※このブログは、2009-06-23 00:10:51、2012-01-31 12:45:49 |の主張を、一部リライトし加筆したもの。
地方分権問題は、国も地方もそれなりの覚悟が必要であると思う。本気で地方分権を進めたいのであれば、まず、地方から自然発生的に、分権化の声が高まっていくことが必要不可欠。しかし、手厳しい言い方になるが、地方からの声が高まるどころか、なによりも中央集権推進派の知事を当選させている大半の地方の住民こそが、本気で地方分権を望んでいないのではないかと私は分析していた。
陳情型政治家の立場に立ってみると、選挙に勝つ為には、自らの実力をアピールすることが必要だ。その為に、財源を地方に移譲するよりもむしろ、中央政府が握っていて、ポーズであったとしても中央政府に影響力を見せ付け得点を稼ぐ方が好ましいのだ。一方、地方公共団体の立場に立ってみると、現在、多くの施策は国が企画立案し、国に陳情することによって補助金を獲得し、施策を実施している。これが、財源自体が地方に移譲されれば、地方自治体において企画立案から行う必要となってしう。それよりも、国の施策を陳情によって獲得し、淡々と遂行する方が楽だという面も考えられ。政治家にとっても、地方にとっても、財源の移譲について諸手を挙げて賛成というわけにはいかない。
それがきっと「本音」である。
地方分権によってどのようなメリットがもたらされるのかといったことを地方の住民が真剣に考え、その結果、地方分権を望む声を形成させることが必要。地方分権推進論者は、まず住民意識覚醒、囲い込みから始めるべきだ。おそらく一部の役人、一部の政治家から想像を絶するような反対をうけることになるだろうが、すべての出発点はそこにあるような気がする。
我々国民は「地方の自立とは何か」を考えていく、この一点に全てを集中させることだ。税源の移譲、権限の移譲とは、実は地方にとってある種の覚悟を迫るものであると理解するべきである。移譲されたからには他に予算を求めないという覚悟だ。私が大前研一の下で学んでいた「道州制」とは、自活できる経済単位で地方経済を考えていこうというもの。残念ながら、そういった意味を踏まえての自治体の合併論議は皆無であったというのが実情。
では、どこから手をつけていけばいいのか。地方分権の何たるかを理解し、実現できる知事や地方自治体のトップを選び出すこと。それが国民の責任であると確信する。そして、彼らと共に、国を変えるのだ。国が変わらなければ、地方は変わらない。
そして、大旋風吹き荒れた、大阪維新の会の出現。
私が大前研一氏のところで学んだ道州制の単位は、経済的に自立できる単位を基本とする。都道府県という単位をゼロベースで撤廃し、新たに再編成する。地方に対する権限の移譲、財源の移譲とは、ある意味独立採算してやれという意味合いが強い(とすると、地域負担金は撤廃しても、地方交付税、国の直轄事業はどう位置づけるのかという議論も避けて通れない)。民主党の場合、地域住民と密接な関係にあるという部分を重要視し、基礎自治体300に拘っているのだが、それだけの理由で基礎自治体が自立できるのだろうかと考える。経済的に自立できなければ、地方の自立も有り得ない事だと思うのだ。
今までの重複のある二重行政に対し、民主党案は二元行政。大阪維新の会が指摘するように、これではやはり、国と地方の関係に過ぎないのである。以前からの私の主張は、国は、基本的に教育、外交、安全保障以外は地方に権限を移す。そして、経済的に自立できる道州という単位で企画立案し、調整し、権限は、基礎自治体に下ろす。とすると、都道府県の位置づけが変わってくる。ただ、基礎自治体と国との間に道州制というクッションをおかなければ、地方分権は不可能であり現実味がないとも考えるが、これは論点の一つ。
このタイミングで、地方からの自然発生的な、声が上がっており、結果、橋下旋風が吹き荒れた事は、゛地方分権の何たるかを理解し、実現できる知事や地方自治体のトップを選び出すこと。それが国民の責任であったと確信する。そして、彼らと共に、国を変えるのだ。゛という時代に入ったと解釈している。
言わずもがな、私が当時指摘したように、二重行政の解消は認めるも、民主党は二元行政を押し進めた事で昨年のダブル選挙に敗北したのだ。それを揶揄して、ツイッターに、こうつぶやいた。
