四季・めぐりめぐりて

近隣の城館跡・古墳などの史跡めぐりなどをぼちぼちながらやっています

大阪城(大阪府大阪市)

2014年08月22日 | 日本100名城
■ 国指定特別史跡 大阪城跡



大阪城(明治以前は大坂城)は、水運の利に恵まれた上町台地に豊臣秀吉が天下取りの拠点とすべく、天正11年(1583)に築城を開始。
これが豊臣大阪城である。天正13年(1585)には五重八階、黒漆塗の下見板と金箔瓦、金の飾り金具をつけた豪華な 望楼型天守を完成させ、
これによって秀吉は天下人の権威を欲しいままに示した。しかし、慶長20年(1615)の大阪夏の陣で、 豊臣大阪城は天守もろともに炎上
してしまった。その後、徳川秀忠は徳川への政権交代を天下に知らしめるために、豊臣大阪城の縄張りの 上に盛土をし、石垣を新たに積み直して
城を築いた。そして秀吉の天守を上回る規模で白総塗漆籠の徳川大阪城天守が寛永3年(1626) に完成した。しかしこの天守も寛文5年
(1665)に焼失。以来昭和6年(1931)に復興されるまで天守は存在しなかった。なお、 この3代目天守は豊臣大阪城天守を模して、
徳川大阪城の天守台の上に建てられている。 (「日本100名城公式ガイドブック」から引用)




大阪城攻城は2回目でした。とは言っても、初回は10数年も前の話で、出張の合間に天守の最上段まで上がって帰ってきただけのことでした。
今回は、城や城跡にも若干の興味を持つようになってきていましたから、天守だけでなく、広範囲に櫓や門等も観て歩きたいと時間には余裕を
もって計画しました。しかしながら、猛暑であるうえに、前日の晩遅くまでよさこい見学していたこともあり、大分疲れていて、
大坂城公園駅から天守に行くだけで精一杯の思いでした。 (昨年も同じ日に、やはり猛暑の中を姫路城見学に行きましたが) 




「青屋門」から入り




「極楽橋」を渡り




「極楽橋」の上から濠と石垣を




途中、「豊臣秀頼 淀君ら自刃の地」がありましたので、一寸寄って




天守前まで来たものの、天守入場券購入者の長い列。
私も列に並んでようやく入場券を購入したものの、今度は階上へのエレベーター待ちの列に並ぶ。
エレベーターを利用しなくも上がれるのですが、エレベーターと階段で最上階へ。
階ごとに展示品などがあるのですが、ほとんど目もくれずに最上階まで行って降りてきただけでした。
人が多いことと、鉄筋コンクリートの天守内部というのは好きでなく、名古屋城もしかり、小田原城も岡山城もほんとに入って出てきただけでしたから。
結局、模擬天守に上がっただけで、濠の周りを廻ったり、櫓を観たりすることなく終えてしまい、全く何しに行ったか分からない大坂城攻城でした。

攻城日:2014年(平成26年)8月13日(水)           

金山城再攻城(群馬県太田市)

2014年05月02日 | 日本100名城
■ 国指定史跡 金山城跡



金山城は標高235.8mの金山山頂に新田氏の後裔岩松家純が文明元年(1469)に築城した。
享禄元年81528)、岩松氏の家臣の由良(横瀬)氏が実権を握り城主となった。
武田氏や上杉氏、後北条氏などに攻められたが、そのたびに撃退して堅城ぶりを証明した。
城は実城・西城・北城、八王子山ノ砦などからなり、東西3.1km、南北3.8kmにも及ぶ。
発掘調査を基に大手虎口や石敷きの城道、石垣や土塀などが復元整備された。         
                    (「日本100名城公式ガイドブック」から引用) 






群馬県太田市にある「金山城跡」を初めて攻めたのは3年半強前のことでした。
それ以降、何度が近くを通り、再攻城の機会があったものの、時間等の関係から実行できずにいましたが、昨2日、再攻城してきました。
とはいえ、本丸跡まで往復しただけのことですが。






本来なら、写真説明や解説を入れるべきなのでしょうが、多くの方が詳しい説明等をしておりますので、何枚かの写真のみでご勘弁ください。






























石垣の城跡であることから、この金山城も、今話題の「天空の城」になるのではないかといったようなことを城跡見学に来た方が言っていたと、
観光ボランティアの方が話してくれましたが、まあ、それは無理でしょう。竹田城や備中松山城などとは条件が違いますから・・・
ボランティアの方も、そうお答えしたとのことでした

