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マクロビオティックインスピレーション・随想古事記・日本語と歴史・バベルの塔・日々雑感

国というもの

2011-11-14 10:02:06 | 父の懐・母の懐
3月の大震災以来8カ月が過ぎました。日本を直接まきこんだ戦争が絶えて65年余、私達は久しく考えなかった国というものについて深く考えさせられたと思います。

東北の悲惨な状況を救うことが出来るのは国しかない・・・・・国が責任を持って復興する・・・・・?????
今年全国民が実感した思いを表す言葉は『絆』だ・・・・・多くの人々がボランティア活動に参加したし、もっと多くの人々が義援金に生活費を削った・・・・・

今回の大災害から早く復興させるためには大きな自然の時の流れを加速させなければなりません。それを思った時『国』というものを感じます。大きな力が無ければ動かすことのできない自然の大災害の被害!!!国内という地域社会を守ろうという『国』の心を感じます。そしてその心を動かす組織としての『国』を実感することが出来ます。同胞の災害は時代時代によって様々なものがあっただろうと思います。『国』の恩恵にどっぷりとつかって忘れかけていた『国』の実感を取り戻すことが出来ました。

天皇皇后両陛下の被災地お見舞いに、全国民が心を重ねてお見舞いしたと思います。われらが組織である『国』に心を寄せたと思います。そして我らが見たものは我らが行政機関と我らが全権を委託した国会の8ヶ月でした。『国』の心は堕落しない、というより国民の健全性を映していると思いますが、組織は堕落する・・・・・たとえどんな組織でも堕落する・・・・・そう思います。

かの昔孔子様が『自分は終生学を好んで学び続けた』という主旨のことを述べておられます。何時までも自分をたたくことだけが、堕落しないで生きる方法だと思います。そんな孔子様の生きられた時代は春秋戦国時代、群雄割拠した下克上の時代です。そんな500年も続く無法(?)時代は、『国』というものに求める夢も絶望も含めて、組織というものの堕落次第図とでもいうべきお手本を示しています。それで現代の私達もあの時代の物語に魅かれるのでしょうか。

幸か不幸か私達日本人の記憶の中には、『国』というものの建国の欲求が無い!!!!!どういうわけかアマテラスオオミカミの御心のままに私達は生かされている!!!!!『国』というものはオオミカミの御心を映すべき機関なのですから・・・・・もしかして私達日本人は生かされることは出来るけれども、生かすことが出来ないのでは・・・・・?『国』を運営することが出来ないのでは・・・・・?明治の元勲たちは一生懸命水を吸い込む砂のように西欧の組織を学んだけれども、『国』を建てる(建てられている)ことを知らなかったのでは?????

だって私達は横田めぐみさん達を取り返す手段を知らない!!!!!横田めぐみさん達が年を取ることを黙って看過するしかない!!!!!横田めぐみさん達が北朝鮮で新しい記憶を作っていくことを放置している!!!!!つまり日本人でなくなるかもしれない・・・・・風化させる以外の解決法がない現実が胸をかき乱します。私達の責任です。そして最も大きな責任を負っているのは国会議員です。その為に選ばれたのでしょう。国会は日本人の心を現実に映すためにある機関なのでしょう。この問題を解決できない事と、災害復興の遅れることの理由は同じだと思います。

私達の国会は、国会議員は国を知らない!!!!!それは私達日本人の姿勢に由来していると思います。つまり私達は建国の喜びを知らない!!!!!
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父の子守語り

2011-06-20 05:15:01 | 父の懐・母の懐
私の父が子供達に聞かせてくれた物語のほとんどが戦記物でしたが、その中でかなり珍しいお話があります。それは『ご飯を残してはいけない』という主旨の物語です。私は5,6才だった頃でしょうか。


或るところに大臣(?お大尽?)が住んでいて、その大臣にはとてもかわいらしいお姫様がありました。そのお姫様は大層我がままで、いつもご飯をきれいに食べることが出来ませんでした。大臣は可愛いお姫様に注意はするのだけれども、お姫様は少しもお父様の言われることを聞きませんでした。ある時お姫様が高い熱を出しました。大臣は心配で心配で、名医を探し出しては治療を頼みました。それでもお姫様は少しもよくなりません。

日ごとにお姫様は病気が重くなっていきました。ある日白い小さな蛇がお姫様のところに次から次へたくさん現れて取り囲んでいます。大臣は泣きながら、これはきっと何かのたたりに違いないと思って『どうぞお許しください』と心から天地の神様にお祈りお願いしました。すると白いお髭の老人が現れて、『この小さな蛇を全部集めて炊いてお姫様に食べさせなさい』と言いました。大臣は一生懸命蛇を集めようとすると、蛇たちは自分でお釜の中に入りました。それを焚いてお釜の蓋を取ってみると、炊きあがっていたものは、輝くような白いご飯でした!!

なんとその蛇はご飯が化けて出てきたものだったんだ!!!(父の合の手、子供たちの顔を見回します。)

大臣は早速そのご飯をお姫様に食べさせました。そしてお姫様によくよくその白い蛇のお話をしました。お姫様は自分が残して捨てられていたご飯を思い出しました。自分のご飯のお椀を思い出しました。お椀について捨てられたご飯粒を思い出しました。『悪いことをした、お許しください』とお姫様は泣きながらお詫びをしました。お姫様はそれからめきめきと良くなりました。それからのお姫様のご飯椀はいつもきれいでした。お姫様は一粒のご飯も大切に食べました。


食の細い子どもだった(らしい)私は“わがままなお姫様”だったのでしょうか??それでもその時『私もいつもきれいに食べよう!!』と子供心に思ったものです。そうした幼心に感じたものが、一生を左右するようなガードレールのようなものになっている気がします。




それでは今日も:

     私達は横田めぐみさん達を取り戻さなければならない!!!

