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行き先不明人の時刻表2

何も考えずに、でも何かを求めて、鉄道の旅を続けています。今夜もmoonligh-expressが発車の時間を迎えます。

福井空港訪問!福井に空港があること、ご存じでしたか?

2025年06月29日 | 旅行記・まち歩き


敦賀、小浜、三国など福井の各地を訪問し、特に交通の要所として栄えた町のその歴史や遺産群、不思議な光景を紹介してきた。港、鉄道、そして高速道路、あとは空路・空港ということになるが、福井県って空港ありましたっけ?
自分の中では福井県には空港は存在しないという認識だったが、福井市から三国に向かう途中で「福井空港」という看板が目に飛び込んできた。これは立ち寄らなければならないと思って県道を右折、すぐに空港ビルらしき建物が見えてくる。
決して大きいとは言えない建物、少し年数の経過も見て取れる。駐車場もさして広くないが、停めてあるクルマの数も少なく、玄関の真ん前のスペースに停めることができた。しかし、駐車場や建物付近に人影は見えない。利用されている?幻の空港なのか?



中に入っていいのか迷うくらいの静けさだが、「見学の方へ」との表示があってドアが開いていたので、そーっと中を覗いてみる。ロビーはきれいに整理されていて展示物なども掲げられている。正面にはエプロンと誘導路、その奥に滑走路が見える。これは間違いなく空港だ。
福井県土木部港湾空港課・福井空港事務所が管理する福井空港は、1200メートルの滑走路を持つF級(着陸帯の等級)空港(福井県坂井市)。1966年に竣工し東京(羽田)への定期便もあったが、1976年すべての定期便が休航となってから、飛行機が飛ばない空港と呼ばれてきた。
というのも、隣接の小松空港(石川県小松市)は1944年海軍飛行場として開設(現在も航空自衛隊と滑走路などを共用)され、2700メートルの滑走路を持つ空港へと整備が進められた。東京(羽田)をはじめとした国内便のほか、ソウル便など国際線も4路線。それを追行した福井空港は、なかなか追いつけなかったといったところか。



現在の福井空港は、県の防災ヘリ、県警ヘリ、ドクターヘリなどの基地という重要な役目を担っているとともに、グライダーの訓練場所としても活用されている。ただ、2023年度には小型機の発着を含めて、4600回の着陸機会があって、ここ数年の中では飛躍的な伸びを示した。
というのも、能登半島地震の発生(2024年1月1日)の際、救援ヘリが集結したことによる。ただ、駐機場が手狭なことが指摘されたことにより、福井県は有識者による検討委員会を開催。夜間の緊急着陸のための照明の設置、自衛隊の大型ヘリ(CH-47J・チヌーク?)を活用したD-MATの活動に資するように新空港ビルの建設などの構想を発表した。
福井県民でさえ空港があるという意識も低いようだが、防災の観点から空港の重要性は高い。また、プライベートジェットの離着陸も増えていることから観光面の活用なども盛り込んだ整備を図るということなので、新・福井空港が誕生する5年後を楽しみにしたい。



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「三国湊きたまえ通り」で歴史の面白さと冷酷さを知る

2025年06月26日 | 旅行記・まち歩き


福井の港町を紹介してきた。敦賀では、列車と港の連携により大陸とつながっていたこと。小浜では、港と鯖街道で都との交流があったこと。どれも興味深いのだが、三国港に来てエッセル堤を見学後、少し三国の町の中を歩いてみたが、ここにも魅力的な歴史や文化、風景があった。
三国港(ここでは、歴史的観点から「三国湊」と表記する。)のある三国町、正確には福井県坂井市三国町、平成の大合併により三国町を含む坂井郡の4町が合併し「坂井市」となった。三国湊は室町時代の「廻船式目」の三津七湊(さんしんしちそう)にも数えられ、古くから日本海側の重要な港町として発展してきた。
栄華を極めたのは江戸時代から明治期にかけての北前船の寄港地であったこと。エッセル堤を中心とした明治三大築港事業が施されたのも、この頃交易により富を得た豪商が港の整備やまちづくりに大きな役割を果たしたという。エッセル堤の建設費も地元商人が四分の一の工事費を負担したという。




三国の中心地である「三国湊きたまえ通り」を歩いてみた。ガイダンス施設である「マチノクラ(写真上)」を覗いてみると、ビデオやパネルなどで三国の町と港(湊)はどのような歴史をたどって発展してきたかを知ることができる。北前船の模型やエッセル堤の資料も展示してある。最初に来るべき場所だった。
このエリアは、今庄小浜若狭熊川宿のようなエリアとしての指定はないが、登録有形文化財である建造物があちこちで保存されている。マチノクラ隣接の「旧岸名家」は三国湊で材木商を営んでいた。江戸末期の「かぐら建て」の町屋で、内部を公開して当時の商家の生活を紹介してくれる(写真上)。
きたまえ通りの中心部には豪商・森田家が創業した「旧森田銀行本店」のモダンな建物がある(写真下)。1920年(大正9年)に建設されたもので、福井県内では最古の鉄筋コンクリート造り、大正モダンともいえるデザインと外観は、古い建物が多い通りの中でも異彩を放つ。抜群の存在感だ!




エッセル堤の建設には、森田家など豪商6人の存在があった。旧森田銀行の森田家もその一つだが、中心人物とされた旧内田家跡地は、旧森田銀行の斜向かいで更地(駐車場)になっていた(写真上)。森田家は鉄道の開業(現・えちぜん鉄道三国芦原線)を機に金融業にシフトし再生を果たしたものの、内田家はじめ他の豪商の多くは倒産廃業など衰退に至ったという。
三国湊は、そんな繁栄と衰退の歴史を見ることもできる場所。ただ、古い建造物をリノベーションして、ここでもカフェや宿泊施設など、観光地として賑わいを取り戻す機運がある。北前船寄港地の日本遺産登録による効果もあるだろうが、土木遺産のエッセル堤も一役買っているようだ(写真上:エッセル堤を紹介するマチノクラのパネル)。
きたまえ通りから三国駅に向かう通りからは、丘の上に「坂井市龍翔博物館」の堂々たる姿が見える。1879年(明治12年)に建設された龍翔小学校を模して1981年に建設された(写真下:市街地から見る現・龍翔博物館と、当初建設された龍翔小学校の写真)。当時の龍翔小学校は、かのエッセルがデザインしたものだと長年言われてきたが、どうやら違うという説が。歴史とは面白くもあり、その探求は時に冷酷でもある。



