行くも死、帰るも死、
止まるも死、
であれば、
死ぬのなら、
殺されて死ぬまいと。
「進もうとした道で
死のうと、
こう決断するんだ。
決断したときに初めて、
その人間はそこで、
そのー、声を聞いたと、
行けという声と、
きたれという声を聞いた。
自分の歩む道の声を聞いた
つまり、
自分の歩む道が、
自分が生きておる間、
自分より狭かったんだけど
自分の歩む道に立って
みたら、その道の方が
大きいんだ。」
本当は深い意味なのですが
簡単なところでは
誰しも経験があるとおもう
のです。
当院の宗良さん
在家から出家されました
いろいろ問題もあり
彼にとってはやはり
行くも死、まして帰れない
止まることもできない
窮まって選び取った道が
出家という道です
ところがいざ
心を決めてみると
傍から見ても
人相が違ってくる
凛とした表情に見えます
彼なりに、
声を聞いたのでしょう
よし、出家して
坊さんの道を歩もうと
周りの励ましもあり
仏の、来たれという
声を聞いたのでしょう。
まあ、大なり小なり
人が心を決めるという
ことは、何かしら
自分を超えた、
かといって、
他の声ではなく、
自分の声を聞くという
経験があるはずです
それがなければ
ものごとは成り立たない
ように思います。
講義は続けて
「行けという二尊の言葉、
二尊ですね。
行けという釈迦仏の言葉と
来れという阿弥陀仏の声と
二つ聞いたというわけです
声というのは、
生きた声です。
これも面白い言葉ですね、
声という表現も。
声なき声と西田先生が
いわれるけど、
それは生きとる声なき声を
聞いたというわけです。
そのときに、
これは何かというと、
これは僕がいいたいのは、
これはアザー(other)。
他、人間以外の他者の声
というんじゃないだろう。
そうすると
これはキリスト教に
なってしまう。
そうするとそれは他律だ。
他律じゃないだろうと
思いますね。
これは自律の声や。
この声に触れて自立する。
自分を破ることによって、
自分が独立するんだ。
そういうような、
自己よりももっと深い
自己ですね。
自己の声を聞くというのは
それなんだ。」
このことも難しい
というか誤解しやすい
ことなんです。
声を聞くというと
どうしても他の者の声
ということになってしまう
ようです
自分の中にある
深い自分の声というもの
ある面では「さとり」とは
自分が自分で自分に頷く
ということだともいいます
誰が何と言おうとも
自分はこれでいいんだと
頑張るのでもなく
静かに、
自分が自分で頷く
講義の中でも
よく先生は、「ええ」とか
「うん」、という言葉を
使われておられます
これは、自分の言葉に
自分が頷いて、また
次の言葉を発せられて
おられるようです。
自分の言葉を一番最初に
聞いているのは
自分ですから、
自分の言葉にまず自分が
頷くという
そういう形で説法が
おこなわれるようです。
そういう形で、
深い自己というものを
感じ取れるようです。