攻城日:2014年(平成26年)5月2日(金)           

小田原城再訪(神奈川県小田原市)

2013年11月18日 | 日本100名城
■ 国指定史跡 小田原城跡



小田原駅東口2Fから望む小田原城天守

初期の小田原城は、15世紀中ごろに大森氏が築いたと考えられる。城の存在がはっきりするのは明応4年(1495)に北条早雲が入城してからである。
後北条氏の拠点となった小田原城は、上杉謙信や武田信玄の侵攻も退けた難攻不落の城であった。その後、豊臣秀吉の来襲にそなえて、城下町をも含む全周
9kmの大規模な総構が構築された。しかし城は秀吉軍の大包囲によって開城し、徳川の譜代大名大久保忠世・忠隣によって近世城郭として整備された。
明治に入り小田原城の建物はほとんど解体されたが、その後一部の建物が再建された。なお、現在の天守は昭和35年(1960)に再建されたものである。
                                             (「日本100名城公式ガイドブック」より引用)  
小田原城を3年振りに再訪してみました(厳密には再々訪)




「学橋」
元々この橋は存在しなかったようですが、城跡内に学校が出来た際に架けられた橋という話を地元の方からお聞きしました。




常盤木橋(復元)




常盤木門(再建)   本丸の表門にあたる








天守(外観復元)




住吉橋(再建)






銅門(あかがねもん・再建)




馬出門(再建)




二の丸隅櫓(再建)




学橋から二の丸隅櫓、馬出門を   
 
現在の小田原城の建物はすべて再建(復元)されたものです。




小田原駅西口広場に建立されている「北条早雲公像」




北条氏政・氏照の墓所
小田原駅の近くにありました。

攻城日:2013年(平成25年)11月11日(月)           

「上田城」再々訪(長野県上田市)

2013年10月10日 | 日本100名城
■ 国指定史跡 上田城跡



長野県上田市の「上田城」を再々訪してきました。再々訪と言っても2度目の時は、100名城のスタンプを押すために寄ったという程度でしたし、
今回は、ツアーでの訪城でしたので十分な散策とはいきませんでした。ツアーですので、本来なら皆さんと一緒に観光ガイドの方の後をついて行って
説明を聞きながらと言うことになります。しかし、個人的に観たいところがあったものですから、特別にお願いして途中から別行動を取らせていただきました。




二の丸堀跡  かつては電車の線路として使われましたが、現在は遊歩道となっています




上田城 南櫓・北櫓・東虎口櫓門




東虎口櫓門




真田石   東虎口櫓門右手の石垣にある高さ約2.5m・幅約3mの大石
真田信之(信幸)が松代城移封にあたり父・真田昌幸の形見として持っていこうとしたところ、微動だにしなかったという言い伝えが残る




本丸堀




東虎口櫓門を内側(本丸側)から




北櫓




南櫓・北櫓・櫓門内部見学のため南櫓の石段を上って
別行動を取らせていただいた理由はここにありました
市立博物館等も観覧できる共通券でしたが時間の関係でここのみのけんがくとなりました




南櫓内




東虎口櫓門窓から




真田氏が上田城に居城したのは僅か40年で、仙石氏・松平氏の居城年数より遥かに少ないにも拘らず、上田城と言えば真田氏の代名詞
しかも、真田氏が築いた城は破壊され、今あるのは仙石氏が築いたもの・・・それでもやっぱり上田城は真田氏の城として通っています




北櫓




石落とし




真田神社




真田井戸




西櫓




西櫓を別角度から

と言うことで、今回は郭跡の散策はできませんでした。

攻城日:2013年(平成25年)10月9日(水)          

「小諸城」再び(長野県小諸市)

2013年10月09日 | 日本100名城


三の門

小諸城の起りは、平安時代から鎌倉時代にかけて「源平盛衰記」や「平家物語」に登場する小室太郎光兼(木曽義仲の武将)が、現城址の東側に館を築いた。
またその後、大井光忠が小室氏の勢力をおさえて鍋蓋城を築きその子光為がさらに出城として乙女城、別名白鶴城(二の丸跡)を構えたが、武田信玄の攻略により落城。
信玄はこの地が重要であることから山本勘助と馬場信房に命じて築城した。”酔月城”ともいわれている。