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建国のおはなし

2011-02-12 08:33:11 | 父の懐・母の懐
昨日は雪の建国記念日でした。この国民の祝日は、明治になって遠い昔の言い伝えの日を割り出して制定されたものです。昭和20年の敗戦後はアメリカ合衆国の占領政策により、主権を回復した後は日本人のアイデンティティの喪失の後遺症により、何か後ろめたい、進歩的ではないという祝日にされてしまいました。それを戦後60年余ずっと引きずってうやむやの中敗戦の“かせ”を知らない若者達は“進歩的”な教育により育てられ、口を閉ざした老人は人生を終え、国民一色何とはない休日へと性格を変えています。それでも不遜な政府が土日とくっつけて連休に出来ないのは、この祝日が2月11日という、限定的な性格のものだからです。

私は戦後間もない昭和24年に生まれました。戦後教育の環境にありましたが、なにしろこの世で最も敬愛したのは父親でしたから、かなり中和されて政治的な影響を受けることはありませんでした。父は幼年学校から陸軍士官学校を出、敗戦直前の特攻出撃予定時には陸軍大尉でした。私は『大尉の娘』というところです。そういう学校は国防という最も現実的な性格を帯びていましたから、当時の学校の中では最もドライな、理念的ではないつまり絵に描いたぼた餅ではない教育を父達は受けたと思います。父は記紀のおかしな所もおかしな所として教えてくれました。現在の日本の理念は『平和』ですが、教育現場は非現実的です。なぜかというと『平和』が与えられるべきものであって、みんなが守るものとして教えられないからです。守るためにはどうするのかという思考を抜きに理念として植えつけられるからです。

父は子供達にこの世の矛盾というものを教えたと思います。それを埋め合わせるものが、思い合いと譲り合う心だと教えたと思います。今でもよく思い出すのはちょっとした言葉づかいです。父は言いました。『朝鮮の人といいなさい。社会から朝鮮人という言葉に残る見下しのニュアンスが消えるまで。』私達にとって『日本人』と同列に並ぶべき言葉『朝鮮人』、私達が『日の本』と誇る『日本』、朝鮮の人は『朝日の鮮やかな』国『朝鮮』なんでしょうね。でも言葉というものには歴史という感情が含まれます。五族協和と言いながら、日本人は日本の優越を信じたかったんでしょうね。でも人間の出自を問題にしてはいけないと教えられました。どこの国にも立派な人とそうでない人がいる。立派な人はそうでない人が悪い心を起こさないようにその社会を作る。悪い人が少ない国が立派な人が多い国、つまり立派な国だと。

その遠い昔の2月11日、大和の国を建てられた(とされる)神武天皇は、国の理想を五族協和、つまりみんなの平和を『八紘一宇』という理念に込められました。『一つの家のようにしたい』と宣言されたのです。これを否定するのはやはり言葉を客観的に見ていない証拠だと思います。確かに国を建てるには武力をもってしたと思います。しかしそれは現代の世界情勢を見ても、一歩も進んではいません。現代社会でも武力で平和を守る以外、決定的な方法を見出せずにいるのです。日本書紀の編纂は時代を下って7、8世紀のことですから、当時の大和朝廷の理念かもしれません。それでもこれは建国理念として人類の最高傑作だと思います。イタリアの人々は自分達の建国を紀元前8世紀のロムルス・レムルスのローマに置いて、自分たちがトロイのエレンの子孫だと信じています。それでいいのだと思います。

父は子ども達とこの日には、紀元節の歌を合唱しました。『雲にそびゆる高千穂の・・・・・・・』そうして私たち兄弟は高千穂に降りて来られた神話を聞いたのです。こういう民族の物語は誇りの心を生みだすと思います。誇りは人生を律する大切で最も有効な規範だと思います。そして誇りを驕りに変えないのが教育だと思います。非常事態を過ぎると自然に湧きあがってくる驕りに対する戒めが『身の程を知る』という日本人の持ってきたつつましさでした。そのブレーキが利かなくなると破滅の危機ですが、大切に子孫を育て上げることが歴史の継承で、本来それ以外に人生の目的は無いのだと思います。怖れをもって人生を全うしたいと思います。


それでは今日も:

     私達は横田めぐみさん達を取り戻すことが出来るだろうか!!!
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父のはなむけ

2010-11-04 08:58:17 | 父の懐・母の懐
昨日は国民の祝日・文化の日、実の父の誕生日でした。終日折にふれ亡くなった父を思いました。祖父は明治天皇様がお生まれになった日に父が生まれたことを喜び、父に『圭三』と名をつけたと聞かされました。『圭三』を分解すると『十一十一三』となります。その意味するところは『大正11年11月3日』です。

今回平戸に帰宅した間、ちょっとしたシロアリ騒動で応接間が使えず、座敷を利用しました。どなたの目に触れるのも、大きな扁額『積善の家に余慶あり』です。金色の紙に墨々とした雄渾な行書体の、それこそ余慶あふれる額です。37年余り前東京で結婚式を挙げて平戸に帰ってきた夜、見上げて涙あふれた額です。

結婚式の前夜父はささやかなお別れの家族会を開きました。その時嫁ぐ娘への父のはなむけが『積善の家に余慶あり』でした。奇妙にも耳に残っている言葉は『娘を柿本家にやってしまうわけではない。』、それから『家庭とは与えられるものではない、築いていくものなんだ。』、そして『今あるところが極楽浄土なんだよ。』と言って『極楽浄土』と認めた色紙を手渡しました。その小さな極楽浄土の色紙はそれからの私の人生を何時も見つめていたと思います。そして平戸に到着した私達に柿本の両親が寝室にあててくれた座敷にその扁額『積善の家に余慶あり』はかかっていたのです。緊張していた私はふと実の父に出会ったような不意を突かれて涙がこみ上げてきました。『ここに嫁に来たんだ』と思ったものです。

