メートルで、洪水調整、不特定利水(河川環境保全)、発電の目的を持つ多目的ダム。2011年(平成23年)完成の比較的若いダムである(写真下)。
広神ダムの建設時には、魚野川の河川工事で発生した河床材を利用して本体コンクリート骨材にした経緯がある。建設途中で平成16年の新潟福島豪雨や中越地震などの自然災害にも見舞われたが、この骨材の採取作業が計画的に実行されたことから、工程も大きく遅れることもなく無事完成した。



さて、広神ダム訪問の時点で、残るは新潟でも下越地方といわれる県北の3ダム。地元でもあることから、いつでも行けるということもあって後回しになっていたし、すでに何回か訪れたことのあるダムであるが、敬意をもって再度訪問。
先に紹介した「旧赤谷線」の終点・東赤谷からさらに奥にある「加治川治水ダム」、赤谷駅から少し脇に入ったところにある「内の倉ダム」を廃線探訪の際に、また地元の「胎内川ダム」は数日後、孫とのドライブがてらに大取に訪問。
地元であるからして時間的には一日で3か所の訪問は可能なのであるが、考えてみると先に紹介している県最北・村上市の三面(みおもて)ダム、奥三面ダムや、五泉市の早出川ダムを含め、下越地方の県営ダムは他の地域のダムよりもかなりアクセスが厳しい気がする。まあ急登の山道と道路の幅員の狭さなどは、ダム訪問には付きものなんですがね!



「加治川治水ダム」は、新発田市加治川の上流部にあり、飯豊登山の登山口にある(写真上)。有効貯水量1,800万の規模でありながら、その役目は治水のみ。全国的に見ても、治水専用のダムとしては最大規模のものだ(先に紹介した「最上小国川流水型ダム」は、有効貯水量210万立方メートル)。
堤高106.5メートル(県管理ダムでは、奥三面川ダムに次ぎ第2位)、堤頂長285.5メートル、重力式コンクリートダムで、1974年(昭和49年)に完成。内の倉ダムや胎内川ダムと同様、昭和41年に発生した下越水害を契機に、下越地方の守り神として建設が計画された。
治水専用ということもあって、普段は水を貯めない。いざという時のためのダムであり、普段は流入する水量をそのまま下流に流すようになっている。山奥にあって、武骨なフォルム、機能的にも地味な存在ではあるが、大きな役割を担っているダムだ。



同じく加治川(内の倉川)にある「内の倉ダム」は、加治川治水ダムより1年先輩で1973年(昭和48年)完成した。当初、農業用水が不足していた下流域のためかんがい用に農政局によりダムの建設が検討されてたが、先の水害により洪水調整などの機能を加えて多目的のダムとなった。(農林省施工、写真上:内の倉ダムの看板を複写)
堤高82.5メートル、堤頂長166メートル、国内でも珍しい「中空重力式コンクリートダム」で、岩盤が脆弱なことから負荷が少なく、コンクリート材の使用を減らす目的などから採用された方式。逆に、コンクリートの型枠工事が複雑であることから、国内では最後の中空重力式となっている。今後この方式のダムは建設されないだろうとのことである。
ダム堤体の内部に、6つの大きな空間(ホロー)が中空といわれる所以。このホローの残響音を利用してコンサートなどが開催される。幻想的で不思議な音の響きをシャワーのように浴びることができると評判だが、コロナ禍で中断、ここ何年間は収録にてダムの魅力発信をしているとのことだった。



最後20番目に登場するのは、地元の「胎内川ダム」。奥三面ダムと同様、県営(土木部)ダムの中でも厳しい道のりを経て、短いトンネルを抜けるとその大きな堤体を見せてくれる(写真上)。下越水害、羽越水害(1967年・昭和42年)の二年連続の災害により、1976年(昭和51年)に完成。
重力式のコンクリートダムで、堤高93メートル、堤頂長215メートルで、その容姿は加治川治水ダムに似ている。この上流には同じく県営の奥胎内ダム(2018年完成、県営ダムの中では最も新しい)がある。(こちらは、国立公園内にあって一般公開していない。が、建設時に何回か見学に訪れたことがある。写真上のダムカードも建設時のもので超レアなカードだ。)
洪水調整、正常な流水機能維持、上水道の機能に加え、ダム完成後に新潟県と地元・胎内市(旧黒川村)が共同で発電設備を設置。県は管理用の給電に、市は公共施設への給電をしている(現在は売電して、公共施設の維持管理に充てている)という変わり種の機能もある。

以上で新潟県営(土木部監理)ダム、コンプリート!そのほか、以前紹介した「鵜川ダム」が着工から20年の歳月を費やし建設中(2026年竣工予定)、上越・「儀明川ダム」が調査・設計中である。(各ダムの諸元・解説は、新潟県土木部資料を参考。)


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ユーロ2024を観戦して、バルサの若手の活躍にニヤリ!

