北風の冷たい雨で、富士山麓は完全に雪模様だと思う。三月も終わるのにこんなに寒いとは。
仕方なく、部屋の掃除をして、ゆっくり音楽を聴くことにした。掃除の最中は中島みゆきさんのLP「おかえりなさい」などをかけ、掃除後は、マッサージ機に身を委ねてMireille MathieuのLP「Sentimentalement Votre」を聴き、配線や機器の動作を確認していた。古い機械を並べていたが、使いやすい機器だけに整理した。と言っても「断捨離」ではない。ルートから外れた機器は丁寧にしまったので、必要な時にまた活躍してもらうし、同機種が故障の時、代替え機械として頑張ってもらうつもりだ。
このLPはダイジェスト盤なので、LPレコード紹介からは外しているのは次のような解説から、このLPがさほど貴重なLPではなく、切り売りの感があるためだ。(要は、ミレイル・マチューが作ったものではなく、単に来日記念として作成されたものだということ)
「ミレイユ・マチューは、フランス・シャンソン界でも数少ない国際的な人気歌手、大スターのひとりにランクされているが、日本には1971年、NHKテレビに出演するためだけの目的で来日して以来、1974年、1976年に続いてことし1978年5月には4度目の来日が実現しようとしている。彼女の日本における人気も、来日のたびを重ねるごとに高まっているが、日本で発売されている彼女のLPの枚数がすべてのシャンソン歌手、いやポピュラー・ヴォーカリストのそれにくらべて最も多いということからも伺い知ることができよう。また第2回の来日前に(ミレイユ・マチュー・ファン・クラブ)が発足したこともその人気の高さを証拠立てている。
12年前アマチュア・コンテストに連続優勝した時、ミレイユ・マチューは小柄な少女とはおもえぬ力強い唱法、スタイルに対してエディト・ピアフの再来といわれ、その年の暮にはシャンソン歌手の殿堂となっている「オランピア」に前座として出演、翌66年には同劇場のメイン・スターとして出演したほどの躍進ぶりをみせたのだった。
フランスの古い民謡「アビ二オンの橋」でその名を知られているアビニオンの貧しい石工の娘として生まれたミレイユは、小学校を出ると、女工として働かねばならなかったが、好きな歌でその才能を早くから認められ、15才の時地方ののど自慢コンクールで優勝、声楽を習っていた先生の薦めでパリに出たのだった。
ミレイユを国際的なスターに育てたのは、敏腕なパースナル・マネジャ兼演出家のジョニ・スタークだとされているが、彼女が単なるシャンソン歌手にないエンタテイナーとしての素質を伸ばし、国際的な感覚を身につけたのはスタークの指導と助言があったからであろう。
ミレイユのレパートリー、舞台衣裳、ショウとしての演出には、パリとかフランスとかいった色彩、ワクを超えたアイディアが生かされており、ポール・モーリアをはじめクリスチャン・ブリューンなどすぐれた作曲家に曲を依頼してきたばかりでなく、シャンソンのスタンダード、アメリカのヒット曲など多彩なレパートリーにも国際的な人気の秘密があるとみられている。日本人としても小柄な方といえるくらい小柄な彼女のすばらしい声量、ドラマティックな力強い歌唱力表現力、そしてダンスやコミカルな演技などステージ・エンタテイナーとしての力量をいかんなくみせる彼女のステージは、まさしくフランスのシャンソン界、芸能界の大スターの名にふさわしいものといえよう。このアルバムは、彼女の数多いヒット・アルバムのなかから代表的な名唱、シングル・ヒット、えり抜きの名唱16曲を特集したベスト集の決定盤であり、4度目の来日を記念してのスペシャル・アルバムである」
と書かれている。ただ、B面の一曲目は「Medley Ne me quitte pas , Les Parapluies de Cherbourg」というちょっと変わった一曲。この曲があるからこのレコードを大事にしているのだ。
掃除が終わると、ラウラが偵察に来て、おしっことウンチをして帰って行った。