各発(かくほつ)
共発(ぐうほつ)
こういう言葉があるのですが
講義では
大乗仏教と小乗仏教とを
比較して、大きくは
声聞・縁覚(独覚)という
ことが小乗的で
菩薩からが大乗というように
述べておられます
「第七地から何か教理でない
ようなものが出てきた。
これまでは大乗の精神を
小乗の教理を媒介として
表してあったんだが、
今度はもう
裸で大乗の精神というものを
展開していくのが七地、八地
九地、十地というものです。
七地を転機として。
それで、声聞・縁覚に対して
大乗というのは何だろうか
というと、
大と書いてあるから、
声聞・縁覚(独覚)という
のは、
独という字があったように、
独という字が表すように
何か、
各発(かくほつ)という字が
仏教にありますが、
各人各人やね。
各発的なんや。
個人的なんだ、立場がね。
それは仏教には違いないけど
個人的立場から何かこう、
求道している。
声を聞くのも悟るというのも
個人的な立場です。
個人の悟りなんだ。
どうも何か話が非常に狭いん
です。
個人的立場を脱しておらん。
大きいというのは
各発を超える、
そういうときに共同という
ことがある。
共発(ぐうほつ)という。
これは善導というい人の
言葉ですけども、
こういうことこそ何か
浄土教を超えた意味があって
各発ということと共発ね。
共というのは共同でしょう。
共同的ということですね。」
うろ覚えなんですが
共発菩提心と各発菩提心と
菩提心という志を起こす
ということは
なかなか一人では無理なんだ
そこに友ということが
大事になってくると
一人では修行でも途中で
腰砕けになる
その時励まし合う友の存在が
とても大事だというのです
それを僧伽というのでしょう
サンガです
どんなにいい教えであっても
それを実践する仲間・友が
なかったら実践できない
ある面では
仏法僧というけど
ある人は僧は付け足しでないか
仏と教え(法)があれば
それでいいではないかと
けどそれは間違いで
僧がいなかったら
どんなにいい教えでも
それを表現し実践する
ことができないのです
お経の最後の文句に
「願わくばこの功徳を以て
我等と衆生と皆共に仏道を
成ぜんことを」
とあります
ここにも、皆共にという
言葉があるように
「共に」ということが
大乗仏教の真骨頂のようです
それから、
「共」ということで
思い出すのは
共業(ぐうごう)
不共業(ふぐうごう)
ということがあります
何かしら子猫が可愛い
とか、あの人とは馬が合う
とかいうことをいいます
それはどこかで
業を同じくしているという
共業で何か心で言い表せない
業を共にしてきたという
共感するものを
感じるのでしょう
どうも見ただけでイヤという
中にはヘビが好きな人も
いますが
どうも怖いというか
どこから見ても
可愛いと思えない生き物も
いるもので
それは不共業というか
どの世界においても
業が共通する面が一つも
なかったということでしょう
何か書きながら
そう言うことも思い出し
ました。