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行き先不明人の時刻表2

何も考えずに、でも何かを求めて、鉄道の旅を続けています。今夜もmoonligh-expressが発車の時間を迎えます。

北陸トンネル・急行「きたぐに」の火災事故の慰霊碑訪問

2025年05月26日 | 鉄道


敦賀に行って旧北陸線を辿ってきたが、中山峠越えの難所を回避するため、旧線より南側の木の芽峠の直下に掘られたトンネルが「北陸トンネル」である。延長は13870メートル、国内在来線では最長トンネルで、開通当初から複線・電化の北陸本線自慢の長大トンネルだ。(現在は、ハピラインふくい線)
このトンネルは1957年(昭和32年)着工、1962年(昭和37年)に完成・開通。敦賀側、今庄側の坑口のほか、中間の2か所から立坑や斜坑を掘りながら突貫工事で進められ、そのトンネル掘削方式は世界からも注目を集めるものであったとか。
このトンネルの完成により、先に紹介したとおり旧線の勾配克服やスイッチバックによる列車交換などが必要なくなり、大幅なスピードアップと輸送力の増強が図られたのである。(敦賀駅を挟んで上り方・敦賀~木ノ本間の「深坂トンネル」は1957年開通、「鳩原ループ」は1963年開通。写真上は、トンネルの敦賀口と今庄口)



このトンネル内でショッキングな鉄道事故があった。1972年(昭和47年)11月6日の深夜、大阪発・青森行の急行「きたぐに」が走行中に出火。トンネル内で緊急停車、乗務員による消火作業でも手におえず、火災車両の切り離しを試みたが架線に通電されておらず、列車をトンネルから脱出させることはできなかった。
敦賀午前1:02発、火災発生時刻はその数分後(写真上:当時の時刻表、JTB時刻表1972年12月号は事故直後に発刊されたもので、食堂車連結の記号が残っている。)深夜時間帯であり乗客は就寝中であったこと(列車は、新潟までの間、寝台車5両を連結)、トンネル内で煙が充満したことやトンネル内に明かりがなかったことなどから、死者30名という鉄道火災事故としては最悪の事故となってしまったのだ。
そんな中、同じくトンネル内を走行中の上り急行「立山」(火災発生後30分後にトンネル内に入り緊急停車)が、「きたぐに」から避難してきた乗客225人を救助したのは不幸中の幸い。まだ通電区間で停車していた「立山」は、後退しながらトンネルを脱出し今庄駅まで戻ったという。



「食堂車から出火!」となると厨房設備が火元と考えがちだが、実際は床下の電気暖房機の過熱によるものとのこと。ただ、この頃の食堂車は斜陽傾向にある中、急行列車では「きたぐに」と「十和田」だけに連結されていた食堂車は廃止となり、その後トンネル内の事故対策なども各所で施されるきっかけにもなる。
地元の羽越線では、子どもだった自分でも見ることのできる時間帯に食堂車を連結して走っていた「きたぐに」、青い12系客車(食堂車は「オシ17」)はとてもかっこよかったし、食堂車廃止後ではあったが何回か乗車したこともあった。あの列車が!と子どもながらに事故のことを記憶している。
この火災で亡くなった方の冥福を祈るため、北陸トンネルの敦賀側には慰霊碑が建立されている。こちらにもぜひ手を合わせたいと思って今回敦賀の訪問となった。(慰霊碑入り口はフェンスが張られているが、訪れる人のため施錠はされていない。写真下。もう一方は、DeAGOSTINI社の「鉄道データファイル・優等列車の系統」から。)

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歴史的宿場町・鉄道の町「今庄」に、いまも残る鉄道魂

2025年05月20日 | 鉄道


新潟から敦賀へ。先に触れた旧北陸線のトンネル群を訪ねるためには、まず今庄(南越前町)に立ち寄らなければならない。米原からの北国街道(東近江路)と、敦賀で丹後街道と合流した北陸街道(西近江路)が出会う昔からの交通の要所で宿場町として栄えた町だ。
この町は「重要伝統的建造物群保存地区」に指定されており、古い宿場の街並みを色濃く残している。「旅籠・若狭屋(写真上)」をはじめ国の登録有形文化財も多く、街道沿いの町屋には「うだつ」や「虫籠(むしこ)格子」などが今でも残り風情を醸し出す。以前紹介した宿場の成り立ちは山形・楢下宿風景は徳島・脇町(美馬市)に似ている。
都(京都)から山中・木ノ芽・栃ノ木の各峠を越えてやってきた旅人が、この今庄でその疲れを癒したのだろうが、北陸線による鉄路が通って時代の流れを急速に加速させた。ただ、鉄道にとっても「北陸トンネル」が開通する以前は、山中峠に挑むための最前線基地が置かれていたのが北陸線「今庄駅」であった。



