ニーチェという方が
超人(UberMensch・ウ-バーメンシュ)
といっておられます。
人間とは何であるかという問い
に対して
人間というものの本質は
人間を超えていくということが
人間の本質なんだと
ただ人間の幸福追求
ということでなしに
人間を超えるという要求をもった
のが人間の本質なんです。
超人ということは
仏というわけにはいかんけど
菩薩という意味をよく現している
そこで、
人間の位置を表すのに
ラクダとライオンと子供という
譬えを出しています
人間の一つの段階というものを
現すのに、
仏教では十地の菩薩道
ということがいわれています
始めの段階をラクダに譬えた
ラクダは性格は非常に謙虚で
重い荷物を背にして歩く
そういうところに人生の第一の
自覚的段階があるわけです。
(私も、最初にお寺に入った時は
先輩や師匠の言うことは
口答えせず素直な心で
何事もハイハイと軽安な気持ちで
いわれたことを実践する
というのが修行の第一歩です)
そこで自主性というものの要求
がある
我は我をもって生きておるんだ
という段階を求めざるをえない
それをニーチェはライオンだと
いっています
自主性です。
これが人生の第二段階なんです。
仕方なしに生きるんじゃない
自由をもって生きておる
仕方なしに苦しむんじゃない
喜んで苦しむ
自分自身で自分自身が苦しむ
そういうものをライオンだと
ニーチェは言っています
(修行もだんだんに進み
一つのことを任されるようになる
そこで責任をもって
新しいことに挑戦していく
勇猛心をもっていくんです
すると何かしらうれしいことが
出てきます
責任をもってやれたことの
満足感のようなものです)
第三の段階は子供という。
ライオンより高い段階は子供だと
いう。
仏教には凡夫という言葉があるが
原語の意味からすると子供という
ことなんです
幾ら年をとっても、
自覚せんものは子供だという
ことです。
子どもという意味は、
一つは幼稚なもの愚かなもの
という意味もあるんです
と同時に隠れた意味がある
子供の本質というものは遊びです
仏教でいえば
園林遊戯、遊びの段階です
これは下向の世界、
登りつめたところから
更に下向する
下るは上がるより優れておる
下ってくると生死に迷うけれども
生死に迷わんことが優れていると
いうけれども
よう迷わんのか、ということです
煩悩が恐ろしいか
ということです。
煩悩に遊ぶということですけど
煩悩は少しも人間性を否定する
ものではない
人間を破壊するのは煩悩ではない
邪見というものが人間を閉鎖して
しまうのです。
(子供が林で遊ぶように
仕事まで遊びにしてしまう
つまり、ここまでが修行という
ことではなく
修行が終わってから
本当の修行が始まっていく
その修行は死ぬまで続く
ということです
全生活が修行であり
同時に全生活が遊びである
ということです)
ニーチェはラクダ、ライオン、
子供と、
人生を三つの段階に分けています
それは
人間とは何であるかという
問いから出てきたものです
振り返ってみると
何だか頷ける気がします。
仏教といっても
何かを信じるとかいうことも
ありますが
もっと言えば人間とは何か
ということがその根底に
あるようにおもいます
そこには、
「人間であるということは
人間に成ることによって
人間であるということを
証明していく」
という先生の言葉が
私の心を突き動かしていくのです
ラクダ・ライオン・子供
実にいい譬えではないかと
思います。