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堀兼の井(埼玉県狭山市)

2018年10月19日 | 史跡・遺跡・文化財


名 称:堀兼の井(ほりがねのい)
概 要:「ほりかねの井」の一つと考えられていますが、これを事実とすると、掘られた年代は平安時代までさかのぼる。
    直径7.2メートル、深さ1.9メートルの井戸の中央には石組の井桁がある  
指 定:県指定旧跡(昭36年〔1961〕9月1日指定)
遺 構:中世井戸
所在地:埼玉県狭山市堀兼2220番地 堀兼神社

■堀兼之井
堀兼之井は、堀兼神社の境内にあります。直径7.2メートル、深さ1.9メートルの井戸の中央には石組の井桁がありますが、現在
は大部分が埋まっており、その姿がかつてどのようであったかは不明です。この井戸は北入曽にある七曲井と同様に、いわゆる
「ほりかねの井」の一つと考えられていますが、これを事実とすると、掘られた年代は平安時代までさかのぼることができます。
井戸のかたわらに2基の石碑がありますが、左奥にあるのは宝永5年(1708)3月に川越藩主の秋元喬知が、家臣の岩田彦助に
命じて建てさせたものです。そこには、長らく不明であった「ほりかねの井」の所在をこの凹おう形の地としたこと、堀兼は掘
り難がたかったという意味であることなどが刻まれています。しかし、その最後の部分を見ると、これらは俗耳にしたがったま
でで、確信に基づくものではないともあります。手前にある石碑は、天保13年(1842)に堀金(兼)村名主の宮沢氏が建てたも
ので、清原宣明の漢詩が刻まれています。
それでは、都の貴人や高僧に詠まれた「ほりかねの井」は、ここにある井戸を指すのでしょうか。神社の前を通る道が鎌倉街道
の枝道であったことを考えると、旅人の便を図るために掘られたと思われますが、このことはすでに江戸時代から盛んに議論が
交わされていたようで、江戸後期に編さんされた『新編武蔵風土記稿しんぺんむさしふどきこう』を見ても「ほりかねの井」と
称する井戸跡は各地に残っており、どれを実跡とするかは定めがたいとあります。堀兼之井が後世の文人にもてはやされるよう
になったのは、秋元喬知が宝永5年に石碑を建ててから以後のことと考えられます。
                            【狭山市ホームページ「指定文化財」の中から引用転載】

上記解説にもあるよう堀兼の井は堀兼神社の境内にありますので、堀兼神社の簡単な紹介から入っていきたいと思います。




堀兼神社の前を通るのは鎌倉街道の枝道である堀兼道




社号標
堀兼神社の旧社格は村社であったはずですが、社号標には郷社と刻まれています。明治時代初期の一時期だけ郷社であったよ
うです。しかし、この時の社名は浅間神社だったようです。




鳥居は、一の鳥居、二の鳥居とあり、何れも神額には「堀兼神社」とあります。
一の鳥居は両部鳥居、二の鳥居は稲荷鳥居(自信ない)のようです。




手水舎




堀兼井の説明の掲額ですが完全に読めなくなっています




 堀 兼 神 社    
                            所在地  狭山市大字堀兼2221
堀兼神社の祭神は木花咲耶姫命で、合祀神として大山咋命ほか五神を祀る。
社伝によると、景行天皇の40年に日本武尊が東北のえぞ征伐の帰途この地に立ち寄ったところ、土地の人々が旱害に苦しんで
いるのを見て、富士山に祈願したら、たちまち清水が湧きだした。そこで土地の人がこのゆかりの地に浅間神社を創建したのが
始まりだという。 
その後、江戸時代に至って慶安3年(1650)、川越城主松平伊豆守信綱が深くこの神社を崇敬し、家臣の長谷川源衛門に命
じて社殿を再建させた。
明治維新後は「堀兼浅間神社」と称していたが、明治5年に村社となり、同40年から同42年にかけて村内の神社12社を合
祀し、社名を現在のものに改称した。
境内にある「堀兼の井」は武蔵野の高燥台地の飲料水井戸として古くから有名であり、県指定舊蹟。またバラモミは県の天然記
念物に指定されている。
なお、堀兼神社の社叢は、昭和58年にふるさと埼玉の緑を守る条例に基づく「ふるさとの森」の指定を受けている。
  昭和60年3月
                                  埼玉県・狭山市





随身門  二神像の写真も撮るには撮ったのですが、失敗作ですので載せません。




随身門及び二神像の説明板




随身門を抜けて石階段を上ります




堀兼神社 拝殿
元々は富士塚で浅間社であったようです




この説明板にも、堀兼神社(富士浅間社) とあります




境内社の日枝神社

社殿の前に「下浅間神社の石碑」と「一合目の合目石」がありますので、てっきり下浅間神社と思ってしまいます




左側に随身門からの石階段都は別の登り道があります




境内社  他にもありましたが省略します




御神木 その1




御神木 その2  御神木は2本あります




堀兼の井  堀兼神社社殿に向かって左側にあります




「堀兼の井」説明板




「堀兼井」詩碑  天保13年(1842)に堀金(兼)村名主の宮沢氏が建てたもので、清原宣明の漢詩が刻まれている。
恥ずかしながら私には読めません




堀兼の井  通王の四角の部分が石組みの井桁部分でしょうが残念ながら草に覆われて




同上




同上




「井磧の碑」 宝永5年(1708)3月に川越藩主の秋元喬知が、家臣の岩田彦助に命じて建てさせたもの。
これも私には読めません




全体を撮ろうと神社の斜面に上がったのですが、枝が邪魔をして

以上、こんな拙い説明だけでは「堀兼の井」、「堀兼神社」については語り切れません。もっと沢山の情報がありますので興
味のある方は個々に調べて見て下さい(今回も手抜きです)

散策日:平成30年(2018)9月5日(水)

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