現在の今庄駅(写真上)は、宿場の東側に位置し、宿場側に駅舎が建てられている。小ぢんまりとしているが、宿場町の景観にも配慮した外観、中には観光案内所(観光協会)や「今庄まちなみ情報館」がある。この情報館が、伝統的な街並みや鉄道の町として栄えた今庄の町のことを紹介してくれる。
このガイダンス施設で旧北陸トンネル群の情報を頭に叩き込んだ後、中山峠に向かうことになるのだが、鉄道の町として賑わった今庄駅そのものにも魅力がいっぱい!旧駅の模型(写真下、1955年頃のジオラマ)を見ると魅力的な設備を有していて、その中でも当時蒸気機関車のための給水塔や給炭台が今でも残っている(写真下)。
峠越えのための補助機関車を連結・取り外すため、当時の全ての列車は今庄に数分間停車する。必然的にホームには駅弁をはじめ立ち売りが行きかい(大聖寺駅の駅弁「高野商店」は今庄が発祥の地)、この地方の名物でもある「今庄そば」の売店もあったという(「今庄そば(豊岡商店)」も福井駅構内で営業)。峠に挑み、峠を越えた機関車や鉄道マンとともに、乗客の憩いの場となって賑わったようだ。



当時は250人の鉄道員が今庄に住み、各世帯に一人は鉄道にかかわっていたといわれるほどだったが、北陸トンネルの開通により優等列車は通過するようになる。JRの民営化、北陸新幹線の開業と並行在来線化などを経て、現在今庄駅は簡易委託駅さえ外れて完全無人駅となる。
第三セクター「ハピラインふくい線」では30分に一本程度の列車運行は確保されているが、乗降客は100人(/日)ほど。日に何本か設定されている快速列車でさえほとんどが通過する駅になっていて、私が訪れた時も鉄道保線の人たちのほかには上り列車(敦賀行)を待つ乗客は一人だけ。
ただ、情報館の展示はもとより、駅の前には蒸気機関車(D51?)の動輪がドンと飾られているし、国道沿いの今庄住民センターの敷地内にはD51が状態よく静態保存されている(写真下)。旧北陸線のトンネル群の遺構整備・観光化なども考え合わせると、いまも今庄の町の「鉄道魂」が見えてくる。





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旧北陸線の経路をたどる高速・北陸道の上下線逆転の怪

2025年05月14日 | 土木構造物・土木遺産


旧北陸線のトンネル群を探訪していると、途中、高速道路・北陸道「杉津(すいづ)パーキングエリア(写真上)」に出くわす。この杉津PAには「夕日のアトリエ」という場所があって、敦賀湾を一望できる展望台があるということで立ち寄ってみることにする。
旧北陸線の路線跡地を利用した県道から、狭い急坂道路をPAに向かう。これはPAの物資搬入や従業員などの関係者が使用する裏道。ただ、高速道路利用者以外にも開放されていて、ちょっとした駐車スペースなども用意されており、PAの施設を利用することができる。
確かに、深い入り江になっている敦賀湾を確認できる。PAとしてはさほど規模が大きいわけではないが、施設内には芭蕉の句碑や展望テラスなどが設置されていて、NEXCO中日本の「ぷらっとパーク」に指定されているため人気のスポットだ。展望台から目をやると、眼下にもう一方のPAが見える。おや?なんか変だぞ!



高台にあって「夕日アトリエ」のあるこの杉津PAは、実は下り線で、金沢・新潟に向かう路線上にある。その展望テラスから下方に見えるのが上り線で敦賀・米原に向かう路線上にあるPAも確認できる(写真上)。上下線が離れていて、かつ上下線が左右逆方向になる区間なのである。
敦賀インターチェンジの北(敦賀市深山寺付近)で上下線の左右が入れ替わり(写真下:上を走るのが上り方向、下をくぐり抜けているのが下り線)、前回紹介した山中峠付近と木ノ芽峠の間の山間部を通り抜ける「敦賀トンネル」で上下線がまた交差している。その間で北陸道の上下線は、葉原トンネル付近で一旦接近するものの、10キロほどに渡って右側通行で並走するのである。
これは、進行方向により急勾配を避ける等の地形による構造的な問題克服と、トンネル内の排ガス抑制の安全面などが理由で、全国でも山間部で上下線が少し離れるということはあるが、上下線が逆転するというのは珍しい。(調べ切れていないが全国でもここだけでは?東名高速道路の大井松田と御殿場間にも上下逆になる区間があるが、これは混雑緩和のため上り線を後から(1991年)新設、旧上り線を下り線右ルートとしたことによるもの。)



