熊本県にあるお寺“真言宗 本蔵院 律良のブログ”日々感じるままに活動のご報告や独り言などを書いた日記を公開しています。
仏教には色々な譬喩という
形で教えが説かれています
施身聞偈や捨身飼虎や
月の兎といった物語
その中に
「二河白道」という喩が
あります
二河譬喩とか二河喩とも
いわれています。
「二河というのは
水の河、火の河という、
煩悩のことです。
その二河の中に細い一つの
白い道が貫いていると。
その道の上を絶えず、
水と火が、
水が出てくると火が引っ込む
火が出てくると水が引っ込む
その間がないという。
絶えず水火二河に覆われとる
しかしながら、
そこに細々と白い線がある。
そこを行者が渡っていく
という物語です。
その向こうの方は
何かというと、
西だと、西の岸。
こっちの方は東の岸。
東西に白い線が…。
南北に水火という。
水の河と火の河があると
いうんです。
絶えずそこに、その、
それは何かというと茨の道と
キリスト教でいうでしょう。
茨の道、細い道や。
つまり願生道は茨の道なんだ
大道じゃないんでしょう。
それでなかなか
宗教心というものが、
そこで渡れないんです、
不安で。
大道に見えるなら
渡れるんだけど、
細い一抹の線でしょう。
それに立てないんだ。
それで、
立たなきゃならんと
そこまで来るんだけど、
その道までくると、
渡りかけるというと
後の方から
ちょっとちょっと待った
と声が聞こえてくるんだ。
それが
群賊悪獣が呼び返すという。
危ないところへいくな!
という、その誘惑やね。
たくさんのその誘惑という
のが理知なんだ。
まあそういうけどね、
それはまあ、
ものはね、
何でも命あってのものだね
やと。
仏法も大事やけど
やっぱり食うことも大事や
ないかと、
こういうような、
いかにもうなずくような
ですね、
誘惑が来るわけだ。
無茶苦茶なものなら
誘惑にかかりはせんけど、
そういうのが道理に合うんや
自分が今無茶苦茶やろうと
しているのだから、
そのように見えるんだ。
そういうんだけど、
そこで
その白道を進んで行くと、
白道に立ったら、
立った瞬間に大道に
なっていくんです。
決断ですね。
そういう何か
仏道というものは、
その細い道のように、
こう人間の、
細い道というのは
我々の意識の根底に
流れているという意味です、
我々の意識の。
細いから、
じゃあ忘れるかというと、
気にかかるでしょう。
そりゃ東に帰ってもいいわね
帰ってもいいけど、
帰ってみたものの、
やっぱり何かこう気にかかる
その気にかかり方が
容易じゃあない。
一番大事なものを
忘れているように思うんだ。
小さいところは皆
間に合ったけど、
一番根本的なものを
忘れておる、
それは不安ですわね。
消しがたい不安ですわ。
つまり、
道といったようなものは
一つの不安といったような
気分で現れとるんですよ。
何か気にかかると。
ごまかしがきかんのや。
我々はごまかそうと思うけど
何かごまかしにくいものが
根底に流れている。」
宗教心というけど
何か大きなものではなく
何となく気にかかる
一度話を聞けば
何か忘れられない
そういう不安という形で
私たちに迫ってくる
ものなのでしょう。
何かしらそういう
微かな心を大切にする
ということが
宗教心というものを
深めていくきっかけに
なるのでしょう。
通りすがりのご縁で
お邪魔した書道教室
先日は外観をアップした
のですが、
今回は内部を案内して頂き
ちょっと驚きです
いつもは入ったところの
多分当時はここがお店で
お客の対応をしていた所
ここが今の教室の場所です
奥には蔵があります
その蔵もよく保存されて
いますが、やはり
相当手を入れらているよです
その内部が
素晴らしく生まれ変わって
います
昔あった棚をいろいろな
展示品を並べられるように
美しく整えてあります
それから2階へ上がると
お洒落な明かりに照らされて
何とも品の良い空間が
広がっています
ちょっとした応接セット
またここで
休むことができるように
畳敷きに変えられています
