四季・めぐりめぐりて

近隣の城館跡・古墳などの史跡めぐりなどをぼちぼちながらやっています

世良田氏館(群馬県太田市)

2018年11月06日 | 100名城以外の城館跡


城 名:世良田氏館(せらだしやかた)
別 名:-
形 態:居館
時 期:平安時代末
築城主:世良田氏
城 主:世良田氏
遺 構:堀跡(復元)
指 定:国指定史跡(「新田荘遺跡 長楽寺境内」平成12年〔2000〕11月1日指定)に含まれるのか?                     
現 状:歴史公園
所在地:群馬県太田市世良田町(旧新田郡尾島町)

新田荘遺跡 長楽寺の西側にある芝生広場が、世良田氏館跡と言われます。世良田氏館跡は、新田氏一族世良田氏の館跡と伝え
られています。




世良田氏館跡(芝生広場)のほぼ真ん中に設置されている「世良田館跡」説明版




説明文




発掘時の航空写真




北方から南方を   写真にある 北辺部の堀 と 東辺部の堀
 



東辺部の堀




南端部の堀




同上



南端部  車が止まっているところが歴史公園駐車場




こんな碑が建立されていましたが、何の意味なのかわかりません




南方から北方を  右にあるのが東辺部の堀




世良田氏館跡(芝生広場)西側の歩道から

正直、世良田氏館跡の範囲がどこまでなのかわかりません。この芝生広場だけなのか、長楽寺の勅使門がある辺りまでなのか。
取り敢えずこの投稿では芝生広場に限定しましたが、長楽寺境内については別途で。

散策日:平成30年(2018)9月23日(日)

岩松館(群馬県太田市)

2018年11月01日 | 100名城以外の城館跡


城 名:岩松館(いわまつやかた)
別 名:ー
形 態:居館
時 期:平安時代後期
築城主:源義国
城 主:源義国・新田義重・岩松氏
遺 構:土塁
指 定:ー
現 状:青蓮寺
所在地:群馬県太田市岩松町(旧新田郡尾島町)

新田氏・足利氏の祖源義国が居住し、その後、子の新田義重や岩松氏が居住したと言われる岩松館跡を訪ねて来ました。
現在の青蓮寺境内を中心とした区域が館域であったようです。




門前に設置されている「岩松館跡」説明板




同じく門前に設置されている「青蓮寺」説明板




山門(楼門)




山門と本堂




山号「岩松山」の扁額




本堂




本堂前に設置の「青蓮寺・源義国公の墓・岩松尚純公御夫妻の墓」説明板




銅鐘がありませんが、鐘楼跡でしょうか




本堂裏の藪 この中に土塁があるとのことで・・・




土塁、堀跡らしきものが確認できましたが、藪蚊と蜘蛛の巣の攻撃を受けて退散




境内

散策日:平成30年(2018)9月19日(水)

新田館(群馬県太田市)

2018年10月31日 | 100名城以外の城館跡
■ 国指定史跡 新田荘遺跡 総持寺境内 ≪3/11≫



城 名:新田館(にったやかた)
別 名:館の坊・新田義重館
形 態:居館
時 期:保元2年(1157)
築城主:新田義重
城 主:新田氏の総領・世良田氏
遺 構:-
指 定:国指定史跡(「新田荘遺跡 総持寺境内」平成12年〔2000〕11月1日指定)
現 状:総持寺
所在地:群馬県太田市世良田町(旧新田郡尾島町)

新田館は、八幡太郎義家の孫にして源義国の長男で新田氏の始祖である新田義重(源義重)が構えた館で、新田宗家代々の居
館であったと言われます。今は、館跡の一画に総持寺があるのみで遺構はないようです。




総持寺山門と鐘楼




山門を正面から  本堂と位置が一致しています




「国指定史跡 新田荘遺跡 総持寺境内」の石標




新田館跡(棒の館・總持寺」説明板




鐘楼




「総持寺の梵鐘」説明板




山号「威徳山(いとくさん)」の扁額が架かっています




境内北東隅に建っている「新田館址」の石標  8年前の平成22年(2010)4月に初めて訪れたときは気付きませんでした




総持寺境内




本堂




境内北側にある石造物群の周囲は曼珠沙華の朱色で染まっています




総持寺の北側を走っている県道142号線(東国文化歴史街道)の総持寺入口交差点の標識
寺の西側には天然の水堀である早川が流れています

新田館跡(総持寺)は今回が2度目の散策となりました。実は、1度では用が足らず2回(2日)訪ねました。まあいつもの
ことで、ここだけに限ったことではありませんが・・・、