柿本の父から額を譲り受ける約束をした時はとても嬉しかったことを覚えています。私達の家は昭和63年に新築(?)しましたが、最近の家は欄間が低くてかけられるかどうか心配しました。でもミサワホームが善処してくださって鉄で素晴らしい長押用の受けを作っていただくことが出来たのです。その黒鉄がまた金色で縁が黒い額にぴったり!だったんです。それで時を経て金色の色相に深みを増したこの額を見上げるたびに実の父を思い、柿本の父を思い、色々な方々のご親切を思うというこの頃です。

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中原の国と彼称蛮夷の国二千年

2010-10-01 08:50:32 | 父の懐・母の懐
私達が知っている中原の歴史の始まりは、夏・殷・周・秦・漢・・・・・。夏について私は殆んど知りません、西夏という国が後代出てきますけれど、その西夏は古代の夏と関係あるのかなあ・・・?と思うくらいです。殷になれば滅亡時のお話、教室でも陰陽の話に時々出てくる伯夷叔斉の故事くらいしか知りません。湯王と紂王二人の王様くらいですかね。そうそう甲骨文字も殷の時代でした。

周ともなれば孔子様があこがれた国、ぐんと身近になってきます。東洋の芸術とも言うべき、周礼や周楽はみなこの時代に始まります。そしてそして、それよりも私の母校、平戸の猶興館高校の出身者にとっては、『文王無しと雖も猶興る』との孟子の一節によりうんと懐かしさを覚える国になってきます。そしてマクロビオティックを人生の梯子とする者にとっては、桜澤先生により解説された易の思想があります。易は周に始まるのです。

そんな周でさえも秦によって滅ぼされます。始皇帝の万里の長城は誰一人知らぬものはないと言っていいくらい、世界一の規模を誇る国境の砦です。ローマが築いた防塁と鎌倉幕府の水城を思い浮かべても、その格段のスケールの差をひしひしと感じます。夏・殷と周が最初どこに起こった国かわかりませんが、秦はその名から推測するに中東近くに起こった国かもしれません。そして歴史上初めて北方の蛮夷の脅威を後世に形として遺しました。秦は万里の長城を築くのに国力を使い果たしたのか、長くは続かず漢によって滅ぼされます。

漢と言う国号の音を考えれば、『カ』『カン』『ハン』という彼らの言う蛮夷の王号との関係を思わずにはいられません。それなのに『漢』はそれ以来中原の正統性を表すと考えられてきました。要するに『中原を制したもの』と、『中原の辺境に存立する蛮夷』という構図なのでしょうね。つまり中原は入れ替わりの構図になりました。その漢は初めて我が日本の近くに現れた国です。子供の頃『漢倭奴国王』という金印のことを習いました。つまり我が日本の先祖は漢に冊封される必要性を感じたということです。漢は朝鮮半島まで直轄支配したのです。これまた中学校で『漢の四郡』を習いました。

その四郡の間に存在した中原の言う蛮夷である民族国家は敵対するか冊封されるかのどちらかを選んで存立を図りました。敵対した第一の雄は『高句麗』です。一貫して独立を守り漢を滅亡させ、隋を滅亡させました。この中原と北東の満州から朝鮮半島にかかる地域の歴史を私達日本人はもっともっと我が身と感じ研究しなければならないと思います。何時かブログでもご紹介した韓国の映画《チュモン》は改めて事の重大性と普遍性を考えさせてくれました。漢、あるいはそれ以後に興る隋、唐という中原国家と朝鮮半島諸国家の関係は、歴史のお手本です。漢に直接接する国の外交方針は、隷属か対立かしかありません。自国がどれくらい強大であるかにかかっているのです。高句麗は中原の北東域で自国の強大化に成功した唯一の国です。貢物を献上して国力を低下させる必要のなかった唯一の国です。

その時代朝鮮半島には新羅と百済がありました。新羅と百済のように高句麗という中間国を挟んで漢(隋・唐)という強大な国と対峙した国家の選択はこれもまた二つです。漢を頼って高句麗と敵対するか、高句麗と結んで漢と敵対するか・・・・・。人間は悲しいものです。今日の苦難をしのんで明日の大敵に備えることはなかなか難しいのですね。お隣と結ぶのは、あまりにも利害関係が近いのでしょうか。またそういうときは高句麗と対決している漢も決して腹の内を見せません。それどころか敵対している国がある時は、その向こう側の国に近寄るものなのです。つまり前門の虎、後門の狼と挟み撃ちをするものなのです。そしてその次は前説を翻すというのが、こういう力による国家関係では当然のことです。海という天然の要害に守られていた日本でさへ、何らかの必要性を感じ使者を送ったのです。近代ではロシヤ南下の危険性に西郷隆盛が征韓論を唱えたのも、李氏朝鮮がロシヤの庇護国になるか日本と協力してロシヤの危険に備えるかの選択がつかなかったからです。

大国はなぜ膨張して辺境と対立するのでしょうか。その理由は色々とあるでしょうが、一つには一定領域内での富の増大には限度があり、国民を満足させるためには新しい富の供給を求めなければならなくなるからだろうと思います。つまり人間は『足るを知らない』動物になってしまったのです。既得権益を失うことはあり得なかったのです。国内の満足を満たすことが皇帝の仕事、つまり国家を存続させることです。そういう欲求が辺境に朝貢を求め隷属を求めることに大義を見つけてしまうのです。属国化した国に対し富の貢納と労働力にその国民を奴隷に要求してしまうのです。そうやって国家は精神的に堕落し始め、ついには内部に対立構造を生みだします。辺境へ辺境へと拡大すると同時に、内部は制度的に精神的に崩壊し始めてしまいます。自己矛盾の打開を外に求めれば求めるほど、内部は解決能力を失っていきます。高句麗のように漢(中原国家)との対立を国是とした国でさえ、最後は内部崩壊によって国力を低下させ滅びてしまいます。必ず最後は無力な王と堕落した官僚によって滅亡への道をたどるのです。