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若狭・小浜は御食国、日本遺産の鯖街道で鯖寿司を頂く

2025年06月18日 | 旅行記・まち歩き


小浜にお邪魔した目的となると「鯖街道」について知りたかったから。市街地中心にある「まちの駅旭座」の駐車場にクルマを止め、その近くにある「鯖街道ミュージアム(見出し写真、写真上)」へ。実は、前回紹介した伝統的な街並みがあるというのもここで教えてもらったネタである。
ミュージアム前の通りの歩道には「鯖街道起点」のプレート(写真下)があって、エントランスには鯖街道の途中にある宿場や峠、主要な場所を僅か数十メートル内に収めたモニュメントが配置されて、施設の中へ誘ってくれる。決して大きな建物ではないが、2020年オープンというのでまだ新しい。
鯖街道をはじめ、北前船や小浜の文化財・伝統行事など、日本遺産に選定されたことを契機に設置されたもので、私が求めていた情報を得るためののガイダンス施設としてはぴったりのもの。管理をしている初老の女性が丁寧に説明してくれた。



鯖街道は、「若狭街道」が主ルートとされている。小浜藩から都である京都への物流路線であるが、実は1本の路線ではない。管理人の女性の話によると、時代や輸送方法(人力、牛馬、琵琶湖を利用した水運、後の自動車輸送など)から東西にいくつものルートが存在していたという。
「京は遠くても十八里」、狭く険しい峠越えを伴う72キロの道のり。牛馬や荷車も峠越えには役に立たず、荷を背負ったり天秤棒によって行商人に担がれその足や肩に委ねられることになる。それが、一昼夜。なんと次の日には京都の出口・出町(左京区河原町今出川付近)にはサバが届けられていたという。
その距離からして輸送の方法・ルート設定や行商人の脚力に驚かされるところだが、小浜で水揚げされた新鮮なサバに塩をする加工技術も高かったのだ。行商人の足にも負けず、足の速い(痛むのが早い)サバのことだから「ひしこ」にする技術などもそのゆえんかもしれない。



鯖ミュージアムで仕入れた情報を基に、小浜からクルマで30分弱、鯖街道の入口にあたる「熊川宿(福井県三方上中郡若狭町)」にお邪魔する。街道そのものが日本遺産に認定されているほどその沿線には歴史・文化的にも見どころも多いのだが、この熊川宿はその中でも最大の宿場町。ここも重要伝統的建造物群保存地区に選定されている。
町屋や土蔵、神社仏閣、番所などの建造物に加え、名水百選の街道沿いの水路、古い建築物を利用した資料館や飲食店、土産品を扱う店など、小浜に続きタイプスリップしながらまち歩きを楽しめる。急激な人口減で旧街道が取り残されゆえ保存に至ったとされている。
宿場の一番奥(今津・京都寄り)には、「道の駅若狭熊川宿」もある。ここにも「鯖街道ミュージアム」なる資料館があるが、こちらはマンガで街道を紹介している。私はというと、まず道の駅の食事処で「鯖寿司」を頂くことに!さすが御食国の鯖街道のサバ、とても美味でした。

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福井に戻って、小浜の伝統的な街並みに吸い込まれる

2025年06月15日 | 旅行記・まち歩き


地元の味噌醤油蔵を訪問して気づく。新潟県村上市塩谷は、前回も紹介したとおり北前船の寄港地であった。北前船寄港地等のゆかりの海岸集落では、独特の景観・街並みが見れるし、有形文化財に指定される建物なども多い。新潟県内でも、佐渡の小木や出雲崎、そして昨年訪問した富山の岩瀬浜や放生津(射水市)などもそうだった。
話は、福井に戻る。敦賀からクルマで舞鶴若狭自動車道使って1時間弱、福井県の最西端にある町「小浜(おばま)」。こちらも、若狭湾(写真上)に面する入り江にある港町で、北前船の寄港地でもあった(写真上:市内「鯖街道ミュージアム」に展示されていた小浜所属の北前船の船絵馬。これほど多くの船が一堂に描かれているのは珍しい。)。若狭や越前、丹後の国は、京都にも近く、大陸にも近い、加えて若狭湾の入り江という良港立地もあって古くから港を中心として栄えたところも多い。
敦賀まで来て、時間の制約がある中、滋賀県の長浜にしようか?それとも小浜に行こうかと悩んだ末、鯖街道と若狭一宮(若狭彦神社・若狭姫神社)が気になったことから小浜を選んだのだが、今庄宿に続き、ここにも国の重要伝統的建造物群保存地区が存在していた。



敦賀や今庄と同様、小浜も古くから交通の要所とされてきた。若狭街道と丹後街道が交錯しているし、その港は北前船の時代以前から海と都(奈良・京都)を結ぶ結節点として、人や物資、そして文化の交流点として栄えた場所である。
「鯖街道」や「御食国(みけつくに)」の発祥地であるが、これらの言葉を紐解くと、都との結びつきの歴史は古代にも及ぶという。古刹と言われる寺院も多く、伝統行事や独特の食文化も地域の人々によって守り伝えられた地域でもある。
毎年三月、奈良・東大寺の「お水取り」という行事が行われるが、その行事に使う水は小浜で汲み上げられた水が奈良に送られているのだそうだ。東大寺の「お水取り」の対とされる行事で、小浜では「お水送り(毎年3月2日に実施)」という重要、かつ春を告げる行事だそうだ。




重要伝統的建造物群は中心市街地の西側(小浜西組)に位置する。「三丁町(さんちょうまち)」は北前船の交流による賑わいにより形成された茶屋町だった。狭い路地にシックな建物が並び、ベンガラ格子や袖うだつも当時の雰囲気を伝えてくれる。平日だったため、静寂の中でタイムスリップした気分を味わえた(写真上)。
そのほか、町の中心地「まちの駅・旭座」には、福井県では最古の「旭座」という明治期の芝居小屋が残されている(写真下)。というより、まちの駅の中心施設として現役の芝居小屋として落語会や映画の上映会、地域のイベントや発表会にも利用されているという。とにかく歴史的な建造物や行事が多いんです。
敦賀を大陸との玄関口と紹介したところだが、都からのアクセスを考慮すると、江戸時代以前は海の玄関口としての小浜の存在は大きい。「海と都をつなぐ若狭の往来文化遺産群(御食国若狭と鯖街道)」が全国唯一「日本遺産プレミアム」に選定されたことも、ここに来ると容易に理解できるのである。





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敦賀の町は「海を越えた鉄道」の玄関口であった

2025年04月18日 | 旅行記・まち歩き


さて、かねてから訪ねてみたいと思っていた町、それは福井県の「敦賀市」である。新潟からクルマで出かけるには少し遠いものの、春の到来とともに今年のまち巡りの最初に思い切って出かけることにした。
敦賀は三方を山で囲まれていて、北側には敦賀湾。若狭湾の東端にあたり、ここは北前船の時代からの良港でもあった。古くは若狭街道・北国街道、鉄道では北陸本線の要所として栄えてきたことは容易に想像できる。(写真上:舞鶴若狭道から見た敦賀市遠景と敦賀港「みなとオアシス敦賀」脇のモニュメント)
そう、昨年3月、北陸新幹線の金沢・敦賀が延伸開業し、福井県も新幹線の走る都道府県に仲間入りするとともに、北陸新幹線の始発(終着)駅となった敦賀の町は、再び交通の要所として注目を集めている。