その後、織田信長の将滝川一益、徳川家康の将松平源十郎康国が城主になった。さらにその後、仙石秀久が城主となって二の丸・黒門・大手門を建て、その子忠政が
三の門・足柄門を建て現在の小諸城が完成した。その後、城主は徳川・松平氏など六氏に変り、元禄15年(1702年)、牧野氏が入り十代続いた。
この城の特徴は、全国的にも珍しい城下町より低い穴城で、浅間山の火山灰でできているため、水を用いず、崩れやすい断崖が堅固な要塞となっている。
明治4年(1871年)の廃藩置県で役割を終え、明治13年(1880年)に神社を祀り、懐古園と呼ぶようになった。
現在は小諸公園として小諸市が管理運営をしている。            (懐古園パンフレットから引用転記)

今回が2度目となった小諸城の攻城(見学)。とは言え、ツアーでの見学でしたから時間に制限がありましたので、前回、見て来ようと向かったものの途中で引き返してしまった
「大手門」(小諸城址=懐古園とは別の場所に移築されている)を是非とも見ておきたかったものですから、前回見た城跡よりも重きを置いて・・・




二の丸跡




北の丸跡




南丸跡




黒門橋




紅葉谷(空堀)




お駕籠台跡




本丸跡




本殿




庭園




山本勘助の鏡石




石垣




天守台石垣




馬場跡




水の手展望台からの千曲川




中仕切門跡




番所跡




大手門




大手門の説明板




大手門を内側から

攻城日:2013年10月9日(水)          

岡山城(岡山県岡山市)

2013年09月13日 | 日本100名城
■ 国指定史跡 岡山城跡



岡山城は、旭川の西方の丘陵を城地とする平山城として築かれた。この地には元々、金光氏の居城があったが、元亀元年(1570)、宇喜多直家が略奪した。
その子の秀家は慶長2年(1597)に、豊臣政権の有力大名にふさわしい城にすべく大改修し、金箔瓦を使用し五重六階の複雑な構造をもつ前期望楼型の天守を築いた。
天守の外壁には黒い下見板が張られ、その色から「烏城」の別名がつけられた。関ヶ原の戦い後に入った小早川秀秋や池田氏によって城の拡張整備が続けられ、
縄張が完成をみた。天守は昭和20年(1945)の空襲で焼失し、昭和41年(1966)再建された。   (「日本100名城公式ガイドブック」より引用)   
  



年に1度の高知入りの際に、ここ岡山駅で列車を乗り換えています。岡山駅からそれほど遠くない所に「岡山城」があることは知っていましたから、行きの際
あるいは帰路の際に訪城する気になればできました。しかし、行程の時間の都合から、「ついでだから寄っていく」といったことはできずにいました。
今年は、予めその時間がとれるような計画を立て、ここ岡山市で1泊して翌朝高知入りすることにした次第でした。

とは言え、ホテルにチェックインしたのが夕刻でしたから、早足で岡山城に向かい入館可能な午後5時をほんの数分前に天守に。
天守内部と言っても、鉄筋コンクリートで再建したものですからたいした興味もありませんでしたし、展示物の撮影も禁止されておりましたので、
100名城スタンプを押印して早々に退館。(5時前に入館したかったの目的はこれだったものですから)  








岡山城天守
冒頭の引用文どおり、昭和20年(1940)6月、空襲により焼失。昭和41年(1966)に鉄筋コンクリートで外観復元された




礎石
焼失した天守を鉄筋コンクリートで元の場所に再建したため、礎石を移し、元の通りに配置




不明門(あかずのもん)
明治の廃城後に取り壊され、昭和41年に鉄筋コンクリートで再建されたもの




月見櫓(国指定重要文化財)
岡山城本丸内で戦火を免れた唯一の建物 




廊下門
昭和41年に鉄筋コンクリートで外観復元




六十一雁木(がんぎ)上門
昭和41年に再建されたもの




六十一雁木門横の石塁
関ヶ原合戦後の池田氏が下の段を大がかりに整備した時に築かれた石塁である。
 板状の大石を立てて組み込んだ部分が特徴的である。
 石塁の先の上端から本段石垣の中位に櫓門が架けられていた。
     (説明板に書かれていた文面)  




岡山後楽園の園内から見た岡山城

足早に見た岡山城でした・・・     

攻城日:2013年(平成25年)8月7日(水)           

甲府城の鉄門(山梨・甲府市)

2013年04月10日 | 日本100名城


昨夏の信玄公祭りのときは工事中であった甲府城の「鉄門(くろがねもん)」の復元整備が終了し、本年(2013年)1月10日から一般公開されておりましたので見学してきました