それで我等が聖徳太子は『十七条の憲法』をお定めになりました。これは行政組織に対する戒めです。深く国家の興亡をお考えになったのだと思います。それから幸いにも海を超えて浸透しなかった制度は『奴隷制』だと思います。『魏志』には奴隷を卑弥呼が魏の皇帝に献上したとの記事があるそうですが、日本には定着しなかった制度なのだと思います。実態は同じだとの意見もあるかもしれませんが、奴隷という観念が定着しなかったのは『公地公民』が制定された日本人の神話以来の精神的背景によるのではと思います。中原や朝鮮半島の歴史は、奴隷制度を抜きには考えられません。戦争の歴史は奴隷確保の歴史でもあるのです。漢には漢の正義があり、高句麗には高句麗の正義がある・・・・・しかし《チュモン》に肩入れしてしまったのは、同族が奴隷という悲惨な身分にあり、その苦しみの解放と言う当然の願いの自然さです。親が子を思い子が親を思う、家族を思い国を思うというその身近さです。韓国の時代劇を通して実感したのは奴隷の悲惨さであり、奴隷によって成り立っている富の構造です。

現代の中華人民共和国も多分同じ中原国家としての性質を持たざるを得ないのだと思います。私達はもっと歴史に学ぶべきだと思います。それでなければ現代もなお力を基盤として国際政治が行われている現実に目をつぶって自分だけの理想に安住していては、愛する家族や同胞を隷属化させてはならないという責任を果たせないだろうと思います。



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北方領土のこと

2010-09-06 06:34:16 | 父の懐・母の懐
昨日の日曜日テレビを見ていたら、ある方は『父親の憤りが自分の中に生きていて、絶対に譲れない』、ある方は『現在暮らしているロシヤ人の実態がる』というような趣旨の発言をしていました。それでここに父から伝えられたことを記事にして、親から子への伝達を子から孫世代への伝達に変えたいと思います。

以前ブログにも公開しましたが、母方の伯父はシベリヤに抑留されました。その伯父の家族を含めた満州から朝鮮半島に住んでいた日本人の帰国はそれはそれは大変でした。乳飲み子を抱えた伯母はそれこそ夜叉のごとく半狂乱で我が子だけを守って帰国したのだそうです。今のように心のケアなどありません。それから数年後の姿だったのでしょうが、私の眼に映った伯母は、浴衣を寝巻にして半纏をかけた病人でした。私を見たまなざしは思い出しますが、声を聞いたことはほとんどありません。優しいような優しくないような、不思議なまなざしでした。

そのソ連軍の非道な情報は停戦時の北方領土諸島にも伝えられていました。そしてソ連軍の侵攻も動向分析から予測されたのです。そこで我が同胞を抑留と凌辱から守るため、島民全員の本土帰還を決定し、自発的に一時避難をしたそうです。島民が全員避難を達成するまで、最後の防衛戦を最北部に近いところにあった部隊は展開したそうです。その部隊名も確かに父から聞いたのですが、情けないことに忘れてしまいました。その部隊が最後の一人になるまでとの決死の覚悟で、島民の帰還を達成したそうです。それで朝鮮半島から大陸にいた日本人の悲惨さを北方四島等の各島に住む日本人は遭わずに回避できたのだそうです。

聞くところによればソ連軍は北海道を占領する計画だったのだとか。そういう魂胆での条約破棄ですから、北海道には被害に遭われた記憶も残っていると思います。九州に住む武装解除された軍人の娘でさへ聞かされていたのですから。でもソ連の勢力拡大を希望しないアメリカによってソ連の計画は阻止されました。そして北海道以南を占領したアメリカは、完全な武装解除を求めて日本全土で刀狩りを実行しました。

父や祖父は先祖より伝わった刀剣類をアメリカ軍に渡したそうです。大体どの家に有るかというのは分かっていたので、隠すことはかなり困難だったのだと思います。でも山に埋めた刀二振りと、柄を切り落として山芋掘りの道具だと言い逃れた槍一棹(とはいえない長さでしたが)は残されました。切り落とされた柄の一部は今では主人の木剣になっています。後に掘り出された刀は、丁寧にしまわれて埋められたとはいえ、研ぎに出して流石に少し細身になったと手入れをする父から聞かされました。

父は言いました。敗戦後とはいえ、自分ら軍人にはまだ敵を倒す気概は残っていたと。北海道でも九州でも日本中で平和に武装解除が行われたのは、『自分たちが天皇陛下の御名をいただく軍隊であったからだ』と。『天皇陛下の御名のもとに停戦と武装解除の命令が下ったからだ』と。それで日本では世界史に類のない無血の武装解除がなされたのだと。明治維新というこれまた世界史に類のない武士の犠牲のもとに成し遂げられた近代化も、『上下心を一にして』苦難に耐えしのんで国のために尽くそうと国民が一致団結したからなんだと。

父は言いました。『天皇陛下万歳』は『お母さん』という心の叫びなんだと。だから特攻に散って行ったものはみんな『天皇陛下万歳』と叫ぶんだと。『天皇陛下の御為』はそのまま『父母や家族のため、同胞のため』なんだと。多くの戦争に倒れた方々の心の声を正しく知るとともに、国というものの実態を正しく考えなければならないと思います。国というものが組織であるならば、顔は絶対に不可欠です。顔が『天皇陛下の御為』であるならば、血液は『父母や妻子のため』です。有機体というものはそういうものです。人体と同じです。顔を大切にするからと言って手足を粗末にすることはありません。顔のお手入れに余念がない人でも、手足にキズを負えば顔のことは忘れます。顔も手足も同じように欠くべからざるものです。ただ付いているところが違うだけです。また顔は先祖でもあります。顔なしに子孫はないのです。縦と横とかならず考えなければいけないと思います。