鉄道は、1884年(明治17年)に長浜・敦賀間が開業。当時は東海道線の一部として、その後北陸線として福井・金沢・富山と延伸されていく。敦賀開業当初は、終点は「敦賀港(つるがみなと)駅(正確には「金ケ崎駅」が最初)」であった。
この敦賀・敦賀港の間は、福井延伸によって盲腸路線となるのだが、この路線こそ「港の町・敦賀」と「鉄道の町・敦賀」を結びつけ、名実ともに「港と鉄道の町・敦賀」を作りあげることになったのだ。
というのも敦賀港では、明治期からウラジオストク航路が開設され、その後も朝鮮半島や旧満州への玄関口となった。敦賀と敦賀港の間の支線(通称:敦賀港線)は、東京からも船との連絡を図るための「欧亜国際連絡列車」が直接乗り入れる路線だった。(写真上:敦賀駅から港に伸びる旧敦賀港線)



第二次世界大戦の影響などにより、旅客列車は廃止されるが、その後も不定期の旅客列車や貨物線(国鉄分割民営化により「JR貨物」が運用)として利用されていたが、2009年(平成21年)ここを走る列車の姿は消えた。
といっても、比較的最近まで使用されていたということもあり、廃線跡はしっかり残っている。敦賀港駅(旧金ケ崎駅)付近は金崎宮・金ケ崎城跡など金ケ崎公園として市民の憩いの場となっている。(写真上:金ケ崎公園内の金崎宮への参道と貨物駅構内にあった汽車用のランプ小屋)
また、欧亜国際連絡列車の発着駅であった旧敦賀港駅舎(1913年建設)は、敦賀港の金ケ崎緑地(敦賀市港町)に復元され「敦賀鉄道資料館(写真下)」として公開されている。これが「海を越えた鉄道」と言われている文化庁もお墨付きの鉄道遺産回廊の中心都市・敦賀なのである。

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亀田郷土地改良区へ佐野藤三郎氏を訪ねたてみた

2025年03月31日 | 旅行記・まち歩き


その日は雨の日だったが、新潟江南区にある「亀田郷土地改良区」の事務所を訪問することを思い立った。もっと早くに取り上げるべきだったが、佐野藤三郎氏を紹介するため、佐野が長く理事長を務めた土地改良区に行けば何か情報を得られるのではないか?との思いからだ。
佐野藤三郎は、1923年(大正12年)新潟市生まれ。鉄道員として新潟駅に勤務する中で農民組合に参加し、1955年、32歳の若さで亀田郷土地改良区の理事長に就任。区域内の乾田化や農業技術の確立、都市計画や国際交流の分野にも手腕を発揮した人物である。
1994年(平成6年)、農林水産大臣賞(ダイヤモンド賞)・土地改良事業功労者表彰を受賞するが、受賞したその日の夜に宿泊先のホテルで急逝、享年70。しかし、佐野の功労は新潟平野を一大穀倉地帯に押し上げるとともに、天命は脈々と後世に引き継がれ進化しているのである。



以前、新潟西蒲区には信濃川やその支川である西川・中之口川などがたびたび氾濫を起こしていて、そこには大河津分水や山を切り抜く放水路が切り開かれたことを紹介し、田沢実入、高橋竹之介、青山士などの功績を紹介したことがあったが、亀田郷(新潟江南区)には佐野藤三郎がいた!といったところ。
これも以前紹介したとおり西川(大河津分水から西蒲区・西区を流れる)は海抜ゼロメートル地帯の川。一方、亀田郷は阿賀野川と信濃川に挟まれた海抜「マイナス」地帯を形成し、毎年のように洪水に見舞われるほか、普段でも湿田として農作業は田舟を利用しなければならない地帯であった(写真上:新潟市歴史博物館「みなとぴあ」の旧河川図(再掲)と近代の断面図、写真下:船を利用しての農作業の様子)。
この湿田を乾田化に取り組んだのが佐野である。国の各省庁に湿田での農作業や農家の実情を申し立て、農業基盤整備の重要性を働きかけた。何度も何度も東京へ足を運び、中央官僚もその熱意に動かされたという。これが亀田郷の乾田化から生産性アップや多角化経営にシフトしていき、新潟の未来をも展望し提言を行ったのである(新潟県・新潟地域振興局資料から)



佐野が理事長就任前、旧栗ノ木排水機場が完成(1948年)し乾田化は進んでいたが、これに伴う農業設備・機具の更新などで土地改良区の組合員農家は組合費の滞納などもあって、土地改良区は莫大な借金を抱えていた。その財政問題もさらなる農業基盤整備によって解消したのが佐野の最初の仕事だった。
更に、旧栗ノ木排水機場は1964年の新潟地震の液状化現象により機能が低下したため、新潟市内の最低地である「鳥屋野潟」に水を集めて信濃川に排水する提案を行ったのも佐野だった。親松排水機場の建設(1968年完成)により亀田郷の乾田化は完成し、これが「未来への提言」にもなって新潟を米王国に導いたのである。
佐野は、1975年に亀田郷地域センターを設立。同年、新潟市の都市計画審議会会長への就任。その後、中国・黒竜江省の三江平原の開発を手掛け、新潟県日中友好協会の初代会長にも就いた。三江平原の開発では竜頭橋ダムの竣工(2002年)を見ないまま道半ばで他界したカリスマの銅像(見出し写真と写真下)は、土地改良区のロビーで笑顔で訪問者を迎えてくれる。
(*佐野藤三郎氏は、他界されてまだ30年であるが、一部敬称を略させていただいたことをお許しいただきたい。)

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八ッ場ダム建設による発掘調査で「天明泥流」の実態が明らかになる

2025年03月16日 | 旅行記・まち歩き


群馬県東部、すでに紹介している八ッ場ダムがある長野原町や、吾妻川の上流での西隣の嬬恋村はユネスコの「浅間山北麓ジオパーク」に認定されている地域である。
「ジオパーク」は大地の成り立ちを知ることのできる自然遺産を含む公園のこと。この地域が日本ジオパークに認定されたのは2016年、浅間山の噴火による地質や地形、人の暮らしや動植物などがその特色となっている。
このジオパークは6つのエリアに分けられるのだが、その一番東側、吾妻川からみると下流の八ッ場ダムに近いエリアの拠点施設に「やんば天明泥流ミュージアム」がある。江戸期の浅間山大噴火と平成の大事業である八ッ場ダム建設を結びつける施設である。