2024年07月29日 | スポーツ・スポーツ観戦
すでに世間ではオリンピックの話題で持ち切り。早くも日本選手の活躍が華々しく報道されている。それは日本人としては誇らしいことではあるのだが、このブログでは半月前に戻ってサッカー「EURO(ユーロ)2024」の話題を総括しておきたい。まあ、これも毎回触れていることなんで。
優勝はスペインでした!まあリーガを見て、バルサのサッカーに魅了されているもの自分にとっては嬉しいことではあるが、当初の予想はフランスの連覇、それを脅かすとすればイングランドかドイツかと踏んでいた。これらのチームはスター選手ぞろいだが、クループステージを見ていてもいまひとつ飛び抜けた強さが感じない。
ただ、グループリーグ三戦全勝だったのがスペインで、しかも決勝トーナメントではドイツ、フランス、イングランドを打ち破っての優勝だから、結局スペインのテクニックや組織力によりその強さと、ボール保持を主体とする近代サッカーのあり方を見せつけた結果となった。



いつも、ワールドカップやEUROを話題とするときには、若手選手を発掘することを楽しみにしている。ただ、今回の大会では、注目の若手は多かったものの、若手の台頭とか世代交代を予感させるというものではなかった。
というのも、多くの若手選手は各国リーグで、しかもビッククラブで活躍する選手、すでに注目を集めている選手が多く、あえてここに書き込んでも「発掘」とかは言えない選手ばかりなのである。
開催国のドイツのヴィルツ(21歳・レバークーゼン)、前回マークしきれていなかったムシアラ(21歳・バイエルン)、トルコのギュレル(19歳・レアルマドリード)、イングランドのメイヌー(19歳・マンチェスターU)、フランスのザイル・エメリ(18歳・パリSG)などがすでに注目の若手ということになる。



ただ、優勝したスペインにはラミン・ヤマル(16歳・バルセロナ、写真上)というとんでもない若手がいる。このヤマルもバルセロナですでにレギュラー。EURO準決勝で16歳で最年少ゴールを決めた。(決勝戦の舞台い立つときは誕生日を迎え17歳になっていたので、何か持っているとしか言えない。)
ただスペインには、前回大会からスペイン代表歴を積み重ねているペドリ(当時18歳、今大会21歳で、東京五輪に続きまたケガをしてしまった。)、フェルミン・ロペス(21歳)も今大会に出場し活躍した。みんなオリンピック世代なのにフル代表ですよ!
そして、今夏のパリオリンピックのスペインメンバーには、クバルシ(17歳)という選手がいる。注目!これがみんなバルセロナの所属で主要選手になっている。世界の若手も注目しているが、やっぱりバルサには目が離せない時代が訪れていることに改めて気づく大会であった。
(※毎回のことで申し訳ない、写真はWOWOWの放映から借用)
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改めて「赤谷線」の廃線跡を辿ってみた

2024年07月23日 | 鉄道


少し宮城県から離れることにする。といっても「くりはら田園鉄道」の跡地を見て、廃線つながりから地元新潟の「赤谷(あかたに)線」を見てみたいと思った。会津に行くときによく通る県道沿いを車窓から廃線跡を追っていたが、少しクルマを止めながら足跡を辿ることにしてみた。
起点は、羽越線・新発田駅。駅構内から下り方面に出て東へカーブを切って終点・東赤谷へ向かう18.9キロの路線であった。官営の製鉄所の専用路線として敷設されたもので、赤谷鉄鉱山から鉄鉱石を運んでいた路線を国鉄(当時の鉄道省)が地元の請願を受けて、1925年に旅客路線も開業した。当初は赤谷駅までで、その後東赤谷まで延伸された。
私が乗車したのは高校生の頃。すでに当時から赤字路線として知られていたが、その数年後1984年(昭和59年)に廃止。小さいときには、新発田駅を通るたびに構内でC11蒸気機関車を探すのが楽しみだった。羽越線の踏切前で育った自分にとって、小型のタンク式機関車は珍しかったのだ。



さて、廃線跡を辿ると、しばらく住宅街を進む。遊歩道として整備され、レールや鉄道標識などは残っていないが、ここは間違いなく路線であったことを確認できる形状痕跡は残っている。赤谷線を知らない人にとっては、あまり興味を引き付けることはないのであろうが、市民には散歩コースとして親しまれている場所のようだ。
郊外に出ると、遊歩道兼サイクリングロードとなる。途切れることなく、旧赤谷駅の手前の中々山というところまで続く。ここまで13キロの道のり。廃線当時どのような議論があったか分からないが、当時からしっかりと跡地利用が検討されてきた証のように思える。
郊外に出ると林の中を進んだり、田園地帯の真ん中を走ったり、景色を楽しみながら散歩やジョギング、軽快に走り抜けるロードバイクを楽しむ人に遭遇するが、途中駅のあったいくつかの場所では、ちょっとした憩いのスペースなども整備されていることがここに赤谷線が走っていた名残となっている。



ただ、鉄道施設として残っているのは、廃線後、利用客の弁としてバス輸送を引き継いだ新潟交通のバスの車庫があった場所に旧赤谷駅の駅舎跡(降下車したはずなのに覚えがない、多分)と、赤谷駅からすぐの棚橋川にかかる橋梁の桁がわずかに残っているだけ。旧東赤谷駅にあっては、多分このあたりにとしかご紹介できないほど痕跡は少ない。



赤谷線・東赤谷駅は、国鉄唯一のスイッチバックの終着駅だったそうだ。いまは赤谷集落からは飯豊登山口に向かう県道に「道」を譲っているが、ここからの勾配は33‰(パーミル)の急勾配。製鉄施設などが僅かな平地に作られたこともあって、渓谷に少し平らな土地が広がっているのが名残。
むしろ、鉄鉱山の集積地であった東赤谷から専用線でさらに鉱山までの4キロの間には、洞門やトラス橋の遺構が残っており、加治川治水ダムまでの間の道は狭いものの、不思議な光景や見栄えのする場所としてひそかな人気を集めているともいう。



新発田市内のお店で赤谷線の写真を飾っていた店があったような気がするのだが、どうしても思い出せない。一昨年、廃線の日の様子を「写真の町シバタ」で見たことがあるので、ちょっと拝借。赤谷線を伝える資料館などはないが、以前紹介した「新津鉄道資料館」に駅名標などの資料が展示されている(下の写真以外にも館内に赤谷線の資料展示があります)。



決して自分はダムマニアでも、廃線オタクでもない。鉄道自体も土木構造物で遺産の宝庫。各地域に眠っている(場合によってはすでに開花している)地域活性化素材として、その魅力や歴史・功績を発信していきたいと思っている。
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「くりでんミュージアム」は地元の愛を感じる施設だ!

