

敦賀に行って旧北陸線を辿ってきたが、中山峠越えの難所を回避するため、旧線より南側の木の芽峠の直下に掘られたトンネルが「北陸トンネル」である。延長は13870メートル、国内在来線では最長トンネルで、開通当初から複線・電化の北陸本線自慢の長大トンネルだ。(現在は、ハピラインふくい線)
このトンネルは1957年(昭和32年)着工、1962年(昭和37年)に完成・開通。敦賀側、今庄側の坑口のほか、中間の2か所から立坑や斜坑を掘りながら突貫工事で進められ、そのトンネル掘削方式は世界からも注目を集めるものであったとか。
このトンネルの完成により、先に紹介したとおり旧線の勾配克服やスイッチバックによる列車交換などが必要なくなり、大幅なスピードアップと輸送力の増強が図られたのである。(敦賀駅を挟んで上り方・敦賀~木ノ本間の「深坂トンネル」は1957年開通、「鳩原ループ」は1963年開通。写真上は、トンネルの敦賀口と今庄口)


このトンネル内でショッキングな鉄道事故があった。1972年(昭和47年)11月6日の深夜、大阪発・青森行の急行「きたぐに」が走行中に出火。トンネル内で緊急停車、乗務員による消火作業でも手におえず、火災車両の切り離しを試みたが架線に通電されておらず、列車をトンネルから脱出させることはできなかった。
敦賀午前1:02発、火災発生時刻はその数分後(写真上:当時の時刻表、JTB時刻表1972年12月号は事故直後に発刊されたもので、食堂車連結の記号が残っている。)深夜時間帯であり乗客は就寝中であったこと(列車は、新潟までの間、寝台車5両を連結)、トンネル内で煙が充満したことやトンネル内に明かりがなかったことなどから、死者30名という鉄道火災事故としては最悪の事故となってしまったのだ。
そんな中、同じくトンネル内を走行中の上り急行「立山」(火災発生後30分後にトンネル内に入り緊急停車)が、「きたぐに」から避難してきた乗客225人を救助したのは不幸中の幸い。まだ通電区間で停車していた「立山」は、後退しながらトンネルを脱出し今庄駅まで戻ったという。


「食堂車から出火!」となると厨房設備が火元と考えがちだが、実際は床下の電気暖房機の過熱によるものとのこと。ただ、この頃の食堂車は斜陽傾向にある中、急行列車では「きたぐに」と「十和田」だけに連結されていた食堂車は廃止となり、その後トンネル内の事故対策なども各所で施されるきっかけにもなる。
地元の羽越線では、子どもだった自分でも見ることのできる時間帯に食堂車を連結して走っていた「きたぐに」、青い12系客車(食堂車は「オシ17」)はとてもかっこよかったし、食堂車廃止後ではあったが何回か乗車したこともあった。あの列車が!と子どもながらに事故のことを記憶している。
この火災で亡くなった方の冥福を祈るため、北陸トンネルの敦賀側には慰霊碑が建立されている。こちらにもぜひ手を合わせたいと思って今回敦賀の訪問となった。(慰霊碑入り口はフェンスが張られているが、訪れる人のため施錠はされていない。写真下。もう一方は、DeAGOSTINI社の「鉄道データファイル・優等列車の系統」から。)