長野原町では、八ッ場ダムの建設工事に伴い、1994年(平成6年)から2019年(令和元年・八ッ場ダムの完成年)までの26年間、群馬県の埋蔵文化調査事業団や町教育委員会によって大規模な発掘調査が行われたという。
その中で八ッ場ダムのすぐ上流にあたる川原湯地区からは、江戸時代後期の天明3年(1783年)の浅間山大噴火により発生した「天明泥流」で埋没した集落跡が広範囲に発見されたのだ。
やんば天明泥流ミュージアムは、2021年4月オープン。発掘調査結果により浅間山台噴火・天明泥流の全貌と被害を明らかにするとともに、当時の周辺集落の様子をよみがえらせながら、この地を襲った自然災害の歴史を後世に伝えるための施設なのである。



浅間山(写真上)は40万年前から火山活動が始まったと考えられている成層火山で、生成期により黒斑(くろふ)火山、仏岩火山、前掛火山などの噴火口をもち、大噴火と言われるものは3~4世紀ころから繰り返され、この天明3年のものが最も新しい。
8月5日に大噴火。浅間山からの泥流が吾妻川に流れ込み、川をせき止めることで氾濫、泥流が集落を飲み込むとともに、下流域にも甚大な損害を与えた。死者は1523名、被害家屋は1605戸と算出されているそうだ。
この大噴火の爆発音は、なんと京都・大阪まで聞こえたとか?降灰も470キロ離れた岩手県宮古でも観測されたとの記録があるそうだ。「鬼押出し園」を形成した火砕流もこの大噴火の活動(その前兆活動を含む)によるものだったという。



現在の吾妻線河原湯温泉付近と、吾妻川対岸の河原畑と地区は泥流が押し寄せた後に下流の吾妻峡の狭窄部があることから河道閉塞により水没、天然ダムが決壊を起こした後は下流の利根川流域まで被害を及ぼした。
ミュージアムの係員である樺沢剛志さんは、展示室のパネルを使って八ッ場ダム上流部の泥流が襲った地域と八ッ場ダムの建設にあたり行われた調査により、その被害の実態が明らかになったことを説明してくれた(写真上)。
フォッサマグナにある活火山・浅間山とその北麓・吾妻川の地形がもたらした災害記録、「泥流体験シアター」では調査を基に再現された爆発や押し寄せる泥流の様子が大画面に映し出される。これが大迫力!自然の脅威を体感できます。






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生地の清水(しょうず)を見て、黒部川の恩恵を知る

2024年12月06日 | 旅行記・まち歩き


さて、富山市を後にして立山連峰を望みながら国道8号を北上し帰路に着くことになるのだが、途中の滑川、魚津、黒部と気になる町が続く。その中で、神通川や常願寺川とともに富山七大河川の黒部川が気になる。黒部ダム?確かに上流部も興味深いが、今回は河口近くの町「生地(いくじ)」に狙いを定めていた。
黒部川は一級河川、常願寺川と同様、立山や剱岳の後ろ側(南東方向)斜面や、北アルプスの白馬、鹿島槍ヶ岳、野口五郎岳、鷲羽岳など3000メートル級の日本の屋根から積雪を含む雨などを集め、延長僅か85キロで富山湾に注ぐ日本屈指の急流だ。
ただ今回は、急流・黒部川が持つ1.2万ヘクタールの「扇状地」に、これまた扇状地特有の現象である沿岸部での湧き水を求めて生地に足を踏み入れる。「黒部川扇状地湧水群」として「名水百選(環境省)」にも選定されているが、黒部・生地では「清水(しょうず)」と呼ばれ、地域の中に20か所の湧水地がある。



生地の町には黒部漁港があり、港近くには「魚の駅・生地」がある。その目の前にも「魚の駅の清水」があるし、隣接する名水公園にも「名水公園の清水(おしょうず、写真上)」がある。少し歩くと月見嶋の清水、清水庵の清水、弘法の清水(同名の清水が3か所)、絹の清水、殿様の清水、神田(しんでん)の清水、中島の清水、新明町の共同洗い場、寺の庭先にある前名寺の清水などなど(写真下)。
どれもきれいに整備され、丁寧に看板を掲げられ自由に見学・使用することができる。地域住民が共同で使うので、利用するときはルールを守ってということだが、井戸から段々に整備されているのは、上から飲用、炊事用、洗い物用ということだそうだ。地域住民に愛されるがゆえに、きれいに整備され、案内板があり、一般にも開放されているのだと感じる。
飲んでもとても美味しい。上手くレポートできないが、実は生地の各湧水は湧出量や水質、味わいがそれぞれ異なるそうだ。ただ、水温は1年を通して11℃前後で適度なミネラルを含んだ「おいしい水」ということである。全部は飲めなかったが、自分好みの水を探すというのもいいかもしれない。



富山県の調査では、黒部市には700か所以上の自噴井戸があるそうだ。黒部ダムや水力発電所、川沿いの宇奈月温泉、黒部川に沿って走る黒部峡谷鉄道など、黒部川沿川にはいろいろな観光地や見どころも多い。しかし、最大の恩恵は扇状地の地下に流れる伏流水にある。
富山は水力発電が盛んなことから電気料金が安いといわれているが(本当なのか?どれくらい安いのかは分からないが)、その電気も然り。加えて生地をはじめ黒部市や近隣の住民はこの水を飲用のほか家事や産業に使用することで、途方もない恩恵を受けていると言って過言ではない。
扇状地上にあるYKK(生地周辺のあちこちに広大な工場がある)やアサヒ飲料の工場(黒部市のお隣の入善町)も黒部川の水を使っている。少なからず、日本の産業経済にも寄与し、私たちの生活を支えてくれている。黒部川の水は、冷たいけれど「黒部の太陽」であり「日本の太陽」なのである。
(写真下:生地の中心地にある「新明町の共同洗い場」の外観・内観)


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神通川「馳越線工事」でできた「松川」周辺の見どころを探る

2024年12月03日 | 旅行記・まち歩き


先に紹介した常願寺川が流れる富山市。ただ、富山の市街地にはもう一つの暴れ川・神通川がある。北アルプスの西側、飛騨高地の東側の雨水や雪解け水を集めて富山湾にそそぐ一級河川。古から地域を潤してきた川であるが、急流上に富山市や沿川各地では洪水の被害にも悩まされてきた。
以前神通川は、富山市内で大きく蛇行していた。市内の富山城のすぐ北を流れて、現在の富山駅の東側(現在は西側)を流れて環水公園付近で現在の神通川となっていた。この大きく蛇行することにより洪水が多発するため、明治期に河川を直線化を図るため「馳越線(はせこしせん)工事」が行われたのである。馳越線?実は初めて聞いた言葉であった。
この神通川の馳越とは、直線化する場所に小さな水路を築き、その上流部の本川堤防が洪水時にわざと越水する場所を設けておいて、徐々に馳越線の川幅を広げて直線化を図るというもので、実はデ・レーケが提案した方法。1903年に馳越線が完成、その後1914年に起こった洪水により現在の河道となった。(写真上:神通川の流れの変遷を紹介する富岩運河の看板と富山県土木部資料、富山駅周辺市街地の国土地理院地図・空中写真)



