本蔵院 律良日記

熊本県にあるお寺“真言宗 本蔵院 律良のブログ”日々感じるままに活動のご報告や独り言などを書いた日記を公開しています。

天狗は芸の行き止まり

2020-06-15 20:23:29 | 住職の活動日記

今日の朝の番組で

「天狗は芸の行き止まり」

という事をおっしゃっていました

 

なるほど!!

人間天狗になったらお終いです。

しかし考えてみると

「天狗」というのも不思議な存在

です。

漢字で書けば、天の狗(イヌ)と

なります

それがどういうわけか

私たちが思うあの天狗の姿

山伏のような恰好をして

赤ら顔で鼻は高く伸びている

一本歯の高下駄を掃いて

背中には羽が生えて

どこでも飛び回っている

という風体をしています。

 

天狗といえば

あの鞍馬天狗が有名です

牛若丸に武芸の指南をしたという

それで鞍馬寺に行けば

門前に大きな天狗さんの顔が

出迎えてくれます。

 

原点に戻って

漢和辞典を見ると

天狗は、星の名。

流星の声を発するもの、

と出ています。

また、怪獣の名とあります。

それが日本に渡ってきて

あの、私たちが想像する天狗像に

なったようです。

 

仏教にも少し関係があります

どうも山岳信仰と関係があるようで

それで山伏の姿になった。

平家物語では

「人にて人ならず、

 鳥にて鳥ならず、

 犬にて犬ならず、

 足手は人、

 かしらは犬、

 左右に羽根生え、

 飛び歩くもの」

というように出ています。

一つの魔物といわれる存在として

取り扱われたようです。

 

この「魔」という存在が曲者で

お釈迦さまがさとりを開く時にも

魔王波旬(ハジュン)が出てきて

さとらないように四女を遣わし

お釈迦さまを悩ました

と伝えられています。

この魔王は高所に住み

正しい教えを破壊すると

されています。

 

この魔王と天狗さんが

どこかでつながってくるのです

五陰魔・煩悩魔・死魔・天魔

これを四魔といいます。

 

お釈迦さまの成道(さとり)を

降魔成道(ゴウマジョウドウ)と

いいます

たださとりを開いたのではなく

魔を降しさとりを開いた

いろいろの誘惑、魔を次々に

うち砕いていくのです

煩悩との戦いがあります。

 

この中で天狗という存在は

面白い立場で

ただ悪さをする魔

というだけでなく

どこかで仏の教えを聞いている

かといって仏の世界に

踏み込んだかというと

そうではなく

では人間世界にいるものかと

いえばそうではなく

どちらにも属さない

そういう魔という存在です。

 

そこが厄介で

「天狗になる」という言葉が

あるように

「慢」の塊のような存在

他に対して自分が勝れていると

自負する高ぶる心です

それで鼻が高いのはその象徴だと

いわれています

それで「教えたがり魔」

というのがその特徴で、

そこが救われない一点です。

なまじ仏法を聞いているので

地獄に堕ちることもないし

かといって

極楽へ行けるかといえば

高慢で邪法を行ずるので

極楽へも行けない。

 

この宙ぶらりんの状態が

天狗であり魔王の立場です

ドキッとするのは

この状態が自分ではないか

ということです

思い当たる所があります

坊主の悪い癖で

「お説教魔」というか

「教えたがり」なのです

 

天人(有頂天)が亡びていく時

天人五衰で

もう一度人間界に生まれて

修行して苦労してこい

ということがあります。

 

今日のテレビを見ていて

ふと自分に置き換え

考えてしまいました。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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お釈迦さまのさとりのメソッド

2020-06-14 21:08:20 | 住職の活動日記

以前、「鍵泥棒のメソッド」

という堺雅人さん香川照之さん

広末涼子さんの映画がありました

とても面白い映画だったのと

題名の面白さから

記憶に残っていたのです。

それにちなんで

的外れですが頭に浮かんだのです

 

四聖諦(シショウタイ)ということが

お釈迦さまの最初の説法と

いわれています。

四つの正しい真理ということで

四聖諦といわれ、

苦聖諦・集聖諦・滅聖諦・道聖諦

略して、苦集滅道(クジュウメツドウ)

ともいいます。

この方法は当時のお医者様の

患者を診る方法だということです

 