2024年07月17日 | 鉄道


「くりはら田園鉄道」。新潟に住む私にはあまりなじみのない地方鉄道だが、名前だけは聞いたことがる。長沼ダムから至近の場所に「くりでんミュージアム」というものを見つけて足を向けることにした。
宮城県の内陸の一番北にある栗原市。くりこま高原がある町で、東北本線・石越駅(登米市)からくりこま高原方面に向かう鉄路がくりこま高原鉄道(愛称:「くりでん」)だ。終着の細倉マインパーク駅までの25.7キロの路線。1921年開業、2007年廃止。
廃線となったくりでんだが、それまでの功績を称え、思い出を残そうということから、ほぼ全線にわたって市域を走っていたことから栗原市が旧くりでんの施設を使って整備したのが、今回紹介することになるミュージアムや鉄道公園ということになる。



ミュージアムは、くりでんの若柳駅(起点の石越から2つ目の駅、3.1キロ地点)の構内・機関車庫を利用して整備された。ミュージアム本体は新設された様子だが、併設の機関車庫や客車庫、道路を挟んで公園内にある旧若柳駅はそのまま保存されている。
ミュージアム内の展示品や資料が凄い!細倉鉱山線として延伸、軽便路線から改軌(762ミリ→1067ミリ)、電化、度重なる社名の変更、三セク化などなどの数々の歴史も多く、廃線間もないことから旧鉄道設備をしっかりと保存、展示している。
ジオラマがこれまた一見の価値ありですよ。25キロの営業キロをぎゅっと10数メートルに縮めて再現。それは、しっかりとした栗駒の自然風景や沿線の生活を反映しているもので巧妙かつ美しい。この路線を知らない自分が引き込まれるくらいだから、地元の人にとっては永遠の原風景となるジオラマではないのか?(写真一番上)



旧機関車庫は当時そのまま保存され公開されているといった感じ。保存状態もとてもよく、古めかしい機械類もしっかり整備されており、今でも動かせそうなものや整備員の汗や息遣いまで見えてきそうなものばかり。
車両もしっかり保存されている。ついこの間まで使用されていた気動車から、古い電車や貨車なども本物が展示され、内部も公開している。一部、旧若柳駅構内に保存されたものは動態保存(動かせる状態での保存)されているという。
くりでんミュージアムの最大の特徴は、廃線跡をも少しだけ残して、これら動態保存の車両に乗れるイベントを実施している。加えて、気動車の運転体験もできるんです(特別講習を受講した場合。廃線跡は各所で見ることができるが、体験乗車・運転体験やレールバイク用に若柳駅付近の公園内に体験専用軌道として900メートルを保存)。



東北の地方路線で、平成の合併の人口6万人弱の栗原市が、これだけの投資をして、今後の保存にかかる経費を費やす覚悟をして整備したのか?くりでんミュージアムは単に観光資源としてだけではなく、地元の人たちの愛情や熱意を感じる施設なのである。
この愛は、先に少しだけ触れたがその歴史にあると思う。多くは語れないが、旧国鉄路線でもない約100年の歴史の中に、地元民の足として運営され、宮城県や旧沿線の行政や住民、細倉鉱山を受け継いだ三菱マテリアルの数々の支援など、社名を変更してきた中にもしっかり地元に根付いていた鉄道路線だったのであろう。
ミュージアムを運営するNPO法人・Azuma‐reは、旧くりでん社員や運転士を職員として採用・雇用している、これもアッパレ!このミュージアムとくりでんを愛する人たちの愛に、これまでいくつか触れてきた廃線跡地を訪問する気分で足を踏み入れた鉄道オタクの私は、頭をぶん殴られたような気がした。

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治水目的のユニークな形式のダム、長沼ダム&最上小国川流水型ダムを訪ねて

2024年07月11日 | 土木構造物・土木遺産
一泊二日という時間と費用をつぎ込んで鳴子ダムだけいてくるのはもったいないと、あらかじめ見どころを探って宮城県北部に足を踏み入れる。大崎・栗原・登米の各地区は、県と仙台の喧騒と賑やかさを離れて、栗駒山地のふもとで豊かな自然を感じる土地である。
決して土木構造物の中心にダムがあるわけではないし、マニアでも固執しているわけでもないのだが、鳴子に行くなら近年完成した珍しい機能を持つダムがあるので紹介しておきたい。