蔵ですからこの大きな梁が
見事です
蔵をここまでされたのは
大変なご苦労というか
費用も掛かったのでは
ないでしょうか
隅にはこういう灯もあり
とてもいい演出です
蔵から向こう側の部屋
ここが事務所になっていて
床暖房完備
町家の冬は冷えるそうです
その蔵と事務所の間には
トイレやシャワー室も完備
扉を開けないと
中がこういうように
なっているとは
全く想像がつきません
外観は全くそのままで
内部は全く近代的な設備が
整い、住みやすい工夫があり
こういう使い方も
あるようです
また別な所では
外観はそのまま生かし
構造自体は作り変え
住みやすいような空間に
作り変えられた町家
京町屋も色々な工夫がなされ
新たにリボーンしている
ようです。
こういうように
工夫していく所に
新たな知恵が
生まれるのでしょう
伝統を維持していく
ということは
そのままではいけないのです
新たな知恵と工夫がなければ
維持できないように思います
「小乗の教学に対して、
大乗の教学があると
こう考えるよりも、
大乗は何か精神というものを
表しているのではないかと
思うんです、仏教のですね。
そこで非常に面白いのは、
この法蔵菩薩というような
こともそうですし、
善財童子というのも
『華厳経』ではありますが、
そのときに、
非常に有力になったのは、
ジャータカですよ。
これは本生譚ホンジョウタン
本生説話という。
まあ、今でいう、童話です。
メルヘンといってもよい。
これが非常に
えらい力になるんだ、
教理よりも。
教理ではもう精神を失うが、
精神を回復するときには
教理の上に教理を重ねると、
屋上屋を重ねたのでは
精神は回復せんのです。
理屈によって精神を
失っているんだから、
かえって
童話といったようなのもが
非常にいい。」
このジャータカというのは
本生説話といって
お釈迦さまの前世の物語です
その説話は500ほどあって
有名なのは
「月のうさぎ」という物語で
狐と猿とウサギが仲良く
暮らしていた
そこに修行者がやってくる。
兎たちは何か施しを
しなければと、
それぞれに何か持ってくる
のですが
ウサギは施すものが何もない
そこで修行者に
火を熾してもらい
私は施すものが何もないので
火の中に飛び込むので
私の肉を食べて下さいと
飛び込んだところに
修行者は帝釈天に変わり
兎を抱きとめます
その功徳をたたえて
須弥山をぎゅっと絞り
その出てきた汁で
月にウサギの姿を描いた
という物語ですが
その兎はお釈迦さまの
前世であったという。
そういう物語です
同じようなことに
やはり聖徳太子も感動され
玉虫厨子の両扉に
施身聞偈セシンモンゲ
という物語と
捨身施虎シャシンシコ
という物語を描かれました。
この物語もジャータカの中に
含まれています
施身聞偈という
教えを聞くために自分の身を
羅刹に施すという
この話は何となく分かる
のですが
もう一つの
捨身施虎という
飢えたお母さん虎に
自分の身を食べさせるという
理解しがたい物語ですが
その身を施した薩埵太子が
お釈迦さまの前世だった
というのです
お釈迦さまがさとりを
開かれたのは
一代の修行くらいではなく
前世から繰り返し繰り返し
修行を積まれた賜物だと
いうことなのです。
施身という
布施の中でも身を施すという
そういうことが
理屈を超えて人びとを
感動させるのでしょう
論とかをいくら重ねても
答えは出るものではなく
本当の仏教精神というものを
伝えるのは
こういう説話、童話が
失っている精神を
回復させるのでしょう。
聖徳太子もこの二つの物語を
描かれたのは
そこに大きな意味があるよう
に思うのです。
久しぶりに部屋に
生け花が入りました
以前は毎週でしたが
教室も遠くなり都合もあって
たまにということで
こうやって花が入ると
いっぺんに部屋が生き生き
してきます
あちこちから眺めて
部屋の雰囲気を楽しみます
そうやって思っていますと
外のアマリリスも
第2回目の
花が出てきたのです
初めてのことなんです
思うに
球根が二つになったのかも?
やはり最初の花とは
勢いが少し違うようです
前回は4つの花が
そろい踏みのように
咲きましたが
今回は少しずつ順番が違う
最後の一輪は
やっと咲いたような
最初の花が枯れる頃
咲き出したのです
でもまあ、
今回は2回にわたって
咲いたことは何よりです
となりの檸檬の木も
また勢いを吹き返したようで
というのも
五条通のベランダは
雨も当たらず
そのうえ排気ガスでしょうか
葉っぱがすすけていたのです
これはいけないと思い
一枚ずつ拭くと
雑巾が真っ黒になります
これは駄目かもと思って
いたのですが
少しずつ息を吹き返し
また花を咲かせ始め
辺りはレモンの独特の
香りが漂い始めています
小さいながら実もつけました
やはり
息苦しかったのでしょう
排気ガスで呼吸ができない
何かしら
無言ですが
勢いをなくしていく
という形で表現している
たまに気をつけて
葉を拭いていきますので
元気にして欲しいと
思っています
こうやって小さな場所でも
花があるということは
なんともいいものです。
京都市平安京創生館
平安京の模型が展示して
あります
先日の法勝寺の九重の塔の
模型が展示してあります
このような立派な塔の姿
位置関係は
正門を入るとすぐ目の前に
慄然と立っている
こういう形も珍しい
古い時代は、
塔はお釈迦さまのご遺骨・
仏舎利を納める場所です
それで
お寺の中心に配置しました
法隆寺とかもその形です
簡単には「塔」といいますが
正しくはストゥーパ
それを卒塔婆と音写して
それが略されて塔婆→塔と
なったのです
古地図を見ると
「五重塔婆」
と、表記してあります
お釈迦さまが涅槃に入られ
そのご遺骨・仏舎利が
お釈迦さまを象徴するもの
として礼拝の中心になった
その作法も
まず一礼して
次に自分の身の内側にして
右回りに巡るというような
ことが伝わっています
それでこの塔も凄いと
思っていたのですが
さらに大きい塔がありました
一番大きいのは
相国寺にあった七重塔
高さは100メートルを超える
というものです
図の左が相国寺の塔
次が法性院の九重の塔
そして次が東寺の五重塔
東寺の塔で56メーター
次が醍醐寺の五重塔です
九輪が大きいのが特徴です
相国寺の塔は
足利義満によって建立され
この頃、
金閣寺も建てています
仏教事業にも多大な
貢献をされています
今の京都タワーと比べると
このような感じです
あの時代にこれだけの高さの
塔を建立できたということは
相当な技術があったのですね
法勝寺の九重の塔のあった
場所は
今では、京都市動物園の
観覧車のあるところです
家内も子供の頃に乗ったと
言っていますから
相当な年代物です
この場所に
この塔が建っていたと思うと
何かしら時代の流れを
感じます。
菩薩というのは詳しくは
菩提薩埵ボダイサッタといい
ボーディサットバというのが
インドの言葉です
菩提を持った有情という
ことです
菩提というのは「ボーディ」
覚、智、道と訳します
菩薩のことを
覚有情とか道衆生とか
道心衆生などと訳します
何気なく「菩薩」かと
地蔵菩薩を想像したり
観世音菩薩(観音様)を
頭に浮かべます
そういうこともありますが
覚有情とか道心衆生というと
何かしら自分のことに
引き寄せて考えることが
できるようです
仏教のさとりの方法とは
自覚的方法といいます
「坊さんの教化方法は
非科学的なんだ。
詰め込むという、
これは無茶苦茶だ。
そうじゃなしに、
言わせなきゃならん、
言うことによって
初めて言った自分を自覚して
くるんだ。
こっちから教える
というよりも自覚さしていく
方法なんだ。」
面白いことがあって
お寺よく相談の方が
お見えになり
それとはなしに話して
いかれます
長い時には三日に渡って
話していかれます
しかし