患者さんが苦しいといって

お医者様の所にやってきます

どこが痛いのか苦しいのか

といろいろ尋ねます、問診です

これが苦聖諦といわれるもので

今の苦しいという状態です。

それから、

その原因はいろいろのものが

集まってこの苦しい状態を

つくり出しているのではないか

という集聖諦です

集という字は

隹フルトリに木と書きます

木の上に鳥が集まっている

という字で、

集めるということは

ただ集めるというだけでなく

集めることはそこに力を

もってくるということです。

では、

その集まった苦しみを

どのようにしてなくしたら

いいのかということが

滅聖諦ということです

その苦をなくす方法メソッドは

道聖諦という

お医者様なら薬を調合するとか

湿布薬を与えるとか

指圧をしたりと

いろいろな方法があるという

ことで道聖諦といいます。

 

この方法で

お釈迦さまは自分自身の

苦の正体を見つめられたのです

お釈迦さまの場合

最初の苦聖諦は

「迷いのこの世は

 すべてが苦である」

ということです。

私たちには

なかなか認識できませんが

お母様を早くに亡くし

感受性も強く、宗教感覚も鋭く

そういう眼から世の中を見ると

すべてが苦であると

認識されたのです。

 

その原因は

「苦の因は求めて飽くなき

 愛執である」

と、見つけられたのが

集聖諦です。

 

であれば、

「求めて飽くなき愛執を

 完全に滅したのが理想境では

 ないか」と

これが、滅聖諦です。

 

その苦滅の境に趣くには

どのようにしたらいいのか

ということで見つけられたのが

「八聖道」という

八つの正しい修行の道を実践する

ということが

道聖諦ということです。

 

八つの正しい修行の方法は

正見(ショウケン)

 正しく物事を見る

 これが八聖道の目的です

 そのためには、

正思(ショウシ)

 心の行いを正しくする

 (意業)

正語(ショウゴ)

 正しい言葉使い

 (口業)

正業(ショウゴウ)

 正しい行い

 (身業)

以上のことが身口意という三つの

行いを言っています。

次が

正命(ショウミョウ)

 命は生活ということで

 正しい生活となります

正精進(ショウショウジン)

 以上の三業とその生活を

 正しく精進する、正しい努力

 ということです

正念(ショウネン)

 念は憶念不忘ということで

 以上のことを常に心に留めて

 忘れないということ

最後が、

正定(ショウジョウ)

 正しい宗教生活

 心が散らばらないで

 常に集中できる生活

 

ということですが

見れば簡単

でも実践するとなると

何もできない

というのが事実です。

 

世の中まだ何かしら

楽しいことがあるのでは?

案外捨てたものではないと

世の中を見切ってない

そういう執着が

なかなか捨てられない

というのが今の自分の現実です

しかし、

この構造・メソッドだけは

頭にきちんと叩き込んで

おかないといけないと

思っています。

 

 

 

 

 

 

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「法」ということも難しい!

2020-06-13 20:38:31 | 住職の活動日記

お月さまを見ていて

昔は、兎が餅を搗いている

と見たのですが、

望遠鏡が出来て、

はっきり見えてくると

分からなかったことが

新たに見えてくるということが

あります。

だんだん、年と共に

分からないことが増えてくる

ように思います。

 

この「法」ということも

分からないことの一つです。

普通では、

法といえば法律ということに

なってきますが、

仏教でいう「法」とは

少し意味合いが違ってきます。

 

幅広い意味を持っているので

あえて、訳さずに「ダルマ」と

いう場合もあります

あの「だるまさんが転んだ」の

「だるま」です

選挙とかで当選すると

目玉を入れるだるまさんです。

 

この「達磨」ダルマは人の名で

禅宗を開いた方で

「面壁九年」という話があります

壁に向かって9年間も座禅した

そのため足が立たなくなった

という伝説から

あのだるまさんの姿が生まれた

ということです。

 

仏教でいう「法」は

聖徳太子も

「篤く三宝を敬え、

三宝とは仏・法・僧なり」と、

十七条の憲法で述べておられます

この時は仏法僧が「宝」と

いうことです。

それから、三法印といえば

諸行無常・諸法無我・涅槃寂静

の三つです

法印というのは旗印

仏教とは何かと問われた時

こうですと言える

三つの旗印が三法印です。

 

