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四季・めぐりめぐりて

近隣の城館跡・古墳などの史跡めぐりなどをぼちぼちながらやっています

鳥ミング

2021年01月21日 | 花・鳥・風景


ここ2,3日の散歩道の川畔で撮った野鳥たちです
野鳥カメラマンの方たち使っているようなカメラや望遠レンズではありませんので、野鳥は小さく
写っているだけですから思いっきり鳥ミング(トリミング)してあります
今年に入って『メジロ』は初めて撮影です・・・撮影という程のものではありませんが(以下同)




初めてカメラに収めた野鳥です。見たのも初めてかもしれません
何という野鳥か分りませんでしたので調べてみた結果『エナガ』というようです




『ジョウビタキ』
よく見かけますが今年は初めて撮影でした




『シジュウカラ』
やはり今年初めての撮影




『ムクドリ』
畑などで見かけることが多いですね

撮影日:令和3年(2021)1月18日(月)・20日(水)  撮影場所:槻川畔

勝願寺の芭蕉忌千句塚(埼玉県鴻巣市)

2021年01月20日 | 歌碑・句碑


 句 : 今日はかり 人も年寄れ 初時雨
    (きょうばかり ひともとしよれ はつしぐれ)

出 典: 『続猿蓑』 元禄5年(1692) 芭蕉49歳の時の句
所在地:埼玉県鴻巣市本町 勝願寺境内
建立日:天明7年(1787) 
建立者:勝願寺住三十世仁譽代

※芭蕉忌千句塚が建立されたのが天明7年で【芭蕉忌千句塚碑】は70年忌には間に合わず建立はその24年
後と言われます




【芭蕉忌千句塚】
芭蕉忌千句塚碑の芭蕉忌千句塚の文字の右側に芭蕉の句『けふはかり 人も年よれ 初時雨』が刻まれています
裏に柳几の句『碑面蕉翁の吟にて夕暮をこらえこらえて初時雨』が刻まれています
【芭蕉忌千句塚』の左側にある句碑は鴻巣の俳人笠島庵春友辞世の句『紫陽花や人の寄るのもおもしろき』
が刻まれています

 =江戸期の俳人横田柳几=
本名を横田三九郎盛英(8代目)といい、享保元年(1716)鴻巣宿に生まれました。家業は歴代酒造業を
営む旧家で、元の石橋町(現本町6丁目)にありました。若くして俳諧を学び、初め伊勢派の中川乙由の
門に入りますが、後にその高弟佐久間柳居に師事し、布袋庵柳几と号しました。生涯を通じて旅を好み、
多くの紀行文を残しています。
宝歴13年(1763)、芭蕉翁70年忌にあたり追善興業として布袋庵に20余名が集まり、1日千句の吟を行っ
ています。そして、天明7年(1787)には、その千句を壺に納め、菩提寺の勝願寺に「芭蕉忌千句塚」を
建立しています。
              《鴻巣の文化財第3号 鴻巣に活躍した人びとー伝統から実在の人物までー
                             平成14年9月5日 鴻巣市教育委員会編集》から抜粋





【勝願寺山門(仁王門)】
勝願寺(しょうがんじ)は、浄土宗の寺院で、浄土宗の関東十八檀林の1つであり、号は天照山良忠院
徳川家ゆかりの寺でもあります。
信濃国上田藩主真田信之の妻小松姫の墓(分骨)、信濃国小諸藩主仙石秀久の墓(分骨)、伊奈忠治夫妻
および伊奈忠次夫妻の4基の宝篋印塔、横田柳几の墓等があります。




【本堂】
芭蕉忌千句塚は本堂左手にあります

散策日:平成28年(2016)11月28日(月)

新田義重の後裔の邸内社から村の鎮守となった『七本木神社』(埼玉県上里町)

2021年01月19日 | 神社仏閣
◇延喜式内社〔論社〕◇


社 号:七本木神社(しちほんぎじんじゃ)
旧 称:-
御祭神:・誉田別尊(ほんだわけのみこと)
    ・倉稻魂命(うかのみたまのみこと)
    ・菅原道真(すがわらみちざね)
創 建:不詳
社 格:延喜式内小社〔論社〕・旧村社 神饌幣帛料供進神社
例 祭:10月19日 例祭
指 定:-
鎮座地:埼玉県児玉郡上里町七本木3237


