仏教はというとよく
「無」ということを
いうようですが、
無、むー、と
無心という言葉もありますが
何もない、
ということではなく
無だから何ものにもなる
ことができるとも
いえるようです
「仏教では、自然というのは
自然の浄土というのが
あるように、
法性というような
もんだろうと思うですがね。
法性。
無為の法性や。
その無為というけど、
それは
何もないというのではなく、
無限に生産点ですね。
生産するところの用です。
用のない性じゃあないんだ。
無限にはたらくところの
無です。」
こういう言葉は
実践から出てくる言葉です。
頭で考えたら
無というのは何もないと
いうことですが
ほんとに無とならなければ
何事もできない
ということがあります。
話しは違いますが
松下幸之助という人
まあ商売人ですが
小さな算盤は弾かない
算盤を外したところに
本当に大きなものを得た
ということを
聞いたことがあります
普通は損か得かの
小さなそろばんをはじいて
儲けた損したと
一喜一憂しているのです
そういう算盤を外したところ
に大きな算盤を弾くことが
できた。
そこにはそう思って
というより
無になったからこそ
無限の算盤がはじけた
とも言えるのでは
話しは違いましたが
何か似たものを感じるのです
さらに講義は
「仏教でも、
空ということは何かではない
ということは何であるか
というと、
何ものでもあり得る
ということだ。
何かでないということは、
何ものでもあり得ると。
色即是空というのは
空即是色と、
こうすぐくるわけですから。
色即是空という空は
何ものでもない。
だからもう、
何ものでもあると、
こういう具合に出てくる。
あの、空も空にとどまれば
それも、
空もまた空だと、
こういう具合に空空という
こともいいますわね。」
人間は妙な癖があって
何でも固定化したがる癖が
あるようです。
あるけども見ない
でも感じることはできる
そういう心を大切にしてきた
のですが
最近は特にあるといえば
目に見えるものとしてある
目に見えないものはないと
そういう考え方が
横行しているようです
「目にはさやかに見えねども
風の音にぞ
おどろかされぬる」
というような微妙な心は
感じ取りにくいようです。
何でも固定化してみる考えを
否定したのが「空」という
ことでしょう
その固定してみる考え
それをさらに執着して見る
そういう心は普通の心では
否定できないのです
それで「空」という考え方
をもってきたのでしょう。
無ということも
虚無的になるのではなく
無ということが本当に分かれば
それは何ものをも生産する力
となるのでしょう
逆説的には
無とうい立場に立たなければ
何ごとも生み出さない
ということです。
ですから
「無限にはたらくところの
無ですね」
ということが
出てくると思います。
だから非常に実践的な言葉
のように感じました。