一つは「長沼ダム」。こちらも大倉ダムと同様、ネーミングライツにより「パシフィックコンサルタンツ長沼ダム」の愛称がつけられている。2014年(平成26年)完成、宮城県土木部の施工による県営の多目的ダムで、既存の自然湖「長沼」を利用した極めて珍しく、国内でも最大規模のダムである。
堤高は15.3メートル、ちょっとした堰堤。ダムといても主堤体の中央に見えるのは少し大きめの水門にしか見えない(写真上)。しかし、これがアースダムの中では湛水面積、総貯水容量で国内最大規模のダムなのである。(北海道・雨竜第一ダム(朱鞠内湖)の副堤である「雨竜土堰堤」を除く。)
堤長が1,050メートル。農業用水・発電用水を貯めるアースダム(堰堤)の特性として堤長が長くなることは多いが、多目的ダムとしてはこれまた一番長いという。また、レクリエーション機能(いわゆるダムの役割(目的)記号の「FAWIP」にない「R(=Recreation)」)を有していて、この役割を担うダムは国内2基でだけ、長沼ダムと兵庫・石井ダムしかない。めちゃくちゃ地味だけど、非常に貴重なダムなのである。(写真上:長沼の湖畔にある公園「長沼フートピア。奥の湖面に漕艇場のコース看板が見える。)



長沼ダム(長沼)は、迫川(はさまがわ)に接している。迫川は北上川の支流で、昔から暴れ川といわれ、毎年のように農地や宅地に湛水被害を及ぼしていた。迫川に限らず、北上川下流の支流では北上川の水が逆流して被害を大きくしてきた。
そのため、隣接していた長沼に導水路を築き、増水時に水を引き入れて下流部を守るというのが長沼ダムの大きな役目である。そのため平場の沼に水を引き入れるため、どでかいコンクリート式のダムが必要ということではなく、2,700メートルートル導水路(写真上)もダム施設の一部で、ダムの構造を示す各ランキングで上位に押し上げているのである。
迫川に接する導水路末端には、川の堤防より低い越流堤(写真上)が設けられていて、迫川の水位が上がると水が長沼に流れ込むという仕組みだ。迫川を挟んだ迫川左岸には南谷地遊水地もあって、非常時には長沼ダム付近は下流部の登米地域を守る要となっているのである。



もう一つのダムは、鳴子からの帰路、県境を越えた山形・赤倉温泉の上流にある「最上小国川流水型ダム」だ。「流水型」?ちょっと聞きなれないことだけでも貴重な気がするが、初めにこのダムのある場所の背景や環境に触れておきたい。
最上小国流水型ダムのある赤倉温泉は、山形県最上郡最上町、宮城県の県境に位置する秘湯だ。小規模な温泉宿が数軒、今年の暖冬少雪の中、冬季国体の会場となった赤倉温泉スキー場がある。そこに流れているのが最上川の支流・小国川は急流で清流、「松原アユ」というブランドにもあっているアユの遡上地であり、手つかずの自然が残されていた。
「脱ダム宣言」の運動が高まる中、最上川の有力支流の中でダムのなかった小国川でのダム建設は、当然のように漁協を中心として建設反対、温泉への影響や森林伐採による環境変化を憂う声も上がる中、度重なる温泉街の浸水被害から守るということから、環境にやさしい「穴あきダム」の建設が計画された。それが今回紹介する「最上小国川流水型ダム」だ。



堤高41メートル、堤頂長143メートル、2020年完成、山形県が事業主体の見た目は普通の重力コンクリート式ダム。ただ、堤体下部にある常用洪水吐は小国川の水面レベルとほぼ同じで、常時、流れ込んだ水をそのまま流す仕組みになっている。つまりコンクリートの壁(ダム)に穴をあけただけのシンプル構造で、いざという時に一時的に水を受け止める。これが流水型ダムといわれるものである。
洪水調整に特化したダムで、普段は水を貯めないため水質の悪化はなく、川の流れとともに土砂も流れる。計画高水流量(ダム計画において設定される、河川に流れ込む計画上の流量)330立方メートルのうち、洪水時にはダムに設けられた洪水吐口から80立方メートルを下流に流すという仕組み。(写真上:ダム上流部。普段は水を貯めこまない。)
流水型ダムは歴史的には以前からあるものの、「脱ダム宣言」からも環境にやさしく、工費や管理費削減にも貢献するとのことで注目が高まっている。小規模ダムがいくつか建設中であるが、2029年完成予定の福井・足羽川ダムは流水型ダムのなかでも大規模なものとなる。治水目的のダムは、「命を真ん中に考える」ことでもある。

※今回紹介に二か所のダムは現地管理所に人は常駐しておらず、ダムカードについては、長沼ダムはクルマで10分ほどの「宮城県登米合同庁舎」で、最上小国川流水型ダムはすぐ下流の赤倉温泉「赤倉湯けむり館」で配布している。
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東北随一のアーチダム「鳴子ダム」のすだれ放流裏話

2024年07月08日 | 土木構造物・土木遺産


北上川をさかのぼるのは少し後回しにさせていただき、今回宮城県に長居をしてしまったきっかけを作ったダムである「鳴子ダム」を紹介することにしたい。申し訳ないことに、ここを訪れたのは今年4月の下旬。広瀬川や貞山運河、石巻を訪れたのと前後しての話になる。(すでにFacebookには投稿済み。)
きっかけは、鳴子ダムに限ったことではないが、毎年春先にダムの水を観光放流するという情報を入手。このダムの放流は「すだれ放流」と言われ、美しいと評判。しかも、観光公社が主催する「鳴子ダム直下見学ノルディックウォーキング」というイベントに参加できることになった。
ノルディックウォーキング?まあ、片道3キロというから大丈夫!新潟からだとちょっと遠いし、午前中のイベントということもあって、前泊して鳴子に向かうことになった。まあ、鳴子ダムのあるのは江合(えあい)川(別名「荒雄川」ともいう。)といって、北上川の支流。北上川についに踏み込むことにもなった場所でもある。



