菩薩というのは詳しくは
菩提薩埵ボダイサッタといい
ボーディサットバというのが
インドの言葉です
菩提を持った有情という
ことです
菩提というのは「ボーディ」
覚、智、道と訳します
菩薩のことを
覚有情とか道衆生とか
道心衆生などと訳します
何気なく「菩薩」かと
地蔵菩薩を想像したり
観世音菩薩(観音様)を
頭に浮かべます
そういうこともありますが
覚有情とか道心衆生というと
何かしら自分のことに
引き寄せて考えることが
できるようです
仏教のさとりの方法とは
自覚的方法といいます
「坊さんの教化方法は
非科学的なんだ。
詰め込むという、
これは無茶苦茶だ。
そうじゃなしに、
言わせなきゃならん、
言うことによって
初めて言った自分を自覚して
くるんだ。
こっちから教える
というよりも自覚さしていく
方法なんだ。」
面白いことがあって
お寺よく相談の方が
お見えになり
それとはなしに話して
いかれます
長い時には三日に渡って
話していかれます
しかし
話すうちに整理がつかれる
のでしょう
なにかしら、
すっきりしたと帰って
いかれます、が
こういうことも
知らず知らずのうちに
自分自身を自覚されて
いかれるのでしょう。
まあそういうこともあって、
講義は
「何かそこに自覚させん
ような妨げがあるんです。
それを仏教では障りという。
障りですね、煩悩障、所知障
というような障りがある。
それを対治する。
治するわけです。
対して治すという意味。
この障に対しては
このように治していく
ということが決まっている。
治し方が。
何かそこに色々妨げている
ものを分析してみるわけです
それで、
それを自覚させるように
していくわけです。
それは、
知ればなくなるという、
それが自覚的方法。
知らんからもつれる。
知ればなくなる。
こういう場合の
精神医学の問題は、
人間を常識に帰すという
ための分析方法だが、
仏教の場合はそうじゃない
常識に帰すのではない、
成仏させるという、
成仏を妨げているのですから
人間を解脱する、
させんようにしている
ところの一つのもつれを解く
と。
そこは医者と話が違う。」
ただ知るだけかと
思うかもしれませんが
知るということは
一つの安心があるように
思うのです
迷うということも
なにがどうなっているか
分からなから迷うのです
さとりといっても
何かしら立派なものを
さとる(知る)ということ
ではなく
迷っている自分が
分かってくるということ
でしょう
自分自身の煩悩の在りかを
知ると
どのように自分が迷っている
か、ということを知る
ですから
覚有情とか道心衆生という
言葉はとてもいい言葉です
迷いを知るということが
すなわち、さとり
ということでしょう
なんとなく
迷っているということは
いうのですが
何によってどのように
自分が迷っているのか
ということは分からない
ように思います。
逆説的ですが
迷っているということが
分かるということは
その根底には
迷ってない確かなものが
内面の底にあることを
感じ取っているのでしょう。
でなければ
迷っているという
ことすら言えないはずです。