簡単には

三宝といわれるように

仏があって、

仏が説かれる教え「法」があり

教えを実践する仲間(サンガ)が

いるということです

お釈迦様が説かれた教えが

「法」といわれるものです。

 

が、

ただそれだけでは包み切れない

ものも含んでいるのです

そこが分からないと

いろんな場面で出てくる「法」

ということが混乱してしまいます

昔から、

「法」には二つの意味があり

一つには、

任持自性(にんじじしょう)と

もう一つは、

軌生物解(きしょうもつげ)

ということです。

こういう意味を含んでいるので

訳さずにダルマ、漢字では達磨

として出てくる場合もあります。

 

任持自性、

それ自体の本性(自性)を

保持しているもの

ということは一切の「存在」して

いるものを指します

私たちがいる、家がある、

坐っているイスがあり机がある

こういう存在しているすべてを

法というのです

ここのところがぱっと頭に

入ってこない所です。

 

軌生物解は

軌は軌範の軌です

物解(もつげ)というのも

仏教独特の言葉使いでしょう

ですから、規範となる法ノリ、

法則、道理、教説、真理

ということを指しています。

 

お経に出てくる

色法とか一切法とか萬法とか

いう法は存在をあらわし

任持自性ということに

あたるのです。

 

そして、

お釈迦さまの教えとかいうことが

おおまかに軌生物解と

いうことになります。

ですから、

仏法を聞くことによって得た喜び

それを法喜とか法悦といい

仏法の味わいを法味、

法味を喜び楽しむことを法楽と

そういう言葉も生まれてきます。

 

まあ、この「法」ということ

一つとっても更に分からない

ことが増えてくるようで

本当に難しい!

 

(勝手に難しくしているのかも

 しれませんが?)

 

 

 

 

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論・湿・寒・貧

2020-06-12 20:19:13 | 住職の活動日記

いよいよ梅雨入り

これから鬱陶しい日が続きます

梅雨に美しいのは

紫陽花の花です

 

 

我が家の淡いピンク色していた

アジサイもだんだんと色を増して

 

 

紫色に変化してきました。

 

 

これからまた色を変えながら

成長していきます

紫陽花の花言葉は家族団欒

小さな花弁が集まって

一つの塊りを表すところから

きたのかもしれません。

 

「論・寒・湿・貧」

ろん・かん・しつ・ぴん

この言葉は比叡山での修行の

厳しさを言ったものです。

論は、

仏道について常に議論し

互いに切磋琢磨し高め合っていく

寒は、寒さとの戦いです

それから、

湿は、湿気です

これがなかなか厄介で

山で修行される方は悩まされます

貧は、

清貧に耐えるということです。

 

比叡山を開かれた最澄は

この修行に耐えていけと

開山されるにあたり

覚悟せよとおっしゃってます。

 

貝原益軒も『養生訓』で、

人は風や寒暑を恐れるが、

湿気には無頓着だ。

でも湿気に当たると奥深く身体に

入り込んで容易に治らない。

だから湿気から早く

遠ざかるがよい。

と述べています。

 

確かに湿度が高いと

暑くても寒くても堪えます。

熊本と京都は日本で一番気候が

似ているということです

夏の暑さは体に纏わり付くような

暑さで逃げていきません

冬は冬で底冷えがするし

これも湿気のせいです。

 

湿度も堪えますが

乾燥するのも大変です

肌から水分がなくなり

ぱりぱりしてきます。

私も乾燥肌で冬場は特に

潤い液が欠かせません

 

 

海外では特に乾燥がひどく

こういうシェアバターなるものが

乾燥を防いでくれるようです。

 

いずれにせよ、

湿気が高いのも堪えるし

乾燥しすぎも大変で

潤いたいという気になります。

 

弘法大師空海も伝教大師最澄も

山で立教開宗された

そこには並々ならぬ決意

世俗を離れてあえて

第一義諦ダイイチギタイを求めよ

色々求めるものはあるけど

第一番に求めなければいけない事

人間の生きる意味を

第一に考えよということでしょう

それで、

自然の厳しい中に開かれ

もう居ること自体が修行である

そういう中で求めるという

厳しさを何重にもして

求道されたということです。

 

今ではエアコンとか

便利な機械がありますが

これも修行の時には

逆にエアコンと外の外気との

温度差で体を壊してしまい

無い方が修行に励めるのです

 