馳越線工事により、蛇行していた旧神通川(現松川)にはほとんど水が流れなくなった。市街地のど真ん中にしばらく廃川地として放置される状態が続いたが、富岩運河建設時に出る掘削土を旧神通川跡地の埋め立てに利用することにしたのだ。これも赤司貫一の都市計画構想に含まれていたもの。
現在、その埋立地には県庁(写真上)や市役所(写真上)、NHK富山放送局、教育会館など公共施設が立ち並んでいて、下流側には環水公園や市総合体育館、県美術館がある。まさに市街中心地に都市の中心施設を配置している。ここでもコンパクトシティを目指す富山市の「とやま都市MIRAI地区事業」と位置付けることができる。
また、松川は桜の名所として変身。「日本さくら名所100選」にも選定されているほか、両岸には遊歩道も整備されていて、隣接する富山城(写真上)・富山城址公園とともに市民の憩いの場、観光客の人気スポットにもなっている。市役所には展望塔があって、立山連峰や富山湾を一望できるそうだ。



松川沿川には見どころホントに多いんですよ!富山城(国指定史跡)や県庁本館(登録有形文化財)をはじめ、富山の文化遺産が集結している。「桜橋(写真上)」は国の登録有形文化財。1935年完成。鋼製2ヒンジのアーチ橋。都市計画事業の一環により川に対して斜めにかけられていて、橋の長さより幅のほうが長い。
船を連ねて作る橋「舟橋(ふなはし)」で、かつて神通川に架けられたものは日本一と言われていた。馳越線工事により「神通橋(現・神通大橋)」が完成し、現在松川に架かるものは1989年(平成元年)に完成したものだが、橋中央部に舟形のバルコニーが設けられていて、以前の舟橋が再現されている(写真上)。
松川には遊覧船も就航しているが、鉄道好きは市電で松川の橋を渡るというのはどうだろうか?前回紹介した富山地方鉄道軌道線(市電)区間には松川を渡る橋が3か所(路線)、富山港線もにも1か所ある。フリー切符を手にして3か所は走破しておきながら、目の前を走る電車を確認しながらも桜橋を渡る路線に乗ることを失念しておりました。あとで気づいた話。(写真下:安住橋を渡る軌道線T100形市電)



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新湊・放生津は、まち歩きにぴったりなスポットばかり

2024年11月19日 | 旅行記・まち歩き
富山県射水市新湊、実に魅力的な街であり、こちらもまち歩きにはもってこいのところがある。今回は時間の関係上、クルマでくるくるっと回ることになったので詳しくは触れられないが、個人的な志向で数か所だけご案内したい。



新湊には漁港があり、富山湾の新鮮な魚が味わえる店も多い。JF新湊(新湊漁業協同組合)では早朝だけでなく、午後1時からの昼セリなどを実施。豊富な漁獲高、種類を誇っているが昼セリでさらにその新鮮さは保証されているという。
そんな海の幸を求めて、前回も触れた海王丸パークにある「新湊きっときと市場」でランチを。観光バスの団体昼食の時間を避けて入店。「高志(こし)の紅(あか)ガニ」は富山のブランドガニ(写真上)。そのほかにもホタルイカ、白エビ、ブリなど富山を代表する海の幸が並ぶ。(「きときと」とは富山の方言で「新鮮な」という意味。)
施設内の海鮮レストラン「きっときと亭」で「富山御膳(写真下)」を注文。イカ黒作り、白エビ刺身、ホタルイカ沖漬けなどに氷見うどんもついてくる。安易な盛り付けに見えるがコロッケも白エビ入り。欲張りな自分は、富山湾オールスターの定食をチョイスしたのである。売店の白エビソフトクリームには手は出しませんがね!



新湊の湊町は「放生津」という町で、古くからの湊町。旧放生津潟(現富山新港)と富山湾を結ぶ「内川」という川がある。実は、3キロ弱の運河で、住民生活やこの地の繁栄と歴史にも深くかかわってきた川なのである。
放生津は、鎌倉時代には越中守護が置かれ、室町時代には「明応の政変」により将軍・足利義材(あしかが・よしき=足利義稙(よしたね))の逃亡先にもなった地である。もちろん、江戸期には北前船の寄港地としても栄える(ただし、日本遺産「北前船寄港地・船主集落」に富山市・高岡市は認定されているが、射水市(放生津)の名前はない。地元ではかなり怒りの声が上がっている?)
そんな歴史にかかわってきた内川は、ゆったりとした流れで(流れているのかな?)湊町の繁栄を支え、現在も観光船が就航するとともに漁船の係留場所になっている。ここを「日本のベニス」と呼んでいるようだが、その呼び方は歴史とはミスマッチじゃないかなー。



その内川の両岸のノスタルジックな街並みに加え、橋がまち歩きの中でも注目を集めている。途中、臨港道路の「奈呉の浦」にかかる「奈呉の浦大橋」を含めると15橋。歴史を感じさせる造りが街並みにマッチしていることに加え、モニュメントや足利義材の像がある橋もある。
その中で最も美しいといわれるのが「東橋」。スペインの建築家が設計したものだが、木製で切妻屋根を持つ歩行者専用の橋で、両岸に立派なガラス張りの塔がある。両岸の交流を図ることはもちろん、観光客の休憩スポットしても人気を集めている。(写真上、写真下)
日本における歴史的湊町で、日本のベニスと言われているという中で、設計者も悩んだのではないかと思うのだが、和洋折衷とも思えるシックな面持ちでありながら何かモダンな感じも否めず、見事に折衷のど真ん中を打ち抜いた感じがするのだがいかがだろうか?



私が放生津を訪れたのは10月1日。やけに臨港道路に路上駐車する県外ナンバーのクルマが多い。実はこの日は「放生津八幡宮」の秋季例大祭。県外ナンバーの正体は露天商のクルマで、橋を見に行くといっても新湊の市街地はあちこちで通行止めで何回か迂回やバックの切り返しなどを求められる。
富山市街のホテルに帰ってからテレビニュースで知ったのであるが、この日は祭りの曳山巡行の日で、各地区の曳山13基が昼は花傘山、夜は提灯山となって引き回されるのである(写真下:地元局のテレビ放送から)。富山湾沿岸の湊町で同様の曳山があるそうだが、なんでもこれらは「放生津型」という曳山文化であり、ここのお祭りが本家本元とのこと。
しかも、この行事は「国重要無形文化財」であり、「ユネスコ無形文化遺産」だったとは。まあ、このブログで紹介するネタとしてというより、単に見ておけばよかったなと。こればかりは年に一度のこと、「忘れ物を撮りに行く」ってな技はなかなかできませんからねー。



新湊大橋、海王丸パーク、富山湾の幸、内川、東橋のほかにも文化財や見どころ満載の新湊。自分としては、万葉線(新湊線、写真下)や富山地方鉄道射水線の廃線跡(写真下:旧打出駅付近)なども気になったのだが、そのほかに見どころ紹介はまたの機会とし、新湊から富山市街に向かうことにした。とにかく魅力的な町でした!

