城 名:村山城(むらやまじょう)
別 名:村山氏館
形 態:丘城
時 期:不明
築城主:村山土佐守義光
城 主:村山氏
遺 構:曲輪?
指 定:―
現 状:福正寺
所在地:東京都西多摩郡瑞穂町殿ヶ谷
狭山丘陵の突端の台地に福正寺という寺院が建っていますが、この福正寺が建つ台地が戦国期の村山土佐守時代の「村山城」
跡の推定地とされます。殿ケ谷という地名が残っていることからしても、この地域に居館があったことは確かなようです。
村山党(氏)は、武蔵七党のひとつで、平頼任が村山郷に住み村山氏を名乗ったのが始まりとされ、庶流に金子氏・宮寺氏・
山口氏・仙波氏などがあります。
村山土佐守義光は中世豪族としての村山氏最後の人物で、戦国時代は関東管領上杉氏の重臣大石氏に従い、大石氏が北条傘下
に入ると村山氏も北条氏照に従いましたが、天正18年(1590)北条氏が滅亡するとともに勢力を失い帰農したと言われます。
この村山土佐守義光にあっては、惣領家である村山氏の嫡流ではなく、金子氏の流れを汲む人物であったとも言われるようで
すが、いずれにせよ文献はなく伝承の域を出ません。ただ、村山氏の一族・後裔であることは確かでしょう。
参道入口に設けられている福正寺の境内図と由緒の案内板
村山城あるいは村山氏館に関する記載はなく、境内図の中に村山土佐守墓の位置が示されているだけです。
総門
総門に掲げられた山号「金龍山」の扁額
山門 扁額の「普照」は開山した普照大光国師から
多聞天 正面からはガラスが反射して撮れませんでしたので横から
増長天 こちらはどうにか正面からでも撮れましたので
鐘楼 天井絵があったのに気付いたのはこの記事編集中
法堂
この法堂のある辺りが腰郭跡ではないかとも言われますし、主郭跡とも言われるようですが・・・
寺号「福正寺」の扁額
町指定天然記念物 樹齢約700年の多羅葉樹 山際に並んでいるのは十六羅漢
開山堂(大光殿) 福正寺を開山した普照大光国師が祀られている
鎮守弁財天
伝 村山土佐守一族墓 伝としてあるところや村山一族でなく村山土佐守一族としてあるのは何か意味あって?
小さな墓所ですし、標識も説明板もありませんので広い撥の中を探し回ってしまいました。
この村山土佐守一族墓を含む墓所一帯は福正寺の一番高所にあり、主郭跡ではと言われます。
中央の五輪塔が村山土佐守の墓でしょうか?
ミニ五重塔
何故ミニ五重塔が建立されているのかはこの説明板に
観音堂 参道入口の境内図に書かれている「円通殿」です。
向拝に架かっている額には「選佛場」とあります すなわち座禅堂です
福正寺観音堂の説明板
観音堂の南側に幼稚園がありますが、ここも城跡の一部だったようです。
福正寺から東方へ200m程行ったところにある玉林寺公園
かつてここに玉林寺という寺院があったようですが、元文年間(1736-1740)に立川氏に移転しています。臨済宗建長寺派の寺
院で普済寺の末寺とされています。
そうです。普済寺とは立川氏館の普済寺のことです。
玉林寺公園の道向いにある公園(玉林寺公園の一部か)に建つ「村山土佐守」の銅像
武将の銅像というとどうしても甲冑姿や狩装束姿の銅像を思い浮かべてしまいますが、この銅像は普請の現場で指図している
ような風体の銅像です。何故こうした姿の銅像にしたのか興味あるところです。
銅像の脇に建つ説明板 判読できそうなので転記は省きます(手抜きです)
銅像台座の右側に嵌められいる説明板
雨が降る中、あんな狭い所で全体が入った写真を撮るのは大変でした(何枚失敗したことか)
苦労の末撮った写真、何とか判読できそうなのでこちらも転記は省略します。
皆さん 村山土佐守の銅像の写真を撮っても笠の陰で顔が見えないと言ってます。正面から見ると確かに見えないですね。
ということで、お顔が見えるような写真をと頑張ってみました。ストロボを焚いたのは良いのですが、雨で銅像が濡れていた
ためにテカテカの写真になってしまいましたので画像処理を施して何とか・・・
散策日:平成30年(2018)6月23日(土)