これからは

湿気との上手な付き合い方

それが終わると

湿気+暑さという夏が来ます

エアコンを入れないと

熱中症の問題がありますし

エアコンに入りっぱなしですと

体調を壊してしまいます。

出たり入ったりたまに汗かいて

うまくコントロールしなければ

いけないようです。

 

 

 

 

 

 

 

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苦である存在を知った人が仏陀

2020-06-11 20:29:13 | 十地経

釈尊の最初の説法で説かれたのが

「四聖諦」シショウタイ です。

四つの真理です

「諦」という字は

あきらめる、とも読みますが

あきらかにするという意味で

真理という意味です。

 

その第一が、

迷いのこの世はすべてが苦である

という、真理です。

 

と言われても

分かったようでわからない

人生楽ありゃ苦もあるさ、と

何かの歌にあったように

苦楽半々というのが普通です。

 

好きな人とは絶対に別れない

別れてしまうのは

何という苦しみだろう、と

それが愛別離苦ということですが

主人が浮気でもすると

もうこの人の顔は見たくない

一緒の空気を吸うのも嫌、と

突然、怨憎会苦

という苦しみに変わってきます。

 

こういう苦しみは

何となく分かるのですが、

そうではなく

お釈迦さまは一切は苦であると

説かれています。

 

ちょうど『十地経講義』でも

その苦というところに

差し掛かりました。

 

「苦でない存在はないと。

これが非常に大事なところです。

仏教の学問というのは、

まあ、我々は生きとるもんだ、

生物だとか動物だとか

そんなところから

出発しているんじゃなしに、

今日の言葉でいえば

非常に実存的な自覚から

出発している。

実存としての人間から出発しとる

目がある鼻があるというような

存在から出発しとるわけではない

 

だけど、その苦を誰も知っている

人はいないんで

苦でないものはおらんけど

苦であることを知っている人は

いないということです

だから楽だと思っている。

全部が楽だというような

楽天家はおらんにしても

半分くらい楽だろうと

こう考えている。

 

苦である存在である

にもかかわらず、

苦である存在は苦である真理を

知らずに生きとるですね。

 

それが、

苦である存在を知った人が

つまり仏陀なんでしょう。

覚者なんでしょう。

一人目覚めたのです。

 

あらゆるものは苦をもって

生きとるけど

苦をもって生きとることを

知らなかったんだ。

初めて知ったんでしょう。

苦をもっとるけど

苦諦をもたんでしょう。

苦諦をもったものは一人や。

一人という自覚

それが仏陀なんです。」

 

ということが続くのですが

一番最初に習った

「苦・集・滅・道」という

四聖諦ということですが

もうすっかり忘れて

一切は苦であるという真理も

ぼやけかけています。

あらためて、

「苦」ということも

実感として薄らいでいます。

 

自分にとって都合のいいことが

離れていく、

反対に都合の悪いことが

身にやって来た、というのは

何となく分かるのですが

四苦八苦の中で

分からないのが

生苦ショウクと

五陰盛苦ゴオンジョウクです。

 

子犬や子猫は可愛いものです

しかし、

よく見ると動物たちの目は

悲しい目をしています

本能的に死というものを

感じているようにも思えます

常に死と隣り合わせに行きている

いつ死がやって来ても

文句も言わず素直に受け入れる

そういう準備が出来ている

ようにも見えます。

 

生苦というのも

そういうことではないでしょうか

楽しそうにしているけど

その裏にはいつ死がやって来るか

そういう影がひそんでいる

そういうことを知らず知らずの

うちに感じているのです

それが苦だというのです。

 

最初に習ったことが

また、最後になって習いなおす

人間、何回勉強しても

分からないものです。

(私だけですけど!)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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ミミズのうんことカマキリの子ども

2020-06-10 20:37:25 | 住職の活動日記

妙なものが気になるもので

昨日、芝に水を遣っていました

そこに今にも乾きかけたミミズが

固まりかけています

水に濡れて少しは肌も潤った様子

すると少しずつ動き始めました

結構大きなミミズです

芝の中を縫うように進み

しきりに口のようなものを

動かしています。

 

芝とミミズ

害があるのか調べてみると

ゴルフ場とかでは害になるようで

それは

 

 

