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行き先不明人の時刻表2

何も考えずに、でも何かを求めて、鉄道の旅を続けています。今夜もmoonligh-expressが発車の時間を迎えます。

福井へ来たならば三国港「エッセル堤」を見て帰らないと!

2025年06月23日 | 土木構造物・土木遺産


福井には敦賀、小浜のほか、もうひとつ北前船の寄港地として栄えた港町がある。そこは三国港(旧阪井港)。現在の福井県坂井市三国町。越前の大河・九頭竜川の河口に形成された川湊で、とても歴史のある港だ。先に紹介した野蒜港や熊本・三角港とともに「明治三大築港」のひとつである。
福井に来たからにはどうしても立ち寄ってみたい場所で、この港を日本海側随一に押し上げた土木技術・土木構造物を目の当たりにすることができる防波堤がある。これが1882年(明治15年)に完成した「エッセル堤」と呼ばれる西洋式の防波堤である。
建設当時、三国の豪商6人が発起人となり、これまでも何回か紹介してきているいわゆる「お雇い外国人」と呼ばれた土木技術者であったエッセル(G・Aエッシャー)が設計、常願寺川など何回か登場しているデレーケ(ヨハネス・デ・レイケ)が工事を担当した。港湾・海岸・河川・砂防・上下水という水を扱う分野ではオランダ人技師への信頼が厚かったんですね。(写真上:二人の功績を称えて設置されたモニュメント)



まず、この三国港だが、日本海からの波浪も激しい場所にあり、九頭竜川から流れ込む堆積物により、たびたび船の運航を妨げるとともに、川の流れも堰き止めることから沿川各所で水害をもたらしていた。そこでエッセルは、河道の法線を改良するとともに、河口に導流堤を伸ばすことを提案した。
つまり波浪から港を守る防波堤と、川からの土砂を沖合まで流す導流堤の二つの機能を持つ突堤がエッセル堤である。川の流れを直線化することで流れに勢いをつけて、河口で見事な曲線を描く堤防により沖合に吐き出すという仕組みだ。(延長は当時のものが511メートル、その後1970年にコンクリートブロック411メートルの追加工事が完成。)
オランダ伝来の「粗朶沈床(そだちんしょう)」という工法は、粗朶という木の枝で組まれた大きなカゴに石を投げ込み基礎を形成し、その上に石を積み上げていく工法。上部の巨石(写真下)は東尋坊付近で採石されたもので、冬季の高波や福井地震(1948年)の被害により補充工事が行われてきた。



三国港は現在は漁港となっていて、かの越前ガニの水揚げ港としても知られている。歴史ある街並みの中、魚市場やカニ料理を扱う飲食店の派手な看板を通り抜け、一目散にエッセル堤へ。容易に堤防の上たどり着き、心地よい海風を受けながらをその上を歩くことができる(強風や高波時は要注意!)。
エッセル堤を見渡せる場所に「東尋坊三国温泉ゆあぽーと」という温泉施設がある。突堤の全容を見るにはここのテラスや休憩室がお薦めだ(写真下)。穏やかな日の訪問だったが、日本海の冬の荒天は同じ日本海側に住む者とすれば容易に想像できるし、難工事であったことも同様だ。
1881年、ドールン設計の宮城・野蒜港は強風と高波により数年で波間に消えてしまったが、エッセル堤と三国港は今も現役。築140年以上経過しているが、福井港(※本港)を守っているのは凄いな!国の重要文化財であり、日本遺産、選奨土木遺産。
(※三国港は九頭竜川右岸にあるが、本港は左岸の三里浜砂丘部を切り開き1987年開港。管轄する敦賀港湾事務所の資料では、三国港と合わせて「福井港」としている。)


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旧北陸線の経路をたどる高速・北陸道の上下線逆転の怪

2025年05月14日 | 土木構造物・土木遺産


旧北陸線のトンネル群を探訪していると、途中、高速道路・北陸道「杉津(すいづ)パーキングエリア(写真上)」に出くわす。この杉津PAには「夕日のアトリエ」という場所があって、敦賀湾を一望できる展望台があるということで立ち寄ってみることにする。
旧北陸線の路線跡地を利用した県道から、狭い急坂道路をPAに向かう。これはPAの物資搬入や従業員などの関係者が使用する裏道。ただ、高速道路利用者以外にも開放されていて、ちょっとした駐車スペースなども用意されており、PAの施設を利用することができる。
確かに、深い入り江になっている敦賀湾を確認できる。PAとしてはさほど規模が大きいわけではないが、施設内には芭蕉の句碑や展望テラスなどが設置されていて、NEXCO中日本の「ぷらっとパーク」に指定されているため人気のスポットだ。展望台から目をやると、眼下にもう一方のPAが見える。おや?なんか変だぞ!



高台にあって「夕日アトリエ」のあるこの杉津PAは、実は下り線で、金沢・新潟に向かう路線上にある。その展望テラスから下方に見えるのが上り線で敦賀・米原に向かう路線上にあるPAも確認できる(写真上)。上下線が離れていて、かつ上下線が左右逆方向になる区間なのである。
敦賀インターチェンジの北(敦賀市深山寺付近)で上下線の左右が入れ替わり(写真下:上を走るのが上り方向、下をくぐり抜けているのが下り線)、前回紹介した山中峠付近と木ノ芽峠の間の山間部を通り抜ける「敦賀トンネル」で上下線がまた交差している。その間で北陸道の上下線は、葉原トンネル付近で一旦接近するものの、10キロほどに渡って右側通行で並走するのである。
これは、進行方向により急勾配を避ける等の地形による構造的な問題克服と、トンネル内の排ガス抑制の安全面などが理由で、全国でも山間部で上下線が少し離れるということはあるが、上下線が逆転するというのは珍しい。(調べ切れていないが全国でもここだけでは?東名高速道路の大井松田と御殿場間にも上下逆になる区間があるが、これは混雑緩和のため上り線を後から(1991年)新設、旧上り線を下り線右ルートとしたことによるもの。)