為政者には為政者の都合というものがあるかもしれません。権力者には権力者の欲望があることは歴史を振り返れば明らかです。ですが残された私達はそういったものを排除した上で、一般国民の素朴な国という一つの統合体を思う心を考えなければならないと思います。私達は『天皇陛下』という言葉に込められた意味をもう少し明らかにしなければならないと思います。そうして私達は国を守り続けていかなければならないと思います。そうしなければ、日本を守っているたくさんの魂と心を喜ばせることが出来ません。私達は『たたり』を受けなければならないかもしれないのです。

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靖国神社

2010-08-14 08:54:44 | 父の懐・母の懐
今週日曜日、主人と靖国神社に参詣しました。何度かご紹介した事がありますが、私の父は陸士56期の生き残りです。昭和20年の8月14日に特攻に出陣するはずでした。そしてたまたま生き残りました。同期のお仲間、先輩方たくさんの方々と「靖国で会おう」との固いお約束を残して、父は生き残り少数派になりました。

それからの父の人生は、価値観のひっくり返った戦後を、亡くなったお仲間たちと思いを交換し合うことで生きたと思います。父の憂国の情は多くの場合世の中に受け入れられなかったけれど、子供達には、特に私には大切な人生の基盤になりました。娘の目にはこの世で最も素晴らしい人に映った父が、こんなに心つつましく市井の片隅で細々と生きている!片時も昔のお仲間の事を忘れない!

故郷平戸ではまだまだ昔気質の人がいて、父に敬意を表して父の活動を許してくれました。でも誰一人として父程の心の叫びを持ちませんでした。持っていたにしても世の中は金権の趨勢に抗うことは出来ませんでした。父は父らしく死んだと思います。憂国の情もだし難く、熱い血を吐いて死にました。娘が最初にもっとも敬愛した人でした。

それで私は父の叫びを心の中に聴き続けています。父が昔朋友とかわしたお約束も生き続けています。

      『靖国で会おう。』

父は生き残りとして死にましたが、ことあるたびに、お仲間の方々と靖国に舞い降りて集っていると思います。私達はその思いの波動を尊重しなければ日本人として生きていけないのだと思います。国民とは過去未来にわたって生きているその国の人々の事であって、顕微鏡のサンプルのような切片ではないのだと思います。今の人だけの都合で何もかも軽々しく変えてはいけないのだと思います。時にはたやすくなくても歯を食いしばって美しい日本の心を守らなければならないと思います。多くの方々が敬愛してやまないご両親や家族、そして背後に続く子孫を守るために死んでいかれた事を思い続けなければなりません。これが歴史を背負った国民のあり様だと思います。

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大国魂神社

2010-06-12 09:16:57 | 父の懐・母の懐
東京暮らしになってもう一年が過ぎてしまいました。ずっと気になっていた府中の大国魂神社に主人と一緒にお参りに行きました。府中って聞くばかりで何にも知りませんでしたが、甲州街道の要所だったのでしょうね、家康公の昔が偲ばれました。府中の駅を出て見事なケヤキ並木に目を見張りながら歩いていると、若武者の後ろ姿を見つけました。八幡太郎義家かなと思いつつ近寄って見ると端正な義家公の立像でした。奥州征伐に向かわれるとき戦勝祈願にこの大国魂神社にお参りなさったのだそうです。ケヤキを千本お礼に植えられたのだとか。だけどそれよりもそれほど古くないこの立像を見上げてつくづく嬉しかったことは今も府中の人の心には往時の人々がともにいるのかということでした。

義家公の視線の先に立派な境内が見えてきました。ケヤキがうっそうと茂って今なお武蔵野の往時をしのばせます。ご鎮座1900年、景行天皇のご造営だそうです。景行天皇と申し上げれば、我等が日本武尊(ヤマトタケルノミコト)の父君です。日本随所に遠征しておられます。我が平戸にも行宮跡があります。紀元1世紀ごろのお話です。壮大なお心の大王であられたことは間違いいありません。境内だけは往時の記憶が生きているかのように感じました。随神門という御門は工事中でした。

拝殿で拝礼を済ませ周囲を見せていただきました。御祭神は大国魂の命、つまり三輪山の大物主の命です。大物主の命は大黒様と混同されていますが、大黒様の大物主、つまり大国主命ではなくて、ニギハヤヒの命です。スサノオノミコトのお子様で、大国主命のお后様、スセリヒメの命の兄君です。そして一説によれば(私は大いに支持しているのですが)、神武天皇のお后様の父君であり、大和の国の親神様です。そんなお宮を武蔵野に景行天皇はお造りになりました。大和に三輪山のあるごとく、武蔵野に大国魂神社があるのです。景行天皇の御心が偲ばれます。

そして思うことがあります。先日記事にした韓国の時代劇、あんなに熱い心で私達も古代日本に思いをはせたいものです。神話に秘められた本当の姿を私達も知りたいとはお思いになりませんか?架空の話ではなく、真実の神々の記憶を手繰っていきたいと思います。それから府中はとても素晴らしい町でした。母校外語大も府中のどこかに移転したはずですが、残念ながら行ってみる時間がありませんでした。
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父恋うる女(娘)

2009-02-08 13:17:34 | 父の懐・母の懐
今しがたいたちが庭を横切りました.小さい細長い茶色の肢体が可愛らしさをアピールして消えていきました.今日は暖かい、水温む風温む?というのにぴったりの気持ちの良い早春の一日になりました.梅は満開、その下には黄水仙も咲いています.木々の枝には新芽が萌え出そうとふくらんでいます.自然の愛情に満ち溢れた世界が広がっています.

そして父親っ子の娘は思うのです.『お父さん・・・・・・』・・・・・歴史書の中では『女』という字は娘の事なんだとか.高杉晋作は西行法師にちなんで自分を『東行』と号したんだとか.特攻隊の生き残りの父は、『天皇陛下万歳~!』という最期の叫びは『お母さ~ん』という意味なんだとか.幼い妹を膝に抱いて、父の大好きな『十五夜お月さん』の歌や日本海海戦の『橘中佐の歌』を歌って、歌は情緒で歌うものなんだとか、いつも子供達に語っていた父.

