出会いは不思議なもので
こんにちわ、さようなら
と、それで終わる人もいます
反対に、一目の出会いが
その人を一生左右するような
出会いもあります。
三浦先生に出会ったのは
ただ、兄がいるということで
宝菩提院に遊びに行った
そこで三浦先生と出会った
その出会いが私の人生の
方向が決まったのです
なぜだろう
三浦先生は外にいる縁にしか
すぎないのですが
私の中に何か知らないけど
求めている因というものが
あったのでしょう
いくら三浦先生は立派なっ人
だから話を聞きなさいと
いわれても、通じない人には
どんな立派な人の話でも
分からないのでしょう
講義では、
善知識の出会いということが
これは他人があの人は善知識
ですよといわれても
その人にとって求めている
ものが違えば善知識には
ならないということが
続いています。
「内から生み出すけれど、
しかしながら、あの、外に、
の、縁を待って、
偶然の縁を待って、それが
善知識になるんであって、
内からあるものあら
初めから善知識はあるんです
初めからあるもんなら
出会いはないんだ。
内から生むけどもやっぱり
外を待って内から。
ちょうど、
鶏の卵を親が育て、
温めるときにですね、
もう卵を抱いた親がですね、
もうだいぶん卵が温まったと
まあ … 中の黄身から
黄身か白身か知らんけど、
ひよこが成長して出てきて、
そして
今これから卵を割って
出ようとする時にですね、
それが純熟というんです、
それで、純粋に成熟したんだ
その時、カチッと嘴でもって
卵を割ってやるんだ。
で、割ってやる時と、
名告りを上げる時が同時だと
打つ時と飛び出す時は同時だ
それがつまり感応道交や。
直感や、一つの。
時間を、時計で計った
わけではないんだ。
そういうようなのが
出会いなんだ。
うーむ。
内から出てくるんだけど、
やっぱり外からつつかれる
ことを待って、出会うんだ。」
啐啄同時(そったくどうじ)
ということをいいます
師と弟子との出会いという
ことをいうのですが
「啐」は
鶏の卵がかえる時、
殻の中で雛がつつく音、
「啄」は母親が殻を外から
つつき破るということ。と
そういうことを言うのです
それは別な表現を取れば
感応道交
(かんのうどうきょう)
感に応じて道に交わる
よく意味も分からず
この言葉にはとても感動した
言葉なんです
仏と人という
こともありますが
師と弟子との出会い
それがピタッと一致する
そういうことがなければ
ものごとは動かないし
そういう出会いによって
すべての物事は動き始める
ように思います。
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