この路線の計画・設計段階では、旧北陸線を建設用の資材運搬用道路として活用するという鉄道と道路との連係プレーもある。敦賀から上下逆転した下り路線は旧北陸線に沿って走り、上り線の杉津PAは旧線の杉津駅跡地に建設されている。
旧北陸線の杉津駅では、大正天皇が北陸行幸の際に、わざわざ列車を止めて敦賀湾の景色をご覧になったという話が残る。現・高速北陸道にとっても、前回紹介した旧北陸線時代においても、峠越えの難所にあった杉津の地は、敦賀湾を一望できることから一服の清涼剤的な役割があったのだろう。
ともあれ、北陸道下りの杉津PAは単に風光明媚な場所に設置されただけでなく、土木構造物の「怪」も見て取れる貴重な場所であったのだ。ここを通過する際は、ぜひPAにもクルマを止めてご覧いただきたい。夕日が見れる時間帯は最高なんだろうと。



※参考:北陸道は米原方向が上り、国道8号線は新潟方向が上り。北陸線(ハピライン福井等を含む)は米原方向が上り、しかし北陸新幹線は金沢・東京方向が上り。この地の交通インフラの複雑さが、この地の東西とっちなんだ!という立ち位置の複雑さを示している。これまた「怪」である。



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通船川は、「水の都・新潟」を作り上げた歴史そのものだ

2025年04月11日 | 土木構造物・土木遺産


亀田郷(改良区)、鳥屋野潟、そして栗ノ木川と新潟市内の低地帯と輪中の話をしてきたが、最後にその輪中の北側に位置する「通船(つうせん)川」について触れておきたい。現在、土地改良事業とは関係は深くないものの、市街地の浸水対策のほか、新潟の水上インフラや産業に大きくかかわりのある川なのである。
まず、この川は前回触れたとおり旧阿賀野川であった。現在の阿賀野川河口は、松ヶ崎(上の絵図の丸印の部分)の開削により直接日本海へ注ぐことになったが、それまでは大きく蛇行し新潟港(現在の新潟西港)で信濃川と合流していた。その名残が通船川である。(写真上:昔の空撮写真を見ても、赤マーカーの通船川には川筋は大河である旧阿賀野川の流れが見えてくる。その下の図は「土木学会関東支部新潟会」の資料から。)
この通船川は、栗ノ木川同様、阿賀野川・信濃川の水位より2メートル以上低くなっていて、鳥屋野川同様に市街地の浸水を防ぐ役割を担っている。つまり、下流にはなっている信濃川には自然の力では排水されないため、「山の下閘門排水機場」が栗ノ木川の排水を含めて新旧2か所で4台のポンプにより排水を行っている。(写真下:新排水機場にある管理棟と県発行のパンフレットの施設写真)



山の下排水機場(旧)は1967年運転開始、3台のポンプで21㎥/秒を。新排水機場は1988年供用開始で、1台のポンプでありながら30㎥/秒を排水することができる。つまり、新旧で51㎥/秒となって非常時には親松排水機場に匹敵する威力を発揮することができる。(新旧ともに新潟県管理。)
そして、この排水機場には名前のとおり「閘門」がある。というのも、通船川の川筋には木材加工工場や製紙・パルプ工場が多い。かつて新潟西港は船で輸送される外材の保管場所であり、その木材を筏(いかだ)曳航して各工場に運んでいた。そのため水位の違う通船川には大型閘室を持つ閘門が必要だったのである。(国内最後と言われた筏曳航の光景は、2021年をもって見られなくなった。)
この山の下閘門は全長が102.3メートル(幅14メートルから22メートル)、これは「淀川ゲートウェイ(淀川大堰閘門・大阪市)」や「尼ロック(尼崎閘門・尼崎市)」をも上回る国内最大規模と言っていいのでは?(完全に調べ切れていませんが!)しかも、回転式・観音開きのセクターゲート方式の閘門扉は国内でも珍しいという。見どころ満載の貴重な施設だ。(写真下:山の下閘門の閘室とセクターゲート)



また、通船川には上流部(阿賀野川との分水点)にも閘門がある。「津島屋閘門排水機場(県管理、写真下)」だ。非常時に山の下排水機場を補完し、通船川から阿賀野川への排水(4.9㎥/秒)を行う。(流入調整は「通船川水門(国土交通省設置・県業務受託、写真下)」より行う。竹尾揚水機場と同様、常には水質を保つために僅かに水を取り入れていて、阿賀野川増水時には閉門する。)
その名のとおり通船川は、上流(阿賀野川)と下流(信濃川)に2つの閘門を持つ船の通り道として新潟平野を作った二つの大河を結ぶとともに、鳥屋野潟や栗ノ木川とともに海抜ゼロメートル以下の新潟市街地を浸水被害から守るという、地味ではあるが、重要な役目も担っている。
新潟市とその周辺の平野は低地であることから水害や地盤沈下など悩まされる部分も多い。しかし、二つの大河により砂丘地と川湊が形成された歴史の中で、放水路開削や河川整備という治水にかかわる土木技術の向上、農業振興や土地改良事業の進化、港湾整備による産業振興や交通インフラ整備など、川や水と戦いながら知恵を絞ってきた先人がいたからこそ「水の都・新潟」の今があるのだ。





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佐野氏が見てきただろう、新潟・「栗ノ木川」物語

2025年04月07日 | 土木構造物・土木遺産



さて、新潟市の低湿地であった亀田郷(新潟市江南区)を紹介しているが、この中で一番低い場所は鳥屋野潟となったわけだが、この湖沼を含む輪中内の排水を担っていたのが「栗ノ木川」という排水路である。(写真上:新潟市東区紫竹山付近と栗の木川と東区沼垂東の新栗ノ木川、航空写真は現代のものと1945年頃の川の様子、赤が旧栗ノ木川、青が新栗ノ木川。)
この川は砂丘地をくり抜いて開削した川であることから「くりのきがわ」と言われたという説があるが、実際いつ掘られたのかは不明。輪中の南北を流れ、地域内の排水(一部用水としても利用)を一手に集め、新潟西港万代島埠頭を経て河口近くで信濃川と合流する。(現在は、農地整備により、亀田郷土地改良区の各排水機場や鳥屋野潟に直接流れ込むものもある。)
先に触れたとおり、この排水を容易にし、合わせて市街地や農地の浸水を防ぐために1948年に建設されたのが「旧栗ノ木川排水機場(写真下)」である。鳥屋野川の東端、現在は新々バイパスの紫竹山インター付近にあって、排水機場から下流の旧栗ノ木川は、市街地と均衡を結ぶ重要路線である国道7号(その他8号、49号などとの重複区間)の「栗ノ木バイパス」となっている。