【 甲府城の鉄門の歴史 】
甲府城跡は、豊臣秀吉の命により文禄・慶長年間(1590年代)に築城された城郭です。城内に残る築城当時の野面積み石垣は、
全国的に見ても文化財的価値が高く評価されるものです。しかし、歴史的建造物は明治初年の廃城後に取り壊されてしまいました。
鉄門は、本丸と天守曲輪の境に建てられていた櫓門です。創建は、礎石に確認できる甲府城築城期の矢穴や江戸初期に描かれた
絵図から、築城当時から存在していたと考えられます。名称については、柳沢文庫所蔵『楽只堂年録』に「元ハ南門」とあり、
宝永2年に柳沢氏が実施した城内の建物・曲輪の名称変更によって「鉄門」となったことがわかっています。
享保12年の甲府大火において焼失を免れた鉄門は、屋根瓦の葺き替えなどはおこなっているものの、大きな修理をおこなった記録は
確認されていないことから創建時の姿を明治初年まで保っていたと考えれます。また、明治初年頃の古写真にも2階の切妻部が写っており、
その存在を確認することができます。今回、廃城から約140余年の時を経て、鉄門が復元整備されました。
                                 (パンフレット「よみがえる鉄門」から抜粋)  






表(外側)から   










内側(城内)から




2階部の櫓入り口




櫓内部 




天守台から見下ろした鉄門




市中(宿泊したホテル)から望む鉄門 

散策日:2013年(平成25年)4月6日(土)           

東京散歩 江戸城跡

2013年03月19日 | 日本100名城
■ 国指定特別史跡 江戸城跡



東京駅から皇居のある方向に歩みを進めました。言うまでもなく江戸城散策のためです。
とは言え、散策時間に制約がりましたから、前回の攻城で見落とした中から2か所ほどをと予定しました。
前方に「富士見櫓」が見えてきました。徳川時代、家康、秀忠、家光と三代の将軍が天守を建てたそうですが、
これらが焼失後は、この富士見櫓が天守の役割を果たしていたとの話です。




内堀通りと行幸通りが交わるあたりからアップで撮ってみました
以前、濠の傍から見たときは、近すぎて樹木が邪魔をし、これほどよくは見えませんでした  




和田倉噴水公園から、富士見櫓と巽櫓の両方が見えましたので、噴水が上がるのを待って撮ってみました




皇居前の大芝生広場のクロマツとビル群です
これが徳川時代にあったら富士見櫓に上っても遠くは見えず、櫓の役目を果たせなかったでしょう




二重橋です
手前に見えるのが「正門石橋」で、奥にある橋が「正門鉄橋」です。一般にこの二つの橋を総称して二重橋と言っているようですが、
厳密には、奥のかつて「下乗橋」と言われ、橋桁を支えるため、中途に台があって二重構造になっていたことからこの名がついたということです。  
ここには写り込んでいませんが、日本製品の不買運動をやっているお隣某国の観光客の団体が記念写真を撮っていました。なんとそのカメラは「Canon」ですからねー




ここが今回の目的だったのですが、残念ながら修理中
またしても下調べをしないで出かけた結果です。
そう。「桜田門」です     そこで・・・




隠語で「桜田門」と呼ばれる「警視庁」を・・・  






「楠正成公(楠公)像」です
でも、これは像の背面です  






記文がはめ込まれているこちら側が正面です。これですと楠公の顔は反対側向いておりますが、
皇居に対して顔を背ける失礼だということで、皇居の方に顔を向けて作られたという銅像です。

南北朝時代の武将である楠公の銅像がなぜ皇居外苑に建てられているのでしょう。
当然、江戸城の城主になったとか家康の臣下だったというよなことは時代的にありえません。
簡単に言うと皇室に対する忠臣として知られる楠公の銅像を明治期に住友家が献納し、この場所に据付られたそうです。

散策日:2013年(平成25年)3月17日(日)           

足利氏館-鑁阿寺-(栃木県足利氏)

2012年11月25日 | 日本100名城


足利氏館

館をつくった足利氏は鎌倉幕府の有力御家人で、尊氏のときに室町幕府を開いた。足利氏館の創築者には諸説あるが、足利氏2代目義兼説が有力である。
水堀と土塁に囲まれた方形の館跡は、鎌倉時代の地方武士の館の姿を今に伝える貴重な遺構である。建久7年(1196)、義兼が館内に持仏堂をつくった。
これが鑁阿寺(ばんなじ)という足利氏一門の氏寺となり、現在にいたっている。    (「日本100名城公式ガイドブック 15足利氏館」より引用 ) 