鳴子ダムの完成は1957年(昭和32年)。外国人技術者に頼らず、日本で初めて日本人だけで建設をしたアーチ式コンクリートダムだ。堤高94.5メートル、堤頂長215メートル。東北地方整備局直轄の洪水調節、不特定用水、発電などを目的とする特定多目的ダムで、2016年に土木遺産に選奨。
すだれ放流は観光の意味合いが強いが、今回実施したのは3日間のみ。雪解けの水をダムにため込み、農業用水にも利用されていることから、毎年春先にか実施されている(そのほか、利水目的で自慢の斜坑トンネルの常用洪水吐からの放流ももちろんある)。鳴子ダムは鳴子峡とともに鳴子温泉郷のシンボル的なダムであり、すだれ放流は一大イベントでもある。
今回のウォーキングツアーは、ガイド付きで管理用の道路を歩いてダムの直下まで行けるのが魅力。高さが100メートル近くあるアーチ式ダムで、堤頂付近の非常用洪水吐から流れ落ちる水は、さぞ迫力があるかと思っていたら、むしろ華麗で美しい。



ところで、鳴子ダムのすだれ放流、3年前まではゴールデンウィーク中に実施され、夜のライトアップなども行われていた。観光の度合いが強いといったとおり、鳴子温泉の春の風物詩として定着していたのだが、ライトアップは2022年の開催途中で突如中止。すだれ放流も2023年からは4月中の平日開催になってしまった。
これもコロナの影響?もあるのかもしれないが、ウォーキングツアーのガイドの話では、あまりにも人が押し寄せて、温泉街を貫く国道47号にまでも大渋滞を引き起こし、警察から中止を要請されたのだそうだ。なにせ、2022年のすだれ放流&ライトアップ時には、ダム脇の駐車場までの2キロは3時間以上の渋滞だったとか。
地元の観光資源であり、住民や観光客の交流の場所でもある鳴子ダム。整備局のダム管理所が掲げるダムビジョンでも「地域の連携」を大きく掲げているが、ダム見学に関係ない人まで巻き込む大渋滞は確かに困りもの。渋滞対策などを施した計画の練り直しが必要であるとのことだが、ダム駐車場は狭く山あいの一本道であることから、根本的解決策は容易には見つかりそうもないとのことだ。




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東日本大震災、最大の悲劇・大川小学校を訪ねて「命を真ん中に」を考える

2024年07月05日 | 旅行記・まち歩き
仙台市内から名取川河口へ、そして運河伝いに石巻へたどり着いたが、実は一回の滞在ですべてを取材しているわけではなく、春先から何回となく新潟から宮城へと訪れて記事にしている。
自分としては最終的に北上川を紹介したいと思っているがその布石であり、本流を前に寄り道してしまっている感がある。確かに常願寺川や只見川などにも何回も足を運び、次々に見どころを見出しては話をつないでいたことを思い出す。川沿い見渡すと(今回は運河などの紹介も含んで)、話は長くなってしまいがちなんですよねー。
ただ北上川の話に行く前に、震災支援で石巻に足を踏み入れたことによって、どうしてもここの場所は避けて通れない場所。これから紹介しようと思っていた北上川ではあるが、奇しくもその河口に位置する「石巻市震災遺構・大川小学校」がそれである。



これまでも東北沿岸沿いを何回か訪れ、震災関連施設で遺構や伝承館、メモリアル施設などはこのブログでも紹介をしてきた。被害の大きかった宮城県沿岸であるが、以前に紹介した「旧気仙沼向洋高校」や石巻に入ってこのブログでは前々回紹介した「宮脇小学校」、「荒浜小学校」は学校にいた児童・生徒は全員無事であった。
津波の高さ、石巻市は9メートル、「釜石の奇跡」といわれた岩手県釜石市では12メートル。しかし、釜石市の小中学生でも、登校していた児童生徒が津波により死亡した例はなく、欠席や下校途中で5名が亡くなっている(生存率は99.8%)。
ただ、大川小学校では、震災直後校庭に待機した児童78名中、70名が死亡、4名が行方不明。校内にいた教職員11名中10名が津波により命を落としている。これは東日本大震災だけではなく、学校管理下にあって児童等が亡くなった事案としては戦後最悪の惨事なのである。どうして、大川小学校だけが?これは震災後も様々な場面で問われることになる。



ご承知の方も多いかと思うが、この惨事を生んだ経緯として、まず地形。河口5キロにあった大川小学校は海抜1.2メートル。学校から海岸方向には小高い丘があって、海の様子を確認することはできなかった。大きな揺れに見舞われた後、児童は寒い校庭に集められて、教職員は点呼や保護者への連絡にあたっていた。時間は50分も経過していた。
釜石の奇跡とは全く違っていた点として、防災教育は実施されていたものの、教職員や避難住民には津波が襲来するという危機感がなく、児童を迎えに来た保護者が「大津波が来る」と叫んでも、教職員は「落ち着いてください!」と諫めていた。児童の中にも「早く逃げよう」という子どももいた。スクールバスも会社から「子どもを載せて避難」の無線が入っていたが、その日は校長が不在で避難を判断する大人の統制が取れていなかったのか、教頭と学校に避難してきた地区住民の間で、避難する場所で口論となっていたともいう(教頭は「山に上がらせてくれ!」と訴えていたそうだ)。
危険回避の認識の欠如、避難の遅れに加えて、こともあろうか川の土手を目指して避難してしまった(写真下:新北上大橋付近の右岸道路から見る北上川)。実際、校庭を挟んで校舎の反対側には小高い山(標高75メートル、写真下)がある。子どもたちも自然学習などでよく上っていた山だそうである。認識がなかったことで、情報の確認、避難の時期や方向判断を完全に誤ってしまったことなどが被害を大きくしてしまった理由である。