この栗ノ木川排水機場は、近代農業土木の原点となった施設であるということから、その遺構は少し荒れているものの保存されている。単に湿原から美田を作ったというだけでなく、新潟市や亀田郷の水位の変化、地盤の変化、そしてこれまで触れてきた歴史などを伝えるものとしての価値は大きい。
この排水機場は地下水や天然ガスのくみ上げにより地盤沈下を引き起こし、1964年(昭和39年)の新潟地震により機能が著しいく低下し、親松排水機場にその役目を譲ることになった。この旧排水機場の保存に際しては、一部陥没していたものを掘り起こしたそうである。
旧排水機場の水門には、鳥屋野潟や信濃川など各地点の水位を示すパネルが設置されていて、この地がいかに低地にあるかを示してくれる。また右岸側には朽ち果てているものの閘門(写真下、=水位の違う河川で船を通す場所→「扇橋閘門」記事参照)の跡がしっかりと残っていて、水運にも利用されていた川であることが分かる。



国道の栗ノ木バイパスの路線上(紫竹山インターから万代島埠頭間)には、上流から紫雲橋、笹越橋、栗ノ木橋、万国橋などの地名(交差点)があるが、これはかつての栗ノ木川に架かる橋の名前を取ったものである。さらに栗ノ木バイパスは一部で高架化工事が行われていて、舟運時代から変わらず交通の要所となっている。
栗ノ木川は、笹越橋から「新栗ノ木川」が開削され、「山の下閘門排水機場」付近で、旧阿賀野川でもある「通船川」と合流する。この新栗ノ木川も低地にあり流れがほとんどないことから、旧栗ノ木川排水機場付近には「竹尾揚水機場」があって、水質の浄化・汚染緩和といった新旧の違う役割を担っている。
前述のカリスマ・佐野藤三郎氏は、この旧栗の木川排水機場の役割を目の当たりにして、各種土地改良事業や都市整備を発案したであろうが、その傍らには中国・三江高原の開発の際、佐野の右腕として活躍した奥村俊二氏が二代目社長を務めた「信越測量設計」の社屋があるのも何かの因縁のように思える(写真下:案内看板から旧栗ノ木川排水機場を挟んで対岸に信越測量社屋が見える)。

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佐野氏の「夢」に向かって、亀田郷土地改良区の取り組み

2025年04月03日 | 土木構造物・土木遺産


亀田郷土地改良区の施設や取り組みを紹介しておきたいと思う。確かに区域内の農地の水利や環境保全を図るの土地改良区の役目であるが、亀田郷の排水機場などの施設は、県都・新潟市の都市機能を守るという役目も担っていることも確かである。
前回も紹介したとおり、亀田郷(新潟市江南区、中央区・東区の一部)は阿賀野川・信濃川に挟まれ、なおかつ南に小阿賀野川、北に通船川に囲まれた海抜0メートル以下の土地で、いわゆる輪中といわれる川の堤防に囲まれた低地なのである。この地域は「地図にない湖」とも言われていた。(写真上:鳥屋野潟を中心とした流域図、信濃川下流河川事務所資料から)
その地域内で排出される水は、新潟市内でも一番低い土地である「鳥屋野潟(写真上)」に集められる。その水を潟の西側を流れる信濃川に排出するのが「親松排水機場」である。旧栗ノ木川排水機場が1948年に完成したが、それを受け継いだこの親松排水機場の完成によって、輪中内の農地は都市近郊の優良農地を確たるものとしたのである。



親松排水機場は1968年(昭和43年)に完成したが、建設から30年経過し老朽化も顕著になったことから2008年(平成20年)に設備を更新、現在二代目。4台のポンプで初代同様排水量60㎥/秒を誇る。25メートルのプールの水を6秒で排出する能力を持っている。
また、隣に都市排水を目的として2003(平成15年)年に完成した国土交通省の「鳥屋野潟排水機場」と合わせると、その能力は最大100㎥/秒となっている。信濃川下流河川事務所によると、将来的には180㎥/秒を見据えて設備などのを計画しているという。
親松排水機場は農林水産省所有の施設ではあるが、新潟県が管理者となり亀田郷土地改良区が業務を受託、24時間体制で水面高低差3メートルの信濃川への排水業務を担っているのである。(鳥屋野潟排水機場は、国交省・信濃川下流河川事務所管理。写真下:親松・鳥屋野潟排水樋門と信濃川、亀田郷土地改良区前に展示されている初代・親松排水機場のポンプ羽根車軸)



親松排水機場のほかに亀田郷土地改良区では17機の揚排水機場を管理(受託を含む)している。国交省の鳥屋野潟排水機場が設置されるきっかけとなったのは1998年の「平成10年8月新潟豪雨」であるが、その後繰り返し発生する豪雨などでもこれら土地改良区の排水機場は輪中の浸水防止に活躍している。
特に、二本木、本所、蔵岡の各排水機場(写真下は本所・蔵岡排水機場)は、新潟市内で観測史上最大となった2022年の豪雨でもフル稼働。農地だけでなく、市民の命や財産を守った。単に農地保全・用排水路管理だけでなく水質浄化、水路周辺の環境整備、都市計画や地域づくりとの調和すること、これこそが佐野藤三郎氏の「夢」だったのであろう。
加えて、亀田土地改良区は太陽光発電にも取り組んでる。小水力じゃなく太陽光。まあ、低地であることから水力エネルギーを得られる適地がないことも確かだが、それでも環境を意識して再生可能エネルギーを自らの施設運営に活用している。注目していますよ、亀田郷土地改良区の今後の取り組みも!(写真下:土地改良区が設置・管理する「松山太陽光発電所」と、土地改良区事務所の発電状況をリアルタイムで伝えるパネル)



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胆沢川にある日本最大級の「円筒分水工」に立ち寄る

2025年02月07日 | 土木構造物・土木遺産


「円筒分水工」という言葉をご存じだろうか?以前から長野や富山にその農業用の土木構造物があると聞いていたので気になっていた。土木遺産にもなっている富山の「東山円筒分水槽」は、ついこの間行った黒部に近かったんだけど、時間の都合上パスした。調べると新潟にもあった。まあいずれもまたの機会に!
今回紹介する胆沢(いさわ)川にある円筒分水もチェックはしていたが、胆沢ダムから田瀬ダムに向かう途中、急いでいたためうっかり通り過ぎてしまった。「日本最大級の円筒分水」との看板を目にして、そうだった!とUターンしてたどり着いた次第だ。
前回の志和(紫波町山王海地域)と同様、ここ胆沢川流域・胆沢扇状地においても水争いが絶えなかった。そこで登場するのが分水工。円筒分水工は、かんがい用の水をサイフォンの原理を利用して公平に分水するもので、多くは円形の美しい形をした施設である(残念ながら、私が訪れたとき農閑期・渇水期のため沸き上がる水は見れなかった。)