そんな大好きで大好きな父は、戦後も戦時中と同じ「天皇陛下の陸軍は!ってこうやるんだ」と私たちに勤勉実直誠心誠意、軍人勅諭を生き続けました.戦後は精神世界もUターンしてしまいましたから、本当に生き難かったと思います.でも私の目に映る父は清廉潔白、この世で最も偉い人でした.その父にも自衛官を退官する日が近づいて来ました.自衛官は50代前半で退官するのです.父は「これから予備役になるんだ」と言っていましたが、その時に父が発した言葉が印象に残っています.「退官が近づくと皆就職活動に一生懸命になってしまう.自分は退官したあとに職を探そうと思う.」

それが今も世間を賑わしているんだなと思います.『天下り!』でも天下ることは必要です.50代前半で退官したら就職しなければ暮らしていけませんから.公務員から世間の仕事につくことが天下りだったはずですが、いつのまにかそれはお金まみれになってしまったんですね.お父さんの頃もそうだったんですね.どんなにか苦虫をかむような思いだったでしょうね.お察し申し上げます.そんな父を見過ごせなかった父の友人の口利きで、父は本州製紙の富士寮の舎監になりました.司令官まで勤めた父ですが、私にこれでよい、ありがたいと言いました.

母も戦後の苦労は随分としてきましたが、寮母さんの暮らしは心中葛藤がかなりあったと思います.そればかりが理由ではないと思いますが、晩年はかなりの心身症になりました.でも父を敬愛すればこそ通り抜けました.そんな母が聞かせてくれた言葉があります.それは「お父さんはね本州製紙の方々にとても大事にして頂いて、工場で何か催し事があると工場長さんのお隣に席を作っていただくのよ.そして昔から言われていたことをもじって、『駿河には過ぎたるものが三つあり、富士の高嶺と白隠禅師、本州製紙の寮の舎監』って!」母のうれしそうな顔が目に浮かびます.

今世の中は利得でまみれています.一体何なのでしょうか、お父さん.でも聖徳太子の昔にも朝廷の役人は役得を漁っていたらしいですもんね.あんなに立派な17条の憲法をお作りになり、人間のあるべき姿を説いてくださったのにもかかわらずですものね.人間は自律以外に道はないんですよね.人間が作った法律も運用する人次第なんですよね.人間が堕落するにしたがって、法律も事細かになっていくんですよね.親が子供に示すものは人の道しかないんですよね.そしてそれが世間というものを作るんですよね.

お父さんが大好きだったお母さんの家庭の味、その味覚を受け継いで私は味覚と嗅覚には自信があります!お父さんの孫娘もそう言っています!「お母さんは和服を着ていなさい」と言って母が和服で暮らすことを望んだ父.母の形見の和服は父の形見でもあります.私の嫁入りに父が見立ててくれたぼかしの羽織は典子の娘の七五三の着物になりました.お父さん、私はお父さんの思い出を重ねて子供達に伝えていきたいと思います.そして便利なことにブログという勝手に書き付ける場所を見つけました.今子供達にいえなくても、いつか見ることもあるでしょう.それに見ず知らずの方も読んだり見たりしてくださるのですよ!
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乃木神社でマクロビオティック

2008-06-07 01:35:43 | 父の懐・母の懐
典子が教えてくれました.詳しくは分かりませんが、夏至祭りのイベントのようで古事記の朗読奉納と乃木流(インターネットに書いてありました)マクロビオティック会席?の催しのような・・・・・

何となく嬉しくなりました.実は私共夫婦も娘夫婦も、乃木神社で結婚式を挙げさせて頂きました.私共の時はブログにも何度か登場している私の父の希望です.父は陸軍大尉で特攻部隊の生き残りです.一日の違いで終戦を迎え、そして私は生を受けました.父は敗戦のショックで茫然とはしたそうですが、精神を転向させることはありませんでした.死期の迫った日、弟は父に聞きました.『幼い孫達に祖父はどうだったと言えばよいのか』と.父の答えは、『乃木大将のようだったと話してもらいたい』というものでした.

私達は乃木大将のお話しを聞いて育ったものです.弟の好き嫌いに父は言いました.『乃木大将は子供の時代に人参が嫌いで食べ残していると、お父様から毎日食べるまで人参ばかり食べるように命じられたんだよ.ほんとにひもじくなれば何でもありがたく食べられるもんなあ.』・・・・・他にも『お父様は厳しくて、乃木大将が約束を守らないと冬でも井戸端で水を掛けてお叱りになったそうだ.』『1日に使ってよいお水は手桶1杯?だったんだよ.大将になられてもそんなに節約なさったんだ.』『ステッセルとの水師営での会見には、佩刀を許し敵将に敬意を表されたんだ.』などと時々に様々な話を聞かされました.

父は乃木大将のようだったと娘の私は思います.父は乃木大将の『忠君愛国、滅私奉公、質実剛健、質素倹約』の本当の意味を教えてくれました.字面の意味ではなくその心を教えてくれました.子供時代父はこの世でもっとも好きで尊敬する人でした.父が帰宅すると、母が『お帰りよ!』と子供に叫ぶ前に、『お出迎え!』と走って行きました.そして和服に『お着替え』があり、その後仏壇〈私達はオジブッツァマと呼んでいました〉でお経をあげるのを脇で一緒に手を合わせ、それから色々と子供の話を聞いてもらいました.

父はいつも威厳に満ちてニコニコしていました.少し大きくなってから聞いたことがあります.『お父さんはどうしていつもニコニコとしておられるの?』父の答えは今でも鮮明に覚えています.『それはお玄関で気持ちを切り換えて、にこってしてからただいまと言うんだよ.』父は生き難かったはずです.敗戦転向組ではなく、戦後も乃木大将を生きたのですから.それを思うとこの歳になっても、父の深い愛情に胸が詰まります.父のお戒名は、『義源院忠峰圭山居士』、忠は真中の心、心の真中だと、和尚様から言われました.よくも言いえたお戒名をいただいたものだと思います.

