四季・めぐりめぐりて

近隣の城館跡・古墳などの史跡めぐりなどをぼちぼちながらやっています

判官塚(埼玉県東松山市)

2021年11月15日 | 史跡・遺跡・文化財


令和4年のNHK大河ドラマは「鎌倉殿の13人」
この十三人の合議制の中の一人に『比企能員』(ひきよしかず)がおりますが、比企氏は東松山市・
比企郡ゆかりの武将とされます。
そんな比企判官(能員)の菩提を弔らったと言われる「判官塚」が、岩殿観音の付近にあるとのこ
とで訪ねてみました。
現在の判官塚は、大東文化大学のキャンパス開発造成工事に伴い元あった場所から移されたもので
とのことです。
岩殿観音の南東に比企判官旧地があったとの伝えがあるようで、その場所は物見山から大東文化大
学のあるあたりと推定されますので、この判官塚は旧地に建立されたもののようです。

名 称:判官塚はんがんづか
別 称:比企太神・はんがんさま
形 態:供養塚
造 立:建保6年(1218)頃
造立者:比企員茂(能員の孫)
遷 座:昭和58年(1983)10月
指 定:ー
所在地:埼玉県東松山市岩殿

【判官】とは、律令制における司法警察の役を担った官職のひとつ(三等官)の唐名です。
ですから判官と呼ばれた者は比企能員に限ったわけではありません。能員の官位は右衛門尉




九十九川に架かるここ「惣門橋」から始まる岩殿観音の参道は緩い坂道になっていて、参道両側に
は約50戸の宿坊や、宿屋、商店等が並び門前町を形成していたと言います。
今は、往時の面影はないものの各戸では当時の屋号を書いた木札を吊るしています。また、参道は
石畳で、味気のないアスファルト舗装とは違った趣があります。
判官塚への登り口は参道左側にありますので見落とさないように歩を進めます。




丘の上は大東文化大学のキャンパスで、茶色の建物の手前辺りに判官塚はあるようです。




ここを入って行きます。階段を登り更に急坂を登ります。




判官塚です。鳥居・祠の背後の斜面下に参道がります。




「巖殿」の幟の傍らにあるのが『判官塚由来』碑




神額には『比企太神』とあります




『判官塚由来』碑
--------------------------------------------------------------------------------------------------------------------------
  判官塚由来
判官塚は比企能員の追福のため築きしものと言い伝う その由来は詳ならずと新編武蔵風土記稿に誌るされている 
比企判官能員は鎌倉時代源頼朝の御家人で 比企入間高麗三郡の守護職にて母比企禅尼は頼朝の乳母 娘若狭局は
二代将軍頼家の夫人であるので北條時政と並ぶ鎌倉幕府の権力者であった 頼朝の死後建仁三年九月二日(一二〇
三年)時政の謀略により鎌倉の時政邸内で暗殺された 後健保六年(一二一八年)頃岩殿山に居た能員の孫員茂は
観音堂の東南の地南新井に塚を築き能員の菩提を弔らったと言う 何時の時代か比企太神として祭り崇め参拝する
ようになり今日に至ったもの このたび大東文化大学キャンパス開発造成工事に伴い構内となるため氏子一同相計
り現在地に遷し祭る

--------------------------------------------------------------------------------------------------------------------------



碑陰




『判官塚』祠

散策日:令和3年(2021)11月7日(日)

コメントを投稿

ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。