やはり、胆沢川でも江戸期のこと、伊達政宗家臣で後藤寿安(じゅあん(寿庵とも)=ラテン語でJohannes(ヨハネ)、キリシタンの館主)が開削した「寿安堰」と、当時女性が中心となって掘られた「茂井羅堰」があったが、この堰は取り入れ口も近く争いの基になっていた。
山王海と同様、昭和も戦後になってからのこと、胆沢ダムの前身である北上川5大ダム・石淵ダムが直轄事業で着工。さらに食糧増産の観点から広大な胆沢扇状地が注目され、並行して国営胆沢川農業水利事業のかんがい施設整備の一環として、1948年、この胆沢川の「円筒分水工」が施工されたのである。胆沢平野土地改良区が管理運営。
その後も土地改良事業が導入されている胆沢扇状地であるが、この分水工も改修などを重ねながら、現在も「茂井羅中堰(茂井羅水系・北側)」と「寿安堰水系(茂井羅南堰、松ノ木沢川含む・南側)」に公平に分水している。日本最大級で、水が湧き出る姿が美しいとインフラツーリズムでも注目の集まる施設である。今度は水の豊富な時にでも行ってみたい!(写真下:その後、各事業・制度を活用した土地改良事業の竣工を記した記念碑、徳水園内。)

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山王海ダムの「平安」の込められた意味とは

2025年02月04日 | 土木構造物・土木遺産


山王海(さんのうかい)ダムを紹介しておきたい。岩手県のほぼ中央、盛岡市の南に位置する紫波町(しわちょう)にある。そう以前紹介した「オガール紫波」のある町、その中心部から西の方向、奥羽山脈を源とする北上川支流の滝名川(写真上)の上流にある。
農業用のかんがい用水を供給するために建設されたダムで、山あいにひっそりとその大きなガタイを隠している。中央土質遮水型のロックフィルダムで、堤高61.5m、堤頂長241.6m、3840万㎥の総貯水量は農業用のかんがい用水専用ダムとしては全国第一位の規模である。
麓の升沢地区は「志和稲荷神社」で有名だが(写真上:志和稲荷神社の大鳥居)、そこからの管理道路となっている山道は狭く、カーブと急坂が続くが、クルマで10分ほど進むと植栽で「山王海」と文字が刻まれた大きな堤体が目に飛び込んでくる(見出し写真)。不気味な真っ暗なトンネルをくぐると天端脇の管理事務所前に着くが、ゲートが閉ざされていて単なるダムマニアを寄せ付けない。(写真下:管理用道路のトンネルと管理事務所のゲート前)



先の5大ダムでも触れたが、北上川のは支川は流域面積が狭いことから、農耕が盛んになった江戸期から各支川の沿川集落では水をめぐる争いが絶えなかったという。「志和の水喧嘩」と言われるこの地の水論は三百年も続き大小の争いは記録に残るものだけで42回。中には死者を出すということもあった。
土地改良事業が始まった近代においては、北上川の鉱毒汚染事案などもあり本川の水をかんがい用に引き込むことは問題があったため、大正期のため池構想から20余年を過ぎた1952年に農地開発営団事業により山王海ダムが完成した。これが第一期のもので、その後国営山王海農業水利事業により嵩上げ工事を行い、現在の山王海ダムとなった。
旧ダムは、完成当時、日本のアースダムでは初めて土質工学を取り入れたダムで、「東洋一」の土堰堤ダムであった(堤高37m、堤頂長150m、総貯水量959万㎥)が、そのダムの堤体を取り込んで世界でも例のない嵩上げ工法により新山王海ダムが2001年に完成した。



1978年から始まった国営山王海土地改良事業では、新山王海ダムの工事とともに、南側の葛丸川に葛丸ダムを建設。山王海ダムのダム湖(写真上:ダム湖は「平安の湖」)を貯水池とするため葛丸川上流に頭首工を設け導水路を建設し、さらに取水トンネルで必要な時に葛丸ダムに水を戻すという国内では珍しい「親子ダム」とする工事も行われて、より安定的な水管理を行っている。(写真上:事務所前に設置された親子ダムを説明する看板)
堤体の「平安 山王海 2001」の文字は、水争いが永遠になくなることを意味しており、旧ダムにも同じく「平安 山王海 1952」と植栽されてた願いが継承されている。ダム事業者は農林水産省(東北農政局)で、管理・運営を山王海土地改良区が担当している。(写真下:管理事務所前の水争いのなくなる願いが込められた歌碑と、ダム堤体には「平安」も同様の意味がある。)
5大ダムの中でも北上川の本川に建設されている四十四田ダム以外では、洪水調整のほか貯水をかんがい用水や上水道などに供給しているものが多いというのも、北上川支川のダム群の特徴でもある。




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気まぐれな川・松川にある「温水路」のあったかいお話

2025年01月31日 | 土木構造物・土木遺産


しかし、北上川にも見どころや歴史があるなと思いながら、あちこち流域を見て回ると、「松川温水路」という施設を見つけた。前回触れた旧松尾鉱山の近くの八幡平市松尾というところにある。(写真上:松川・金沢橋から見る岩手山と松川本流)
松尾鉱山は、明治末期に操業を開始し、最盛期は戦後の昭和30年代と言われている。一時は東洋一の硫黄鉱山として繁栄をしたが、1968年閉山。昭和初期から強酸性の鉱毒の汚染水が川に流れ込み、北上川は魚も住めずかんがい用水にも利用できないほどの死の川と呼ばれる時期もあった。
ただ、汚染水を運んだ流れは「赤川」という支川で、今回紹介する「松川」はそのすぐ南を流れる川で汚染水は流入していない。北上川の支川は流域面積も狭く、むしろ「松川」の水は周辺の農家にとって農業用水として貴重なもの。しかし、ここにも別の問題があった。



