四季・めぐりめぐりて

近隣の城館跡・古墳などの史跡めぐりなどをぼちぼちながらやっています

船田入道善昌館(群馬県太田市)

2018年11月29日 | 100名城以外の城館跡


城 名:船田入道善昌館(ふなだにゅうどうよしまさやかた)
別 名:-
形 態:居館
時 期:鎌倉時代
築城主:船田善昌
城 主:船田氏
遺 構:-
指 定:-    
現 状:宅地
所在地:群馬県太田市世良田町(旧新田郡尾島町)

新田氏の一族で、新田義貞の執事であった船田入道善昌の居館とされます。善昌は元弘3年(1333)、義貞より鎌倉幕府倒幕に
ついての相談を受けるほどの側近でした。また、討幕軍にも参陣しています。
戦国時代は由良氏の家臣大沢氏の居城が築かれ、江戸時代は新田氏の後裔岩松氏の陣屋が置かれた場所でもあるとのこと。

「船田入道善昌館跡」は、国道354号線世良田交差点の東方にあり、立派な門構えの民家で、塀の前には「船田入道善昌邸
跡」の標柱があるとのことでした。このことから国道沿いを歩いて探すも見つからず、付近を通りががった男性の助けを借り
て何とか辿り着くまでに1時間以上も費やしてしまいました。確かに国道沿いではあるのですが、ちょっと奥まったところに
あったので気付かなかったわけです。
そして撮ってきたのは塀前の標柱のみ。現住する一般のお宅の写真をあれこれと撮るわけにはいきませんので。
「たがが標柱 されど標柱」です。この思いは、わかる人には分ると思います。

散策日:平成30年(2018)9月23日(日)

脇屋氏館(群馬県太田市)

2018年11月27日 | 100名城以外の城館跡


城 名:脇屋氏館(わきやしやかた)
別 名:ー
形 態:居館
時 期:鎌倉時代末期
築城主:脇屋義助
城 主:脇屋氏
遺 構:ー
指 定:ー
現 状:農地・住宅地
所在地:群馬県太田市脇屋町(旧太田市)

脇屋義助は、新田義貞の弟で、上野国新田郡で生まれ、長じてからは現・太田市の脇屋の地を領したことから、脇屋二郎と称
した。兄・義貞に従い鎌倉幕府の倒幕に寄与するとともに、兄の死後は南朝軍の大将の一人として北陸・四国を転戦した。 興
国元年(1340)、赴任先の伊予府中城(今治市)で病死した。




脇屋館跡は脇屋義助の館といわれ、昭和23年(1948)に開墾のため削平されるまでは、方形に囲まれた堀・土塁が残って
いたと言います。現在は、畑の中に昭和13年地元建立の石碑が建っているのみであるとの情報。碑の建つ場所は、脇屋義助の
菩提寺であった正法寺に設置されている文化財の説明板の中に、「南東1kmにある脇屋館跡・・」との記述に手がかりに探す
も中々見つからず、途中2度も道順を教えていただき、どうにか辿り着きました。
てっきり畑の中にポツンと建っているのかと想像していましたが、すっかり住宅地に打って変わっており、石碑の土台の2辺は
住宅に囲まれてしまっていました。写真には写っていませんが、道路反対側も住宅街になっているうえに道幅を狭く車を止める
場所に苦労しました。これでは来る方向によっては素通りしてしまいそうです。
石碑には、「脇屋義助公居館跡」と刻まれています。何の障害物もなければ、石碑を真ん中に据えた写真の1枚も撮って載せた
いところですが、何せ住宅の前です。住宅が入ってしまう範囲をギリギリまでにして撮ったのがこの2枚の写真です
遺構もない館跡の石碑をそこまで苦労してと言われるかもしれませんが、今回も「たかが標柱(石碑) されど標柱(石碑)」
なのです。
他の方たちもこの石碑を見つけるにはだいぶ苦労しているようです。




脇屋山正法寺の仁王門(山門)




参道入り口に建っている指定文化財名を刻んだ石標




「太田市指定重要文化財 正法寺仁王門並びに仁王尊」説明板
※「群馬県指定重要文化財 正法寺聖観音像」の説明板もありましたが省略します





仁王門(山門)




仁王尊(阿形)




仁王尊(吽形)