父を念じる時は乃木大将にもお祈りを捧げます.そんなわけで乃木神社でマクロビオティックというお話があるというだけで嬉しくなりました.ちなみにすぐ下の弟は関西にいましたから、神戸の湊川神社で結婚式を挙げました.大楠公をお祭りしている神社です.これもまた父らしいと思います.
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ヒマとヒマシ油

2007-09-26 09:53:27 | 父の懐・母の懐
ヒマシ油ってご存知ですか?ヒマシ油とは強力な下剤です.翻訳をしていたらちょうどヒマシ油の記事にぶつかりました.それで昔の事を思い出したというわけです.

小学5、6年の夏だったと思います.私の家族は平戸にいました.私は“ミナ”と平戸地方で呼ぶ巻貝に中りました.症状についてはあまり詳しく覚えてないのですが、熱中症も併発したような気がします.その時往診に来て下さったお医者様が私に“ヒマシ油”を飲ませたのです.その後下痢をしたかどうかは覚えていません.ただただ飲みにくくて、飲めなかったことだけを覚えています.飲み下すことが出来ないんです.

ヒマシ油を漢字で書くと「蓖麻子油」、これで正体がわかってきます.つまり「蓖麻」の子(種)の油!ヒマという植物をご存知ですか?言われてみればたいていの方は思い出にあると思います.畑や野原に、4、50センチの丈で、小さなラグビーボールよりちょっと丸い形をした棘のある種がついている草を.私が子供だった頃は何処にでもありました.その小さなラグビーボールが「蓖麻子」というわけです.

特攻隊の生き残りの父が教えてくれました.アメリカの経済封鎖による燃料不足を陸軍ではこの蓖麻子油を使って補おうとの研究計画があったそうです.蓖麻子油を燃料にして戦闘機を飛ばそうと.日本国内何処ででもふんだんに取れる蓖麻子でそれが実現していたなら、あんなに多くの方が南洋で犠牲にならずに済んだかもしれません.あの時の南下政策は、今のシーレーンの保安と同じです.昔も今も国民生活のライフラインは同じです.

父と娘の小さな会話でしたが、蓖麻子油のおかげで忘却という箪笥の引出しから出てきました.懐かしい父の顔が浮かびます.
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母のお初盆

2006-08-16 09:51:24 | 父の懐・母の懐
今年のお盆には新しく母を迎え、そして昨日送りました.私達には慣れ親しんだお盆に花火ですが、他所の地方の方にはお盆にお墓で花火をするというのは不思議なことだそうです.その花火をお墓につるした灯篭の日が燃え尽きるまで楽しみました(?).熱心にしたのは、蚊遣りの効果の為かもしれません.実家のお石塔は古いので、最近立てられたような立派なものではありません.弟が苔を落としたりお手入れをしていますので、古色に溢れてはいますが優しい佇まいです.私の祖父母から火葬になりましたので父母は一緒ですが、それ以前のお墓が何基も上下二段の墓所に並んでいます.法名でだけしか知らないご先祖様や、無縁仏と聞かされてきたものもあります.みんな出て来て最後の夜を楽しまれたでしょうか.日本人はお盆を先祖と共に過ごします.

お盆は仏教の行事だと思っておられる方が多いと思いますが、これは日本独特の先祖祭りの行事です.仏教形式の御霊(ミタマ)祭りです.仏教には西方浄土に行った先祖はおりますが、一年に一度戻ってくる先祖はおりません.そういう意味では日本にあるものは今も昔も神道という随神(カンナガラ)の道だけかもしれません.随神の道は日本人の心情の道です.日本人は日本人の心情を亡くすことは出来ません.現代は自由な世の中ですから、自分を見つめ続けなくても生きていけます.隠れキリシタンは信仰の道を守りたい固い心で秘匿すればするほど、日本人の心情の道に近くなってキリスト教とは違ったキリスト教を作り出しました.今の自由な私達は幸せですが、ある意味で不幸せです.自分の真実を一生発見しなくても通り過ぎることが出来ます.

そういう訳で、固く靖国に戻ると決心をして戦死なされた方々は今年も靖国神社に戻って来られ、そしてお帰りになりました.靖国神社は近代の宗教とは無縁です.靖国神社は固いお約束の目印なのです.私達日本人は靖国神社にお灯篭を灯し帰って来られるご先祖様をお迎えして共にお盆を過ごしそしてお帰りいただかねばなりません.総理大臣はお迎えにもお見送りにも、日本人を代表して行かねばなりません.これは教祖のいる宗教ではないのです.特定の何かを絶対神にした宗教でもないのです.ご先祖様の道と子孫の道が行き会うのが神道で、その場所がお宮です.これは風習です.風習は心情を基本にしているわけですから、とやかく言うほうがおかしいと思います.ましてや規制されたところでどうにもなりません.私達日本人は敗戦を記念して(?)靖国神社にお参りしているというより、ミタマ祭りのためのお盆の心情で家族はお参りしているのです.そしてたまたま重なった重大な終戦の日でもあるのです.多くの人々を失ってその方々の犠牲の上に、その方々を思って自分達も耐え難きを耐え、忍び難きを忍んで日本を維持しようとした決意の日でもあるのです.