松川の水源は、岩手のシンボル的な山である「岩手山」の北側や八幡平を流域とする北ノ又川(松川の支流)の水を集めるが、麓までは急流で洪水・渇水を繰り返すことたびたび、冬季の積雪も多く7月上旬まで融雪が続くため稲作に使用する水としては極めて低温で冷害に悩まされていた。(写真上:松川も暴れ川だであることがうかがえる)
1960年代に土地改良事業により大規模な用水路改修などが実施され、その際頭首工から水を引き込み様々な自然災害から免れるようになったというが、案内板(写真上)に事業の完了は1978年(昭和53年)との記載があることから、比較的新しい施設のようで、現役バリバリ!
その土地改良事業の一つとして農業用水を階段状の水路に導き、太陽を浴び空気に触れさせて水温を上げるのが松川温水路なのである。実際には3つの温水路があるとのことで、総延長は3800メートル、全78か所の段差が築かれている。これにより、水温は3度ほど上昇させるのだそうだ。



私が訪れた刈屋地区の温水路には「明治百年記念公園(明治百年は、1968年)」と温水路脇には遊歩道が整備されている。また小水力の発電所が何か所あって、公園入口には直径6メートルの水車による発電システムを間近に見ることができる。(写真下、富山の常西合口用水にもありましたよね!
私が松川を訪れたのは昨年の11月。残念ながら水車は動いてはいなかったし、温水路の水もわずかに流れていることが分かる程度。春には遊歩道に花が咲き、残雪の山々をバックに水音も聞けることから市民の憩いの場になっているとのことから、春先にもでもまた訪れてみたいと思った。(もうすぐ春ですがね!)
なお、近くには「松尾鉱山資料館」や岩手山の伏流水の湧水群などもあることから、いずれまた紹介できる日があればいいと思っている。ここ八幡平には鉱毒水の汚染の歴史や豊かな湧水・名水の里が隣接して存在している。北上川は不思議で興味深い川という一面だ。







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観光の中心にある「御所ダム」と盛岡市至近の「四十四田ダム」

2025年01月28日 | 土木構造物・土木遺産
北上川5大ダム、四番目には「御所(ごしょ)ダム」、最後の五番目の「四十四田(しじゅうしだ)ダム」を紹介したい。(お葬式が入って、久々の投稿になります。)



御所ダムは、盛岡市内で北上川本流に合流する支川「雫石川」にある。盛岡市内からも西へクルマで20分ほどのところ、国道46号繋(つなぎ)十文字信号から少し入ったところにある。石淵ダムからすると5大ダムの中では一番最後に建設されたダムである(現・胆沢ダムを除く)。
建設計画は戦前1938年からあったというが、やはり水没物件の補償などの問題で、着工は1966年、完成は1981年という長い年月の末の遅咲きダムだ。両岸の地質の違いから右岸側は重力式のコンクリートダム、左岸側は中央コア型ロックフィルダムというコンバインダム(複合型ダム)になっている。
堤高は52.5メートル、堤頂長327メートル、総貯水量6500万㎥。洪水調整のほか、不特定利水、発電、下流河道取水による上水道は正に盛岡市の水がめでもあり、工業用水・かんがい用水にも利用されている多目的ダムだ。



ダム湖は「御所湖」、何だか気品を感じる名前。このダム湖周辺は、観光地・リゾート地として整備されているため利用者も多く、国土交通省・水資源機構のダム湖の中で年間湖面利用者が第一位になったこともある。(御所湖は田瀬湖(田瀬ダム)、錦秋湖(湯田ダム)とともにダム湖百選に選定)
とにかく県都・盛岡市からのアクセスも良く、繋(つなぎ)温泉、鶯宿(おうしゅく)温泉のほか、リゾート地である雫石や小岩井農場なども近い。スポーツ公園、グランド、漕艇場、乗り物広場、ファミリーランド、植物園、遊歩道には桜やコスモスなど、老若男女・オールシーズン楽しめる施設がびっしり!
子どもが小さいときに御所ダム管理所に近い「盛岡手づくり村」に行ったことがあったが、今でもせんべい焼き体験、はた織り体験、冷麺体験など様々なアクティビティを提供している。残念ながらチャグチャグ馬コ(うまっこ)を作る体験工房は昨年閉店していた。子どもが作った馬コ、まだ部屋に飾ってあります。



最後に登場するのは、四十四田ダム。盛岡市から北に数キロ、県庁所在地からこれほど近くに国交省所管のダムがあるのは珍しいのではないだろうか?加えて、東北の大河・北上川の本流に建設された唯一のダムであるという。1960年着工、1968年完成。
こちらはダム主体を重力式コンクリートダムとし、両側にフィルダムという複合型。北上川には複合型ダム多いんですよね。堤高50メートル、堤頂長480メートル。ダムサイトの管理事務所(写真下)では、5大ダムの統合管理をしている。ここにも「ものしり館」ありました。
建設時、市街地に近い場所で山間部の谷間のダムでもなく、良質な骨材を供給できる原石山がないことから、雫石川の川砂利を採取し、そこから不良の軟岩を取り除いたものに固体粉末を混ぜてコンクリートにしたという。品質にこだわったダムということだ。



北上川には旧松尾鉱山の坑内から強い酸性をおおびた水が流れ込んでいて、長い期間魚は住めない、かんがい用水にも利用できない「死の川」と呼ばれた時期があった。そのため、四十四田ダムも酸性水対策としてゲートの接水部にはステンレスを使用するなどの対策が取られている。
また、この酸性水の対策として中和剤が大量に使用されたことにより、ダム湖底の堆積物に悪影響を及ぼすため、後になってダム湖上流部に貯砂床止工を設置し、重金属などが含まれていないことを確認しながら掘削を行っているという。
四十四田ダムは、北上川に清流を蘇らせるとともに、ダム湖(南部片富士湖)の東側には岩手県最大級の松園ニュータウンがあるほか、湖畔には公園、病院、文教施設、博物館などの公共施設も多く、ニュータウン住民や盛岡市民の憩いの場となっている。
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「ほっと」湯田ダム、「そんなに近くにあったのか」田瀬ダム