仁王門に架かる山号「脇屋山」の扁額




大鰐口




本堂(観音堂)  旧本堂は江戸時代に火災で焼失し、現在は観音堂を本堂にしているそうです。




「観音堂」扁額




本堂(観音堂)




「脇屋義助公」石碑  脇屋に分家してから資するまでの履歴が刻まれています




脇屋義助公像(石像)




脇屋義助公遺髪塚




「脇屋義助公」石碑  遺髪塚に関して刻まれています




遺髪塚




観音免遺跡から出土の層塔

これらのほかにも見落とししたところが何か所もありましたが・・・

散策日:平成30年(2018)9月23日(日)・10月6日(土)

安養寺館・明王院(群馬県太田市)

2018年11月23日 | 100名城以外の城館跡
■ 国指定史跡 新田荘遺跡 明王院境内 ≪6/11≫



城 名:安養寺館(あんようじやかた)
別 名:新田義貞館
形 態:館
時 期:鎌倉時代
築城主:不明
城 主:新田義貞(推定)
遺 構:ー
指 定:国指定史跡(名称「新田荘遺跡 明王院境内」平成12年〔2000〕11月1日指定)
現 状:明王院
所在地:群馬県太田市安養寺町(旧新田郡尾島町)

明王院は安養寺館に建てられた寺ということで、本標題は「安養寺館・明王院」としましたが、遺構がないことから、内容は
いつもの如くお寺散策になってしまいました。




明王院の参道入口に建つ「国指定史跡 新田荘遺跡 明王院境内」の石標

■ 新田荘遺跡(明王院境内)
呑嶺山明王院安養寺(どんれいさんみょうおういんあんようじ)は、真言宗豊山派の寺院で、2町四方(一辺200m)の規模を
有した、鎌倉時代の総領家クラスの安養寺館跡に建てられた寺です。
 不動堂には、二対の不動明王が納められており、そのひとつは1寸8分(約5.5cm)の白金製で、元弘3年(1333)新田
義貞の鎌倉攻めの際、山伏に化身して越後方面の新田一族に一夜にして触れ回ったと伝えられ、「新田触不動(にったふれふ
どう)」として知られています。
 木造二天像(市重文)を安置する山門を入った左手には、境内から出土した新田義貞の弟脇屋義助(わきやよしすけ)の供養
塔婆である「源義助」と刻まれた板碑があります。本堂裏手には、安養寺十二坊のひとつである薬師坊に祀られていた南北朝期
の石仏である薬師如来像(市重文)があります。
 また、本堂東側には延享4年(1747)に建立された千体の不動明王像を刻んだ高さ6mのピラミッド状の千体不動塔(市重文)
があります。
 安養寺館跡は、土塁・掘割は現状では見られませんが、安政2年(1855)の安養寺村絵図や昭和の地籍図には掘割が確認でき
ます。居住者は、死後に「安養寺殿」と諡(おくりな)された新田義貞が有力です。
                               《太田市ホームページ 太田市の文化財 より引用》




「山門」




山門をくぐると境内  中央が「本堂」 本堂の右側にあるのが「新田触不動尊」




「本堂」 落慶してから1年も経っておらずピッカピカです




本堂に架かる山号「呑嶺山」と揮毫された扁額




本堂右横にある覆屋には「源義助 板碑」が安置されています




「源義助 板碑」説明板    源義助=脇屋義助(新田義貞の弟)




「源義助 板碑」  写真では刻まれている銘文までは分りません




「新田触不動尊」(明王院不動堂)参道入り口
左側に「新田家守本尊 新田触不動尊」の石標が建っています




参道入り口を入った左右に石仏群があります  これは左側の石仏群




参道の上に張り出している枝は桜の木




「山門」 増長天 持国天の二体の木像があることから「二天門」とも呼ばれる




ガラスへの写り込みがありはっきりしませんが・・・




二天門に架かる扁額も山号の「呑嶺山」




石畳の先に不動堂




左手に門があります  本堂敷地への出入り口でしょう




右手には「手水舎」




「不動堂」




扁額 「不動尊」と読んで間違っていないと思いますが・・・




「明王院」説明板




「大師堂」




「不動堂」と「大師堂」




「千体不動尊供養塔」
浮き彫りの石像が千体がピラミッドの形で祀られています (アップの写真を撮り損ねました)




「千体不動尊供養塔」説明板  これも褪色していて読むには苦労しそうです




不動堂の裏手にもたくさんの石造物が並んでいます




不動堂の境内にも「徳川氏発祥の地太田市観光案内図」が建てられていました




不動堂の大棟には新田氏家紋の「大中黒」  当然と言えば当然ですが




裏門に当たるのでしょうか? 本堂の裏にあります  「洗心門」と読めます

散策日:平成30年(2018)9月19日(水)

反町館(群馬県太田市)

2018年11月20日 | 100名城以外の城館跡
■ 国指定史跡 新田荘遺跡 反町館跡 ≪8/11≫



城 名:反町館(そりまちやかた)
別 名:反町城
形 態:平城
時 期:鎌倉時代から南北朝時代と推定
築城主:新田義貞
城 主:新田義貞、大館氏明、新田義興、矢内時英
遺 構:郭・土塁・堀
指 定:国指定史跡(新田荘遺跡 反町館跡 平成12年〔2000〕11月1日指定)
現 状:館跡
所在地:群馬県太田市新田反町町(旧新田郡新田町)

反町館は新田義貞の築城とされ、義貞が各地を転戦すると、大館氏明が城を預かり、義貞の子義興も一時居城したといいます。
戦国時代は、金山城の支城として改修されて強固な城郭となったようです。




県道332号線端にある「反町館跡」の標識




反町館跡(反町薬師境内)に設置されている反町館跡の標柱・説明板




「国指定史跡 新田荘遺跡 反町館跡」とある標柱




「国指定史跡 新田荘遺跡 反町館跡」説明板




説明板の横に設置されている「太平記の里」案内板  新田荘遺跡の要所要所に同じものが設置されています




反町薬師(照明寺)参道入口




参道入口横の土塁に建つ「新田義貞公古城跡」石碑




手水舎




反町薬師(照明寺)本堂




同上  幔幕には新田氏の家紋の「大中黒」  竹箒を持った小僧の像が可愛いですね




本堂左の「太鼓橋」は「参籠(こもり)堂」 に繋がっています




参籠(こもり)堂




大師堂




鐘楼堂




名前は不明ですが、太鼓橋の下を潜った所にあるお堂




お堂の裏手にある土塁?




境内  お堂とは関係ないのでしょうが城門を思わせる立派な門があります




館跡南側に遺る土塁を東方から西方向に




西方から東方向に




土塁西端にある石段はいつごろのものでしょうか




土塁の上を少しだけ




境内側から見た土塁




南側の水堀  土橋があります




南側の水堀を西方から東方向に




西側の水堀  蓮で埋めつくされています




北側の水堀




北側の水堀を東方から西方向に




東側の水堀




同上




東側の水堀を南浦から来た方向に藤棚を入れて




同上

水堀に囲まれた方形の館跡  水堀が素晴らしいです

反町館跡は、平成22年(2010)4月以来、2度目の訪問でした(2度目とは行っても複数日でですが)

散策日:平成30年(2018)9月19日(水)他

台源氏館(群馬県太田市)

2018年11月17日 | 100名城以外の城館跡


城 名:台源氏館(だいげんじやかた)・伝新田義貞誕生地
別 名:-
形 態:館
時 期:鎌倉時代
築城主:新田政義
城 主:新田政義以下義貞までの5代
遺 構:-
指 定:-
現 状:住宅地
所在地:群馬県太田市由良町

新田政義が由良郷台に館を構え、村人が台源氏と呼んだことがその名の由来のようで、義貞・脇屋義助兄弟はここ台源氏館で
生まれたと言われます




設置者不明の現地説明板
「伝えられてきた 伝えられる 不詳なところが多い」
こう書かれていては、仮に間違いがあっても「違うだろう!」とは言えません。




「土塁の一部を整備した」とあるこんもりとした場所に建つ二基の石碑




新田義貞卿誕生地之碑




館跡というよりも小公園といった雰囲気です  四阿もあり既に小公園化されていますね
館跡前の道路は狭く車を止めておく余裕はありませんので・・・




車は円福寺の駐車場に止めさせていただきました。
台源氏館跡と円福寺の間は400m 往復ですと800mを歩きました。

散策日:平成30年(2018)9月19日(水)

田中氏館(群馬県太田市)

2018年11月14日 | 100名城以外の城館跡


城 名:田中氏館(たなかしやかた)
別 名:ー
形 態:館
時 期:鎌倉時代
築城主:田中義清
城 主:田中氏
遺 構:土塁
指 定:ー
現 状:長慶寺
所在地:群馬県太田市新田上田中町(旧新田郡新田町)長慶寺