縄張図・・・「大日苑散策マップ」より     

「日本100名城」のひとつに選定されているこの足利氏館跡(鑁阿寺・ばんなじ・国指定史跡)を訪れたのは、2年半前(2010年3月)に続き今回が2度目でした。
今はかつての居館の姿はなく、寺院関連の建物ばかりでありますが、上記解説にもあるように水堀と土塁に囲まれた方形の館跡は、たしかに素晴らしい遺構です。 






太鼓橋(反橋)山門




水堀と太鼓橋  




西門




北門




東門 




本堂  




鐘楼 




不動堂




経堂




足利氏宅跡の看板 




大銀杏




多宝塔   
  
大銀杏をはじめ境内の樹木が見事に色づいていました。そんな大銀杏や楓にレンズを向けている人が多かったです。




足利尊氏公銅像

山門前の石畳通りの一角に建立されている室町幕府初征夷大将軍足利尊氏公の銅像
足利尊氏は、義兼から数えて8代目で、足利氏のふるさとであるこの足利市に居を構えたことはないようですが鑁阿寺にはいろいろと
寄進されていたもようです。、足利氏一門といえば尊氏がその代表的な存在ですから銅像が建てられても何の不思議もありませんが・・・ 

訪館日:2012年(平成24年)11月24日(土)            

金沢城(石川県金沢市)

2012年11月21日 | 日本100名城


金沢城

金沢城は天正8年(1580)、加賀一向一揆の拠点であった金沢御堂を織田信長軍の佐久間盛政が陥落させ、そこに城を築いたことに始まる。
天正11年(1583)、前田利家が加賀に入封して犀川と浅野川にはさまれた小立野台地上の金沢城を加賀支配の拠点とすべく近代城郭へと改修した。
基本的な縄張りを行ったのはキリシタン大名の高山右近といわれる。天守は慶長7年(1602)の落雷により焼失。残念ながらその姿については記録が
なく不明である。名城の姿を壮美にするために取り入れたといわれる鉛瓦や海鼠壁、唐破風付出窓や二重二階の多聞櫓なども、加賀百万石の
居城にふさわしい格調の高さと美しさを見せている。            (「日本100名城公式ガイドブック 35金沢城」より引用 )




金沢城石垣 




保存修理工事中の「石川門一の門」と「付属太鼓塀」




保存修理工事中の「左方太鼓塀」  

金沢城を攻城するに当たり、現在の状況を調べることもなく出かけましたが、そうしたところ、国指定重要文化財である石川門が50年に1度という保存修理工事中でした。
まあ、一日や二日で終わるような工事ではありませんから、攻城時期を多少ずらして行ったところで状況は同じはありますが。




石川門二の門






復元された「河北門二の門」




同じく復元された「河北門一の門」 




三の丸広場から見た「河北門」 

3年前(2009年10月)に、この金沢城を攻城したときには「河北門」はまだ見ることができませんでした。
復元整備は、2007年11月から始まり、2年半の歳月をかけた2010年4月に完成したとのことです。
つまり、前回私が訪れた時は復元工事中であったわけです。そういえばこの河北門のある辺りは囲いがされていたような記憶が蘇ってきました。






二の丸菱櫓・五十間長屋・橋爪門続櫓・橋爪門一の門(平成13年復元)




菱櫓    




橋爪門二の門と桝形土塀の復元整備工事中 




二の丸  




三十間長屋(国指定重要文化財)




鶴丸倉庫(国指定重要文化財) ・・・  武具土蔵  




丑寅櫓跡  




辰巳櫓跡  




辰巳櫓跡から見た復元された「鯉喉(りこう)櫓台跡」と「いもり堀」




「辰巳櫓跡」と「鯉喉(りこう)櫓台跡」




前田利家公銅像
前回の金沢城攻城の際はお会いできなかった前田利家公(銅像)でしたが、今回はしっかりと会ってきました。
白鳥堀跡に建っていました。  
  
金沢城を攻城することを決めていながら情報収集(下調べ)もせずに出かけたものですから、最初の方でも述べたように、石川門が保存修理工事中であったり、
河北門が復元されていとことさえ知らずにいましたか、行ってみて半分がっがりした反面には儲けものをしたと思いもあります。
まあ、こんないい加減な城攻めですと戦国時代ならとても勝てませんね・・・

攻城日:2012年(平成24年)11月13日(火)