2025年01月20日 | 土木構造物・土木遺産
さて、北上川5大ダム、今回は「湯田(ゆだ)ダム」と「田瀬(たせ)ダム」を紹介したい。



湯田ダムは、北上川支川の和賀川にあるダムで、堤高89.5メートル、堤頂長265メートル、形式は全国でも十数例しかない重力式アーチダムで、東日本では荒川の二瀬ダム、憧れの只見川の大鳥ダムと三か所だけのもの。1965年、石淵ダムから数えて3番目に完成した。ダムの利用目的としては、もちろん洪水調整のほか、不特定利水、発電がある。(写真上:両側の岩盤の重力式コンクリート部でアーチダムを支える湯田ダムの堤体、きんしゅうこものしり館内には非常用洪水吐から豪快に放流する写真なども展示されていた。)
国道107号は走りやすい道路だが、ダム左岸の管理事務所などは急峻な山肌に張り付くようにして建設されていて、国道からの出入口は2か所ともトンネル内というところ。出るときには信号機があるが、誘導員も配置されていた。
また、2021年に発生した地震により国道107号で地滑りの可能性があるため、錦秋湖に仮橋を設置。復路に利用したが、大型車の後ろについて走行するとかなりのスリルを味わえる橋であった(写真下)。現在、迂回用のトンネル工事が行われている。



湯田ダムは、ダム湖である錦秋湖に水没する住民の移転補償が大きな問題(622世帯が水没、東京都の小河内ダムに次ぐ規模)となったほか、国道107号や国鉄・横黒線(現・北上線)の付け替え、発電用ダムの水没対応にも時間と費用を要したダムである。
ただ、その反面、多くの関係者の協力を結集した形にもなり、「地域に開かれたダム」として錦秋湖を中心とした観光地としての取り組みやスポーツエリアとして整備・利用されているのも特徴。「ほっとゆだ」駅には温泉もあって、地域住民や観光客にも人気だという。
さらに、注目したいのは錦秋湖の最上流部(ほっとゆだ駅に近いところ)に「湯田貯砂ダム」がある(2002年完成、写真上)。湯田ダムへの堆砂を防ぐためのダムだが、この堤体は通路にもなっていて流れ落ちる水の中を歩くことができる。下流部の橋からの眺めも「ほっと」するほど美しい。



田瀬ダムは、猿ヶ石川にある重力式コンクリートダムだ(写真上)。堤高89.5メートル、堤頂長265メートル、ダム湖は「田瀬湖」と命名されているが、ここの総貯水量は5大ダムでは最大の1億4650万㎥。
当初は猿ヶ石堰堤として計画されたいたが、当時の内務省土木試験所長・物部長穂の論文や技監の青山士が議長を務める土木会議などにおいて、多目的ダムの田瀬ダムが誕生することになる。用途は洪水調整・かんがい・発電、発電は電源開発(JPOWER)が事業者となっている。
というのも、戦時下、直轄ダムとしては石淵ダムより先に着工しているが、途中中断。その時点での再補償などの問題があったり、戦後の混乱の中で電気事業者も再編されたこともあり石淵ダム同様電源開発が担当することに。完成も1954年と石淵ダムより1年遅くなった。



田瀬ダムのパンフレットには、ダムの放流設備に上部のクレストゲート6門のほかにコンジットゲート4門とあって、これが国内初の高圧スライドゲートでアメリカの技術を導入したとある。以降の多目的ダム建設にも寄与したものとして、「機械遺産」に認定されている。(写真上:「田瀬ダムものしり館」内のコンジットゲートを説明する模型)その後、放流水制御のため施設改良事業を実施)
時短のために山越えルートを選択して険しい道で田瀬ダムにたどり着いたが、管理事務所やものしり館のある左岸見学後、県道にもなっている天端の道路(写真上)で右岸に渡って帰路に就く。すると見たことのある場所に出くわした!
なんとまあ、「道の駅・みやもり」だ。そう、以前釜石の帰りにわざわざ立ち寄った釜石線「宮守川橋梁」のある場所だ。そこからクルマで10分とかからない場所に田瀬ダムはあった。めったに来れる場所じゃないのにまた忘れ物をしていたか!(当時、北上川5大ダムはまだ土木遺産に認定(選奨)されておらず、ノーマークだったと思われる。)


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5大ダム登場!最古参・石淵ダムから変身した新鋭・胆沢ダムから紹介

2025年01月17日 | 土木構造物・土木遺産


北上川は、昔から洪水による氾濫や浸水被害が多かった川であることはすでに紹介したとおり。ここにダムを建設しようと計画が持ち上がったのは、1941年(昭和16年)のこと。いよいよ「北上川5大ダム」の登場である。
5大ダムとは、下流から胆沢(いさわ)ダム(当初建設の石淵ダム)、湯田ダム、田瀬(たせ)ダム、御所ダム、四十四田ダムの国交省直轄の5つのダムである。(そのほか、岩手県の場合だと県営の洪水対策用の補助ダムが、遠野ダム含め3か所ある。もちろん宮城県にも北上川支川に鳴子ダム(直轄)、花山ダム(県の補助ダム)などがある。)
北上川中流の基本高水流量(一関市狐禅寺観測地点)13,600㎥/秒に対して、5大ダムと一関遊水地5,100㎥/秒を受け止めることができ、沿川や下流地域の洪水対策を行っている。



下流支川にあるダムから紹介。まずは、胆沢川にある「胆沢ダム」。中央コア型ロックフィルダムで、堤高127メートル、堤頂長723メートル、総貯水量14300万㎥、最初から巨大なダムの登場となる。(見出し写真を含む、写真上)
洪水調整のほか、水道用水、不特定利水(流水の正常な機能の維持)、水力発電のほか、日本三大扇状地のひとつである胆沢扇状地の農地へかんがい用水を供給している(三大扇状地?あと二つはどこ?)。北上川沿川では洪水とともに、支川は流域面積が狭いことなどから、農業用水の確保にも悩まされた地域であった。
胆沢ダムの完成は2013年(平成25年)、5大ダムとかいうけど、ついこの間出来たばかり?実は、全国でも屈指の巨大ダムができる前までは、5大ダムの中でも最古参だった「石淵ダム」が胆沢川流域の守り神として同じ場所に存在していた。



石淵ダムは、総貯水量1615㎥(胆沢ダムの1/9)。日本では初めてのロックフィルダム(表面遮水壁型)として1953年(昭和28年)完成したものの、ダム規模や貯水容量が小さいことなどから洪水被害や渇水被害が繰り返し、生活用水確保にも困難を極めていた。(写真上:国土交通省「胆沢ダム」パンフから)
その石淵ダムの再開発事業として計画されたのが胆沢ダムを建設し、治水・利水事業を向上させることになった。つまり5大ダムの中で最初に建設された石淵ダムに変わり、最も新しい胆沢ダムに変身したのである。
石淵ダムはというと、胆沢ダム完成後、胆沢ダムから上流2キロ地点のダム湖である「奥州湖(写真上)」の湖底で眠っている。あれ?どこかにもありましたね?胆沢ダム管理支所(写真下)の展示室には石淵ダムを紹介する史料コーナーもある(写真下)。係の人に聞いたら数年前の渇水期に湖底から顔を出したことがあるらしい。