新田義重の流れをくむ里見系田中五郎義清の館跡である田中山長慶寺を訪ねてみました。




長慶寺は県道315号沿いの綿打中学校向かいにあり、「千利休先祖菩提の寺」「長慶天皇ゆかりの寺」の大きな看板がふた
つも建っています。千利休だの長慶天皇(どんな天皇なのか私は知りませんが)だのと出てきますので大きな立派なお寺なの
だろうと想像したのですが。




寺号標  フェンス沿い道の奥に長慶寺はあります




いわゆる山門の類はありません  石の門柱が両側にあり、宗派名と山号寺号のプレートが貼られています




本堂に架かる扁額には、山号・寺号ではなく「御本尊 不動明王」とあります




本堂前に建てられている「茶聖千利久居士之祖 田中五郎義清之館跡也」と刻まれた石碑
利休の本名は田中与四郎というようですが、それをもって田中五郎義清の末裔であるという具体的なものはないようです。




「田中山長慶寺由来記」  よく読めますので転記の必要はないようです
古えは大寺であったと・・・




境内東側にある墓群




1 屋根付き供養塔の右の宝篋印塔は 第98代長慶天皇の陵墓 と云われている          ①のもの
   全国にその陵墓とされる場所が点在するようで、ここもそのひとつのようです  ※南朝第3代
1 屋根付き供養塔の左の宝篋印塔は 茶聖千利久居士の祖 田中五郎義清の墓 と云われている   ②のもの
あくまでも「云われている」で、具体的な確証はないようです




本堂裏の土塁  ここまで風化していると土塁跡と言った方がよいかもしれませんが

散策日:平成30年(2018)10月2日(火)

綿打氏館(群馬県太田市)

2018年11月13日 | 100名城以外の城館跡


城 名:綿打氏館(わたうちしやかた)
別 名:ー
形 態:館
時 期:鎌倉時代
築城主:綿打為氏
城 主:綿打氏
遺 構:土塁
指 定:ー
現 状:大慶寺
所在地:群馬県太田市新田大根町(旧新田郡新田町)大慶寺

綿打為氏は、新田義重の流れくむ新田政義の2男・大舘家氏の子で、元弘3年(1333)、新田惣領家の新田義貞の麾下として、
弟宗氏とともに鎌倉幕府討伐に従軍した。同年に弟が鎌倉極楽寺坂で戦死を遂げたが、以降も義貞に従った。 1338年に義貞が
越前藤島で戦死すると、後に同じ南朝方の北畠顕家に従って、転戦を繰り返して和泉で戦死を遂げた。

大慶寺の庭には約150種、3,500株のぼたんがあり、4月下旬から5月上旬に赤、白、黄色の花が咲き誇るそう。




綿打氏館跡である大慶時は群馬県道315号線沿いにあり、「ぼたん寺」の大きな看板が目印となります




仁王門




仁王門扁額には、山号の「妙満山」と揮毫されています   
大慶寺の開基とされている悪源太義平の妻が出家後に名乗った妙満尼からとった山号




門前の右側には、「ぼたん寺 大慶寺」とラッピングされた自動販売機が設置されています




自動販売機の裏に「綿打入道太郎為氏館跡」の石標がありました
正しくは、自動販売機の裏にあるのではなく、自動販売機が標柱の前に設置されちゃったということです。
そんなことから、ここを通った時は気付かず、帰り際に「そう言えば標柱がある筈だが」と探してみたら、ここにあったとい
うわけでして、斜めからしか写真は撮れませんでした。




参道はまだ続きます




これが表門のようですが閉じてあります




参道の突き当りにある「新田不動尊」




「不動明王」と揮毫された扁額




新田不動尊は、新田氏の守不動とされたとあります




本堂方向に目をやると諸々の由来が記された説明板がありました
金属板で陽が当たっていますので読みすらいですが・・・




大慶寺由来
永暦元年、源義平「悪源太」歿後その妻が父新田義重を頼り世良田郷に住み後綿打郷に移り義平の冥福を祈ると共に菩提を弔
うため出家して妙満寺となり一庵を結びました。したがって妙満尼を大慶寺の開基とし山号を妙満山と称します。その後綿打
入道為氏の館となり・・・
とあります