法で規制するというのであれば、一番の間違いは日本行政府が戦後占領からの独立時に、歴史的に当然の措置であるはずの戦犯とされた人々の名誉回復をしなかったことでしょう.したのでしょうか? その見識と勇気が無かったために戦後の日本は60年を経ても未だに精神的独立をはたしているとは思えません.そういう意味ではかえって戦後の政府が特A級戦犯だと思います.私達日本人の急務は、隣国のための靖国問題ではなく、戦争の始めから終りまで、そして戦後今日に至るまでの冷静な大人の検証だと思います.そして必要であれば裁判をやり直すべきです.その裁判は法律という人間の作った有限性に照らしてなすべきで、平和などという無限の秩序に照らすべきではありません.私達は表が正しければ、裏は間違っているそういう世界に生きていることを忘れないようにしたいと思います.裁判は絶対的な真理を争うものではないのです.
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母の日子供の日

2006-05-13 09:50:02 | 父の懐・母の懐
もう直ぐ母の日です.今宅急便の配達の方から母の日のプレゼントの配達のピークで忙しいと聞きました.それで昔子供と話したこと、父と話したことを思い出しました.

子供たちは小学校時代「母の日はどういう日か,敬老の日はどういう日か,お家の人と考えてきてごらん」という宿題(?)をもらって帰ってきました.子供達のインタビューが始まります.「母の日は,日頃お母さんに感謝しているか反省する日」,「フウーン?」,子供たちはノートに書きます.「敬老の日は,日頃お年寄りを大切にしているか反省する日」,「そうか!」,これもノートに書いて行きます.私は学校行事のその日だけの取って付けたようなやり方にちょっぴり皮肉交じりの答えをしました.どうにかして子供の心に毎日の積み重ねを教えたいと思いました.先生にもそのことに気がついていただきたいと思いました.その日にお花を一本お母さんに届けてありがとうを思い起こすのではなく,毎日毎日がどのような思いでつづられていくか,お母さんの仕事が一体どのような性格のものなのか,先ず先生の心に思い浮かべば,一人が何十人にも広がっていきます.先生のお仕事というのは本当に大切だと思います.先生のお仕事は,親の仕事のようなものだと思います.生命は休みのない仕事によってつながれていきます.親の仕事というものはその最先端です.生命に直結している仕事ほど休みは取れません.お百姓も同じだと思います.

この母の日問答は私と父の間にもありました.同じ様に父から教えられたことがありますが,私は「父の日はどうしてないの?」と質問をしました.当時は父の日はありませんでした.「毎日父の日だからいらないんだ」と父は答えました.思えば当時の母はいつも父のありがたさを子供に見せていたと思います.子供心に父は偉いんだとも思っていました.そのような暮らし振りがあったからでしょう.父も私達には大きく優しく威厳に満ちて輝いていました.父の日があるということは,父の威厳が落ちてしまった証かもしれません.
記念日がなければ思い起こさないというのでは,どうにも情けない人の心ではありませんか.ちなみに子供の日は,子供の成長を喜び感謝する日でした.子供にサービスする日ではないと思います.先祖を思う日といったほうがよいかもしれません.
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母との思い出の歌

2006-03-30 09:27:47 | 父の懐・母の懐
先日遠くに住む弟夫婦が母を訪ねてくれました.母を囲んで慰めるためにあれこれ語り合っていた時に、母との思い出の歌というものがあるかと尋ねてみましたが、弟二人には無いそうです.目も弱くなった母にはもう、馴染みの歌しかありません.それで私の思い出の歌を母の歌にすることに決め、皆に母の特訓(?)を受けさせました.私には父の思い出の歌もたくさんあるのに、変ですねえ.

その歌は北原白秋作詞の、「りんりんりんごの木の下に(?)」という歌です.
       りんりんりんごの木の下に
       小さなお家を建てましょか.
       立てたら小さな窓開けて
       窓から青空見てましょか.

           りんりんりんごがなったなら
           つぐみもちらほら参りましょ.
           丘から丘へと荷をつけた
           商人なんぞも通りましょ.

可愛い歌ですよね.これを母の若かりし頃を思って一緒に皆で歌いました.老いさらばえて死を間近に控えた人に何を語りましょうか.もう慰める言葉は上辺だけです.核心をついて語る自信も無く、母には聞く根気もありません.父は死んで自由になったと思います.そうなることを心から願って、母と自分のために母に語っています.夜昼半々の世界から、来るべき光だけの世界にどのようにして行くか.私の偏見と独断ばかりでしたが、久司先生の説明を今翻訳している事が大変有り難い巡り合わせだなと思います.
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もう一つ独断宣言!

2006-01-27 00:31:36 | 父の懐・母の懐
最近、マクロビオティックと直接繋がっていないことばかり(?)書いていますが、もうひとつおまけです.

それは皇位継承問題です.なぜ天皇陛下は男でなければならないか?答えは簡単です.それは 神なるものが女(の性)だからです!! 天皇陛下は神殿で毎朝私達の安寧を祈って神と向かい合っておられるのです.向かい合われる神が女だから、天皇陛下は男でなければならないのです.すべてのものは女ー男ー女ー男という風になっているのが、安定した社会秩序になるのです.だから宮中を内裏というのです.内裏におられるのが神なのです.内裏の顔として外の国民の方を向かれたのが天皇陛下です.その時は朝廷になります.朝日のごとくお出ましになられたのです.最初の女である神はカクリミなのです.最初が女だから、次におられる天皇陛下は男でなければなりません.

私達の家庭も同じです.女はおかみさんです.だから女は隠れて実権を握るのです.少なくとも日本人は昔からこの世のからくりを知っていたと思われます.だから天照大神を女神にした神話を作り上げたのです.徳川の世はずいぶんと窮屈になったかもしれませんが、日本は世界でも珍しい女が活躍した国です.その訳は何しろ女は神なのです.夫は妻の意向を無視できません.

マクロビオティックの道を進んでおられる皆さん、どんなに人間の文明が発達しようと、この宇宙が陰陽のエネルギーで出来ている事は不変です.先ず見えない世界があるのです.その中から見える世界が生まれました.見えない世界が生み出す力です.だから女が神なのです.女は見えない命を生み出すことが出来るのですから.陰陽を考えれば、社会の仕組みもわかろうというものです.この次には、マクロビオティックらしい記事を書きましょう.
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