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源太郎、、、古い資料に価値はないのか

2017年01月30日 | 毎日の話

早朝の新幹線で、文献を読んである課題を抽出していたところ、あっという間に東京駅に着いた。亡き先輩たちから譲り受けた文献を読み始めると没頭して、下手な小説を読むより面白い。文献と言っても、先輩たちは大正生まれだから昭和30年以前の文献(手書きであったり、和文タイプ)だ。源太郎はそれ以降の文献について、引用が多く独創性は期待薄いので興味はない。なかんづく、昭和15年から終戦までの5年間の文献は限界状態での苦労が垣間見え実に本質に迫っているので実に面白い。

ちょっと長くなるが「安全率」という言葉について考えて見たい。「安全性」や「安全率」は経済発展によって変化していることが一般的だが、本来合理的考えに立つべきで、終戦してしばらくはまだしも、近年はそれを議論しない輩の声が強く、限界状態での議論しない傾向があるように思う。

ある分野の安全率はかつて10もあった。その後著名な外国の技術者の論文が発表されると、世界的に安全率が格段に下がった。すると、まだ外国に頼っていた経済的に厳しい復興途中の日本はそれに追随した。しかし、経済的に裕福になった近年の日本では、海外でさらに安全率は下がってもそれを改定しようとは思っていない。要は「品質が確保されてきたし、場の条件も整理できたから、現象毎安全率を変化させるのだ」という外国の合理的な考えに、保守的な技術集団化した日本の技術者(全ての分野ではないが)は追随していない。それは、一種の責任回避がその前提にあると源太郎は思う。

私なりに理由を考えて見ると、「非難された時に答えることが嫌だから決まっていることは変えない」という戦後教育の姿が後ろ盾となっていると感じるのだ。ある学会は議論を嫌うが、それは、かつて諸先輩が苦労して記述した論文など古くて意味はなく、再び同じテーマをまた繰り返しやっているのに、それが研究だと思っているのだ。だから独創性なんて期待すること自体無理というもの。

なんのための専門家なのか。ある分野で、近年、最適なある配合の最適値を求めるために実験した報告がなされた。しかし、諸先輩たちは、すでにその検証を70年前に大規模な実験して結果を得ていた。近年実験した答えは同じだった。それを聴講した諸氏は拍手でこれを迎えたのだ。先端技術(過去ではそれすら検証できない困難な課題)ならまだしも、そうではない分野でこのようなことを繰り返すことは無駄なことだと思う。だから、源太郎の世代はもう少し古い文献をちゃんと整理しないとまずいと思うのだ。

ある著名な外国の学者がこのようなことを公に述べた。「コンピューターが著しく発展した。それは高度な計算をたちどころにやってくれる。しかし、そのことによって非常に良い成果が生まれているのだろうか。逆に考える時間を我々技術者は捨ててしまったのかもしれない」と。源太郎のように手回しの計算機や対数表を使っていた時代の人間からすると、コンピューターを操ることが最新の技術であって、技術者の知見や経験はその下に埋もれてしまったと感じる。

インターネットで検索することもいいのだが、「活字」を今一度見直そう。