七本木神社に合祀されている『榛名宮神社』(榛名大神社)は、延喜式神名帳の「武蔵国加美郡」の
式内社四社のうちの「今城青八坂稲実神社」「今城青坂稲実池上神社」「今城青坂稲実荒御魂神社」
に比定される式内社(小社)の論社です。榛名宮神社は、もとは村内の字本郷原に鎮座していたとい
い、明治42年(1909)に他六社と共に合祀され七本木神社と改称されたものです。
ひとつの神社が三社の式内社に比定される論社であるということ。更に、この式内社三社の論社は複
数あり、裏を返せば式内社の素性がはっきりしていないと言うことになるのかも知れません。
元々は此の地を開発した旧金井家の邸内社で、後に村の鎮守となった八幡神社が合祀により七本木神
社と改称されたものですが、金井家は新田新田義重の後裔であるといい、新田蔵人の子三郎長義が金
井を称したのが始まりだといいます。つまり遡れば八幡太郎義家(源 義家)の子孫ということになり
ますから、邸内社に祀ったのが八幡神社というのは当然と言えば当然かも知れません。





境内・参道入口 《鳥居》




《社号標》 【七本木神社】とのみ刻まれています




『七本木神社御由緒』

  七本木神社 御由緒
                              上里町七本木3237
御縁起(歴史)
 当地は、旧金井家が開発した土地であり、地名の由来は、村内に七本の古木があったことによる。
『児玉郡誌』(昭和二年刊)には、久保田新田の旧八幡神社境内に、「八幡の大欅」と称される樹齢
六七〇年ほどの大木があり、地名の由来となった七本のうちの一本であり、他の六本は枯れてしまっ
たと記されている。
 創建については金井家の火災により古文書を失い不詳であるが、邸内社として祀っていた八幡神社
が村の鎮守となったものである。『明細帳』によると、明治四十二年に、榛名大神社・愛宕神社・白
岩神社・稲荷神社二社・八幡神社二社を合祀して、社名を七本木神社と改めたものである。現在、境
内の一角に合祀となった七社の旧本殿が建物に納められており、いずれも古色蒼然とした立派な造り
ものである。空宮となった中には、宝永五年(1708)銘の稲荷大明神棟札、元文五年(1740)銘の
八幡宮棟札、寛政十一年(1799)銘の正一位稲荷大明神白幣が納められている。
 一間社流造りの本殿には、弓矢を手に持つ八幡大明神座像が厨子に納められて泰安されている。こ
のほかに、合祀された数基の幣芯が納められており、このうち榛名神社から遷された幣芯には「今木
青□坂稲実池上神社」と墨書されている。

御祭神と御神徳 (省略)
御祭日     (省略)




『七本木神社の庚申塚』
地元では「お庚申さま」と呼ばれるで本郷の愛宕塚から移転された
98基の庚申塔が建てられていて頂上に猿田彦を祀るという




広~い境内です




『手水舎』  
左側にあるのが『御神木』?




『社務所』




『神饌幣帛料供進神社指定記念碑』




『狛犬』




『拝殿』




『拝殿』




拝殿表面を横から
通常は扁額(社号額)が掲げられる場所に掲げられている「額」 
何が書かれているかは褪色していてわかりません




拝殿内
【七本木神社】と揮毫された表装された額が掲げられています
幔幕の先に『本殿』が見えています




社殿を右斜めから




拝殿大棟鬼飾りには「並び矢」紋
本殿には弓矢を手に持つ八幡大明神座像が厨子に納められているとのことですのでそれに
由来するものかと




本殿(覆殿)の背後から社殿を




社殿の右側にある合祀した本殿を納めた合祀殿




この一か所のみ拝殿と同じ吹きになっています




中の本殿は『稲荷神社』のようです




たの部分は社殿に向っています




社名は分りませんが合祀殿に納められている本殿の一部です
歴史と厳かを感じます




社殿裏の石祠(境内社)群




境内をもう一度  やっぱり広~~い

参拝日:令和2年(2020)11月4日(水)

遠山甌穴(埼玉県嵐山町)

2021年01月18日 | 史跡・遺跡・文化財


名 称:遠山の甌穴群(とおやまのおうけつぐん)
種 別;天然記念物
指 定:嵐山町指定天然記念物(平成28年〔2016〕1月28日指定)
所在地:埼玉県比企郡嵐山町遠山

甌穴(おうけつ)はポットホールとも呼ばれ、河床の岩盤で小さな石が水流により一か所でクルク
ル回るうちに、少しずつその表面を削り、長い年月をかけて開いた丸い穴とのこと。
嵐山町遠山地内を流れる槻川にも甌穴があり、嵐山町の天然記念物として指定されているとのこと
から、所用(『不要不急』ではありません「必要緊急」でした)の帰りに少しだけ寄ってきました。