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『何かをやる為に組織が障害になっている』と、考えている人の数が、組織を構成する人の数を超えているような気がします。そんな組織ならば、ぶっ壊れた方がいい。与野党の協議を見ていると政党政治の限界を感じます。
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党内議論の中で、大阪の地方自治についてのあり方議論となるとことごとく孤立し、広域自治体と基礎自治体の役割分担が必要であるという主張で孤立、選挙対策でも孤立した。それでも、本音は言い続けてきた。ようやく、風向きは大きく変わった。政治行政の側よりも先に、大阪維新の会の登場をもって、有権者が「ある種の覚悟」をしたのである。トップが代わっても何も変わらないならば、システムを変えるしか残された道はない。
その後の国会に目を移す。平成22年6月22日閣議決定された、地域主権戦略大綱の中身には疑問があった。「国のかたちについては、国と地方が対等なパートナーシッフの関係にあることを踏まえ、国が一方的に決めて地方に押し付けるのではなく、地域の自主的判断を尊重しながら、国と地方が協働してつくっていく」とある。要は、地域の自主的判断は尊重されるだけで、主導権は国が持ちますよというニュアンスを払拭出来ない。
民主党内での「特例法による道府県における特別区設置等についての考え方」について取りまとめ議論が最終局面に来た。自公案は総務大臣と協議してということで、国が絡んでくる。民主党の方向性も大綱にあるとおりで、この延長線上。加えて地方制度調査会で移行ルールなどの詳細を決めるというもので、更に地方の意思は通じづらくなる。適用範囲において隣接する地方公共団体のことを考えれば、住民投票は不可欠ともいえるが、みんなの党案では、これを省略し、市民が選んだ関係自治体の議会の同意で対応している。これは、政治判断だと思う。
繰り返すが、既に大綱で骨抜きにされているので、騒いだところで何にもならぬ。しかし、足跡だけは残しておこうと思っている。
地方分権問題は、国も地方もそれなりの覚悟が必要であると思う。本気で地方分権を進めたいのであれば、まず、地方から自然発生的に、分権化の声が高まっていくことが必要不可欠。しかし、手厳しい言い方になるが、地方からの声が高まるどころか、なによりも中央集権推進派の知事を当選させている大半の地方の住民こそが、本気で地方分権を望んでいないのではないかと私は分析していた。
陳情型政治家の立場に立ってみると、選挙に勝つ為には、自らの実力をアピールすることが必要だ。その為に、財源を地方に移譲するよりもむしろ、中央政府が握っていて、ポーズであったとしても中央政府に影響力を見せ付け得点を稼ぐ方が好ましいのだ。一方、地方公共団体の立場に立ってみると、現在、多くの施策は国が企画立案し、国に陳情することによって補助金を獲得し、施策を実施している。これが、財源自体が地方に移譲されれば、地方自治体において企画立案から行う必要となってしう。それよりも、国の施策を陳情によって獲得し、淡々と遂行する方が楽だという面も考えられ。政治家にとっても、地方にとっても、財源の移譲について諸手を挙げて賛成というわけにはいかない。
それがきっと「本音」である。
地方分権によってどのようなメリットがもたらされるのかといったことを地方の住民が真剣に考え、その結果、地方分権を望む声を形成させることが必要。地方分権推進論者は、まず住民意識覚醒、囲い込みから始めるべきだ。おそらく一部の役人、一部の政治家から想像を絶するような反対をうけることになるだろうが、すべての出発点はそこにあるような気がする。
我々国民は「地方の自立とは何か」を考えていく、この一点に全てを集中させることだ。税源の移譲、権限の移譲とは、実は地方にとってある種の覚悟を迫るものであると理解するべきである。移譲されたからには他に予算を求めないという覚悟だ。私が大前研一の下で学んでいた「道州制」とは、自活できる経済単位で地方経済を考えていこうというもの。残念ながら、そういった意味を踏まえての自治体の合併論議は皆無であったというのが実情。
では、どこから手をつけていけばいいのか。地方分権の何たるかを理解し、実現できる知事や地方自治体のトップを選び出すこと。それが国民の責任であると確信する。そして、彼らと共に、国を変えるのだ。国が変わらなければ、地方は変わらない。
そして、大旋風吹き荒れた、大阪維新の会の出現。
私が大前研一氏のところで学んだ道州制の単位は、経済的に自立できる単位を基本とする。都道府県という単位をゼロベースで撤廃し、新たに再編成する。地方に対する権限の移譲、財源の移譲とは、ある意味独立採算してやれという意味合いが強い(とすると、地域負担金は撤廃しても、地方交付税、国の直轄事業はどう位置づけるのかという議論も避けて通れない)。民主党の場合、地域住民と密接な関係にあるという部分を重要視し、基礎自治体300に拘っているのだが、それだけの理由で基礎自治体が自立できるのだろうかと考える。経済的に自立できなければ、地方の自立も有り得ない事だと思うのだ。
今までの重複のある二重行政に対し、民主党案は二元行政。大阪維新の会が指摘するように、これではやはり、国と地方の関係に過ぎないのである。以前からの私の主張は、国は、基本的に教育、外交、安全保障以外は地方に権限を移す。そして、経済的に自立できる道州という単位で企画立案し、調整し、権限は、基礎自治体に下ろす。とすると、都道府県の位置づけが変わってくる。ただ、基礎自治体と国との間に道州制というクッションをおかなければ、地方分権は不可能であり現実味がないとも考えるが、これは論点の一つ。
このタイミングで、地方からの自然発生的な、声が上がっており、結果、橋下旋風が吹き荒れた事は、゛地方分権の何たるかを理解し、実現できる知事や地方自治体のトップを選び出すこと。それが国民の責任であったと確信する。そして、彼らと共に、国を変えるのだ。゛という時代に入ったと解釈している。
言わずもがな、私が当時指摘したように、二重行政の解消は認めるも、民主党は二元行政を押し進めた事で昨年のダブル選挙に敗北したのだ。それを揶揄して、ツイッターに、こうつぶやいた。
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『何かをやる為に組織が障害になっている』と、考えている人の数が、組織を構成する人の数を超えているような気がします。そんな組織ならば、ぶっ壊れた方がいい。与野党の協議を見ていると政党政治の限界を感じます。
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党内議論の中で、大阪の地方自治についてのあり方議論となるとことごとく孤立し、広域自治体と基礎自治体の役割分担が必要であるという主張で孤立、選挙対策でも孤立した。それでも、本音は言い続けてきた。ようやく、風向きは大きく変わった。政治行政の側よりも先に、大阪維新の会の登場をもって、有権者が「ある種の覚悟」をしたのである。トップが代わっても何も変わらないならば、システムを変えるしか残された道はない。
その後の国会に目を移す。平成22年6月22日閣議決定された、地域主権戦略大綱の中身には疑問があった。「国のかたちについては、国と地方が対等なパートナーシッフの関係にあることを踏まえ、国が一方的に決めて地方に押し付けるのではなく、地域の自主的判断を尊重しながら、国と地方が協働してつくっていく」とある。要は、地域の自主的判断は尊重されるだけで、主導権は国が持ちますよというニュアンスを払拭出来ない。
民主党内での「特例法による道府県における特別区設置等についての考え方」について取りまとめ議論が最終局面に来た。自公案は総務大臣と協議してということで、国が絡んでくる。民主党の方向性も大綱にあるとおりで、この延長線上。加えて地方制度調査会で移行ルールなどの詳細を決めるというもので、更に地方の意思は通じづらくなる。適用範囲において隣接する地方公共団体のことを考えれば、住民投票は不可欠ともいえるが、みんなの党案では、これを省略し、市民が選んだ関係自治体の議会の同意で対応している。これは、政治判断だと思う。
繰り返すが、既に大綱で骨抜きにされているので、騒いだところで何にもならぬ。しかし、足跡だけは残しておこうと思っている。