話すうちに整理がつかれる
のでしょう
なにかしら、
すっきりしたと帰って
いかれます、が
こういうことも
知らず知らずのうちに
自分自身を自覚されて
いかれるのでしょう。
まあそういうこともあって、
講義は
「何かそこに自覚させん
ような妨げがあるんです。
それを仏教では障りという。
障りですね、煩悩障、所知障
というような障りがある。
それを対治する。
治するわけです。
対して治すという意味。
この障に対しては
このように治していく
ということが決まっている。
治し方が。
何かそこに色々妨げている
ものを分析してみるわけです
それで、
それを自覚させるように
していくわけです。
それは、
知ればなくなるという、
それが自覚的方法。
知らんからもつれる。
知ればなくなる。
こういう場合の
精神医学の問題は、
人間を常識に帰すという
ための分析方法だが、
仏教の場合はそうじゃない
常識に帰すのではない、
成仏させるという、
成仏を妨げているのですから
人間を解脱する、
させんようにしている
ところの一つのもつれを解く
と。
そこは医者と話が違う。」
ただ知るだけかと
思うかもしれませんが
知るということは
一つの安心があるように
思うのです
迷うということも
なにがどうなっているか
分からなから迷うのです
さとりといっても
何かしら立派なものを
さとる(知る)ということ
ではなく
迷っている自分が
分かってくるということ
でしょう
自分自身の煩悩の在りかを
知ると
どのように自分が迷っている
か、ということを知る
ですから
覚有情とか道心衆生という
言葉はとてもいい言葉です
迷いを知るということが
すなわち、さとり
ということでしょう
なんとなく
迷っているということは
いうのですが
何によってどのように
自分が迷っているのか
ということは分からない
ように思います。
逆説的ですが
迷っているということが
分かるということは
その根底には
迷ってない確かなものが
内面の底にあることを
感じ取っているのでしょう。
でなければ
迷っているという
ことすら言えないはずです。
責任を持った立場に立つと
こういう問題にぶつかる
のではないでしょうか、
部下に指示を出した時
言えば自分勝手に理解し
自分の思うように
やってしまう
そうかといって
言わないなら尚更分からない
ということです
こういう
ジレンマがあると思います。
講義では
「言えば混乱する、
言わなきゃ迷うだけだ、
縁が切れる、黙っていれば。
黙っとれば縁が切れてしまう
しかし
言えば必ず
混乱が起きてくると。
そういうところにですね、
混乱する衆生の立場に立って
混乱を調えるという
一つに方法ですね。
放っておいたら縁が切れる
言えば必ず衆生の考えで
それを自分の考えに
当てはめて考えるに違いない
すると
誤解になってしまう。」
こういうことがあります。
お釈迦さまが
さとりを開かれた時
すぐには説法されずに
自受用法(じじゅゆう)
といって
自分のさとられた法を
自ら楽しんでおられるという
そういう期間があります
そのとき、
梵天勧請
(ぼんてんかんじょう)
といって
娑婆主梵天が七日ごとに
釈尊のもとに訪れ
説法してくれるように
頼まれたということです
世の中には穢れも薄く
さとられた法を理解する
人びとが必ずおられます
どうか教えを説いて欲しいと
そして、49日目に
やっと座を立ち
法を説いたということが
あります。
いま読み直してみると
この短い一文ですが
なにかしら
安田先生の気持ち
のようにも思うのです
多分、
自分の言葉は分からない
だろうと、
しかし、語らなかったならば
なおさら縁が切れてしまう
そういう気持ちで
話されたようにも思います
ある本では
大体、私は、