『遠山甌穴』への入り口を示す標識




標識のある十字路を標識の示す方向に100㍍ほど進むと町が設置した無料の観光駐車場があります




川沿いの道から見える甌穴




石の階段を下りて近くから




この小さな穴も甌穴でしょう




この岩畳は結晶片岩とのこと




陽が落ちてきました
岩場は足元が不安定ですので注意して歩かねばなりません

なお、甌穴として有名かつ一番大きな甌穴とされるのが長瀞の岩畳にあるものとされるようですが、
他にも数か所で「日本一」を称しているようです。




『日本地質学発祥の地』碑
秩父長瀞は「日本地質学発祥の地」と言われ、タモリさんも『ブラタモリ』で訪れているくらい
です。
この碑は、長瀞町にある「埼玉県立自然の博物館」の前に建つもので、【赤鉄石英片岩】と言わ
れる岩石だそうです。
写真では分りませんが。この右側面には荒川の川床で形成された小さな甌穴(ポットホール)群
が観察できるとのことです(2017年6月に訪れた際の撮影ですが、残念ながら自然の博物館は休
館日でした)

沢山いるんですよね! 石(岩)が好きな方・・・

散策日:令和3年(2021)1月13日(水)

廣瀬神社の芭蕉句碑(埼玉県狭山市)

2021年01月17日 | 歌碑・句碑


 句 :  物言婆 唇さむし 秋乃可是
      (物いへば 唇寒し 秋の風)

出 典: 『芭蕉庵小文庫』 貞亨元年から元禄年間ではあるが作句年詳細が不明
所在地:埼玉県狭山市広瀬2丁目 廣瀬神社境内
建立日:明治21年(1888)4月
建立者:? 揮毫:不朽軒宗徳




【芭蕉句碑説明板】 秋之可是 となっていますが 「之」ではなく「乃」が正しいのでは・・・




【広瀬神社拝殿】




芭蕉句碑は境内南側の屋台小屋の左側に建立されています

散策日:令和2年(2020)10月18日(日)

池上神社の芭蕉句碑(埼玉県上里町)

2021年01月16日 | 歌碑・句碑


 句 : はつさくら おりしもけふは よき日なり

出 典: 『蕉翁全伝』
所在地:埼玉県児玉郡上里町忍保 今城青坂稲実池上神社( いまきあおさかいなみいけがみじんじゃ
建立日:安政3年(1856)2月
建立者:法松斎東一僖




【今城青坂稲実池上神社】
今城青坂稲実池上神社は和銅年間(708~715)の創立で、延喜式神名帳「武蔵国賀美郡四座」のひとつ
『今城青坂稲実池上神社』に比定される論社の1社。




神楽殿の右側に建立されている「芭蕉句碑』(正風流花塚)

散策日:令和2年(2020)11月4日(水)

不動寺の芭蕉句碑(埼玉県寄居町)

2021年01月15日 | 歌碑・句碑


 句 :  春もやゝ 気色とゝのふ 月と梅
     (はるもやや けしきととのう つきとうめ)

出 典: 『薦獅子集』 元禄6年(1693)春 芭蕉50歳の時の句
所在地:埼玉県大里郡寄居町富田 大聖山不動寺境内
建立日:明治17年(1884)5月
建立者:四世夜雪庵金羅




山門(仁王門・鐘楼門)
この不動寺は、武蔵七党のひとつ猪俣党の一族で、无動寺氏を名乗った太郎の居館跡と言われます




芭蕉の句碑は本道に向って右側に建立されています(〇で囲んでみました)

訪問日:令和3年(2021)1月2日(土)

神代石を御神体とする五明の『天神社』(埼玉県上里町)

2021年01月14日 | 神社仏閣
◇延喜式内社〔論社〕◇


社 号:天神社(てんじんじゃ)
通 称:五明丹生様
御祭神:・稚産霊神(わくむすびのかみ)
    ・豊宇気毘売神(とようけひめのかみ)
創 建:不詳
社 格:延喜式内小社〔論社〕・旧村社 神饌幣帛料供進神社
例 祭:10月19日  例祭
指 定:-
鎮座地:埼玉県児玉郡上里町五明871

上里町五明に鎮座する「天神社」は、延喜式神名帳に載る『加美郡4座』の一つ「今城青
八坂稲見神社」の論社です。
ただし、児玉郡内には式内社の今城青八坂稲実神社に比定される論社が当社を含めて六社
あり、どの社が神名帳に載る「今城青八坂稲見神社」かは定かでありません。
由緒については現地の説明板の説明文を載せておきましたのでそちらを参考にして下さい。




