四季・めぐりめぐりて

近隣の城館跡・古墳などの史跡めぐりなどをぼちぼちながらやっています

葵御前を祀った葵八幡と板碑

2024年05月11日 | 史跡・遺跡・文化財

藤岡市本郷地内に葵御前を祀った葵八幡があるとのことで訪ねてきました。

葵御前とは、平安時代末期の源氏の武将木曽(源)義仲の愛妾の一人とされる人物のようです。木曽義仲の愛妾
には他に巴御前、山吹御前がいたようですが、正直、実在した人物かもはっきりしておらず、仮に実在したとし
てもこの当時女性は名を持たない(表に出さない)時代でしたから、これらの葵、巴、山吹は後世に名付けられ
たのではないでしょうか。
この中で知名度が一番高いのは、一昨年の大河ドラマ『鎌倉殿の13人』にも登場した巴御前ではないでしょう
か。
山吹御前については、義仲の子・義高の母親ではないかという説もあるようですが、これも定かではありません。
葵御前という名については最近まで知りませんでしたが、常に義仲のそばにいて共に戦った女武者とされ、義仲
軍が平家軍と戦った寿永2年(1183)の倶利伽羅峠の戦いに参戦し、この戦いで討ち死にした言われます。その
墓(葵塚)が現在の小矢部市にあるとのことです。
葵御前とは無縁と思われるこの藤岡市本郷に同所を祀ったとされる葵八幡ですが、その由緒はわかりません。た
だひとつん何らかの理由付けをするならば、木曽義仲の父・源義賢が武蔵國大蔵(現在の埼玉県嵐山町)に移る
前は、上野国多胡庄(現在の群馬県高崎市吉井町)に館を構えていましたが、この藤岡市と旧吉井町は隣同士で
あり、ここに何らかの接点があったのかと考えられわけですが、いずれにしろ伝説・伝承の範囲かもしれません。



東側の道路から畑の中にある「葵八幡」を見る


奥に見える小さな社が「葵八幡」  右側の石碑は所有者の先祖の石碑のようですがスルーします


中にある小さな祠が所謂本殿ですね
「葵八幡」自体は文化財指定されているわけではありませんが、社の左右にある二基の板碑が藤岡市の指
定重要文化財になっています。



「市指定重要文化財 葵八幡の板碑(二基)」説明版
この説明板では指定日が記載されていませんが  平成2年(1990)4月1日指定  です



社に向かって右側の板碑
阿弥陀三尊種子板碑 《市指定文化財》
鎌倉時代後期 応長元年( 1311)緑泥片岩、高さ 166㎝ 幅 41㎝ 厚さ 4.5㎝
下方の中央に「應長元年、辛亥、六月十八日」と刻まれている



社に向かって左側の板碑
阿弥陀図像板碑 《市指定文化財》
鎌倉時代後期 推定:応長元年(1311)、緑泥片岩、高さ 150㎝ 幅 40㎝ 厚さ6.5㎝



社の前にある大きな石(約190㎝✕151㎝✕30㎝)
この大きな一枚石を見たとき、何れかの古墳の石室に使われていた石かなと思いました。なぜなら、ここ
は本郷小林古墳群の一角にあるからです。
古墳の石室に使われていた石かはともかくとして、この石も葵御前伝説のひとつのようです。
細かくは触れられませんが、源義賢(木曽義仲の父)に従い東国まで来た葵御前が、ある理由により橋の
下に身を潜めた。その橋は葵八幡入口の堀に架かっていたと言い、今はその堀はなくなっているが、境内
にあるこの石がその橋の石だと


葵八幡がいつ誰によって祀られたのか不明ですし、橋の石の話もその真偽はわかりません。また、葵御前
が戦死したとされる頃から120余年後に建立された2基の板碑との関係もわかりません、いずれも伝承・伝
説であることの可能性が大ですが、それを承知で中世に想いを馳せ訪ねた次第です。


散策日:令和6年(2024)5月9日(木)