四季・めぐりめぐりて

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源頼義・義家父子が流鏑馬を奉納した『出雲伊波比神社』(埼玉県毛呂山町)

2020年11月21日 | 神社仏閣
◇延喜式内社〔論社〕◇


社 号:出雲伊波比神社(いずもいわいじんじゃ)
旧 称:飛来明神(毛呂明神)
御祭神:・大名牟遅神(おおなむちのかみ)
    ・天穂日命(あまのほひのみこと)
      他17柱の神 
創 建:景行天皇53年(123年)
社 格:延喜式内小社〔論社〕・旧郷社
例 祭:11月3日 秋季例大祭(古式流流鏑馬) 他
指 定:国指定重要文化財(名称:出雲伊波比神社本殿〔附:棟札2枚〕昭和13年7月4日指定)
鎮座地:埼玉県入間郡毛呂山町岩井西5-17-1

毛呂山町の小高い独立丘陵である臥龍山の上に院座する『出雲伊波比神社』を暫くぶりに訪ねてみま
した。
同社は、延喜式内社の武蔵国入間郡5座のひとつである「出雲伊波比神社」の比定論社の一社で、他
の論社には、川越市・氷川神社、入間市・出雲祝神社などがあります。
記憶では公私併せて過去4回行っておりますが、いずれも秋の流鏑馬の時でした。そんなことから社
殿をじっくり見るということはありませんでしたので、今回はしっかりと見て来たつもりなのですが。
出雲伊波比神社の歴史や流鏑馬については、境内にある説明板の内容を転記しておきますが、それ以
降について少し触れてみます。
当神社は、平安時代には醍醐天皇の勅命で編纂さんされた延喜式神明帳のなかで武蔵国入間郡五座の
筆頭にあげられています。鎌倉時代以降は武士の信仰も集め、源頼朝が畠山重忠に造営を命じ、また、
大永7年(1527)に社殿が焼失し、翌亨祿元年(1528)に、当地を治めていた毛呂三河守顕繁が再建
しました。天正2年(1574)には北条氏政が板屋葺造営とあります。
現在の本殿は、毛呂三河守顕繁の再建時のもので一間社流造、県内最古の神社建築であるようです。





境内南西にある参道上り口  右側に大きな社号標【出雲伊波比神社】




石段を上がります
石段脇にある柱は祭礼の時に提灯を吊るすためのものでしょう




石垣と玉垣の間を左に曲がってすぐのところに一の鳥居が建っています




『一の鳥居』




『狛犬』
【灯籠(とうろう)・狛犬(こまいぬ)にはよりかからないで、のぼらないでください。】
と書かれた注意書きが括りつけられています。




『社務所』




一の鳥居の右横に建つ社号標【出雲伊波比神社】




一の鳥居から社殿方向
茶色の灯籠は、陶器製のようです




『神楽殿』




『手水舎』
柱には【新型コロナウイルス感染防止のため手水の使用を止めています】の貼り紙




『二の鳥居』




『拝殿』
千鳥破風・唐破風(向拝)の付いた入母屋造 昭和58年(1983)に改築




『拝殿』を斜めから




左:「國寶出雲伊沙比神社本殿」と刻まれた標柱。本殿は、旧・国宝保存法において国宝に
  指定されていたが、戦後、文化財保護法にかわり「国指定重要文化財」となった
中:出雲伊波比神社のやぶさめ説明板
右:出雲伊波比神社 由緒書