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並川熊次郎の功績を称えて、北上川の分流施設が保存されている

2025年01月14日 | 土木構造物・土木遺産


早く上流に行きたいとは思うのだが、前回の話のついでと言っては何だが、北上川の付け替え、分流事業について触れておきたい。
北上川は、旧北上川の河口から30キロほどのところ、(新)北上川では追波(おっぱ)湾からだと25キロほどの地点で分水(分流)されている(一関遊水地からは約50キロ下流)。石巻市街地を洪水から守る目的で、1911年(明治44年)から1934年(昭和9年)まで、なんと23年をかけて工事が行われた。
北上川の派川(川の本流が河口に出る前に分かれて海に注ぐ河川)でもあった追波川を利用することで、本川は東の追波湾へと流れを変えた。これまで登場した支川の迫川、江合川は分流地点から下流で旧北上川と合流し、石巻市街を流れ石巻湾に注ぐ。(写真上:追波湾に近い北上川河口と、石巻市街地を流れる旧北上川)



しかし、川の分水(分流)計画となると、前回も少し触れたとおり先輩格の信濃川「大河津分水」の方が有名。比して、北上川の分流事業というのはあまり大きく取り上げられることがないものの(というより当たり前の事実として受け止められている?)、信濃川同様に関係者の労苦も多かったという。
新水路の開削時の地盤との戦い、柳津(現登米市津山)の住民移転のほかに、分流地点に設ける堰についても計画変更の連続。こちらは地盤が軟弱なことから堰の上に堤防を築くことは不可能として、堰の規模を縮小せざるを得なかった。
この堰が北側の鴇波(ときなみ)洗堰(写真上:手前が鴇波洗堰、奥は新設の鴇波水門)、加えて南側の比較的地盤のしっかりしたところに脇谷水門と脇谷閘門(写真下の二枚)を設置することとなった。つまり、旧北上川へは2本の分流口があるということになる。(なお、新しい北上川には9キロほど下流に「飯野川可動堰(現在は「北上大堰」を新設)」を設けて、分流の水位を調節する。)



しかし、分流地点にあるこれらの堰も昭和初期の構造物で老朽化も激しい。平成に入ってから鴇波・脇谷の両水門を巨大な水門1基を新設して分流をカバーする計画が持ち上がった。
ところで、分水時に設計に携わった並川熊次郎(内務省技師)を知っているだろうか?大河津分水は青山士が携わったことで有名だが、並川の名前を聞いたのは私も初めてだった。この並川が鴇波洗堰を活かしながら、脇谷洗堰の設置を計画した人である。
分水開削時における並川熊次郎の偉業を称えるためにも、工事関係者や地元の方々は鴇波・脇谷の両水門、閘門を現状のまま残すことを選択し、それぞれの堰の上流に新たな水門を築いたのであった。
(鴇波・脇谷洗堰、脇谷閘門とともに、両水門の間にある「北上川河川歴史公園(写真下)」には、旧月浜第一水門(写真下の奥の構造物)なども移設展示、見出し写真の2つの洗堰を結ぶ締切堤を含めて、2004年「北上川分流施設群」として土木遺産に登録されている。)








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せっかくなので一関遊水地の中をクルマ走らせました

2025年01月11日 | 土木構造物・土木遺産


「あいぽーと」で北上川の情報を仕入れて、さらに上流に移動する。せっかくなので遊水地の中に縦横無尽に走る道路へ。管理用、農業用の道路だけでなく、ここには立派な県道も走り、生活路線として使用されている。
第三遊水地から柵の瀬橋で北上川を渡り、第一遊水地へ。第二遊水地を含めると面積は1450ヘクタール、総貯水量1億2940万立方メートルで日本では釧路遊水地(北海道)、渡良瀬遊水地(栃木、群馬、埼玉、茨城の4県にまたがる)に次ぐ国内三番目の規模である。
北上川沿いに小堤を築いた上、遊水地の外側に周囲堤がある。普段は農耕地として利用するが、洪水時には遊水地に水をためこみ、一時貯留し周囲堤外側の市街地等への浸水を防ぐととともに下流地域へのへの洪水調整の役割も担う。
(写真上:第一遊水地を走る県道14号、もう一枚は遠くに大林水門を望む。写真下:遊水地のど真ん中を東北新幹線の高架が走る、もう一枚は周囲堤の内側から)



この遊水地は、1947年(昭和22年)のカスリン台風、翌年のアイオン台風がもたらした2年連続の大洪水により、「北上特定地域総合開発計画」の一環として計画されたもの(このご紹介する5大ダム、一関遊水地の前身である「舞川遊水地計画」など)。で、徐々に計画規模を拡大していった。
事業着手は1972年(昭和47年)、昨年3月末の進捗率は87%。計画からは70年が経過しているが、まだ工事が進められている。住民の反対運動や遺跡の保護、たび重なる洪水、地役権補償などを乗り越えて、完成までもう少しというところまできた。
その工事の中には、3か所の遊水地の排水を担う水門三基のほか、周囲堤に陸閘(りっこう:堤防等に作られた水門付の通路)2か所、遊水地に流れ込む支川の改修工事、樋門・橋梁・排水機場などの建設も含まれている。救急内水排水施設、排水ポンプ車も設置され、万全な内水対策(洪水時に樋門を閉めることにより、支川の水を排水するための施設など)も施されている。
(写真下:遊水地の平面図・断面図(国土交通省東北地方整備局のハンドブックから)と、遊水地の水門を紹介するあいぽーとの展示写真)



前回も触れたが、遊水地として一関の地が選ばれたのかというと、下流26キロの宮城県境まで及ぶ狭窄部があること、一関より下流では極端に勾配が緩くなり河川の流下能力が低くなり、流しきれない水が一関・平泉地区にあふれ出すという洪水が起こりやすかった。
狭窄部を切り開くためには硬い岩でできた川岸を大幅に削るというのは難工事。トンネルを掘って太平洋に流すためには40キロのトンネルは必要で工費や時間がかかりすぎるということもあって、5大ダムとともにこの地に広大な遊水地を整備することになった。
なお北上川は下流に分水路があり、追波湾(おっぱわん)に注ぐ新北上川(新川)と石巻市の中心地を経由して石巻湾に注ぐ旧北上川があることはご承知のとおり。こちらは1934年(昭和9年)完成。信濃川の大河津分水よりも少し後輩。
(写真下:周囲堤の高さを実感できる写真と、周囲堤上の管理道路から。右手に遊水地、左に住宅地が見える。)