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「歩きたくなる温泉街」月岡温泉を久々歩いてみると

2024年11月15日 | 旅行記・まち歩き
新潟駅で、カヌレの店「canelé de CHIANTI(カヌレ・ド・キャンティ)」を見つけたとの記事を掲載したが、実はここのカヌレとはひょんなことで出会いが始まる。そう新潟駅万代口近くにあったイタリア料理店「Atelier CHIANTI」からのコロナ禍での進化系カヌレ誕生
娘が、近くの月岡温泉にカヌレの店がオープンしたので行こうというので腰を上げるのだが、やっぱりCHIANTIだった。新潟市内女池明神に支店を見つけ(実は見つけた時点でこちらが「本店」、駅前の店は宣言どおりイタリア料理のレストランとして再オープン)、月岡で出会い、新潟駅は4回目という出会いでもある。すでに東京の一等地に支店を2店舗、日テレ「スッキリ」やフジテレビ「めざましテレビ」など全国放送でも取り上げられている名店になっている。
今回、CHIANTIに月岡温泉で出会えるとは!月岡温泉が提唱する「歩きたくなる温泉街」という企画の中で、新潟生まれの品物を扱うコンセプトショップ群のひとつ「新潟ロースト『煎(IRU=いる)』」を出店した(写真下)。新潟駅も同様、東京だけ向いている店ではなかった。もちろん、味は変わらずでしたよ!(月岡温泉「煎」では10種類のカヌレとコーヒーを販売。)




ただですねー、この月岡温泉の他の店も注目です。CHIANTIのように、自家製品を販売する店だけではなく、体験型の店や新潟の名産品を使った店、県内の名店・名品を集めた店など、そのコンセプトに合わせて10店舗が同じデザインが施されたロゴを掲げてオープンしているんです。
県内のプレミアム日本酒を試飲・購入できる「蔵(KURA=くら)」、米菓テーマで手焼きせんべいを焼ける「田(DEN=でん)」、県内ワイナリーのワインの店「香(KAORI=かおり)」、和菓子の店は「和(NAGOMI=なごみ)」、ドライフルーツとベジタブルの店「恵(MEGUMI=めぐみ)」といったところ。
そのほか「旨(うまみ)」(干物・海産物)、「米(べい)」(米粉商品)、「甘(あまみ)」(チョコレート)、「実(みのり)」(ジェラート・スムージー)など、「煎」を加えて10店舗。温泉街を訪れた際にふらりと立ち寄って県内産を中心とした美味しいものを口にしたり、お土産として購入することができるのである。




我が家御一行様も、カヌレのほかに、「和」で和菓子とわらび餅ドリンク(写真下)を購入、「恵」でドライフルーツセルフ詰め放題を体験(写真下)してお土産にした。(出かけたのはちょうど昼どきだったが、多くの店で昼休み時間(休憩時間)を設けているので、来店時はチェック要!)
そんな購入したものを宿だけでなく、温泉街にある足湯(湯足美=ゆたび)やブルワリー(月岡ブルワリー)、源泉の森、月あかりの庭など、これまたちょっと温泉街から目を離した隙にできた魅力的な場所を散策しながら楽しみのもいい。まあ、その「歩きたくなる」といったところが狙いで、合わせて賑わいを醸し出そうというところなのだろう。




どこの温泉街はコロナ感染症による旅行控えの影響をモロに被っているし、月岡温泉も何軒かの旅館や飲食店・商店が廃業・撤退ということもあったが、その中で何と積極的に誘致・開業するという手に打って出たのが今回紹介の店。それに呼応する会社・店舗も見事としか言いようがない。
多くは新潟をアピールするうえで、この月岡温泉の地に集結をということだろうし、canelé de CHIANTIをはじめとして県外観光客にアピールする狙いもあるのだろうが、近くに住む県内住民にとっても様々な県内産の魅力を再発見できる場所にもなりそうだ。
(写真下:月岡温泉のメインストリートと足湯「あしゆ湯足美」入口)



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楢下宿の魅力、文化財の街並みと文化財級の人材も

2024年10月28日 | 旅行記・まち歩き


山形・置賜地方での滞在が長くなっているがもう少しだけお付き合いいただきたい。
最初に断ったとおり、山形県の地域区分によると、上山は「置賜」ではなく「村山」に地域区分されるのだが、置賜地域の石橋群を追いかけていると、南陽から上山に足を踏み入れてしまっていた。まあ、お隣ですからね。
先に紹介していたが、金山川に架かる新橋、覗橋があるところは楢下宿(ならげしゅく)。江戸時代、羽州街道の宿場町で、江戸方向からすると金山峠を越えて本陣を置く楢下宿は結構規模も大きく、今でも魅力的な風情を醸し出している。
宿場内の街道は、「コ」の字型に曲がるという特殊な形状をしていて(写真下:パンフの地図)、金山川を新橋、覗橋で二回渡る(写真上:宿場内の金山川と新橋、写真下:覗橋から山田屋を望む)。金山峠は仙台藩との国境で、楢下には上山藩の口止め番所(関所)が設けられており最前線の要害宿場ということからなのであろうか?



楢下宿は、江戸期の参勤交代で東北13藩が立ち寄る主要な宿場だった。出羽三山詣での行者や各藩の家中、商人も数多く宿泊したとの記録があるそうだ。最盛期には23軒の旅籠や民家も70戸ほど立ち並んでいた。
現在も200年以上の時間を超えて数件の古民家が保存(一部移築)されており、室内も公開されている。脇本陣だった滝沢屋をはじめ、庄内屋(写真下:外観)、大黒屋(写真下:内観)、山田屋、旧武田家などの古民家がタイムスリップを演出してくれる。
特に宝暦年間(1750年頃代)に建築された滝沢屋(旧丹野家)は県の指定文化財。宿場外れ(実は、峠に近い奥の方が宿頭)に1993年(平成5年)に移築・復元されたもので、上山市教育委員会からの委託を受けた地元の方々が常駐・管理し、来訪者を案内してくれる(入館料220円)。



