奈良県桜井市にある「山田寺」は、「乙巳の変(大化の改新)」で活躍した、蘇我倉山田石川麻呂が641年に造営を始めた氏寺でした。
今回は、悲劇が残る古寺の跡「山田寺」を紹介したいと思います。
蘇我倉山田石川麻呂は、649年に、蘇我日向(ひむか)の讒言(ざんげん)により、この寺で自害したと言われています。その後、石川麻呂の嫌疑は晴れ、天智・天武天皇により、「山田寺」の造営は再開され、685年には完成をみました。「山田寺」は、飛鳥に通じる山田道沿いの交通の要所に位置しています。
伽藍の配置は、塔と金堂が南北に一直線に並び、これらを回廊で囲んでおり、その北に講堂が設けられています。東にある回廊は、10世紀末から11世紀初頭にかけて、東からの鉄砲水を受けて倒壊し、金堂と塔は12世紀末ころまでに焼失したことが確認されています。
歩いてすぐの「飛鳥資料館」には、倒壊した東回廊の建物が奇跡的そのまま発掘され、保存処理された東回廊の建物(国重要文化財)を見ることができます。また、「山田寺」講堂の本尊で、1187年に興福寺東金堂衆により奪われた、白鳳時代の彫刻を代表する国宝の「仏頭」のレプリカや、発掘された色々なの貴重な物を見ることができます。
現在は、寺跡にある観音堂と庫裏、そして無実の罪をはらす「碑」があるだけですが、境内には往事の伽藍配置が、大変綺麗に整備されています。
「山田寺」跡から南西約200mのある森の中に、東大谷日女命神社があり、境内には1375年の銘を刻む、国重要文化財の石灯籠(いしどうろう)を見ることができます。
悲劇が残る古寺の跡「山田寺」跡に立つと、激動の飛鳥時代のことが、思いめぐらすひと時でした!