「出雲伊波比神社 由緒書」

    出雲伊波比神社
祭神 大名牟遅神・天穂日命・品陀和気銘・(応神天皇)・息長帯比売命 他  
   出雲を中心として国土経営・農業・産業・文化を興され、全ての災を取り除かれた大名牟遅神、
   天孫のために出雲の国土を移譲する、いわゆる国譲りに奔走され大名牟遅神が杵築宮(出雲大
   社)に入られたのちそのみたまを斎き祀る司祭となられた天穂日命、この二柱の神が主祭神で
   家内安全、病気平癒、開運招福、商売繁昌の神としてあがめらる。
社地 古く出雲臣が斎祀する社であった。景行天皇五十三年(123年)に倭建命が東征凱旋の際侍臣
   武日命(大伴武日)に命じて社殿創建、神宝として比々羅木の矛をおさめられたと伝えられ、
   現に東北を向いて鎮まり坐す。
神名 出雲伊波比の神名初見は宝亀三年(772年)の太政官符においてで当社はそれによってその証
   拠をえたのである。それによると当社は天平勝宝七年(755年)には官幣に預る「預幣の社」と
   なり、延喜式神名帳にも記載され当社が延喜式内社とよばれるゆえんがそこにある。
本殿建築
   流造一間社で屋根は桧皮葺型式、大永八年(享楽元年・1528年)九月廿五日毛呂三河守藤原朝
   臣顕繁再建によるもので、埼玉県下最古の神社建築である。大永八年・宝暦十二年(1762年)
   の棟札二面とともに国指定重要文化財。
   昭和三十二~三十三年文部省は解体修理をおこなった。
例祭 十一月月三日 県無形文化財民俗資料選択の「古式流鏑馬」が奉納される。九二十年の歴史を持
   つ。
    昭和六十一年八月




「出雲伊波比神社のやぶさめ」説明板

~流鏑馬の里をめぐる~
  出雲伊波比神社のやぶさめ
 出雲伊波比神社のやぶさめは、平安時代の後期、源頼義、義家父子が奥州平定のため当社にて戦
勝祈願を行い、凱旋途中の康平六年(一〇六三)、再び立ち寄り、流鏑馬を奉納したのが起源と伝え
られています。毎年十一月三日に行われる秋の流鏑馬は、毛呂山町の晩秋の風物詩として親しまれて
います。
 三つの当番区の三人の小中学生たちが乗り子となり、騎射を行う全国的にも珍しい民族行事です。
乗り子は約十日間、稽古、精進を重ね本番に臨みます。
 流鏑馬は、午前の朝的、午後の夕的の二回行わtれ、特に夕的では、勇壮な騎射のほか、ムチ、ノロ
シ、扇子といった馬上芸が次々と披露され、凛々しい少年騎士たちの姿を見ることが出来ます。
 平成二十二年九月 
                           毛呂山町教育委員会

昔、私が聞いた話では乗り子に選ばれるのは、今は合併により毛呂山町となっていますが、
それ以前の毛呂村に代々住んでいる家の長男に限るというような話でした’少子化の今はど
うなっているのか分りませんが)
この出雲伊波比神社の流鏑馬は、一の馬・二の馬・三の馬によって奉納され、それぞれ色分
けされ、白は源氏を、紫は藤原氏を、そして赤は平氏を表していると言います。




瀬戸大也選手奉納の『願的』
オリンピック・アジア大会・世界水泳等のメダリストである瀬戸大也選手は毛呂山町出身で、
平成17年(2005)には乗り子として騎乗しているとのこと。




大棟 と 千鳥破風鬼飾り・唐破風鬼飾りには 『五七桐紋』が入っています




向拝の各部に施された彫刻




【出雲伊波比神社】と揮毫された『扁額』




『本殿』 一間社流造、銅板葺
国指定重要文化財 『本殿(附:棟札2枚)』指定年月日:昭和13年(1938.)7月4日




瑞垣が高くて屋根しか見えません  格子の隙間から覗くも見えません
本殿の棟紋は中央に『三つ葉葵紋』 左右に『『五七桐紋』
『三つ葉葵紋』は、江戸時代には3代将軍徳川家光が社殿を修理するなど、徳川幕府の庇護
も厚く慶安元年(1648)には、飛来明神社として社領10石の御朱印状を受領していることに
由来するものでしょう




格子の隙間からどうにか見えたのは本殿の門  唐門でしょうか




境内社『八幡社』




『授与所』?




社殿を西側から




『流鏑馬馬場』  
秋季例大祭で行われる古式流流鏑馬は【出雲伊波比神社のやぶさめ】の名称で「埼玉県指
定無形民俗文化財」となっています




こちらは出雲伊波比神社が鎮座する『臥龍山』の北側にある参道
左側の道路からは車でも上がれ、一の鳥居の横に着けられます(スピードは落としてね)




『扁額』




鳥居をくぐるとこんな雰囲気のある参道です




こちらが車でも行ける参道(側道でしょうか)




中央からちょっと右に寄った所にある杜が『臥龍山』
(竜谷山城本郭跡から平成29年(2017)11月9日撮影)

参詣・散策日:令和2年(2020)9月16日(水)

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