『社号標』と『一の鳥居』
社号標には【指定村社天神社】とあります 
「指定」とは【神饌幣帛料供進社】に指定されたという意味で社格と併せて「指定村社」
と標記しています  天神社は、大正8年(1919年)2月3日に指定を受けています




『二の鳥居』




『天神社説明板』

   天 神 社
                            所在地 児玉郡上里町五明871

 天神社の祭神は稚産霊神、豊受気毘売神、大山祗命、日本武尊の四神である。
 当社の創立年代は不明であるが、延喜五年(905)に藤原時平らが勅を受けて編修した延喜式神名
帳に載る加美郡(児玉郡)四社の一つ今城青八坂稲見神社であると伝えられているので、かなり古い
社であると思われる。なお、御神体である神代石(高さ60センチメートル、太さ約13.5センチメー
トルの安山岩)には「えむぎしきない」「いまきあおやさかのかみ」と刻まれている。
 現在ある社殿は享保七年(1722)の再建で、天保年間(1830~44)に書かれた中岩満次郎道純の
祈願書が残されている。
 明治十年に白山神社を、同四十二年に丹生神社を若宮より遷し合祀した。
 また、境内社として諏訪神社、稲荷神社、八坂神社、市杵島神社が祀られている。
 なお、当社には神楽だ伝承されていたが、現在は中断されている。
  昭和60年3月
                          埼玉県 上里町




『二の鳥居』




『天神社御由緒』

   天神社 御由緒
                                上里町五明871
□御縁起 (歴史)
 五明は、利根川支流の神流川の右岸に位置する。地内には五明古墳群をはじめはじめ、奈良・平安
時代の集落跡が多数発見されており、奈良時代の布目瓦を有する廃寺跡も存在する。
 『明細帳』に「創立不詳、本社ハ延喜式内当国四十四座ノ一ニシテ今城青八坂稲実神社ナリト云伝
フ(以下略)」と載せられている。また、当社に伝わる文書から、天保三年(1832)に上州新田郡の
岩松満次郎が、同家の家紋である中黒紋の付いた幕と高張提灯を今城青八坂稲実大明神(当社)に寄
附したことが知られる。今城青八坂稲実神社の社名は、稲霊を賛美した名称で、稲作信仰に基づくも
のであるとされる。ただし、児玉郡内には式内社の今城青八坂稲実神社に比定される神社が当社を含
めて六社あり、定かでない。
 『風土記稿』五明村の項には、「丹生社・天神社 以上ニ社を村の鎮守とす、大福寺持なり」とあ
る。丹生社は、用水を隔てて当社の東、現在の集会所の建つ場所に鎮座していた。『郡村誌』に「月
読命を祭る、万寿元甲子年(1024)九月藤原知近創建す」と記されるが、明らかではない。
また、別当の大福寺は真言宗の寺院で、同寺を開山した快尊は万治四年(1661)に没したと伝わる。
 当社は、明治初年の神仏分離により大福寺の管理を離れ、明治五年に村社となった。
また、明治四十一年には丹生社を合祀した。

□ 御祭神  (省略)
□ 御祭日  (省略)




『神橋』
石灯籠の先に少しだけ頭を出しているのが神橋 大半が埋もれてしまったようです




『境内社』(社名不明)と『手水舎』




『石碑群』 神仏ごちゃごちゃです  神仏習合の名残りでしょう




『神楽殿』
現在は中断しているとのことで手入れもされていないようです




『社殿』




『御神木』




拝殿の左側にある『遥拝所』 【賢所 皇霊  遥拝所】と刻まれています




『狛犬』




『拝殿』
ビニールが張られていて中を確認するのは難しい




本殿背後に鎮座する若宮『丹生社』 御祭神:「月読命」 明治42年(1909年)に合祀  




「本殿(覆殿)」主棟鬼飾りには「左三つ巴」紋




「本殿(覆殿)」右側の石祠群
諏訪神社・稲荷神社・八坂神社・市杵島神社等




社殿を裏側から

松郷峠の芭蕉句碑(埼玉県小川町)

2021年01月13日 | 歌碑・句碑
本記事は、平成27年(2015)6月21日(日)に載せたものをそのまま再掲載です。
この松郷峠以外の2009年6月に訪ねた7か所(7基)芭蕉の句碑についての記事は削除してしまいました
ので、最近巡り直して新たに投稿して来た次第ですが、過去のこの記事を再掲することで、ほぼ同時期
に小川町にある芭蕉句碑8基全部を紹介できればと思いまして。
本来ならばこの松郷峠の句碑も新たに訪ねた上での写真にすれば良いのでしょうが場所が場所だけに・・