悪源太って、木曽義仲の父で、自身の叔父でもある源義賢を、現・埼玉県嵐山町の大蔵館で討ったあの悪源太ですよね。
更に、悪源太の没後妻が住んだという世良田とは、京で清盛父子の命を狙って捕らわれ斬首された義平のことを知った妻は秘
かにその首を持ち帰って埋葬し夫の菩提を弔った(伝承でしょうが)という義平山清泉寺のことですね。




鐘楼




本堂




本堂にかかる扁額「大慶寺」




本堂の裏手  この文殊堂の背後の高まりが土塁跡のようですが庭木等が多くてよくわかりません




背後に回ってみました  土塁跡が確認できます




綿打氏の墓所   ※住職さんに場所を教えて頂きました




中央の宝篋印塔が綿打入道太郎為氏の墓です




墓所の確認を終え境内に戻る途中にたまたま見つけた「綿打刑部郷太郎為氏之墓」標柱
墓所のすぐ前にあったのではなく、墓所から離れた木の脇にありました。標柱の背後奥の方に墓所はあります。

散策日:平成30年(2018)10月2日(火)

堀口氏館(群馬県太田市)

2018年11月12日 | 100名城以外の城館跡


城 名:堀口氏館(ほりぐちしやかた)
別 名:ー
形 態:館
時 期:鎌倉時代
築城主:堀口貞氏(家貞)
城 主:堀口氏
遺 構:ー
指 定:ー
現 状:農地・宅地
所在地:群馬県太田市堀口町(旧新田郡尾島町)

新田氏の一族で大舘宗氏の兄堀口次郎貞氏が、新田荘内の堀口郷に館を構えて居し堀口氏を名乗り、堀口氏の始まりとされて
いるようです。その孫義光は、新田義貞が元弘3年(1333)5月8日、生品神社にて挙兵したとき集まった新田一族の中に入
っています。
館跡は早川改修工事による堤防拡巾のために消滅してしまいましたが、館跡の標柱等があるとのことで訪ねてみました。
散策するにあたり、賀茂神社の近くであるという情報を頼りに賀茂神社近くまで行き、適当に歩いてみたものの、これでは見
つかる筈はありません。かと言って、誰かに聞こうにも人影はありません。屋敷内の作業場で作業中の私と同年配の女性を見
かけましたので、声を掛けさせていただき、事情を説明したところ、懇切丁寧に行き方を教えてくれました。




教えていただいた通りに行くと「堀口氏館跡」の標識がありました




そしてこれも教えていただいた水道橋  トラックが走っている道路が県道276号線
左側の建物の所の木が茂っている場所に館跡の標柱と説明板があります




堤防の拡幅工事・改修によって館跡の遺構は消滅したようですが、場所を教えてくれた女性の方の話の内容からすれば、館跡
はこの堤防の辺りにあったようです。また、標柱や説明板もそれに伴い堤防下の現在の場所に移したようです。




整備された堤防と県道  この辺りも館跡の一部であったのかもしれません




上の方から標柱や館跡説明板の建っている場所を見ています




「堀口氏館跡」標柱と説明板
「正覚寺跡の石碑」は木が繁茂していて隠れてしまっています




「堀口氏館跡」説明板




正覚寺跡の石碑  この写真では天候が良すぎて光ったり影が出来たりで読めませんので、下記に内容を転記しておきます。

 堀口山不動院正覚寺跡
維時 昭和42年4月建設省起業 早川改修工事による堤防拡巾のため正覚寺を移転するのやむなきに至り檀徒相会し協議の末
に村内の淨蔵寺との合併を定め駒形山に不動堂を新築し墳墓を移す
思うに建武の昔新田氏の族将美濃守堀口貞満公の建立と伝えられこゝに六百有余年の寺風を失うことは堪えがたきこと乍ら子孫
永代にわたる水難防災を祈念してその一隅に寺跡をしるものなり
                                昭和43年5月1日  正覚寺檀徒一同




やむなきを得ず合併して正覚寺が移された淨蔵寺  山門には山号「駒形山」と揮毫された扁額が架かっています




門前に建てられている「淨蔵寺」説明板  正覚寺との合併の経緯もきちんと書かれています




淨蔵寺境内に建立されている「不動堂」




淨蔵寺本堂

散策日:平成30年(2018)9月19日(水)・10月2日(火)