この黒いのが糞の塊り

これがあるとボールの邪魔になる

ということのようです

しかし、

土と微生物を食べた糞は肥料にも

なるとかで

そのままでも大丈夫

ということです。

 

そんなことで

今日またしげしげと

昨日のミミズはと探していたら

微かに動く小さな虫を発見

 

 

どこにいるか分かりますか

枯れた芝の葉に似た形で

探せた方は目が鋭い

 

 

ピントが草に合ってますが

頭の形からするとカマキリ

そして、鎌のような手も

微かですが見えます

 

 

ほんとに生まれたばかり

のような体です

 

 

ここにもいるのですが

 

 

ここも分かりにくいですが

やや下の方に

「ミミズの糞とカマキリ」

というところです

 

カマキリはその生態は

凄まじいものがあります

肉食で昆虫を食べ

時にはカエルとかスズメバチまで

食べてしまう

また、交尾の最中に

雄までも食べてその生殖器まで

食べるという

何とも恐ろしいメスです。

 

カマキリは蟷螂と書き

祇園祭の山車には

「蟷螂山」トウロウヤマという

ものもあります

見ると確かに大きな蟷螂が

乗っていて前足を動かします

中国の物語に

「蟷螂の斧」があって

小さな蟷螂が

大きな車に向かっていく

自分の力も顧みず

強敵に反抗するというたとえです

祇園祭は民衆の祭りですので

時の権力にも立ち向かうという

町衆の心意気を表しているのかも

知れません。

 

また、前足をあげている姿から

「拝み虫」とも言われています。

季語でいうと秋

これから大きくなって

立派な姿を現すのが秋という

ことなのでしょうか?

 

 

これを書きているときに

やって来たのはクモの赤ちゃん

これから小さな虫たちも

活躍の季節のようです。

 

 

 

 

 

 

 

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おかげさまで!!

2020-06-09 20:05:27 | 住職の活動日記

美味しくご飯を頂いて

今日も快腸

スッキリ出るとおもわず

「おかげさまで!」と

口から出てくる。

 

不調な時は出そうと思っても

出ないし

自分の思い通りにならない

これも、おかげさま

目に見えない影のはたらきの

おかげなのです

自分の身体一つとっても

自分の思い通りになるものでは

ない

腸内細菌もそうですが

体中のありとあらゆる細胞が

順調に働けばこそです。

 

この子たちもお陰を受けている

のでしょう

エサやりのおじさんたちが

かねの器を鳴らしながら

やって来ると

「にゃ~ん」という可愛い声を

だして草むらから出てくる

 

 

ここにも数匹の子たちがいて

それぞれ餌を頂くご主人様が

決まっているようです

 

 

あたりを見回しそっと出てきます

ご飯を頂くと

シッポをぴ~んと立てて

ご主人様にすりすりして

甘えてきます。

 

「明日から雨の予報だし

 エサやりには来れないな」

と話しておられます

 

 

木の陰からこちらを覗いています

いつものご主人さまとは違うので

呼ぶと一目散に逃げていきました

でもその身体たるや

丸々と太って

エサやりが行き届いている

様子です

 

 

食べ終わると

涼しい草むらの陰で一休み

 

 

どの子も愛情たっぷり受けて

立派な体になっています

 

畜生という字も

畜というのは田と玆シから

構成されていて

田の作物を玆益シエキする

という意味です

そこから家畜という意味が出て

養うということにもつながります

畜生ということは

養われて生きるということです

 

ここに育った猫ちゃんたちも

もとは飼い猫だったのでしょう

何かの条件でここにやって来た

最初は面食らったと思います

しかし、

自然はいっぱいだし

自由に遊べるし

お陰を受けてご飯も頂ける

そして撫で撫でもしてくれる

 

 

そんな折、目にとまったのが

根っこの竹です

まるで抱かれるように

子猫が膝の上に乗って来るように

おさまりがいい格好に見えます

 

この猫ちゃんたちも

半分野生化していますが

可愛がられた思い出が残っている

甘え撫でてもらい

昔を思い出しているのかも

しれません。

 

今日のお陰を受けて

ひと時に幸せタイムです。

 

お陰様も

「かげ」という字に

お、という敬語と

さま、という敬称が付いた言葉

そのものは分からないけど

その陰として

感じ取ることができる

意味深い言葉です。

 

 

 

 

 

 

 

