巨人の木村拓也コーチが「くも膜下出血」で倒れて、いろいろ自分でも考えることがあります。
今の状態はどうなんだろう?
無事に社会復帰してほしい、同じ病気した経験者としてそう思ってます。
私が発作起こしたのは平成16年の事でした。
もう古い話ですねぇ。
自分の備忘も兼ねて書いてみます。
発作起こしたその日は、飛行機で仙台から広島に出張する予定でした。
間もなく出発しようと思ったその時に発作は起こったのです。
TV見ながらコーヒー飲んでた時です!
いきなり頭の中で「プシュ」って感じがして次の瞬間、どーんと頭に痛みの波動が起こりました。
家内がいたので、すぐに救急車呼ぶように言ってソファに横になり間もなく意識を失い、呼吸も止まりました。
救急車が来るまで8分位の間、家内は私に声かけながら人工呼吸し、救急車の到着を待ちました。
病院に運び込まれて検査し「くも膜下出血」と診断される。
検査の結果、小脳の後ろの椎骨動脈という太い血管の破裂が認められる。
難しい手術になるようで、すぐにできないと言うことでICUに待機しながら開始を待つ。
→手術開始まで二日間の待機となった。
手術にあたり、成功率は5割以下、最悪を考えていてくださいと言われた。
また、手術成功しても重い後遺症が残ると思われるので覚悟していてくださいと言われた。
手術は8時間で終わる。
手術後、麻酔が切れたら意識が戻ったらしい・・・・。
(本人はまったく記憶が無い・・・)
呼吸器の神経が働いておらず人工呼吸器による呼吸生活を2週間。
途中、ICUから回復室に移動する際、人工呼吸器外し切り替えようとしたらコネクタが合わず、呼吸停止になり一時騒然となる。
自己呼吸は、術後2週間位したらできるようになった。
喉の嚥下(飲食物の咀嚼や飲み込みが困難になる障害)で苦しんだ。
食堂と声帯を司る神経の左半分が麻痺しており、自分のつばも飲み込めなかった。
最高で一日にテッシュ4箱もつばふき取るのに使った。
これから先、どうやって生きていくのか真剣に考えた頃です。
嚥下は術後3ヶ月位経過したら次第に回復してきた。
リハビリの病院に入院していた頃は三部粥でした。
この三部粥って、米の形がほとんど無く糊のようなとろとろの御粥です。
この頃は味噌汁も、粘り気のでる粉末入れて飲んでました。
嚥下障害者に、普通の味噌汁は柔らかすぎて、気管に入ってしまうためです。
今(H22)も少し嚥下障害あるけど、まぁ普通に食べられるようなりました。
声帯の左半分が麻痺しており、発作後8ヶ月経過してから喉を開き、声帯形成手術を行う。
これは、麻痺して弛緩した声帯にシリコンを注入し張りを持たせ、右半分の声帯で発声できるようにするものす。
この手術により、一息で「あ・い・う・え・お」と言えない位にすかすかの状態でかすれ声でしたが、少しはまともに話せるようになりました。
左目がまったく見えなかった。
発作起こし、脳圧あがって左眼球に出血し血の塊がプカプカ浮いてます。
術後、2ヶ月は左目が真っ暗でまったく見えなかった。
私は、この左目がもう見えないんだなと思ってました。
術後半年位経過し、次第に見えるようになってきました。
見えなかったのは、出血して眼球のなかに血液が入り。それで視界がきかなかったのです。
その血液が次第に分解され繊維だけになり見えるようになってきました。
でも! 焦点が合わない!
左目で見る物は、右目の見た物の15度ずれた見え方なのです。
これはきついです、むしろ左目が見えないほうが良いと思いました。
視能訓練士の先生にどうしたら良いんですか?って聞いたけど、見えるように努力してください、とだけ言われました。
方法などはまったく教えてくれませんでした(見えるようになる方法が無いんだなって思った。
でも、ある日突然焦点が合うようになったのです。
術後3ヶ月位経過した頃ですかね、目がまともに見えることって本当にありがたいことだと思った。
左目には血液の繊維だけが残っており、よく視界に正面に来るのでじゃまだなーって思ってます。でもね、これを手術するのは抵抗があります。
だって、白目に穴あけて棒で掻き出すんだそうです、しかも目だから穴開けたり掻き出したりするのが見えるんだとか・・・。
気が弱い私は一生この繊維質を眼球に入れたまま一生終えようかと思ったり・・・。
長文になったけど、こんな感じでした。
人間の体って、不思議だなって自分でも思います。
だって、神経の回復が途中で止まったら自分で呼吸もできないし、食事すらできない体になってたからです。
こんな丈夫な(?)体に生んでくれた親に実は感謝してます。
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