学があると書いて、有学
学識があるという
有識者会議というのもあります
反対に、無学というと
学がないということで
無学な者でと、謙遜して使ったり
また、
浅学非才という言葉もあります
ところが
仏教でこの言葉を使うと
意味は全く違った意味になります
無学とは、
もはや学ぶべきものがない
ということで仏さまのことを
表します
有学というと
まだまだ学ぶきことがある
ということで、声聞・縁覚・菩薩
のことを言っています
講義の中では
「学問というのは何かというと
面倒なものという意味じゃ
ないんだ
誰でもがそうなりうるものを
学問という
秘密がないことなんだ
公開されたもの
学問は偉い人間がやることじゃ
ないんですわ
平凡だから、人間というものが
偉くないから学問が要るんです
偉い人に学問なんか要りゃせん
我々が学問を求めるということは
我々がですね
優れておらんということから
出発する
学問というのは、
そういう、非常に謙虚な道なんだ
学問で威張るというのは
学問をやらん人間がいうことです
たとえば
高等学校の生徒でも
困るのではないかね
わしゃ頭が駄目だからやらん
という
駄目なら尚やらなきゃならん
という意味じゃないか
やらんというのは駄目でない
ということですね
だからして、やっぱり
誰でもできるというような道が
学問というものでしょう
で、学問を卒業したのを
仏教では仏とか阿羅漢とか
いいます
あれは、無学というんです
学が無い
学が無いというと
おかしいんですけど
学する必要がないんです
で、学者というのは
どうかというと
声聞、縁覚、菩薩といって
因位インイ、
因位です
因位は皆、有学なんです
果位カイ、果の位
卒業した位は無学なんです
これが本当の学問の意味
じゃないか
学者というのものは
これはですね、
結果に到達したと
いうのではないのであって
因位でいま、一生懸命やっとる
のを学者という
学問を卒業した人は
無学なんです
我々は無学になるために学する」
というように出てきます
何だか自分なりに安心したのは
いまだに、
小学生みたいにノートと鉛筆で
書き写したりと
そんなことをやっている
自分なりの考え方が
出来たわけでもなく
まだまだ未熟な勉強方法
この一文を読んで
有学なんだと無学は仏さま
死ぬまで有学という
学び続けるのが本当のあり方
そういうことが少し
分かったような気がします。
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます