長尾たかしの・・・未来へのメッセージ

自民党衆議院議員長尾たかしのブログ。平成11年からネット上で情報発信を継続。サラリーマン生活を経て政界へ。

富田メモは、徳川義寛元侍従長のことばではないか?

2006-07-25 12:22:08 | 歴史・伝統・文化
お待ちかね、富田メモを検証する。

まず結論。このメモにある言葉は「陛下のご発言ではない」と考える。

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昭和天皇、A級戦犯靖国合祀に不快感・元宮内庁長官が発言メモ

 昭和天皇が1988年、靖国神社のA級戦犯合祀(ごうし)に強い不快感を示し、「だから私はあれ以来参拝していない。それが私の心だ」と、当時の宮内庁長官、富田朝彦氏(故人)に語っていたことが19日、日本経済新聞が入手した富田氏のメモで分かった。昭和天皇は1978年のA級戦犯合祀以降、参拝しなかったが、理由は明らかにしていなかった。昭和天皇の闘病生活などに関する記述もあり、史料としての歴史的価値も高い。 日経新聞(07:00)
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メモの内容は、

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私は或る時に A級が合祀されその上松岡 白取までもが
筑波は慎重に対処してくれたと聞いたが
松平の子の今の宮司がどう考えたのか易々と
松平は平和に強い考があったと思うのに
親の心子知らずと思っている
だから 私 あれ以来参拝していない
それが私の心だ
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後述するが、この「スクープらしきもの」は相当以前より、日経が仕掛けていたらしいので、情報が日経の独占状態(を装っていた?)だったので、メモに関する画像がなかなか手に入らなかった。ようやく手に入れたのが、この画像。

さて、私は今年3月頃、メール問題で大変な目にあった。民主党は国会を混乱させた。国会で取り上げる資料に関し、「裏を取る」ということの重要性を学習した。このメモの存在は事実と思うが、陛下の言葉とは考えられない。

1.「私」=「陛下」だろうか?
富田朝彦元宮内庁長官のメモであることに間違いはない。しかし、陛下のお言葉と何処に断言できる文言があるだろうか。一部にこれは当時の藤尾文部大臣の言葉ではないかという情報も出回った。写真にあるように、日経が「意図的に削除した部分」には、赤線で引いてあるように藤尾氏の発言が以下であると示唆するようなところがある。しかし、藤尾氏がどのような人物だったかを知っているならば、彼がこのような発言をするはずはない※。都合の良い印象をつける為に、都合の良いところだけ切り取る手法は実に許せない。

2.陛下の過去の公式発言に矛盾する
昭和20年8月29日に陛下は「戦争責任者を連合国に引き渡すは真に苦痛にして忍び難きところなるが、自分が一人引受けて退位でもして納める訳にはいかないだろうか」と、9月11日の閣議では「昨日まで朕の信頼した臣僚を朕の名において処刑することは出来ない」、また、12月10日には「(A級戦犯は)米国から見れば犯罪人にならんも我国においては功労者なり」とご発言されている。富田メモは「メモ」であり、メモに書かれた「私」を安易に「陛下」とする偏向的判断はありえない。

3.松平宮司が陛下のご意向を無視して勝手に合祀することは、手続き上考えられない
靖国神社に祭られる魂は、まず遺族等支援法に基いて厚生省が提出をしてきた名簿を「祭神名簿」という形で、靖国神社が受け取る。それに基き、「霊璽簿」と「上奏簿」を作成。そして、上奏、つまり名簿について、「天皇に意見や事情などを申し上げる手」続きを踏み、合祀をする。そして、合祀は例大祭の前に行われ、合祀後の例大祭には、必ず勅旨、つまり「天皇の意思」を、勅使、つまり「勅旨を伝える使者」を戴くのである。勝手に宮司が合祀できることではないのである。

では、誰の言葉なのか?
実は、侍従長を退いてからこんなコメントを口にした元侍従長がいる。

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・「松岡洋右さんのように軍人でもなく病死した人も合祀するのはおかしい」などと問いただしたが、押し切られた。
・「靖国神社は元来、国を安らかにするために奮戦して亡くなった人をまつるはずなのであって、国を危うきに至らしめたとされた人も一緒に合祀するのは異論も出るでしょう」
・「(A級戦犯合祀について先延ばしした)筑波さんのように、慎重な扱いをしておくべきだったと思いますね」
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当時の靖国神社の宮司は、
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筑波藤麿:1946年(昭和21年)1月25日 - 1978年(昭和53年)3月20日(在職中に死去)
松平永芳:1978年(昭和53年)7月1日 - 1992年(平成4年)
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と、引継がれた。「所謂A級戦犯」合祀に関して、微妙な時期である。

先の発言者は、徳川義寛元侍従長(1985年(昭和60年)10月-1988年(昭和63年)4月の期間、侍従長を務めた)である。

富田メモ
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私は或る時に A級が合祀されその上松岡 白取までもが
筑波は慎重に対処してくれたと聞いたが
松平の子の今の宮司がどう考えたのか易々と
松平は平和に強い考があったと思うのに
親の心子知らずと思っている
だから 私 あれ以来参拝していない
それが私の心だ
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よって、
富田メモの「私」=「徳川義寛元侍従長」と推測する。

締め括りだが、何故この時期だったのか。当然自民党総裁選挙対応である。○○○元総理と○○新聞○○○○氏等が、日経新聞にリークさせ、ガセ世論を作り出そうとしたのだ。そこに、福田氏が乗らなかったことはご立派。そういえば、加藤の反乱の時も、マスコミが担ぐだけ担いで下野したっけなぁ。

政治の世界は恐ろしい。「陛下のお言葉らしきもの」まで利用して世論を作る。非公式のメモを政治的に利用するとはまったく以って許せない。

清水建宇さん、知らぬ振りしてコメントすることのないようにね。






※以下、ウィキペディア(Wikipedia)より
藤尾正行
1986年第3次中曽根内閣で文部大臣に就任するが、入閣直後に歴史教科書問題に関連して「戦争で人を殺しても殺人(罪)には当てはまらない」「韓国併合は合意の上に形成されたもので、日本だけでなく韓国にも責任がある」等の発言をしたことに対し一部の人が取り上げ論議を呼ぶ。主に野党や革新勢力から「放言大臣」と揶揄され、閣僚辞任と発言撤回を求められるが、本人は断固として拒否し、中曽根首相によって罷免された。この発言は福田の選挙区のライバルであり、経済閣僚を望んでいた自分を文部大臣に回すなど安倍派を徹底的に冷遇した中曽根に打撃を与えるために敢えて行ったという向きが強い。後者の発言によって、韓国では氏を「極右妄言政治家」の一人として見る向きが多い。

※参考・・・国民運動通信151号
コメント (22)
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