散策日:平成30年(2018)9月19日(水)・23日(日)

柏原城(埼玉県狭山市)

2018年09月29日 | 100名城以外の城館跡


城 名:柏原城(かしわばらじょう)
別 名:城山砦・上杉城・上杉砦
形 態:崖端城
時 期:天文14年(1545)
築城主:上杉憲政
城 主:上杉憲政
遺 構:土塁・空堀
指 定:市指定史跡(昭和48年〔1973〕3月1日指定)
    県選定重要遺跡(昭和44年〔1969〕10月1日選定)
現 状:城跡
所在地:埼玉県狭山市柏原2346-2ほか

天文年間に山内上杉憲政が、後北条氏に奪われた川越城を奪還すべく包囲した際に陣を敷いたとされる柏原城を再訪しました。
柏原城跡については色々な呼び名があり、狭山市においては「城山砦跡」と呼んでいるようですが、城のあった場所は大方の所
で「城山」と呼ばれ、一般名詞に過ぎません。地名の付いた「柏原城」と呼ぶ方が城を特定しやすいので、ここではこの名称を
使わせていただきます。

柏原城跡は、狭山市内では唯一の中世城郭と言われ、高さ10m程の河岸段丘上に築かれた城(砦)で、本郭・二の郭・三の郭
からなって居ます。
天文6年(1537)7月に、小田原北条氏の手に落ちた「河越城」を奪還するために、天文14年(1545)9月から半年近くにわ
たり、上杉憲政が陣を敷いたのが、この柏原城です。上杉軍が北条氏康に敗れたごは、北条氏の手に移り、同氏の城として機能
したと考えられます
その一方で、鎌倉時代に畠山重忠に従った柏原太郎の館跡ではないかと言われるようです。また、南北朝時代に鎌倉公方の足利
基氏が入間川に滞陣した際の出城とする説や、明応5年(1496)に上杉顕定が上杉朝良方の河越城を攻めたとき、顕定と手を結
んだ足利成氏の子の政氏が着陣したところともいわれています。




現地説明板にある縄張図  
数か所加筆しましたが。以前の説明板には三の郭の記述、縄張図にも三の郭の表示があったようですが、現在の説明板には両者
ともありません。その理由は分りません。




北側の小口  こちらが大手でしょうか




二の郭の端にある 城山稲荷大明神  




三の郭跡はこの辺りでしょうか




小口に向かって左側にある土塁   土塁の内側は空堀




喰い違い小口のようです
左側は空堀  正面に二の郭(馬出)




空堀




空堀  右側が小口東側にあった土塁




二の郭




柵の向こうの左側が二の郭  右側が小口方向




本郭への小口




本郭小口から本郭内を




本郭内から小口を振り返る




本郭と北側・東側の土塁




北側土塁上




土塁上から空堀を




本郭東側土塁




本郭から眼下の住宅団地を  その先には入間川が流れています




南側にある小口への坂道  かつては竪堀であったとされます
右上の柵のある所が二の郭




南側小口まで下りてきました




搦手口と言ってもよいでしょうか




趣のある看板です




大手小口にある説明板と同じものですが、冒頭に記したように縄張図に三の郭の表示はありませんし、記述もありません。




こうして南側から見ると柏原城(城山砦)が、段丘の上に築かれていることがよくわかります。

初めてこの柏原城跡(城山砦跡)を訪ねたのは1年9か月ほど前のことですから、余程のことがない限りは以前のままの形で
あると思っていましたが、案の定、前回と全く変わってはいませんでした。
それを承知で再訪したのは、最近の投稿を見ていただければ察していただけるかもしれません。
しかし、前回と同じような写真しか撮れないのは、無意識のうちにも自分なりの撮影パターン(癖)が出来てしまっているの
かもしれません。