大舘氏館(群馬県太田市)

2018年11月11日 | 100名城以外の城館跡


城 名:大舘氏館(おおだちしやかた)
別 名:ー
形 態:館
時 期:鎌倉時代
築城主:大舘(新田)家氏
城 主:大舘氏
遺 構:ー
指 定:ー
現 状:農地
所在地:群馬県太田市大舘町(旧新田郡尾島町)

大舘氏館跡については現地説明板に詳しく紹介されていますので省きますが、館跡は東楊寺の北約100mの場所にあるとの
ことでした。
車では行けないとの事前の情報収集から、東楊寺の参道入口の横にある大舘区民会館に駐車させていただき、境内を抜けて裏
の県道に出て、館跡へ行く道を探しましたが標識等は見つからず、ここでも行ったり来たり。例のごとく付近の方のお世話に
成ることになりましたが、声を掛けさせていただいた女性は、「道が狭く草がすごいですが、足元は大丈夫ですか」と心配し
てくれながら、館跡への入り口までわざわざ同行案内してくれました。「あら、道が舗装されて綺麗になって居る。あそこに
赤い柱が見えるでしょ。あそこです」と、女性もまさかの状況に驚いていました。
お礼を言って別れ、その赤い柱を目指してあるきました。
一応、事前に場所の情報を調べてはいるのですが、いざ現地に行ってみるとそう簡単には行かないことが多く、いつもこうし
て地元の方のお世話に成っています。




畑の中に朱の鳥居が見えます。ここ一帯が大舘氏館跡であったようですが、耕地整理によって遺構は失われたようです。




舗装はされていましたが、車1台通るのがやっとの農道です。とても路駐なぞできません。舗装前だったらこの時期ですから
草だらけだったかも知れません。




鳥居を潜った所には小さな社が建立されており、「大舘氏館跡」の標柱、説明板。それと石碑が建っています。




正面から見るとこんな感じでです




諏訪神社が勧請されています




「諏訪神社改築記念」碑と「大舘氏館跡」説明板




「大舘氏館跡」説明板




社の裏に石祠が二基あります。大館氏と関係あるものでしょうか? 卒塔婆が気になります。




社の北方から南方を  農道の先に見えるのが東楊寺です

散策日:平成30年(2018)9月19日(水)

寺尾城(群馬県太田市)

2018年11月09日 | 100名城以外の城館跡


城 名:寺尾城(てらおじょう)
別 名:寺尾館
形 態:居館
時 期:保元2年(1157)
築城主:新田義重
城 主:新田氏・脇屋氏
遺 構:-
指 定:-
現 状:和食屋(新田乃庄本店)
所在地:群馬県太田市寺井町

新田の地に本拠をかまえ、庄司となった源義重は新田氏を名乗った(新田氏の始祖)。以来三代87年にわたり居城し、南北
朝時代には義貞の弟脇屋義助が城主となったのが寺尾城だといいます。
寺尾城の推定地は、片岡郡寺尾村(現高崎市寺尾町)周辺と、 新田郡寺井村(現太田市寺井・天良町)周辺との2説あり、こ
こ太田市にあっては和食屋・新田乃庄本店が建っている場所が城跡と言われていますが、遺構は全くありません。




新田乃庄本店前に建つ「新田庄寺尾城跡」石碑
現在この店舗(本店)は使われていないようですが、道路のはす向かいに、【新田乃庄別館寒山亭】があります。




「新田庄寺尾城跡」石碑




石碑裏面  生垣の手入れがされておらず(失礼)全体を撮ることはできませんが、次のように記されているようです。

  栄枯は夢の如し こ〃谷 地蔵窪 七堂の字址は
  享保年中まで寺尾村の内なり
  清和源氏八幡太郎義家公の嫡孫 新田義重公以来三代
  この地を本拠となし 寺尾館 寺尾城 稱したり
  八代義貞公挙兵六百五十年に當り こゝに碑を建つ
     昭和五十八年六月八日
             新田庄寺尾城史跡保存会

実際、寺尾城が現在の高崎市と太田市のいずれかにあったにせよ、新田館(総持寺)も新田義重の居館とされていますので、
同時期に2つの城館に居したということになります。
家は1軒と思っているのは、私のような底辺庶民の考えることで、中世の豪族ですから複数の居館があっても不思議ではあ
りませんが・・・

散策日:平成30年(2018)10月2日(火)