自己、やはり自分というのが
人間にとって一番の問題です
お釈迦さまも、また祖師方
にとっても最重要課題だった
のです
仏教は無我ということを
説くのですが
どうしても自分という
おれが俺がという
自分というのもを立てて
しまいます
しかし、ふと気になり
自分探しの旅とかに
出かけたくなります
やはり、若い人にとっても
何となく気になるのは
自分ということでしょう
ここのところを
講義では
「信仰を獲るということは
一つの自己発見なんだ。
それまでは
自己がなかったんや。
だから自己、
自己というけど、
自己とは何ぞやと問うて
みると、
自己はないんです。
我執があるだけだ。
自分の思いを自己だと
思うているだけに話だ。
自己にはならせんのです。
それが苦しんでいるんだ、
あらゆることの縁に
合うことによって。
つまり、
それが理知です。
自分の理知を自分だと
しとるわけです。
一番自分に親切なものだと
しとるんだが、
それが無明です。
自分を傷めているものを、
一番、自分の見方だと
思っているんですから。
自分を苦しめているものが、
であるにもかかわらず、
それが一番自分だと
思っているんですから、
離さんわね。 ええ。
自分の意見だけは。
それほど惚れこんでいるんだ
それは実は、
自分の敵なんだけど
分からん。
そういうものがあるからして、
みんな苦しむんです。
それが破れると。
破れたところに
本当の自己が生まれてくる。
先言った
心身脱落、脱落身心です。
それを信念というのです。
それを見道という。
見道が成立する時、
それがつまり初歓喜地に
住したということになる。
大地ができたんだ。
見道で見出したものが、
見出されたものが、
見道によって見出された
一つの体験というか、
認識が、
見出したものの地になる
わけです。
もう世間には住せないんだ。
その時に生まれた自分、
自分を破って生まれたものが
自分の大地になるんですから
世間に住しないんです。
それ、容易なことじゃあない
ようですけども、
あの偶然に得たようだけど
得てみれば、
それは奇跡じゃないんだ。
それは一大阿僧祇を
経過しとるんだ。
つまりそれだけ
宗教心というものが
成熟してきたんです。」
見道を見出すということも
大事なことなんですが
このことは
どうか分かりませんが、
三浦先生がふと漏らされた
言葉があります
この話聞かなければよかった
一旦聞いてしまうと
もう元の自分には戻れない
本当の話を聞けば
昔の
ええ加減な自分に戻れない、
何気なく聞いていたのですが
やはり
教えを聞くということは
自分を変えていくのです
昔の自分には戻れない
誤魔化しのきかない
自分に変わっていくのです
教えを聞くということは
そういう厳しいものなのだと
その時は感じていたのです。
自分自分と思っているのは
理知の自分であって
それが自分の我執となり
自分を苦しめている
ある面からは
そういう本当のことを
知ってしまうと
我執は破れてもまた、別な
もとの
誤魔化して生きていた
世界に帰れないという
寂しいような面も
あるようです。
と思うのですが
見道どころか迷いの
真っただ中にいる自分には
この方が
いいのかもしれません。
迷いを楽しんでいる
そういう自分があるようです
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