行き先不明人の時刻表2

何も考えずに、でも何かを求めて、鉄道の旅を続けています。今夜もmoonligh-expressが発車の時間を迎えます。

只見川の上流・下流の水利権を分ける白洲ライン

2022年09月27日 | 土木構造物・土木遺産


只見川を遡る。水量豊富で落差もあるこの川は、水力発電にとっては宝の山(川?)ともいわれた。奥会津地方・只見川にはいくつものダム・発電所が存在するが、あることに気が付く。阿賀野川合流地点から下流域は東北電力、滝ダム(金山町)から上流部は電源開発(J-POWER、紛らわしいのでこの会社を「J-POWER」と表記する。)が設置管理するダム・発電所であること。
下流部から、片門(かたかど)、柳津、宮下、第二沼沢(取水は沼沢湖)、上田(うわだ)、本名、伊南川(いながわ、取水は只見町の伊南川)が東北電力。滝、田子倉、大鳥、奥只見、大津岐(おおつまた)、伊南川の支流の黒谷川にある黒谷など、上流はJ-POWERとハッキリと分かれている。
まあJ-POWERは、最上流部の開発を得意としているところもあって、この線の引き方はほかの河川にも言えることだと思うのだが、調べてみると只見川の電源開発の歴史には明治・大正期から昭和の戦前戦後にかけた水利権の獲得に複雑な動きがあったことが分かる。

只見川は、尾瀬の湿原地帯を水源としている。明治時代にこの川に水力発電所をという計画は立てられたが、各電力会社がしのぎを削ってその水利権に群がり、電力会社は吸収・合併などを経て、特に福島県や国を巻き込んでの争奪戦となる。
最初に計画したのは岩代水力電気だったが、最初に認可を得たのは野沢電気。福島県内のローカルな争いだったようだが、結局は東北電力(現在の東北電力とは全く関係ない会社。)。それが尾瀬の水源を関東水電という後の東京電燈と争うことになる。
大正期から昭和初期まで、有力政治家や時の内閣などの中央政界をも絡んで、東北と東京、福島と群馬の争いは続く。国策として日本発送電が発足後、落ち着いたかのように見えたが、戦後はGHQ(連合国軍最高司令官総司令部)が電気事業を再編成。戦後は新潟県をも巻き込んで、東京電力と東北電力、そして後発のJ-POWERとの駆け引きはまだ続くのである。

結局、尾瀬の分水案は棚上げ、只見川の本流開発・新潟分水計画をJ-POWERが担当することになったが、新潟への分水は計画は地盤が軟弱で地滑り地帯でもあることから後に計画を変更。信濃川水系魚野川の支流である破間川上流部にダム・発電所をJ-POWERが担当し、新潟平野のかんがいにも寄与することになる。
ただ、本名・上田の両発電所は東京電力水利権を主張し申請するが(前身の東京電燈が水利権を持っていたため)、福島県は本流案を東北電力が推していたこと、開発を早めることなどから東北電力に水利権の使用を認可したことから、このラインが水利権の境となったようだ。正に白洲ラインと呼ぶか?
只見川には、東北電力初代会長・白洲次郎氏の大きな政治的な力と、東北の繁栄を願う思いが込められている。新潟への分流・分水案を推した新潟県民とすれば、新潟県が東北電力管内であるということが不思議な感じもするが、阿賀野川上流の話ですからねー。(ただし、先に紹介した阿賀川支流の日橋川の発電は、只見川よりもはるか先に開発が進んでいたので、現在も東京電力(当時・東京電燈が開発)が運営している。)

(写真上:阿賀野川(阿賀川)の合流地点から最下流にある片門ダム・発電所(会津坂下町)と、只見川の東北電力のダムとしては一番古く(1946年完成)、堤高も高い宮下ダム。写真下:すぐ上流にある田子倉ダムの逆調整池の役目も担う只見ダム(只見町)と、貯水式発電では国内第2位の発電能力と第3位の貯水量を誇るJ-POWERの田子倉ダム・発電所(只見町)。)

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