個人的なことですけど、
余り話をするということが
好きじゃないんですわ。
だから、
講義だからこれを長い間
続けてきましたけども、
そういうようなことで、
あちこちの講義に
引きずりまわされた
というようなことで、
疲れていたんだと思います。
ということを述べておられます
こういうことがあって
病気になられてたのです。
『十地経講義』も
その退院されてからの講義が
本にまとめられました。
人と人との関係でも
理解したつもりが
その理解が自分勝手なもので
何かのきっかけで
その理解が大きな隔たりと
なってくることもあります
分かったつもりでいるのが
一番怖いものです
ここに、人間理解の難しさ
があるように思います
教育の難しさも
こういうところにあるのでは
というように
話は続いていきます。
「宗教に実践は教育」
ということが先生のテーマ
でしたから
いずれのところでも
教育という問題が出てきます
白河法皇、
自分の権力を最大限に生かし
すべてのことを思うように
動かしたということです
ただ、
自分の意に叶わないものに
三つあって
鴨川の水、僧兵、賽子の目
ということです
今の京都市の動物園辺りに
法勝寺というとても大きな
お寺を建立しました
そこには八角の九重の塔が
まさしく白河法皇の権力を
誇示するかのようでした
国際日本文化研究センター
所長の井上先生
「御所からみると東の方に
あの九重の塔が見える
朝日とともに見上げると
どうも鬱陶しかったのでは
権力者は力を持つと
高いものを建てたがる」
というようなことを
仰っておられました。
この法勝寺が建立されたのが
1077年ですから
白河法皇が24歳の頃
若い頃です
それより25年ほど前に
宇治の平等院が建立されます
平等院は
藤原道長の長男、藤原頼通に
よって建てられました
平等院は横に広がった造りです
前に池を配置し
この迷いの世界から
池を渡り阿弥陀如来の浄土へ
参るという形です
藤原頼通にとっては
お経に書いてある浄土を
そのまま再現するという願い
の下建立された
そして亡くなる時には
阿弥陀如来の元で
阿弥陀さんの手から伸びる
五色の糸を手に握り締め
お念仏を称えへ
浄土へ行くということを
身を以て体現したのでしょう
先日歩いていたら
たまたま、頼通の邸宅跡
という所に出くわしました
高陽院(かやいん)といいます
敷地は四町(250m四方)
といいますから
他の貴族と違って四倍もある
最大級のものです
寝殿造の邸宅の四隅に
二つの池と四季の庭を
配していたといいます
ちなみに
「寝殿造」というのは
東寺の御影堂(ミエドウ)に
見ることができます
この度新しく修理も出来て
まばゆいばかりの美しい姿で
往時の様子が伺えます
屋根は檜皮葺
色々の金具は金の鍍金です
弘法大師のお住まいだった
ところです
まあ、頼通の住まいは
こういうよな形をしていた
のでしょう
不思議なもので
権力を誇った白河法皇の
法勝寺も九重の塔もなくなり
ただひたすら浄土を願った
頼通の平等院が現在まで
存在しているというのは
何かしらの因縁を感じます。
「道というところの
具ですね。」
という簡単な一文
なるほど
道具というのは
「道の具」と書くんです
「凡夫におる衆生を
仏果にまで運載するところの
道具や。
やっぱり仏道の具です。」
こういうことで
あらためめて広辞苑を引くと
「仏道修行の用具。」
ということが一番最初に
出ています。
仏教辞典には
「仏道を修するために必要な
衣鉢その他のもの。」
とあり、
これには「三衣一鉢」といって
衣が三つに鉢が一つ
これが修行僧の最低限に
必要なものです
そして、それらを容れる
袋を「頭陀袋」ズダブクロ
といいます
何でも入れて持ち運ぶ
「ずだぶくろ」といって
