「念」ということが続けて
出てきます
第一節が
道を起こす時一念も
心に捨てないと、
道を捨てない、
行住坐臥さらに寝ている時
一時も捨てない、と
第二説が
常にかくのごとき
相念を離れず、と
信が勝れているという
ことをいっています
第三説が
菩薩、念念の中において
具足する。
何を具足するかといえば
菩薩十波羅蜜を具足すと
経典では
「念念の中において
大悲を以て首と為して
一切仏法を修習し、
皆如来智に廻向するが故
であると」
一念、相念、念念と
念ということが中心です
講義では
「念というのは非常に
大事な字で、
時間に関係するんですけど
何時何分おいうような時間
時間がいわれますが、
仏教ではですね、
二六時中ということが
ここで表してある。
四威儀に住するというのが
『来る時、去る時、
住する時、臥する時、
乃至睡夢においても』
というのは、
これは二十四時間でしょう。
二十四時という時間、
これは生活時間や。
時の単位というようなもの
が念ということに
なるんじゃないですかね。
『一念一刹那も』という。
一刹那というんですね、
一念のことを。
まあ厳密にいうと、
一念と一刹那はちょっと
違うんですけどね。
とにかく、
念にしても一刹那にしても
一番短い時間を表すんです
一念一刹那。
だから一刹那ということで
時間のモーメントという
ものを表すんですけど、
一番短い時間を、
時間の単位を表すんだけど
だから
一念というのは一刹那を
表すともいえるけど、
まあそれでいいんだろう
けど、
しかし一年という時はね、
『ひとおもい』
というような意味で、
やっぱり
事業が完成する
というような意味が
一念にあるんじゃないかと
思うですね。
事業、あることが
そこで完了するという。
『あっと思う間』
ということじゃなしにね。
『なるほど』
というのはこれは、
一つのね、
『あっと思う間』
というのは、これは、
一刹那でしょう。
『なるほどそうだ』
とこういったときには、
はや何刹那か経っとるね。
やっぱりそこに、
何刹那か経って一つの、
完結するんだ。
その完結する場合に
一念というんですね。
だから時というものは
実際、
時というものを
押さえて言えばですね、
念念相続するのであって
ですね、
ひとおもい、ひとおもい
の外に時間はない。
一念の外に時間はない。」
過去現在未来というけど
今の中に
過去からの連続があり
現在の中に
未来を内包している。
その一瞬の中に、
過去現在未来が進行してい
るとも言えるわけです
ですから
ひとおもい、ひとおもい
一念の連続が相続している
それが時間という
ことなのでしょう。
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