ボロボロになった校舎を目の当たりにしてショックは大きいのだが、すぐそこに裏山があるのを見上げて複雑な気持ちになる。荒浜小学校や宮脇小学校、釜石の小中学校で伝えられた「不幸中の幸い」や「間一髪の避難」、「大人や子どもの機転」などは、ここにはない。
大川小学校があった地域は津波により壊滅状態であったために、この大惨事が発生していたことは次の日になってから詳細が伝えられることになるが、十数年経過したいま、「大川伝承の会」が作成したパンフレットには、「じっとしゃがんで待っていた校庭はどんなに寒くて、怖かったでしょう。黒い津波を見たときに何を思ったでしょう。事実に向き合うことは容易ではありません。」との記載され、後世に悲惨な出来事を継承している。
校庭や周辺は公園化され、校舎脇には「大川震災伝承館(写真下:館内の展示の様子)」が整備された。土手への避難経路の途中、多分津波に多くの児童や住民が巻き込まれた地点には慰霊碑(写真下)があり、ただただ何回となく涙し、手を合わせることしかできなかった。とにかくいざという時に、「命を真ん中に考える」ようにしたいとの思いを強くするばかりだ。


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「いしのまきかわまち」は、「元気のまち・石巻」を象徴する施設に

2024年06月29日 | 旅行記・まち歩き
せっかく日帰りという強攻で石巻まで足を延ばすことを想定し、朝早く新潟を出発したんだから、せめて昼メシぐらいは地元の名物でもと思ってお店を探す。まあ、健康上の理由もあって、食べれるものは限られているのだが、その中でもやっぱりここまで来たのだからおいしい魚でもと思う。石巻魚港がありますからねー。
以前訪れた、女川や気仙沼、釜石などでも地物をいただいてきたが、ここでもおいしいものを探すと「かわまち交流拠点」なるものが。市街地を流れる旧北上川のすぐそばにあって、その中に地元の物産や食材をそろえた「いしのまき元気いちば」なるものを見つけた。どうやら食事も楽しめそうな場所だ。
「かわまち」とは、確か前回貞山運河で取り上げた名取川河口の「かわまちてらす閖上」もちょっとだけ紹介した。国土交通省の制度で、川と深くかかわる地域の資源を活かし、川を理解し親しんでもらおうという取り組みがあるようで、多分、石巻の場合もその制度によるものだろう。



市街地のど真ん中、ちょっと狭い道路を入らなければならないが、川の土手沿いに「いしのまきかわまちパーク」にたどり着く。立派な交流施設や公園などのエリアの一角に「元気いちば」がある。広々とした1階フロアには、海産物を中心とした地元の物産、加工品やお土産品、生鮮なども並べられている。
クジラ肉をお使ったイタリアンバーグという缶詰は、アル・ケッチャーノの奥田シェフ監修。東北のこだわりか?オイスターパテやフレークの瓶詰?金華さばの干物やホヤを使った加工品、そのほかにも地元の銘菓や個性あふれる特産野菜なども並べられている。
そしてお目当ての「元気食堂」はその二階。140席を誇るフードコートだが、ここでも金華山沖で捕れた数多くの種類の魚介類を調理して提供するコーナーがある。テラス席からは、旧北上川から河口方面を望むことはできて、さわやかな川風を浴びながら地元の味をいただくことができる。そりゃ一人だったけどテラスのテーブル席に陣取りました。



メニューも、カキフライや牡蠣ラーメン、石巻焼きそば、金華さば焼き定食、ローストホエール丼などのここならではのメニューが並んでいるが、まあ欲張りな自分は様々ネタがたっぷり乗った海鮮丼をチョイス。白飯で!ちょっと、イクラが健康上の理由で失敗した感があったのだが、せっかくなので少しだけいただいた。場所や雰囲気も合わせ、ちょっと贅沢なランチになった。
この元気いちばの片隅にも仮面ライダーの像がった。とにかく石巻市街地には、仮面ライダーやサイボーグ009の像があちこちに設置されている。作者の石ノ森章太郎氏は、石巻市の北にある登米市の出身だが、石巻市がいち早く市街地の賑わいをもたらしたいと石ノ森氏のゆかりの地として「マンガミュージアム」構想を打ち立てた。
旧北上川の中瀬には、石ノ森氏がデザイン(原案)した宇宙船のような「石ノ森萬画館(2001年開館)」があって、元気食堂のテラス席から正面に見ることができる。もちろんこの萬画館も東日本大震災の際の津波により甚大な被害を被ったが、仮面ライダーやサイボーグ009はすでに市民のヒーローで、こちらの施設も石巻の象徴であることから、震災の翌年にはこちらも「元気に」開館したという。

※「石巻地区かわまちづくり」は、2022年度の「かわまち大賞」を受賞。河川空間を活用し、地域の賑わいを創出した先進的な事例として国土交通大臣から表彰を受けている。