母の世代はよく使っていた
ようです
そういうと
具足戒といこともあります
これは戒が具わった
お釈迦さまのお弟子になる
ということは
まずこの具足戒を受ける
ということです
「具」ということも
面白いもので
お経の一番最初に出てくる
言葉、
「如是我聞」
私はこのように聞きました
と訳すのですが
私というのは阿難尊者のこと
この方も慎みを持っていて
「私が」とは
言っておられないのです
そういう主格ではなく
「私と具(トモ)に」
という具格、
(インストルメンタル)です
如是我聞も正確には
「私とともにこのように
聞きました」
ということになるでしょう
歌のない曲も
インストルメンタルと
いいますが、
楽器だけのつまり道具だけの
曲ということで
こういうのでしょう。
道具ということも
仏道修行の必要な品であるし
また、衆生を仏果にまで運ぶ
道具つまりこれは
単なる普通いう道具ではなく
教えということを
指しているようです
ですから、道具といっても
精神的な面と使う物としての
意味もあるようです。
桜の時期も終わり
吉野のお山は静かなものです
いつ行っても
蔵王堂は圧巻です
堂内に上がりお護摩に参座
宗派が違えば護摩の作法も
違うものがあります
いつも焚いておられるので
その動きも美しいものです
舎利殿にもお参り
それから
吉野朝宮跡があった
八角三重塔が遥かに見えます
ここに南朝の宮があった
のです
しかし、不思議な気もします
車でも結構かかるのに
あの当時
後醍醐天皇は都を離れ
この山奥に逃れて来られた
何故この場所なのか
もう少し便利な場所でも
よかったと思うのですが
この吉野山・金峯山寺
役行者が開かれたという
修験道の本山です
よく調べてないのですが
一つヒントとして
醍醐寺の「文観」(もんかん)
という僧が
大きく関わっているようです
修験道は全国に
ネットワークを持っていて
ある面では
日本国中の色々な出来事を
いち早く把握していた
ということです
修験道と文観
そして文観の弟子にあたる
後醍醐天皇
ここらの歴史もっと調べると
面白い発見があるようです
ここには色々の塔頭があり
その一つ
桜本坊(さくらもとぼう)
ここからの景色は絶景です
吉野の山が見渡せて
桜の頃は全山ピンクに染まる
という見事なものでしょう
吉野の桜
何故これだけ沢山の桜を
植えたのでしょう
花見をするため?
それもあるかもしれませんが
桜の木は非常に硬く
お経の版木としては
最高にいい木なのです
版木を入れている箱は
ムシが食っても
版木はどうもなってない
鉄眼という方
江戸時代の方ですが
熊本の生まれ
黄檗宗、万福寺に宝蔵院
というお寺があって
大蔵経が納められています
お経を写すのは大変と
版木を作りそれを印刷したら
大勢の人が読めるだろうと
一大決心をして
大蔵経制作のため勧進を
始めたのです
集まって取り掛かろうと
した途端、飢饉が起こり
せっかく集めた浄財を
その飢饉の為に使ったのです
また、一から集めたのですが
またもや飢饉が起こり
その集めた浄財を民衆の為に
使いました
三度目、
やっと取り掛かることができ
大蔵経の版木は完成しました
その時の版木の材に
なったのが吉野の桜です
ここにもドラマがあって
鉄眼は三条大橋のたもとで
勧進を始めました
最初の人が武士で
この人に断られたら
今後勧進は進まないだろうと
どうか寄付してほしいと
その人のあとを追っかけて
気がつけば大津まで
来ていたということです
その後、
桜の木の伐採に当たり
幕府に申し出たときの
お役人が
この最初の勧進をした人で
尽力していただいて
伐採の許可が下りたという
ことなのです
しかしながら
色々の歴史を持っている
この吉野というお山
何とも魅力のあるお寺の
ように感じます。