再訪日:平成30年(2018)8月30日(木)

山口城(埼玉県所沢市)

2018年09月16日 | 100名城以外の城館跡


城 名:山口城(やまぐちじょう)
別 名:児泉城
形 態:平山城
時 期:平安時代末期
築城主:山口家継
城 主:山口家継・高清・高治・高実
遺 構:土塁
指 定:県指定旧跡(昭和37年〔1962〕10月1日)
現 状:商業施設ファッション市場サンキ
所在地:埼玉県所沢市山口1517番地ほか

山口氏は、平高望を祖とする桓武平氏の流れを汲んだ武蔵七党のひとつ村山党の支族です。平良文(村岡五郎)の後裔である
平頼任が武蔵国多摩郡村山(現在の東京都武蔵村山市)を領し村山氏(村山頼任)を名乗り村山党の祖となる。その子・頼家
の子息は入間郡各地に分散し、大井・宮寺・金子を称した。そのうちの一人村山家継が武蔵国入間郡山口(現在の埼玉県所沢
市山口)に在して山口氏(山口家継)を名乗ったのが始めで、その居城が山口城であった。なお、その子・家信が川越市仙波
に居館を構えて仙波氏(仙波七郎)を名乗った。

城跡は、県道55号線の交差点に「山口城趾前」の名称がつけられたのみで長年放置されていた。平成12年(2000)になり
商業地として開発されることとなり、当初は遺構を取り壊して完全に整地される計画であったが、遺構の保存を求める運動が
起こされ、商業地として開発される敷地のうち一部が整備されて保存されることになった。現在は城跡であった部分の殆どは
整地されて商業施設となっているが、保存運動によって残存した土塁や空堀のごく一部分が保存されている。




山口城趾前交差点  山口城址の標柱脇の議員の看板や山口城跡説明板の上の大きな看板が目障りですが、保存に至る経緯を
考えれば仕方ないことでしょう      城趾・城址・城跡  3通りの漢字が使われていますので忠実に(笑)




県道55号線沿いにある「山口城跡」の標識




山口城跡の説明板
今年新しくなったようですが、内容は以前のものとほとんど変わっていません。




左側を走っている道路が埼玉県道・東京都道55号 所沢武蔵村山立川線




現在残っているのは、第1号土塁の一部 第2号土塁 第3号土塁のようです




土塁が現存する辺りが城の中心部であったようです




山口文化財案内図
全部散策できれば良いのでしょうがそうも行きませんので興味ある場所のみを散策しましょう(後日になりますが)




第1号土塁を北側から




第1号土塁を西側から




第2号土塁を北西側から




第2号土塁を北側から




第3号土塁を北側から




第3号土塁を北東側から




第3号土塁を東側から




第2号土塁を南西側から




山口城跡から東へ2km弱行った所にある山口氏の菩提寺として創建されると伝えられる瑞岩寺




山門と山号「祥雲山」の扁額




門前にある瑞岩寺の指定文化財の説明板   山口氏の墓搭についての説明もあります




山門をくぐると大きな石灯篭が一対  その先に本堂が
この石灯篭は例の石灯篭です・・・そう、徳川将軍家の墓所である増上寺にあったもの。




本堂に掲げられた寺号「瑞岩禅寺」の扁額
寺紋は曹洞宗の宗紋(大本山総持寺)である五七の桐紋




六地蔵尊  これが目的ではないのですがいつものお約束事ですので




鐘楼




覆屋の中の山口氏の墓搭3基  
これが目的で瑞岩寺を訪ねたわけで、この写真だけでも良かったのですが折角ですから他の写真も載せた次第です。



確かに3基には間違いありませんが・・・ちょっと考えてしまいます。

山口城跡の訪問は今回が2回目でしたし、内容も前回と変わり映えしませんが、
ここしばらくの間、武蔵七党の関係個所、特に村山党関係の城館跡を散策してきたものの、山口城跡だけが数年前(平成24年
(2012)1月15日(日))の訪問でしたので再度の散策となりました。

再散策日:平成30年(2018)8月19日(日)

大井氏館(埼玉県ふじみ野市)