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宮城・震災遺構の訪ねて、復興支援と鎮魂・祈りの旅は続く

2024年06月24日 | 旅行記・まち歩き
これまでも、岩手県や福島県の太平洋沿岸を「復興支援の旅」と称して訪問してきたが、今回訪れた宮城県の沿岸部でも東日本大震災における津波の被害は甚大なものがあったことはご承知のとおり。
以前、女川を訪れた時に記事を掲載しているが、今回訪問の名取市から仙台市、石巻市にかけても震災の遺構や伝承施設、慰霊碑、メモリアル公園など、震災関連施設が数多い。青森県を含む4県中、その施設数が一番多いのが宮城県で、137か所。
震災以降には一部民間の被災ホテルなどが保存・公開されている場合もあるが、その多くは公共施設。震災やそれに伴う津波の脅威を教訓とするため、今回の宮城県訪問の中で立ち寄ることのできた震災遺構3か所をご紹介しておきたい。



まず仙台市若林区の「震災遺構、仙台市立荒浜小学校」。仙台市街地から10キロほどのところにあり、海岸から約700メートルに位置している。先に紹介した貞山運河に近く、震災当時2,200人ほどが住む集落を学区に、91人の児童が通っていたという。
3.11の際の津波は、地震発生後1時間ほどで校舎の2階部分まで押し寄せた。先生は校庭にいた児童を校舎内に入るように促し、上階に避難。児童は全員無事だったものの、周辺の住民も多くが学校に避難し、水没した周辺地域の中に数多くの人が取り残されることになった。
自衛隊の駐屯地が近くにあったっことなどもあり、その日の夜から翌日にかけて、学校の屋上から一人一人をヘリコプターで釣り上げ避難に成功したという。それほど規模が大きい学校ではないので、屋上も狭く決死の救出作戦だったに違いないが、先生方の機転や自衛隊員の使命感に敬意を表し、拍手を送りたい。



途中、野蒜築港後に行く前に立ち寄ったのが「東松島市震災復興伝承館」。目の前に東名運河があって、旧JR仙石線「野蒜(のびる)駅」を改修したもの。そう、停車中の電車に津波が押し寄せて、無残にがれきに押し流された現場がここである。
電車こそ撤去されたが、旧野蒜駅のホームなどは、震災当時そのままに残されており、駅舎を活用した伝承館には、東松島市の被災者が自らの体験を語る映像を見ることができるし、多くの被災写真などが展示されている。元の駅周辺は公園整備され、慰霊碑や市内犠牲者の名前が記されたプレートも設置されている。
甚大な被害で長期間にわたり仙石線は不通となっていたが、JR東日本はこの区間(陸前大塚から陸前小野までの巻)の路線を高台に移設・付け替えすることになり、2015年野蒜駅も新線に移転・営業を開始したのである。ここでも街並みが大きく変わったが、震災の記憶は周辺住民の目や心に刻まれて伝承されていいく。



石巻市は、東日本大震災の死者数・行方不明者数が3,970人(石巻市ホームページ、令和6年2月現在)で、被災した市町村別の中では最多の町である。旧北上川河口があり石巻湾に近いところに市街地・住宅地など人口密集していたと地形にもよるが、津波というだけでなく、津波がもたらした市街地の火災により被害が拡大、多くの犠牲者を出したという。
旧北上川の河口に近い復興祈念公園の前に「石巻市震災遺構門脇(かどのわき)小学校」がある。津波被害のほか火災にも見舞われたのが石巻のあるが、こちらも幸い登校して避難した児童に死者は出ていない(正確には、震災直後、親が迎えに来て帰宅途中に災難にあったケースはあるとのこと)。震災直後、津波の危険を察知した教職員は、学校の裏山(日和山公園)に教壇を立て掛けて、児童を避難誘導したという。
これまでに見た震災伝承館の中でも、当時を被災状況を目の当たりにできるほか、展示物やメッセージ、被災当時の伝承映像などは説得力がある。伝承館の職員は、「津波の際の垂直移動(避難)だけでなく、平行移動も考えないといけない」と語ってくれたのも印象的であった。

いずれも痛ましいく、悲惨な現場でもあるが、目を背けてはいけないし、教訓として伝えなければならないと思いから、まだまだ東北復興支援の旅、鎮魂と祈りの旅は続く。
(以前、同じ宮城県気仙沼市の「東日本震災遺構・伝承館(気仙沼向洋高校旧校舎)」を訪れた時(2020年10月)の記事も参照いただければと思う。)
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「野蒜築港」建設は運河を結び、川を結び、太平洋と日本海を結び

2024年06月18日 | 土木構造物・土木遺産


広瀬川から少し離れて、もう少し「貞山運河」とその関連事業の話をしたい。日本最大・最長の50キロに及ぶ貞山運河(写真上)が土木学会選奨土木遺産とも紹介した。しかし、ただの仙台城下の水上交通網として整備されたわけではなく、その後、国を挙げての大きな構想の中で重要なポジションに位置付けられていた。
確かに貞山運河・北上運河の中でも、江戸前期に開削された阿武隈川から名取川河口に及ぶ「木曳堀」は、伊達政宗が殿様であった時代のもの。その名のとおり船が引いた材木が仙台城下の街並み整備に活用されたことだったのだろう。
次に、七北田川河口と塩釜湾を結んだ「舟入堀(一部、砂押川を活用。現仙台港の建設により一部寸断)」が完成。明治期に入って、成瀬川河口と旧北上川を結んだ「北上運河(写真下・2枚目)」(北上運河は、定川を挟んで南北上運河・北北上運河と呼ばれる)、その後松島湾と成瀬川を結ぶ「東名(とうな)運河(写真下・1枚目)」、そして明治期にすでに開削されていた名取川と七北田川を結んだ「新堀」の改修事業の完成で、全線開通となるわけである。