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北上川学習交流館の「あいぽーと」は防災センターでもあった

2025年01月08日 | 土木構造物・土木遺産


さて、いよいよ北上川に行こうと思う。長さ249キロメートル(国内第5位)、流域面積10,150平方キロメートル(国内第4位)、流域人口は139万人、奥州藤原氏の繁栄と平泉文化(世界遺産→「平泉‐浄土思想を基調とする文化的景観」)を生み、森林・水田など豊かな自然に恵まれた東北随一の大河である。
ナイル川やチグリス・ユーフラテス川にも言えるように、産業や文化の形成にも川があるということは重要な要素。川があるところに人が集まり文化が栄えるといってもいい。北上川もそう言えるのだが、やはり日本特有の地形から洪水などの災害も多かった川でもある。
水防という観点ではすでに北上川流域には足を踏み入れている。以前紹介した鳴子ダムは江合川に、長沼ダムは迫川など、それぞれ北上川の支流にあるダムだ。そのほかにも石巻のかわまち交流拠点震災遺構・大川小学校でも北上川に触れている。



見どころ、紹介しどころはたくさんある北上川流域だが、前回紹介した福島の荒川同様、川の歴史などを紹介する施設を探していたところ、中流の岩手県一関市に「北上川学習交流館・あいぽーと」という施設があることを発見!まずは、こちらにお邪魔してみることにする。
場所は、一関駅から東へ2キロほどのところ。北上川支流の磐井川に架かる東大橋の西詰、周辺には体育館やサッカー場、一関遊水地記念緑地公園などの公共施設が集中する場所に、国土交通省(東北地方整備局)所管の立派な外観の建物があいぽーとだ。
その展示室には床一面に流域のマップが描かれていて、それを囲むように沿川で発生した水害の歴史パネルやダムなどの水防施設の写真・説明が並んでいる。図書コーナーや学習スペース、幼児用のお遊び広場なども備えている。



北上川を学ぶ施設としては期待どおりの内容だが、施設の3階には展望室を備えているのが特徴。ここからは一関遊水地が一望できる。手前(北上川下流)の第一遊水地から北上川左岸の第三遊水地、かなた上流に第二遊水地も。(写真下:展望室から遊水地を見る。もう一枚は、大林水門付近の北上川)
この後紹介する北上川流域5大ダム群とともに、北上川遊水地は下流に控える北上川最大の狭窄部があるため、県南地域の守り神として存在する。それを一望できる場所にあいぽーとがあるのだが、実はこの施設は国土交通省の一関防災センターが併設されている。
実際、2008年(平成20年)の岩手・宮城内陸地震では災害対策拠点として、2011年の東日本大震災では全国各地から災害対応・支援のための車両が集結した拠点にもなった。洪水時は2階の集中管理センター災害対策室で情報の一元管理をする拠点にもなるのだ。



それにしても、あいぽーとではパンフレットがたくさん展示されていて、自由にお持ち帰りが可能。「いただいていいんですか?」と受付のお姉さんに一応断って、立派なハンドブックや分厚い写真集なども手にした。これは凄い!(写真下:展示提供するパンフレット類の書棚と持ち帰った資料)

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自然派のおばちゃんと荒川の水防林・霞堤をデートして

2024年12月27日 | 土木構造物・土木遺産


福島・荒川を訪れる際に予想してはいた。砂防堰堤は数も多いし、なかなか見ようとしても険しい場所にありそうなこと。事前に地図を見ていると、荒川のほとり小富士橋の右岸の橋詰めに「荒川資料室」というのを見つけた(写真上:外観と内観・展示資料)。
荒川の歴史を紹介する施設で、荒川の氾濫時の資料や治水事業を模型で展示、荒川に親しみを持ちかかわりのある人の交流の場となっているという。福島市が設置する資料室。まず、ここを訪ねて情報を入手しようと考えた。(前回の記事と前後しての紹介となる。)
キャンプ場などもある「水林自然林」という公園の入り口に瀟洒(しょうしゃ)な白い建物が荒川資料室。ガラス越しに中をのぞくと誰もいない?だが、扉を開けると初老の女性が奥から出てきて声を掛けてかけてきた。ちょっとびっくり!



國原よし子さん(写真上)は、長いこと資料館の管理をされている。地元の方で、荒川の恩恵を受けながらも、暴れ川の一面も目の当たりにしながら、川とともに暮らしてきた。水害の歴史や堰堤をはじめ水防施設の話を丁寧に説明してくれる。
いろいろ資料・パンフ類も提供してくれた。が、ネットで見た地方整備局(福島河川国道事務所)が作成したパンフレットの話をすると、すでに配布は終了してしまったというものの、奥の方から最後の一部を探し当て惜しげもなく分けてくれた。貴重な荒川土木遺産絵図(写真上)も頂いた。
なんでも上司の方と川を歩きながら堰堤や床固の現場にも足を運んだということで、「クルマで近くまで行けるところ」という自分勝手な条件にも、前回紹介した地蔵原堰堤と東鵜川第一堰堤の場所(道順やクルマの駐車場所まで)を詳しく教えてくれた。



その後、公園内を案内もしてくれた。この公園は水林自然林というだけあって、江戸期から植林されてきた水防林が生い茂っていて、植物や野鳥も多い。その林内にはひっそりと石積みの霞堤も保存されている。何回か積みなおしたものだというが現在も機能しているという(写真下)。
國原さんはあまり草刈りなどを好まない様子。「自然のままがいい」とポツリとつぶやく。私は堰堤(土木構造物)を求めてここに来たため「植物には興味がない」と告げると、少し残念そうな顔をする。超自然派なんだなー。
一時間ほど一緒に歩き回り、帰りに土湯温泉も勧められた。温泉に入る時間はないが、温泉街の堰堤をバックに自撮りした写真を見せると「堰カード(ふくしま荒川・砂防堰堤カード、見出し写真)」がもらえるとの情報も。こりゃ、見透かされていたなと思いながら、お薦めの堰堤を見た後、温泉街の案内所に向かった次第だ。

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