2018年09月13日 | 100名城以外の城館跡


城 名:大井氏館(おおいしやかた)
別 名:―
形 態:館
時 期:平安時代末期~鎌倉時代初期?
築城主:大井家綱?
城 主:大井氏
遺 構:―
指 定:―
現 状:宅地
所在地:埼玉県ふじみ野市大井(元入間郡大井町大井)

大井氏は、武蔵七党のひとつ村山党の祖である村山(平)頼任の孫の家綱が武蔵国入間郡大井に在し大井氏を名乗ったのが始ま
りとされるようです。大井氏の居館は苗字の地であるこの大井に築かれていたようですが今一つ場所がはっきりしません。




国道254号線(川越街道)沿いにある特性寺  この徳性寺を含む東側一帯が館跡の推定地とされるようです




山道脇に設けられた徳性寺の説明板  残念ながら大井氏・館跡に関する記述はありません




もう一つの説明板にもやはり大井氏に関する記述はありません




川越市の南院(廃寺)或いは川越城から移築されたともいわれる山門  大井氏館跡とは関係ない建物ではありますが・・・
川越市に 北院(喜多院)・中院・南院 と並んでいたわけで 廃寺となったその南院のことですね。




本堂




寺号「徳性寺」の扁額  ガラス戸にある紋は天台宗の宗紋で菊花を基調にした「三諦星」紋




板碑群   これら板碑が大井氏と結びつくかどうかは不明ですが




弘安の板碑    鎌倉街道と伝えられる古道に面した「坂上の石塔畑」(東台)から出土したそうです




国道254号線を横切って東に少し行った場所にある「大井戸」
残念ながら説明板の文字が褪色していてよく読めません




大井の地名の由来となった「大井戸」(復元)




大井弁天の森

他にも何か所か確認しておきたかった場所がありましたが、宅地化が進んでいたため見つけられませんでした。
まあ、こn辺りに大井氏の居館があったということだけで満足しておきましょう。

散策日:平成30年(2018)8月19日(日)

勝呂氏館(埼玉県坂戸市)

2018年09月10日 | 100名城以外の城館跡


城 名:勝呂氏館(すぐろしやかた)
別 名:勝呂豊前守館・勝呂屋敷 
形 態:居館
時 期:平安時代末期
築城主:不明
城 主:伝勝呂豊前守(永禄年間)
遺 構:―
指 定:―
現 状:宅地
所在地:埼玉県坂戸市石井1905番地 宗福寺近辺

勝呂氏館は、宗福寺近辺地域が永禄年間(1558~70)の頃、後北条氏の家臣であった勝呂豊前守の居館跡と伝わる。勝呂(勝、
須黒とも)氏は、武蔵七党のひとつ村山党に属し、勝呂に住し、「吾妻鏡」にみえる恒高、その子頼高は承久の乱(承久3年・
1221)で討死している。豊前守はその子孫で後北条氏没落後は上総国久留里藩の里見家に仕えたという。(「埼玉の館城跡」)




県道256号線(川越片柳線)の「石井下宿交差点」の手前に「宗福寺」の寺号標が建つ入口があります。
電柱の後ろに見える屋根が保育園で、左側の建物が宗福寺ですが、この辺りが館跡のようです。




宗福寺本堂




境内にある板石塔婆




板石塔婆の説明板  ・・宗福寺は平安末期以来このちを領した勝氏の館跡に隣接して・・ とあります
かつては付近に堀跡や土塁といった遺構があったようですが宅地化に伴い消滅しているようです




坂戸市塚越に所在する「西光寺」
勝呂氏館とは直接関係ないのですが、「勝」の銘が入った宝篋印塔があるとのことで足を延ばしてみました。




門前にある西光寺の説明板  末尾に宝篋印塔のことが記されています




折角ですから西光寺本堂の写真を




本堂裏にある墓地の中の住職歴代の墓所の中にある宝篋印塔

実は、勝呂氏館跡として同じ坂戸市石井地内にある「大智寺」も推定地になっています。そのため大智寺の方を「勝呂氏館」と
呼び、宗福寺の方を「勝呂豊前守館」と称している方もおられ中々複雑です。一応、大智寺についても散策はしてあります。

