四季・めぐりめぐりて

近隣の城館跡・古墳などの史跡めぐりなどをぼちぼちながらやっています

須賀谷原古戦場(埼玉県嵐山町)

2017年12月17日 | 古戦場・陣所


戦国時代の初めに「長享の乱(ちょうきょうのらん)」と呼ばれる関東管領山内上杉氏と同族の扇谷上杉氏による争い
がありました。その戦いの中のひとつに、長享2年(1488)6月18日の須賀谷原の戦いがあり、戦死者700余り、馬数百
がたおれた未曾有の激戦であったと記録されているようです。このとき、山内上杉方の軍勢は平沢寺(嵐山町平沢)に陣
を置いたとされます。一方の扇谷上杉氏の軍勢がどこに陣を置いたかははっきりとはしていないようです。
須賀谷原古戦場は推定の域を出ませんが、須賀谷原遺跡のある現在の埼玉県比企郡嵐山町菅谷あたりではないかと言われ
ます。
「長享の乱」の詳細については省かせていただきますが、「須賀谷原遺跡」については、埼玉県立嵐山史跡の博物館発行
の「改訂 歩いて廻る 比企の中世・再発見」に次のようにあります須賀谷原古戦場。

国立女性教育会館の国道254号線バイパスを挟んだ北側にあります。平成12年に発掘調査され、鎌倉時代の道路跡ととも
に戦国時代の塚2基と50基の墓壙群が発見されています。出土した五輪塔、土器から15世紀後半から16世紀前半にか
けての遺跡であることがわかりました。土壙墓群の墓域であった所を一度片付けたうえで塚を構築し、塚の周りに新たに
墓を作っていました。遺跡の年代が長享2年(1488)の須賀谷原の合戦の時期と重なり、遺跡の位置からこの合戦との関
係が推測できる遺跡です。なお、遺跡は造成され消滅しましたが、出土した五輪塔が現在も遺跡内で覆屋に安置されてお
り、見ることができます。

そんな「須賀谷原古戦場」と推定される須賀谷原遺跡を訪ねてきました。

この写真のあたり一帯が須賀谷原古戦場推定地・須賀谷原遺跡と思われますが、宅地造成が進んでいます。




道路突き当りの所が最高地点で、この林の中に五輪塔を安置した覆屋があります。
このようにまだ造成されただけの場所が残っておりましたので何とか五輪塔を安置した覆屋の場所が分りましたが、住宅が
建ち並んでしまったら、おいそれとは見つけられなくなるでしょう。




覆屋のある高所から南方を見下ろしてみました。写真左側の住宅の先にある木立は国立女性教育会館。
右側の建物(菅谷中学校)の先に菅谷館跡(嵐山史跡の博物館)があります。




五輪塔を安置した覆屋




一応、丘の東側に階段が設けられています。




五輪塔




柵の上から撮ってみました。

長享の乱やこの須賀谷原の戦いについてはもう少し(もっと)勉強の必要がありますね。気持ちだけはあるのですが・・・

散策日:平成29年(2017)12月7日(木)

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