「数数修習」この言葉、
言葉の響きもさることながら
その内容も身に沁みるものです
たぶん、
本蔵院の住職も若かりし頃
この言葉を聞き
自分の指針として
また、自分の歩みを象徴する
ものとして
本蔵院の機関誌を
「数数修習」と
命名されたのでしょう
「方便智殊勝の行を
反復すると、こういう意味。
数修(さくしゅう)と
よくいいますね。
修道、ええ、数習すると。
数数修習するというんです。
数数修習、しばしば修習する
と、それで、
この意味で修道って
いうんです。
この修道は見道に対して
修道といういんですが。
見道に対して修道。
大体いうと、十地の、
『十地経』の経文は、
初歓喜地から法雲地(十地)
まで修道を明らかに
しとるんですけど、
しかしその初歓喜地の中に
見道も含んどるんです。
見道は一念なんだ。
(一念、ここでは一度)
見道は一念によって、
凡夫を超えて菩薩に位づけ
られると。
その見道というものによって
見道と、更に
外から修道を加えるんじゃ
ないですね。
見道というものをしばしば、
見道を何べんも繰り返して
修習するという。
得たものを、
得た見道を何遍も繰り返して
修習するというので、
それを修道という意味なんだ。
見道の上に更に外から
加えてくるというんじゃない
んです。
見道というのは何か、
立場を見出すことなんです。
ある一つの立場、
これまた更に容易なことじゃ
ないんだ。
だから、
見道を確立するために、
三大阿僧祇の一大阿僧祇と
いうものによって
初めて見道に住すると
いわれているんです。」
数数、ということも
漢和辞典にも出ています
スウ、という読み方もあり
たびたび、という意味で、
経典には
「甚深の法義を、数数、
聴聞して間断なし」
とか色々出てきます。
スポーツでもそうですが
基本を繰り返し繰り返し
練習する
そうでないと新しいものは
生まれないようです
それから
見道・修道ということが
出てきますが
三道といって
見道・修道・無学道という
ことがあります
見道は
初めて真理の教えを見た
それが歓喜なのです
ここが、凡夫と聖者の境で
初めて迷いを超えた
それが歓喜、初歓喜地
ということです
歓喜があって
初めて一歩がでるのです
それから繰り返し行うことを
修道です
分かったから一回でいい
というのではなく
その分かったことを繰り返す
無学道というのがありますが
これはもはや
学ぶものが無くなった
すべて学び尽くした
ということです
普通使う「無学」とは
まったく正反対の言葉です
しかし、見道に住するのに
一大阿僧祇もかかると
まあ計り知れないほどの
時間です
人間の一代や二代で完成する
というものではない
と、経典には書いてあります
やはり、無限の修道
それこそ「数数修習」という
修行が何よりも肝心です
子や孫それにひ孫
さらにその先まで続くような
修行の歴史が
人類の歴史でしょう
それほど重いものをもって
生きているというのが
私たちのあり方のようです。
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