散策日:平成30年(2018)8月19日(日)

仙波氏館(埼玉県川越市)

2018年09月07日 | 100名城以外の城館跡


城 名:仙波氏館(せんばしやかた)
別 名:―
形 態:館
時 期:平安時代末期?
築城主:仙波氏(仙波七郎家信)
城 主:仙波氏
遺 構:―
指 定:市指定史跡(昭和33年〔1958〕3月6日指定)
現 状:長徳寺
所在地:埼玉県川越市仙波町3丁目31―23(長徳寺)

仙波氏は、平高望を祖とする桓武平氏の流れを汲んだ武蔵七党のひとつ村山党の庶流です。村岡五郎(平良文)の5代目平頼任
が現在の東京都東村山市付近に在し、村山氏(村山頼任)を称した。その子・頼家の子息は入間郡各地に分散し、大井・宮寺・
金子を称した。そのうちの一人村山家継は埼玉県所沢市山口に城を構えた。その子・家信が川越市仙波に居館を構えて仙波七郎
と称し(仙波氏の祖)、その南部一帯に広域な荘園を構えた。そんな仙波氏館跡と推定される長楽寺を訪ねてみました。
異説によると仙波氏館は喜多院のある場所にあったのではないかとも・・・




長徳寺南側は坂道です。下っていくと国道16号線に突き当たります。




長徳寺山門付近  坂の下に見えるのが観音堂




川越市教育委員会による「市指定・史跡 仙波氏館跡」説明板
天台宗の末寺とだけありますが、仙波喜多院末ですね。
”境内に、もと若干の土塁と堀があったといわれ”あるとは書かれていません。あったといわれ、とあるだけで、実際土塁も
堀も見当たりませんでした。




山門前に建てられている「川越市指定史跡 仙波氏館跡」の標柱
右側面に 昭和三十三年三月六日指定 と大きく書かれています




山門を別角度から




山門から本堂を




山号「冷水山」と揮毫されたの扁額




本堂




寺号「長徳寺」と揮毫された扁額
出入り口ガラス戸のガラスに入っている「丸に竪三引き両紋」  長徳寺の寺紋でしょう
この丸に竪三引き両紋が仙波氏の家紋であったかどうかについて調べてみましたが結論は出ませんでした。しかし、仙波氏と
同じく平良文を祖とする三浦氏の家紋は丸に三つ引き両紋(三浦三つ引両)です。竪横の違いはありますが、仙波氏の属する
村山党は、三浦氏を敵として戦った(衣笠城合戦)仲とは言え、同じ平良文の後裔と考えれば、丸に竪三引き両紋が仙波氏の
家紋であったことは十分に考えられます。




大棟鬼飾りにも当然ながら丸に竪三引き両紋




境内から見る長徳寺観音堂の相輪




「稚児(いもっこ)観音」 左手にサツマイモを持っています 
川越名物の芋にかけてかと思ったのですが、稚児観音というのがあるようです。芋を持っているのは洒落かも知れませんが。




多層塔  別に意味はないのですが境内の一風景ということで




山門の内側に建立されている石灯篭
徳川家の菩提寺増上寺の有章院(第7代将軍 家継)の霊廟に地方の大名から献上されたものですが、どういうわけかここにも。
その理由については、過去記事「金子十郎家忠館」で簡単な説明をしてあります。




長徳寺観音堂(川越観音)




長徳寺本堂よりも低地にあることが分ります




この観音堂の前にも増上寺の有章院(第7代将軍家継)の霊廟に献上された石灯篭がありますが、献上した大名は山門内側の物
とは異なります
徳川氏とは無関係のお寺に何故三つ葉葵が入った石灯篭があるのか最初は不思議だったのですが、事情を知って納得。
しかし、よそのお寺(増上寺)に寄進されたものを移築してもと思いますが、やはり三つ葉葵に惹かれるのでしょうか?