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ラクダとライオンと子供の譬え

2020-06-08 20:22:23 | 十地経

ニーチェという方が

超人(UberMensch・ウ-バーメンシュ)

といっておられます。

人間とは何であるかという問い

に対して

人間というものの本質は

人間を超えていくということが

人間の本質なんだと

ただ人間の幸福追求

ということでなしに

人間を超えるという要求をもった

のが人間の本質なんです。

 

超人ということは

仏というわけにはいかんけど

菩薩という意味をよく現している

 

そこで、

人間の位置を表すのに

ラクダとライオンと子供という

譬えを出しています

人間の一つの段階というものを

現すのに、

仏教では十地の菩薩道

ということがいわれています

 

始めの段階をラクダに譬えた

ラクダは性格は非常に謙虚で

重い荷物を背にして歩く

そういうところに人生の第一の

自覚的段階があるわけです。

 

(私も、最初にお寺に入った時は

先輩や師匠の言うことは

口答えせず素直な心で

何事もハイハイと軽安な気持ちで

いわれたことを実践する

というのが修行の第一歩です)

 

そこで自主性というものの要求

がある

我は我をもって生きておるんだ

という段階を求めざるをえない

それをニーチェはライオンだと

いっています

自主性です。

これが人生の第二段階なんです。

仕方なしに生きるんじゃない

自由をもって生きておる

仕方なしに苦しむんじゃない

喜んで苦しむ

自分自身で自分自身が苦しむ

そういうものをライオンだと

ニーチェは言っています

 

(修行もだんだんに進み

一つのことを任されるようになる

そこで責任をもって

新しいことに挑戦していく

勇猛心をもっていくんです

すると何かしらうれしいことが

出てきます

責任をもってやれたことの

満足感のようなものです)

 

第三の段階は子供という。

ライオンより高い段階は子供だと

いう。

仏教には凡夫という言葉があるが

原語の意味からすると子供という

ことなんです

幾ら年をとっても、

自覚せんものは子供だという

ことです。

子どもという意味は、

一つは幼稚なもの愚かなもの

という意味もあるんです

と同時に隠れた意味がある

子供の本質というものは遊びです

仏教でいえば

園林遊戯、遊びの段階です

これは下向の世界、

登りつめたところから

更に下向する

下るは上がるより優れておる

下ってくると生死に迷うけれども

生死に迷わんことが優れていると

いうけれども

よう迷わんのか、ということです

煩悩が恐ろしいか

ということです。

煩悩に遊ぶということですけど

煩悩は少しも人間性を否定する

ものではない

人間を破壊するのは煩悩ではない

邪見というものが人間を閉鎖して

しまうのです。

 

(子供が林で遊ぶように

仕事まで遊びにしてしまう

つまり、ここまでが修行という

ことではなく

修行が終わってから

本当の修行が始まっていく

その修行は死ぬまで続く

ということです

全生活が修行であり

同時に全生活が遊びである

ということです)

 

ニーチェはラクダ、ライオン、

子供と、

人生を三つの段階に分けています

それは

人間とは何であるかという

問いから出てきたものです

振り返ってみると

何だか頷ける気がします。

 

仏教といっても

何かを信じるとかいうことも

ありますが

もっと言えば人間とは何か

ということがその根底に

あるようにおもいます

 

そこには、

「人間であるということは

人間に成ることによって

人間であるということを

証明していく」

という先生の言葉が

私の心を突き動かしていくのです

 

ラクダ・ライオン・子供

実にいい譬えではないかと

思います。

 

 

 

 

 

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けいはんな記念公園散策

2020-06-07 20:44:10 | 住職の活動日記

日差しも強く気温も上がり

けど、涼しい風の中の散歩です

頑張りました

6000歩ほど歩きました

 

公園の外にある広場は

かなりの人出です

日よけのテントを張り休む人

家族でボール遊びの人

小さな小川で魚を捕る子供

賑わっていました

 

公園内も多いかと思いきや

中なほとんど人出もなく

ゆっくりと散歩が楽しめました

 

 

小さな田圃は田植えも終わって

いるようです

人工的なものであれ

こういう空間はホッとします

 

 

睡蓮も咲いています

 

 

蓮の花もいいですが

睡蓮も美しい

 

 

面白いモニュメントがあり

こういう石像が置いてあります

何を指さしているのか

瞑想にふけっているのか

 

 

不安定なところでお昼寝の

子どももいます

 

 

琵琶の葉でしょうか

強い日差しにも負けず

太陽に向けて葉を輝かせています

花もいいものですが

葉の美しさも好きです

 

 

これから半分白くなってくる

半夏生の葉です

 

小さな池の周りをまわります

木陰のなかで虫もいなくて

風が涼しく汗も飛び

快適なのですが

少々足に堪えてきます

 

 

足元には沢山のヘビイチゴが

草むらの中に赤さを際立たせて

いるようです

 

 

今日はヤギさんがいました

柵の中の草は食べつくし

柵の前にある小さな竹をやると

えらい勢いで食いついてきます

美味しいのでしょうか

もっとくれといわんばかりに

めへ~と鳴き声を出して

目線を合わせてきます

 

 

ほぼ一回りしたあたりに

菖蒲の群生があります

今が一番の見ごろ

 

 

美しい一枚が撮れました

 

 

この花ももう少したつと

花びらも萎えてきます

ジャストタイミングのようです

 

 

出口付近にはバラ園もあり

バラももう時期を過ぎかけて

いるようです

 

 

太陽に向かってザクロの花が

咲き実を結びかけている

 

 

これから実も膨らみ

あの甘酸っぱい実をたくさん

実らせるのでしょう

子どものころ家にもあり

食べたのですが

食べにくく酸っぱさだけが

口に残り、また種もたくさんで

美味しい印象はなかったようです

 

この木がある所が出口です。

この広々とした空間を独り占め

その上高齢者は無料

なんとも贅沢なひと時を

楽しみました。

 

 

 

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リモートワークと場の力

2020-06-06 21:04:23 | 住職の活動日記

久しぶりのヨガ教室

2月ころから休み始め、

また教室も閉鎖になったりと

やっと6月に入りオープンです。

 

こういうところで働かれる

インストラクターの方も大変で

仕事がなくなると途端に生活に

響いてきます

お聞きすると

このクラブでは6割の休業補償が

あったようで安心しました。

 

お話を聞くと

やはりリモートワークで

ズームとかのアプリを入れて

教えておられたようです。

その中で、

リモートワークの方がいい

とい方と

やはり教室で習った方がいい

という方と二分したそうです。

 

コロナウイルスは

本当に私たちの生活様式を

変えてしまった

お寺にしても大変な時代に

なってくるようです

檀家さんへの月参りもままならず

お寺によっては

リモートで供養するとか

お宅に上がらずに、

庭から仏壇に向かってお参りする

とか、

そういう工夫をされている

お寺さんもあるようです。

またこれを機に

月参りをお断りされる

という所もあるということです。

 

大変な時代に入ってくる予感が

してきます

お寺のあり方も真骨頂が

問われてくるのでは

ないでしょうか。

 

ある社長さんんが

九州から出て東京で会社を興し

ど真ん中でビルをもつのが

夢ということでしたが

リモートワークが出来れば

会社の必要性を感じ始め

もう会社をたたむ決心をした

という話もあります。

 

しかし、営業の方となると

やはり

出向いて顔を見て商いをする

ということが

大事なのかもしれません。

 

私個人としては

やはり、場の力を大切にしたい

ヨガを習うにしても

その場の空気というものが

あります

集中するにもいきなりというより

ゆっくりした動きから

次第に難しいアーサナに入る

そうやって雑念も払われ

自然と三昧のような境地を

味わえるような気がします。

 

反対に

リモートワークがいいという方は

他の人を気にせずに

自分の世界に入れるので

その方が集中できるという方も

いらっしゃるようです。

 

どちらがいいか悪いかは

決めかねますが

これでなければ絶対にダメ

ということではなく

いろいろな方法が問われてくる

ように思います。

 

何事もなく

今まで暮らしていたことが

コロナの流行で

今までの生活が

通用しなくなりました

三密を避けるということは

あらゆることが規制されてきます

その中でこれから

新しい生活様式が問われてきます

今まで三密で成り立っていた

お寺はそのあり方が問われてくる

正念場に入って来るようです。

 

千手観音ではありませんが

ありとあらゆる手を尽くしながら

その根本にはゆるぎない

信念の確立が求められる

そういうことがこれからのお寺に

問われてくるように思います。

 

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