四季・めぐりめぐりて

近隣の城館跡・古墳などの史跡めぐりなどをぼちぼちながらやっています

仙波氏館(埼玉県川越市)

2018年09月07日 | 100名城以外の城館跡


城 名:仙波氏館(せんばしやかた)
別 名:―
形 態:館
時 期:平安時代末期?
築城主:仙波氏(仙波七郎家信)
城 主:仙波氏
遺 構:―
指 定:市指定史跡(昭和33年〔1958〕3月6日指定)
現 状:長徳寺
所在地:埼玉県川越市仙波町3丁目31―23(長徳寺)

仙波氏は、平高望を祖とする桓武平氏の流れを汲んだ武蔵七党のひとつ村山党の庶流です。村岡五郎(平良文)の5代目平頼任
が現在の東京都東村山市付近に在し、村山氏(村山頼任)を称した。その子・頼家の子息は入間郡各地に分散し、大井・宮寺・
金子を称した。そのうちの一人村山家継は埼玉県所沢市山口に城を構えた。その子・家信が川越市仙波に居館を構えて仙波七郎
と称し(仙波氏の祖)、その南部一帯に広域な荘園を構えた。そんな仙波氏館跡と推定される長楽寺を訪ねてみました。
異説によると仙波氏館は喜多院のある場所にあったのではないかとも・・・




長徳寺南側は坂道です。下っていくと国道16号線に突き当たります。




長徳寺山門付近  坂の下に見えるのが観音堂




川越市教育委員会による「市指定・史跡 仙波氏館跡」説明板
天台宗の末寺とだけありますが、仙波喜多院末ですね。
”境内に、もと若干の土塁と堀があったといわれ”あるとは書かれていません。あったといわれ、とあるだけで、実際土塁も
堀も見当たりませんでした。




山門前に建てられている「川越市指定史跡 仙波氏館跡」の標柱
右側面に 昭和三十三年三月六日指定 と大きく書かれています




山門を別角度から




山門から本堂を




山号「冷水山」と揮毫されたの扁額




本堂




寺号「長徳寺」と揮毫された扁額
出入り口ガラス戸のガラスに入っている「丸に竪三引き両紋」  長徳寺の寺紋でしょう
この丸に竪三引き両紋が仙波氏の家紋であったかどうかについて調べてみましたが結論は出ませんでした。しかし、仙波氏と
同じく平良文を祖とする三浦氏の家紋は丸に三つ引き両紋(三浦三つ引両)です。竪横の違いはありますが、仙波氏の属する
村山党は、三浦氏を敵として戦った(衣笠城合戦)仲とは言え、同じ平良文の後裔と考えれば、丸に竪三引き両紋が仙波氏の
家紋であったことは十分に考えられます。




大棟鬼飾りにも当然ながら丸に竪三引き両紋




境内から見る長徳寺観音堂の相輪




「稚児(いもっこ)観音」 左手にサツマイモを持っています 
川越名物の芋にかけてかと思ったのですが、稚児観音というのがあるようです。芋を持っているのは洒落かも知れませんが。




多層塔  別に意味はないのですが境内の一風景ということで




山門の内側に建立されている石灯篭
徳川家の菩提寺増上寺の有章院(第7代将軍 家継)の霊廟に地方の大名から献上されたものですが、どういうわけかここにも。
その理由については、過去記事「金子十郎家忠館」で簡単な説明をしてあります。




長徳寺観音堂(川越観音)




長徳寺本堂よりも低地にあることが分ります




この観音堂の前にも増上寺の有章院(第7代将軍家継)の霊廟に献上された石灯篭がありますが、献上した大名は山門内側の物
とは異なります
徳川氏とは無関係のお寺に何故三つ葉葵が入った石灯篭があるのか最初は不思議だったのですが、事情を知って納得。
しかし、よそのお寺(増上寺)に寄進されたものを移築してもと思いますが、やはり三つ葉葵に惹かれるのでしょうか?




観音堂前から本堂方向を
仙波氏館(長徳寺)が台地の上に築かれていたことがわかります




川越まつりで曳き廻される地元仙波町の山車   人形は、仙波七郎家信の二子・仙波二郎安家です。
仙波二郎安家は、元暦2年(1185)に源頼朝が相模の勝長寿院へ落慶供養のための参詣した際と、建久元年(1190)の頼朝上
洛の際に随兵に選ばれています。

今回も遺構がないことから仙波氏館とは直接には関係ないことばかりになってしまいました。
暑い中、川越駅から徒歩で往復しましたが、皆さんが書いている目安の時間よりだいぶかかってしまいました。

散策日:平成30年(2018)7月8日(日)

コメントを投稿

ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。