案内人の木村富夫さんは楢下生まれ楢下育ちの82歳。歴史に詳しいことはもちろん、饒舌でユーモアたっぷり、熱い話し口は正に文化財級。床に落ちているカメムシを何気なく足で払いながら室内を案内してくれる(写真下:滝沢家外観と案内してくれた木村さん)。
滝沢屋は久保田(秋田)藩の佐竹氏と深い関りがあったようで、定宿(じょうやど)として使われていたそうだ。室内の展示物は年代もバラバラの感があって、説明も時代を行ったり来たりするが、佐竹氏関連のものが多く、説明にも力が入っていたような気がする。
宿場町の面影を色濃く残す楢下宿。石橋は明治期のものだが妙に風景にマッチしているし、お宝(文化財)の宝庫でもあり、そして木村さんのようなお宝(文化財級)地元民もいる。ぜひ一度訪問いただきたい。(「羽州街道楢下宿・金山越(かなやまごえ)として国指定文化財史跡になっている)
(滝沢屋では、説明時間を最初に告げたほうがベスト!あっという間に1時間が過ぎたのだが、まだまだ説明が続くところでした。この日は次の予定がキャンセルになってしまった。)


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東日本大震災、最大の悲劇・大川小学校を訪ねて「命を真ん中に」を考える

2024年07月05日 | 旅行記・まち歩き
仙台市内から名取川河口へ、そして運河伝いに石巻へたどり着いたが、実は一回の滞在ですべてを取材しているわけではなく、春先から何回となく新潟から宮城へと訪れて記事にしている。
自分としては最終的に北上川を紹介したいと思っているがその布石であり、本流を前に寄り道してしまっている感がある。確かに常願寺川や只見川などにも何回も足を運び、次々に見どころを見出しては話をつないでいたことを思い出す。川沿い見渡すと(今回は運河などの紹介も含んで)、話は長くなってしまいがちなんですよねー。
ただ北上川の話に行く前に、震災支援で石巻に足を踏み入れたことによって、どうしてもここの場所は避けて通れない場所。これから紹介しようと思っていた北上川ではあるが、奇しくもその河口に位置する「石巻市震災遺構・大川小学校」がそれである。



これまでも東北沿岸沿いを何回か訪れ、震災関連施設で遺構や伝承館、メモリアル施設などはこのブログでも紹介をしてきた。被害の大きかった宮城県沿岸であるが、以前に紹介した「旧気仙沼向洋高校」や石巻に入ってこのブログでは前々回紹介した「宮脇小学校」、「荒浜小学校」は学校にいた児童・生徒は全員無事であった。
津波の高さ、石巻市は9メートル、「釜石の奇跡」といわれた岩手県釜石市では12メートル。しかし、釜石市の小中学生でも、登校していた児童生徒が津波により死亡した例はなく、欠席や下校途中で5名が亡くなっている(生存率は99.8%)。
ただ、大川小学校では、震災直後校庭に待機した児童78名中、70名が死亡、4名が行方不明。校内にいた教職員11名中10名が津波により命を落としている。これは東日本大震災だけではなく、学校管理下にあって児童等が亡くなった事案としては戦後最悪の惨事なのである。どうして、大川小学校だけが?これは震災後も様々な場面で問われることになる。



ご承知の方も多いかと思うが、この惨事を生んだ経緯として、まず地形。河口5キロにあった大川小学校は海抜1.2メートル。学校から海岸方向には小高い丘があって、海の様子を確認することはできなかった。大きな揺れに見舞われた後、児童は寒い校庭に集められて、教職員は点呼や保護者への連絡にあたっていた。時間は50分も経過していた。
釜石の奇跡とは全く違っていた点として、防災教育は実施されていたものの、教職員や避難住民には津波が襲来するという危機感がなく、児童を迎えに来た保護者が「大津波が来る」と叫んでも、教職員は「落ち着いてください!」と諫めていた。児童の中にも「早く逃げよう」という子どももいた。スクールバスも会社から「子どもを載せて避難」の無線が入っていたが、その日は校長が不在で避難を判断する大人の統制が取れていなかったのか、教頭と学校に避難してきた地区住民の間で、避難する場所で口論となっていたともいう(教頭は「山に上がらせてくれ!」と訴えていたそうだ)。
危険回避の認識の欠如、避難の遅れに加えて、こともあろうか川の土手を目指して避難してしまった(写真下:新北上大橋付近の右岸道路から見る北上川)。実際、校庭を挟んで校舎の反対側には小高い山(標高75メートル、写真下)がある。子どもたちも自然学習などでよく上っていた山だそうである。認識がなかったことで、情報の確認、避難の時期や方向判断を完全に誤ってしまったことなどが被害を大きくしてしまった理由である。



ボロボロになった校舎を目の当たりにしてショックは大きいのだが、すぐそこに裏山があるのを見上げて複雑な気持ちになる。荒浜小学校や宮脇小学校、釜石の小中学校で伝えられた「不幸中の幸い」や「間一髪の避難」、「大人や子どもの機転」などは、ここにはない。
大川小学校があった地域は津波により壊滅状態であったために、この大惨事が発生していたことは次の日になってから詳細が伝えられることになるが、十数年経過したいま、「大川伝承の会」が作成したパンフレットには、「じっとしゃがんで待っていた校庭はどんなに寒くて、怖かったでしょう。黒い津波を見たときに何を思ったでしょう。事実に向き合うことは容易ではありません。」との記載され、後世に悲惨な出来事を継承している。
校庭や周辺は公園化され、校舎脇には「大川震災伝承館(写真下:館内の展示の様子)」が整備された。土手への避難経路の途中、多分津波に多くの児童や住民が巻き込まれた地点には慰霊碑(写真下)があり、ただただ何回となく涙し、手を合わせることしかできなかった。とにかくいざという時に、「命を真ん中に考える」ようにしたいとの思いを強くするばかりだ。


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「いしのまきかわまち」は、「元気のまち・石巻」を象徴する施設に

2024年06月29日 | 旅行記・まち歩き
せっかく日帰りという強攻で石巻まで足を延ばすことを想定し、朝早く新潟を出発したんだから、せめて昼メシぐらいは地元の名物でもと思ってお店を探す。まあ、健康上の理由もあって、食べれるものは限られているのだが、その中でもやっぱりここまで来たのだからおいしい魚でもと思う。石巻魚港がありますからねー。
以前訪れた、女川や気仙沼、釜石などでも地物をいただいてきたが、ここでもおいしいものを探すと「かわまち交流拠点」なるものが。市街地を流れる旧北上川のすぐそばにあって、その中に地元の物産や食材をそろえた「いしのまき元気いちば」なるものを見つけた。どうやら食事も楽しめそうな場所だ。
「かわまち」とは、確か前回貞山運河で取り上げた名取川河口の「かわまちてらす閖上」もちょっとだけ紹介した。国土交通省の制度で、川と深くかかわる地域の資源を活かし、川を理解し親しんでもらおうという取り組みがあるようで、多分、石巻の場合もその制度によるものだろう。