観音堂前から本堂方向を
仙波氏館(長徳寺)が台地の上に築かれていたことがわかります




川越まつりで曳き廻される地元仙波町の山車   人形は、仙波七郎家信の二子・仙波二郎安家です。
仙波二郎安家は、元暦2年(1185)に源頼朝が相模の勝長寿院へ落慶供養のための参詣した際と、建久元年(1190)の頼朝上
洛の際に随兵に選ばれています。

今回も遺構がないことから仙波氏館とは直接には関係ないことばかりになってしまいました。
暑い中、川越駅から徒歩で往復しましたが、皆さんが書いている目安の時間よりだいぶかかってしまいました。

散策日:平成30年(2018)7月8日(日)

村岡氏館(埼玉県熊谷市)

2018年09月04日 | 100名城以外の城館跡


桓武天皇の流れを汲み、坂東八平氏の祖である村岡五郎(平良文)の居館があったと言われる熊谷市村岡を訪ねてみました。
坂東八平氏とは坂東に散らばった良文の子孫で、千葉・上総・三浦・土居・秩父・大庭・梶原・長尾の各氏であり、この八平
氏は更に庶流が発生していく。
また、良文の数代あとの平頼任は武蔵国多摩郡村山郷に住み村山氏を称し武蔵七党のひとつ村山党のいわば本家となり、その
子孫に金子氏、宮寺氏、山口氏、仙波氏などがある。
『今昔物語集』には源宛と平良文の一騎討ちの説話が収められている。これは有名な説話のようですが詳細は省きます。




「有形民俗文化財 茶臼塚板碑塔婆」標柱
板碑塔婆は、村岡五郎がこの地に館を構えた時代よりだいぶ後の物であるが、この板碑が発見になった茶臼塚は村岡忠通の墓
と伝えられる




村岡の歴史と茶臼塚の説明板




茶臼塚板碑塔婆




熊谷市教育委員会による茶臼塚板碑塔婆説明板




板碑の周りには色々な石造物が集められています
これは何の碑でしょうか?全く読めません




馬頭尊など いずれも村岡五郎・館とは無関係でしょうが折角こうして集められていますので




老朽化のために解体された観音堂に代わって新たに建てられたという村岡集会場
観音堂に代わるものだけあって方形造りの屋根に露盤・宝珠が載っています




村岡集会場から少し離れたところの風景 ここぞ村岡で~す
観音堂(村岡集会場)付近も村岡氏館のあった場所ではないかと推定(根拠はありませんが)されるようですが、更にもうひ
とつの推定地(やはり根拠はありませんが)に




高雲寺  参道入口にある大きく立派な寺号標もこれでは台無しです
この高雲寺の場所が村岡氏館のあった場所ではないかとも言われています




敢えて写真には入れませんでしたが、この右手の方には大きなマンションが建ったり等で住宅地になっており、仮に遺構が残
っていたとしても今は消滅しているでしょう。




高雲寺本堂




山号「湖東山」の扁額

残念ながら高雲寺の縁起等を示す説明板の類はありませんでした。無論、村岡氏・館と関わりがあったのかなかったのかさ
えも分りません。分ることは曹洞宗の寺院であるということだけです。

ただ一つだけ面白い発見がありました。ただの偶然かもしれませんがこの高雲寺の住職さんのお名前が「村山」さんなんで
す。
村山といえば武蔵七党のひとつ「村山党」ですが、村山党とは冒頭でも記したように、村岡五郎(平良文)の後裔である平
頼任が武蔵国多摩郡村山郷に居して村山氏(村山頼任)を名乗ったのが始まりです。
村岡氏館跡と思われる高雲寺の住職さんが村岡五郎の後裔と同じ「村山」。ただの偶然だとしても奇遇ですね(え!偶然で
はなく実際に村山氏の後裔だったりして)




参道入口前にはこのような水路があります。これを館があった時代の堀跡と考える人もあるかもしれません(そう考えた方
が夢がありますからね)
でも、ひねくれ者の私は後世の農業用水路としか考えません。

散策日:平成30年(2018)7月12日(木)

村山城(東京都瑞穂町)

2018年09月01日 | 100名城以外の城館跡


城 名:村山城(むらやまじょう)
別 名:村山氏館
形 態:丘城
時 期:不明
築城主:村山土佐守義光
城 主:村山氏
遺 構:曲輪?
指 定:―
現 状:福正寺
所在地:東京都西多摩郡瑞穂町殿ヶ谷

狭山丘陵の突端の台地に福正寺という寺院が建っていますが、この福正寺が建つ台地が戦国期の村山土佐守時代の「村山城」
跡の推定地とされます。殿ケ谷という地名が残っていることからしても、この地域に居館があったことは確かなようです。
村山党(氏)は、武蔵七党のひとつで、平頼任が村山郷に住み村山氏を名乗ったのが始まりとされ、庶流に金子氏・宮寺氏・
山口氏・仙波氏などがあります。
村山土佐守義光は中世豪族としての村山氏最後の人物で、戦国時代は関東管領上杉氏の重臣大石氏に従い、大石氏が北条傘下
に入ると村山氏も北条氏照に従いましたが、天正18年(1590)北条氏が滅亡するとともに勢力を失い帰農したと言われます。
この村山土佐守義光にあっては、惣領家である村山氏の嫡流ではなく、金子氏の流れを汲む人物であったとも言われるようで
すが、いずれにせよ文献はなく伝承の域を出ません。ただ、村山氏の一族・後裔であることは確かでしょう。




参道入口に設けられている福正寺の境内図と由緒の案内板
村山城あるいは村山氏館に関する記載はなく、境内図の中に村山土佐守墓の位置が示されているだけです。




総門




総門に掲げられた山号「金龍山」の扁額




山門  扁額の「普照」は開山した普照大光国師から




多聞天  正面からはガラスが反射して撮れませんでしたので横から




増長天  こちらはどうにか正面からでも撮れましたので
 



鐘楼  天井絵があったのに気付いたのはこの記事編集中 




法堂  
この法堂のある辺りが腰郭跡ではないかとも言われますし、主郭跡とも言われるようですが・・・




寺号「福正寺」の扁額




町指定天然記念物 樹齢約700年の多羅葉樹   山際に並んでいるのは十六羅漢




開山堂(大光殿)  福正寺を開山した普照大光国師が祀られている




鎮守弁財天




伝 村山土佐守一族墓  伝としてあるところや村山一族でなく村山土佐守一族としてあるのは何か意味あって?
小さな墓所ですし、標識も説明板もありませんので広い撥の中を探し回ってしまいました。

この村山土佐守一族墓を含む墓所一帯は福正寺の一番高所にあり、主郭跡ではと言われます。




中央の五輪塔が村山土佐守の墓でしょうか?




ミニ五重塔




何故ミニ五重塔が建立されているのかはこの説明板に




観音堂 参道入口の境内図に書かれている「円通殿」です。
向拝に架かっている額には「選佛場」とあります  すなわち座禅堂です




福正寺観音堂の説明板
観音堂の南側に幼稚園がありますが、ここも城跡の一部だったようです。




福正寺から東方へ200m程行ったところにある玉林寺公園
かつてここに玉林寺という寺院があったようですが、元文年間(1736-1740)に立川氏に移転しています。臨済宗建長寺派の寺
院で普済寺の末寺とされています。
そうです。普済寺とは立川氏館の普済寺のことです。




玉林寺公園の道向いにある公園(玉林寺公園の一部か)に建つ「村山土佐守」の銅像
武将の銅像というとどうしても甲冑姿や狩装束姿の銅像を思い浮かべてしまいますが、この銅像は普請の現場で指図している
ような風体の銅像です。何故こうした姿の銅像にしたのか興味あるところです。




銅像の脇に建つ説明板  判読できそうなので転記は省きます(手抜きです)




銅像台座の右側に嵌められいる説明板
雨が降る中、あんな狭い所で全体が入った写真を撮るのは大変でした(何枚失敗したことか)
苦労の末撮った写真、何とか判読できそうなのでこちらも転記は省略します。




皆さん 村山土佐守の銅像の写真を撮っても笠の陰で顔が見えないと言ってます。正面から見ると確かに見えないですね。
ということで、お顔が見えるような写真をと頑張ってみました。ストロボを焚いたのは良いのですが、雨で銅像が濡れていた
ためにテカテカの写真になってしまいましたので画像処理を施して何とか・・・

散策日:平成30年(2018)6月23日(土)