明治期に入って、貞山堀が脚光を浴び、その他の運河群の建設に拍車がかかったかというと、成瀬川河口に日本初の近代的港湾を建設するという国家の一大プロジェクト「野蒜築港(のびる・ちくこう)」が建設されることになったからである。
明治政府の大久保利通は、東北地方の発展のためにと河川の活用と港湾の建設を推進するため、拠点となる港の候補地選定をかのお雇い外国人のファン・ドールンに依頼した。さあ、ドールン大先生はいくつかの候補地の中から野蒜を最適地として推挙。築港建設事業とともに貞山運河の延伸、北上・東名の各運河が建設されていたのである。
1882年、野蒜築港は一応完成したものの、風や波浪、漂砂・流砂の影響を受ける場所であったことから、3年後の台風で壊滅的被害を受け廃港・廃棄されることになる。ドールン設計の鳴り物入りの港は鉄道網の発達など陸上交通の台頭もあって、波の中に消えてしまった。
運河はそのまま残されたが、野蒜築港の遺構についてはあまり残っていない。土木学会は、2000年(平成12年)に、野蒜築港跡地や北上運河、東名運河、貞山運河、北上運河が旧北上川に接続される場所に建設された「石井閘門(一番下の写真)」の一連の施設を「野蒜築港関連事業」として土木遺産に選奨している。(写真下・野蒜築港の碑・遺構群)



ところで、お雇い外国人土木技師・ドールンだが、先にこのブログに登場している。そう、福島の「安積疎水」を紹介した記事で、ドールンは野蒜築港と同時期に福島でも偉大な功績を残している。疎水と築港、同じ土木事業でも少し色合いが違うように感じられるが、これは密接に国家プロジェクトでつながっている。
今回紹介した運河は、北からいうと北上川と阿武隈川をつないだものであり、阿武隈川を遡って五百川、猪苗代湖へ。ドールンの功績によりそれが日橋川、阿賀川、阿賀野川、信濃川へと続くことになる。つまり、東北の太平洋岸と日本海側がつなぐ内陸水上交通網を整備するという構想があった。
現に、明治期にはこの構想をもとに、新潟港を整備するためドールンの後継者であったムンデル、エッセル、後に常願寺川の記事で紹介したデ・レーケなどが新潟港や信濃川の改修に送り込まれている。常願寺川に調査に入る以前に新潟にそうそうたる技術者が結集していたのである。こちら余談ですが。







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広瀬川(名取川)河口に目をやれば、ここにも偉大な事業があった

2024年06月13日 | 土木構造物・土木遺産


さて広瀬川物語、最終章は河口へ向かってみることにしたい。実は広瀬川に河口はない。広瀬川は一級河川の名取川の支流で、河口から5キロほどの仙台市街で名取川に合流している。したがって今回紹介するのは、正確には名取川河口付近ということになる。
海岸線に沿って砂丘地が続く場所だが、その砂丘地の中、つまり内陸に日本最大級の運河が存在する。これが「貞山運河(ていざんうんが)」と言われるもので、外海を通らず船が安全に航行できるようにと、江戸時代から明治期にかけて掘られたものである。
各時代にわたり、数か所ことに掘られたものだが、その長さは50キロにも及ぶ。途中、松島湾でいったん海とつながる部分はあるが、南の阿武隈川河口から北の旧北上川まで、名前や時代を変えながら川船による水上交通網として結ばれたものである。(貞山運河と呼ばれているのは、この中の阿武隈川河口から松島湾(塩釜)までの区間を言う。)



この河口付近、いやここに限らず東北の太平洋沿岸の海岸線は東日本大震災で発生した津波より、甚大な被害を受けた場所である。確かに人家は移転をしたり、新しい街並みとして整備されたりしながらも、見事復興を果たしているというのも目を見張るところでもある。
名取川の河口左岸の若林区藤塚地区には、以前紹介したことのある「アクアイグニス仙台」がある。右岸側は、閖上(ゆりあげ)漁港が再整備され、防災拠点(写真上)や「かわまちてらす閖上」(写真下)などが設置されている。
右岸の漁港付近のゆりあげ港朝市やかわまちテラスなどでは、魚だけではなく地元の食材をふんだんに使ったレストラン、カフェ、ショップなどが集まり、大勢の観光客や地元の買い物客で賑わう場所になっている。テラス席などもあって海風・川風を浴びながら、ゆっくりできる新しいスポットになっている。



貞山運河も海からすぐの内陸にあったため、津波によるダメージは大きかったが、宮城県による運河の再生・復興事業により復活を果たした。(現在は、物流の機能は担っていないが、一部は市民の憩いやレジャーの場所として、またシジミやシラスの漁場として活用されている。)
かつては、阿武隈川を使って福島県内からも木材を搬出し、貞山運河から名取川、そして広瀬川を通って仙台の城下に運んでいたという。「貞山」という名前は、伊達政宗公の「おくりな(=瑞巌寺殿貞山禅利大居士)」から命名されたものであるとのこと。ここでも伊達政宗や伊達家が登場する、どれだけ大事にされているんでしょうねー。(写真上:ゆりあげ港朝市メイプル館内の貞山運河パネル展などでも紹介。)
貞山運河は2000年(平成12年)に「選奨土木遺産」となっているが、その選奨経緯にはまだ続きがある。広瀬川を後にして、もう少し北に足を向けることにするので、後日紹介していきたい。
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