市街地のど真ん中、ちょっと狭い道路を入らなければならないが、川の土手沿いに「いしのまきかわまちパーク」にたどり着く。立派な交流施設や公園などのエリアの一角に「元気いちば」がある。広々とした1階フロアには、海産物を中心とした地元の物産、加工品やお土産品、生鮮なども並べられている。
クジラ肉をお使ったイタリアンバーグという缶詰は、アル・ケッチャーノの奥田シェフ監修。東北のこだわりか?オイスターパテやフレークの瓶詰?金華さばの干物やホヤを使った加工品、そのほかにも地元の銘菓や個性あふれる特産野菜なども並べられている。
そしてお目当ての「元気食堂」はその二階。140席を誇るフードコートだが、ここでも金華山沖で捕れた数多くの種類の魚介類を調理して提供するコーナーがある。テラス席からは、旧北上川から河口方面を望むことはできて、さわやかな川風を浴びながら地元の味をいただくことができる。そりゃ一人だったけどテラスのテーブル席に陣取りました。



メニューも、カキフライや牡蠣ラーメン、石巻焼きそば、金華さば焼き定食、ローストホエール丼などのここならではのメニューが並んでいるが、まあ欲張りな自分は様々ネタがたっぷり乗った海鮮丼をチョイス。白飯で!ちょっと、イクラが健康上の理由で失敗した感があったのだが、せっかくなので少しだけいただいた。場所や雰囲気も合わせ、ちょっと贅沢なランチになった。
この元気いちばの片隅にも仮面ライダーの像がった。とにかく石巻市街地には、仮面ライダーやサイボーグ009の像があちこちに設置されている。作者の石ノ森章太郎氏は、石巻市の北にある登米市の出身だが、石巻市がいち早く市街地の賑わいをもたらしたいと石ノ森氏のゆかりの地として「マンガミュージアム」構想を打ち立てた。
旧北上川の中瀬には、石ノ森氏がデザイン(原案)した宇宙船のような「石ノ森萬画館(2001年開館)」があって、元気食堂のテラス席から正面に見ることができる。もちろんこの萬画館も東日本大震災の際の津波により甚大な被害を被ったが、仮面ライダーやサイボーグ009はすでに市民のヒーローで、こちらの施設も石巻の象徴であることから、震災の翌年にはこちらも「元気に」開館したという。

※「石巻地区かわまちづくり」は、2022年度の「かわまち大賞」を受賞。河川空間を活用し、地域の賑わいを創出した先進的な事例として国土交通大臣から表彰を受けている。



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宮城・震災遺構の訪ねて、復興支援と鎮魂・祈りの旅は続く

2024年06月24日 | 旅行記・まち歩き
これまでも、岩手県や福島県の太平洋沿岸を「復興支援の旅」と称して訪問してきたが、今回訪れた宮城県の沿岸部でも東日本大震災における津波の被害は甚大なものがあったことはご承知のとおり。
以前、女川を訪れた時に記事を掲載しているが、今回訪問の名取市から仙台市、石巻市にかけても震災の遺構や伝承施設、慰霊碑、メモリアル公園など、震災関連施設が数多い。青森県を含む4県中、その施設数が一番多いのが宮城県で、137か所。
震災以降には一部民間の被災ホテルなどが保存・公開されている場合もあるが、その多くは公共施設。震災やそれに伴う津波の脅威を教訓とするため、今回の宮城県訪問の中で立ち寄ることのできた震災遺構3か所をご紹介しておきたい。



まず仙台市若林区の「震災遺構、仙台市立荒浜小学校」。仙台市街地から10キロほどのところにあり、海岸から約700メートルに位置している。先に紹介した貞山運河に近く、震災当時2,200人ほどが住む集落を学区に、91人の児童が通っていたという。
3.11の際の津波は、地震発生後1時間ほどで校舎の2階部分まで押し寄せた。先生は校庭にいた児童を校舎内に入るように促し、上階に避難。児童は全員無事だったものの、周辺の住民も多くが学校に避難し、水没した周辺地域の中に数多くの人が取り残されることになった。
自衛隊の駐屯地が近くにあったっことなどもあり、その日の夜から翌日にかけて、学校の屋上から一人一人をヘリコプターで釣り上げ避難に成功したという。それほど規模が大きい学校ではないので、屋上も狭く決死の救出作戦だったに違いないが、先生方の機転や自衛隊員の使命感に敬意を表し、拍手を送りたい。



途中、野蒜築港後に行く前に立ち寄ったのが「東松島市震災復興伝承館」。目の前に東名運河があって、旧JR仙石線「野蒜(のびる)駅」を改修したもの。そう、停車中の電車に津波が押し寄せて、無残にがれきに押し流された現場がここである。
電車こそ撤去されたが、旧野蒜駅のホームなどは、震災当時そのままに残されており、駅舎を活用した伝承館には、東松島市の被災者が自らの体験を語る映像を見ることができるし、多くの被災写真などが展示されている。元の駅周辺は公園整備され、慰霊碑や市内犠牲者の名前が記されたプレートも設置されている。
甚大な被害で長期間にわたり仙石線は不通となっていたが、JR東日本はこの区間(陸前大塚から陸前小野までの間)の路線を高台に移設・付け替えすることになり、2015年野蒜駅も新線に移転・営業を開始したのである。ここでも街並みが大きく変わったが、震災の記憶は周辺住民の目や心に刻まれて伝承されていいく。



石巻市は、東日本大震災の死者数・行方不明者数が3,970人(石巻市ホームページ、令和6年2月現在)で、被災した市町村別の中では最多の町である。旧北上川河口があり石巻湾に近いところに市街地・住宅地など人口密集していたと地形にもよるが、津波というだけでなく、津波がもたらした市街地の火災により被害が拡大、多くの犠牲者を出したという。
旧北上川の河口に近い復興祈念公園の前に「石巻市震災遺構門脇(かどのわき)小学校」がある。津波被害のほか火災にも見舞われたのが石巻のあるが、こちらも幸い登校して避難した児童に死者は出ていない(正確には、震災直後、親が迎えに来て帰宅途中に災難にあったケースはあるとのこと)。震災直後、津波の危険を察知した教職員は、学校の裏山(日和山公園)に教壇を立て掛けて、児童を避難誘導したという。
これまでに見た震災伝承館の中でも、当時を被災状況を目の当たりにできるほか、展示物やメッセージ、被災当時の伝承映像などは説得力がある。伝承館の職員は、「津波の際の垂直移動(避難)だけでなく、平行移動も考えないといけない」と語ってくれたのも印象的であった。

いずれも痛ましいく、悲惨な現場でもあるが、目を背けてはいけないし、教訓として伝えなければならないと思いから、まだまだ東北復興支援の旅、鎮魂と祈りの旅は続く。
(以前、同じ宮城県気仙沼市の「東日本震災遺構・伝承館(気仙沼向洋高校旧校舎)」を訪れた時(2020年10月)の記事も参照いただければと思う。)
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