この路線の計画・設計段階では、旧北陸線を建設用の資材運搬用道路として活用するという鉄道と道路との連係プレーもある。敦賀から上下逆転した下り路線は旧北陸線に沿って走り、上り線の杉津PAは旧線の杉津駅跡地に建設されている。
旧北陸線の杉津駅では、大正天皇が北陸行幸の際に、わざわざ列車を止めて敦賀湾の景色をご覧になったという話が残る。現・高速北陸道にとっても、前回紹介した旧北陸線時代においても、峠越えの難所にあった杉津の地は、敦賀湾を一望できることから一服の清涼剤的な役割があったのだろう。
ともあれ、北陸道下りの杉津PAは単に風光明媚な場所に設置されただけでなく、土木構造物の「怪」も見て取れる貴重な場所であったのだ。ここを通過する際は、ぜひPAにもクルマを止めてご覧いただきたい。夕日が見れる時間帯は最高なんだろうと。



※参考:北陸道は米原方向が上り、国道8号線は新潟方向が上り。北陸線(ハピライン福井等を含む)は米原方向が上り、しかし北陸新幹線は金沢・東京方向が上り。この地の交通インフラの複雑さが、この地の東西とっちなんだ!という立ち位置の複雑さを示している。これまた「怪」である。



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旧北陸線の鉄道遺産・トンネル群をクルマで訪問

2025年05月09日 | 鉄道
ゴールデンウィーク中、仕事が忙しくてなかなか記事をアップできなかった。「ブログサービス終了」の告知も気になるところだが、まだ敦賀の記事は途中であるから気を取り直して書き込むことにする。



さて敦賀の鉄道について触れてきたところだが、先に触れたとおり北陸本線の途中駅の敦賀だが、国際連絡列車という港のつながりとともに、山に囲まれたこの地の地形によって鉄道の町が形成・発展したという見方もできる。どうしても補助動力車の付け替えなどもあるからね。
旧北陸線は敦賀の上り方向である木ノ本~敦賀間に刀根越えの急勾配(25‰(パーミル))があり、下り方面の敦賀~湯尾の間にも中山峠(25‰)が壁のように存在していた。現在、これらの間はいずれも新線が建設され、勾配克服のため深坂トンネル、鳩原(はつはら)ループ線、北陸トンネルなどが誕生している。
これら廃線となった旧線は車道(県道)や歩道として現在も活躍していて、クルマやバイク・自転車で容易にアクセスでき、間近に鉄道遺産を見ることができる。特に、敦賀~湯尾間のトンネル群は国の登録有形文化財に指定され、土木学会選奨土木遺産でもある。(上り方の「柳ケ瀬トンネル」も土木遺産。)




新潟から福井に入り、今庄からこの旧北陸線の県道を使って敦賀を目指すことにした。今庄駅と今庄宿でかなりの時間を過ごしてしまったが、旧線にも見どころ満載!旧大桐駅跡が残っていたり、スイッチバックの中山信号所、連続トンネルにトンネルのレンガ積みの解説、扁額のレプリカなど整備・保存されている。(写真上・下)
特に中山信号所では、単線ならではの列車交換用のスイッチバックの跡がハッキリと残っていて、信号所の敦賀側の折り返し線は有効延長を延伸するため行き止まりのトンネルが掘られたという。区間内最長の中山トンネル(1194m)と隣り合わせで見ることができる。
中山トンネルは暗くて長い。直線であるが、旧線は現在の規格より狭く作られているとのことで圧迫感を感じるとともに、照明などは無し。暗いし狭い道で対向車が来ないかとついついアクセルを踏んでしまう。11か所あるトンネル群の途中には信号機が設置されているところもあるが、この区間ですれ違ったクルマは1台だけだった。




途中、敦賀に近くなると北陸自動車道と並走するこの路線だが敦賀に近い葉原トンネルを抜けると人家も見え、間もなく国道に合流する。その後、最後に現れる樫曲トンネルは遊歩道となっていて、トンネルのレンガの積み方の説明やトンネル内にはランプ、そして土木遺産や登録有形文化財のプレートなどもゆっくりと見学できる。(写真下)
旧北陸線のトンネルでは側壁に石積み(敦賀市阿曽の石材、葉原トンネル付近)、アーチ部に長手積みの施工方法のほか、樫曲トンネルなどでは側壁部に他に比べても強度が得られるレンガの長手と小口を組み合わせた「イギリス積み」が採用されていているという。様々な工法が見られるのもこのトンネル群の特徴だ。
以前、補助動力として蒸気機関車を連結し、喘ぎながら急勾配を上る列車の姿も音も今はない。そんな峠と峠の間にある敦賀駅。かつては峠に挑む緊張感と峠を克服した鉄道マンの声が飛び交っていたのは確かで、そんな環境が敦賀の町の活気を担っていたのであろう。

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