四季・めぐりめぐりて

近隣の城館跡・古墳などの史跡めぐりなどをぼちぼちながらやっています

小倉城跡(埼玉県ときがわ町)

2015年04月11日 | 100名城以外の城館跡


小倉城跡(埼玉県ときがわ町) 国指定史跡 比企城館跡群

 大きく蛇行する槻川と大平山や正山などの高い山に囲まれるという特異な立地から「陰の城」とも呼ばれています。
城の東方を南北に走る鎌倉街道上道とJR八高線沿いの山辺の道を結ぶ槻川沿いの道筋を抑えるとともに菅谷城や青山城を目視できる立地となっています。
城主は『遠山寺過去帳』と『新編武蔵風土記稿』が遠山氏、『武蔵誌』が上田氏としています。
 城の縄張はほぼ南北方向に走る主尾根に沿って郭1と郭2を並列に配置し、郭1南東と郭2南西を掘り切り、郭3と郭4を設けています。
郭5は郭1の南側に独立して井戸沢と呼ばれる沢筋に面し、水の手郭と考えられます。郭1は土塁の規模、虎口の造り、すべての導線がこの郭に集まることから
主郭(本郭)と位置づけられます。近年の発掘調査により地山結晶片岩を多用した大規模な石積みが検出され、郭1の東側外面を中心に延長100m以上に及び、
また主要な虎口7箇所にはすべて石積みが施され、さながら「石造りの山城」といった景観を今に伝えています。また、本郭内部からは岩盤を掘り込んだ多くの
建物跡が検出されています。出土遺物には、かわらけ、火鉢などの在地産土器、天目茶碗、皿、擂鉢、徳利などの瀬戸美濃製品、常滑甕、白磁碗、白磁皿や染付碗、
染付皿などの舶載磁器、碁石、硯、鍵穴飾り金具や釘などのさまざまな遺物が出土し、城跡での多様な生活ぶりを示しています。
遺物の時期は16世紀後半を中心としています。            (埼玉県嵐山史跡の博物館発行 改訂歩いて廻る『比企の中世・再発見』から引用)


 国指定史跡 比企城館跡群 菅谷館跡・松山城跡・杉山城跡・小倉城跡の4城館跡を攻城したのはおおよそ6年前のことです。
本年に入り菅谷館跡を皮切りに再攻城(館)を始め、最後に残った小倉城跡を昨10日(金)再攻城してきました。
 天気予報では夕方あたりから降雨とのことでどんよりした空模様の下、いつ降ってくるか気にしながら急ぎ足で廻ってきました。
縄張りを頭に入れたつもりでも、いざ廻っているとどこに位置しているのか分らなくなってしまいました。そんな状況で撮った写真
ですので説明の場所に誤りがあるかとは思いますができる限りの枚数を載せてみました。




小倉城跡は、ときがわ町・嵐山町・小川町の3町にまたがっていますが所在地はときがわ町田黒(旧玉川村)となっています。




登城口はこの大福寺の横にもあり、前回はここから登城しました。
案内板が設置され、駐車場も設けられていましたが、今回は他の登城口から攻城を試みることにしました。




大福寺入口に設けられた案内板




前回(6年前)はここから上って行くことを知らず、行ったり来たりで結局、大福寺の登城口から攻城した次第です。




林道をしばらく進むと登城口への入口がありました。




案内図(縄張図)




林道を歩きます。このルートは郭4からの攻城になります。




小倉城跡登城口に着ました。青山城跡方向への分岐点でもあります。




郭4への虎口




郭4




郭2の南西側の土塁  郭4と郭2を遮断する大堀切




大堀切




大堀切




郭2南側の平場(郭?)




更に南側には何段もの平場がありますが郭?




郭2と郭1の間にある通路(堀切) 桝形になっています




郭2 ①




郭2 ②  緑泥石片岩に小倉城と刻まれた小さな碑があります




郭2 ③ 土塁 郭周囲は土塁で囲まれています




郭2 ④  土塁




郭2 ⑤




郭2 ⑥




郭2 ⑦   郭南西の一段高くなっている部分 櫓台跡でしょうか




郭1 西虎口




郭1 西虎口を郭内から




郭1 西虎口土塁の石積




郭1 南西から北東方向




郭1 東側にある虎口




郭1の城址碑等




総合案内板




小倉城址碑




小倉城跡碑




郭1




土塁




土塁




郭1 北虎口 

 


北虎口




桝形虎口




立ち入り禁止になっている区域




二重堀切




腰郭




石垣




石垣




郭3




石積




石積




岩盤を削った堀切




帰路途中に大福寺に立ち寄り




境内にある町指定文化財に関する案内板




花を愛でて帰路に

攻城日 2015年(平成27年)4月10日(金)            

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