◇延喜式内社〔論社〕◇

社 号:今城青坂稲実池上神社( いまきあおさかいなみいけがみじんじゃ)
通 称:稲荷様・忍保の稲荷様・池上神社
御祭神:・伊吹戸主命(いぶきどぬしのみこと)
・豊受姫命(とようけひめのみこと)
創 建:不詳・(社伝)和銅四年(711年)
社 格:延喜式内小社〔論社〕・旧県社 神饌幣帛料供進神社
例 祭:10月19日 例祭
指 定:-
鎮座地:埼玉県児玉郡上里町忍保225
上里町忍保に鎮座する延喜式神名帳「今城青坂稲実池上神社」は、延喜式神名帳「武蔵国
賀美郡四座」の一つ『今城青坂稲実池上神社』に比定される(論社)。
同名の神社が神川町関口にもあり、他にも論社とされるものがあり複雑な状況にあります。
由緒等については、境内に設置の説明板2基の内容を載せておきます。

参道入口前に立つ『社号標』 【縣社 今城青坂稲実池上神社】と刻まれています

『一の鳥居』
鳥居前には「神橋」があります

参道を進むと『二の鳥居』です 神域は玉垣で囲繞されています
左側の建物が『社務所』

玉垣で囲繞された神域

玉垣前に設置された『池上神社説明板』

『手水舎』

『二の鳥居』 両部鳥居です

『扁額』 【延喜式内 今城青坂稲実池上神社』と揮毫されています


『拝殿』 瓦葺入母屋造

拝殿の棟紋は「抱き稲」紋 これが当社の神紋でしょう

拝殿の『扁額』 【延喜式内 今城青坂稲実池上神社』と揮毫されています

拝殿表面を横から
格子戸の内側には板が貼られていて拝殿内を覗くことはできませんでした

拝殿を左斜め前から

拝殿側面

拝殿主棟鬼飾りには「左三つ巴」紋
この三つ巴紋を神紋とする神社が多いようですが、自社の神紋ではないが使っているとい
う例も多いようです
巴は火災除けの願掛けの意味合いから、屋根瓦や蔵などにその模様を用いるケースが多く、
また、神社=三つ巴紋というイメージ(?)があります

『拝殿』(左側)と『本殿覆殿』(右側)

『御神木』

『神楽殿』

境内社 左:『雷電神社』 右:『八坂神社』

境内社 『宮西神社』

『遥拝所』

社殿左側の石祠
参拝日:令和2年(2020)11月4日(水)

社 号:今城青坂稲実池上神社( いまきあおさかいなみいけがみじんじゃ)
通 称:稲荷様・忍保の稲荷様・池上神社
御祭神:・伊吹戸主命(いぶきどぬしのみこと)
・豊受姫命(とようけひめのみこと)
創 建:不詳・(社伝)和銅四年(711年)
社 格:延喜式内小社〔論社〕・旧県社 神饌幣帛料供進神社
例 祭:10月19日 例祭
指 定:-
鎮座地:埼玉県児玉郡上里町忍保225
上里町忍保に鎮座する延喜式神名帳「今城青坂稲実池上神社」は、延喜式神名帳「武蔵国
賀美郡四座」の一つ『今城青坂稲実池上神社』に比定される(論社)。
同名の神社が神川町関口にもあり、他にも論社とされるものがあり複雑な状況にあります。
由緒等については、境内に設置の説明板2基の内容を載せておきます。

参道入口前に立つ『社号標』 【縣社 今城青坂稲実池上神社】と刻まれています

『一の鳥居』
鳥居前には「神橋」があります

参道を進むと『二の鳥居』です 神域は玉垣で囲繞されています
左側の建物が『社務所』

玉垣で囲繞された神域

玉垣前に設置された『池上神社説明板』
池 上 神 社 上里町忍保225 池上神社は、和同年間(708-715)の創立で、延喜式内社武蔵国四十四座の一つで、延喜式内神名 帳には、今白青坂稲実池上神社と記されている。 忍保庄の総社と伝えられ、祭神は伊吹戸主命と豊受姫命で、古くは善台寺において別当を兼務し神 事を司っていた。 正慶年中(1332-1334)には新田義貞、大永年中(1521-1528)には斉藤盛光の崇敬が篤く、神 殿の修復が行われたと言われている。 また、天正十年(1582)、織田信長の家臣である厩橋(群加権前橋市)城主の滝川一益と小田原城 主北条氏直との神流川合戦の際に社殿を焼失し、その後、川窪信俊により再建されたと伝えられ、現 在の社殿は、明治住十二年に改築されたものである。 なお、当神社には明治初期に始まった「忍保の神楽」と呼ばれる神楽の一座がある。 昭和61年3月 埼玉県 上里町 |

『手水舎』

『二の鳥居』 両部鳥居です

『扁額』 【延喜式内 今城青坂稲実池上神社』と揮毫されています

今城青坂稲実池上神社 御由緒 上里町忍保225 □ 縁起 当社は烏川を背にして祀られており、『延喜式』神名帳に見える賀美郡四社の内の「今城青坂稲実 池上神社」の比定社の一つとされる。社名の「いまき」は今城すなわち新来の意で、渡来系氏族が当 地に高度な技術を導入し、「稲魂」を祀ったものであろう。 祭神は伊吹戸主命・豊受姫命の二柱である。社伝によれば、和銅四年(711)に勧請され、忍保庄 の総社として崇敬された。元弘年中(1331-34)に新田義貞が金窪に大瑘城を築いた際、城の艮 (東北)にあって荒廃していた当社を再興し、城の鬼門除けとした。以後、代々の城主の崇敬を受 けたが、天正十年(1582)神流川合戦の兵火により社殿を焼失した。天正十九年(1591)川窪与左 衛門信俊が社殿を改築し、神田を寄進した。元禄七年(1694)の大洪水に社殿が流失したが、本殿 だけはかろうじて水中から引き揚げ、地盤を高く築き、修繕を加えて再興した。しかし、元禄十一 年(1698)に信俊の孫武田越前守信貞が丹後国に転領となってから衰退の一途をたどった。その後、 元文三年(1738)に地頭から鳥居の再建と供米の奉納があり、更に嘉永年間(1848-54)には地頭 から社殿の修繕と神田の寄進があり、徐々に社運を盛り返した。 明治五年に旧称に復して村社となり、同二十二年に県社に昇格した。 □御祭神 (省略) □御祭日 (省略) |

『拝殿』 瓦葺入母屋造

拝殿の棟紋は「抱き稲」紋 これが当社の神紋でしょう

拝殿の『扁額』 【延喜式内 今城青坂稲実池上神社』と揮毫されています

拝殿表面を横から
格子戸の内側には板が貼られていて拝殿内を覗くことはできませんでした

拝殿を左斜め前から

拝殿側面

拝殿主棟鬼飾りには「左三つ巴」紋
この三つ巴紋を神紋とする神社が多いようですが、自社の神紋ではないが使っているとい
う例も多いようです
巴は火災除けの願掛けの意味合いから、屋根瓦や蔵などにその模様を用いるケースが多く、
また、神社=三つ巴紋というイメージ(?)があります

『拝殿』(左側)と『本殿覆殿』(右側)

『御神木』

『神楽殿』

境内社 左:『雷電神社』 右:『八坂神社』

境内社 『宮西神社』

『遥拝所』

社殿左側の石祠
参拝日:令和2年(2020)11月4日(水)