小川町には8か所(8基)の芭蕉句碑があるそうです。うち7か所(7基)については6年前の2009年6月に
訪ね歩いています。
川畔にある1か所については場所の特定に若干手間取ったものの、大体が神社や寺、公園といった分り
やすい場所にありました。

残すは松郷峠(旧道)の1基となりましたが、この旧道というのが分らず何度か松郷峠に行ってみたもの
の発見ならず半ばあきらめの状態でした。

最近になり再びネットで情報を探してみたところ、6年前にはなかった情報があり、おおよその場所が特
定できたことから再度挑戦し、やっと8基の芭蕉句碑制覇となりました。




まさか藪の中に旧道がとは考えもしませんでした。現に道の跡らしきものもありません。これでは見つか
らないわけです。




松郷峠(道路)から藪の中へ10m程は入ったところに句碑と説明板が立っています。




句碑は道標を兼ねていて、上部に句(ほとんど読めなくなっています)下部が道標.




汚れてはいますが読めなくはありません

芭蕉の句碑   松郷峠旧道
小川町大字上古寺471ー2番地

翁 てふの飛 者可利野中能 日可げ可那
右 山王天寺
八王寺大山道

出典 笈日記
年代 貞享二年(1685)
年齢 40歳
碑陰  弘化三丙牛*(1846)3月吉日
願主  的場 吉合戸 青木
句の大意   霞わたった春の野を 折々蝶の飛び交う羽だけが、わずかに野中の日蔭である、春の光に
       満ちた野の様を よくあらわしている。

平成3年3月  小川町教育委員会




碑陰

余程のもの好きでなければわざわざ行かないでしょうね。




句碑はこの採石場の近くにありました。
平日ならここに出入りするダンプカーが松郷峠をひっきりなしに往復していますが休日のためダンプの往
来はありませんでした。

実はこの採石場あたりは「古寺砦」があった場所。しかし、この状況ですから遺構ほとんど残ってはいな
いようです。

散策日:平成27年(2015)6月20日(土)

下里の滝の芭蕉句碑(埼玉県小川町)

2021年01月12日 | 歌碑・句碑


 句 :  蛇喰登 幾けバおそろし 雉子乃聲
     (へびくうと きけばおそろし きじのこえ)

出 典: 『花摘』
所在地:埼玉県比企郡小川町下里 下里の滝(不動の滝)
建立日:不明
建立者:不明




【芭蕉の句碑 不動の滝】説明板




『下里の滝』は槻川の右岸にあり、滝の横に句碑が建立されていますが、反対側の左岸にはこのような
鳥居が建っています。滝の上の方に「不動堂」があることからその鳥居のようです。




「芭蕉の句碑」の標識です。対岸の〇印のところに句碑が建立されています。




標識の柱に貼られている『下里の滝(不動滝)』説明板
この説明板にも書かれているよう昔は滝の水量も豊富でしたし、夏場には沢山の人が訪れていまし
たが、いつの頃からか対岸に渡ることが出来なくなってしまいました。




この説明板は11年半前の2009年6月に下里の滝のの芭蕉句碑を訪ねた時に、標識の柱に貼ってあった
ものです。
既に対岸に渡って句碑の所まで行けない状態でしたから(それなりの装備をすれば対岸に行けたかも
しれませんが)実際の句碑を見ることが出来ない代わりに写真入りの説明板を設置していたようです。
最近、上の写真のように護岸整備がされて、階段も設けられ対岸に渡るための飛び石も敷かれました。
しかし、大雨が降った後でもないのに飛び石は冠水していて表面は藻でヌルヌル状態でした。実は、昨
年暮れにも訪れたのですが、やはり冠水していたため諦めて、今度は大丈夫だろうと再訪したものの状
況は変わっていなかったのです。




ヌルヌルした飛び石の上を靴の下半分を濡らしながら慎重に慎重に進んで何とか対岸に

左側の白い四角が2枚目に載せた【芭蕉の句碑 不動の滝】説明板です
その右側が滝の水路ですがほとんど流れていません
赤い建物は行楽客の休憩所であったと記憶しています
その上に「不動堂」が見えます




「下里の滝(不動の滝)」ですが、水量がないのでトヨを使ってチョロチョロと・・・




【芭蕉の句碑 不動の滝】説明板の左側にあるのが「芭蕉の句碑」




「下里の滝」・「芭蕉の句碑」のある右岸から護岸整備された左岸を・・・

散策日:令和3年(2021)1月3日(日)